ヤンゴン (地域地図を開く)
ミャンマーの首都。19世紀の半ば,イギリスの植民地支配の拠点として急速に発展した。現在の人口は250万人を越える。鉄道線路の南側はスーレー・パゴダを中心に碁盤の目のように整備され,統治時代の建物がそのまま残っている。
線路の北側は地形に合わせた大きな道路が走り,ゆったりとしたスペースに大使館,公共施設,新市街が配置されている。最近,近代的な高層ビルが建設されるようになり街の景観は変わりつつある。
ミャンマーの首都。19世紀の半ば,イギリスの植民地支配の拠点として急速に発展した。現在の人口は250万人を越える。鉄道線路の南側はスーレー・パゴダを中心に碁盤の目のように整備され,統治時代の建物がそのまま残っている。
線路の北側は地形に合わせた大きな道路が走り,ゆったりとしたスペースに大使館,公共施設,新市街が配置されている。最近,近代的な高層ビルが建設されるようになり街の景観は変わりつつある。
バンコク(19:50)→ヤンゴン(20:50)と飛行機で移動する。宿の1階のカフェで昼食をとり,空港行きの車を待つ。前日に依頼しておいた空港送迎サービスの車は13:15に到着した。かなり老朽化しており,その中に8人と荷物が詰め込まれる。それでも日本製のエンジンは元気でちゃんと我々を空港まで送ってくれた。
ドムアン空港に14:00前に到着し,出発の2.5時間前にチェックイン・カウンターに向かう。今回の旅行の空路移動はバンコク→ヤンゴン→コルカタ→バンコクなのでビーマンの1年オープンの航空券を手配した。値段は約400$で行きも帰りもダッカでトランジット泊となる。
チェックイン・カウンターの前にはソニーのWEGAを手押し車に載せたインド人の一団がいる。カウンターはまだ開かれていない。彼らの話ではフライトは遅れるらしい。カウンターの掲示板は20:35(4時間の遅延)となっている。
チェックインのとき195B相当の食事券を受け取る。上の階で食事をして下さいということである。物価の高い空港で195Bの食事をして免税店の近くでひたすら待ち続ける。19時少し前にようやく案内モニターに搭乗ゲート番号が表示され,No.22ゲートに向かう。
夜もかなり遅い時間にヤンゴン空港に到着し,入国カードを書いてイミグレに出し入国儀式は完了する。空港内にはタクシーの運転手が客引きをしている。何回か料金交渉をして,1人1ドルの約束で日本人4人で市内に向かう。
タクシーは80km/hの猛スピードで夜のヤンゴンを走りぬけ20分ほどでスーレー・パゴダの西側にあるホワイトハウスGHに到着した。宿の主人は英語が話せる。2階の部屋は建物の一部を間仕切りで囲ったような構造で,料金は朝食付きで6$である。6畳ほどの部屋に2つのマットレスが敷いてあるだけで,T/Sは共同である。部屋もT/Sも清潔ではあるが,部屋に蚊が多いのには参った。
ここの一夜は「ひたすらうるさい夜」であった。11時を過ぎてもTVの音がうるさい。ときどき耳元を蚊の羽音がくすぐる。朝の4時から1時間ほどスピーカーで街中に説法が流れる。早起きして昨日の日記を書くことにする。
ミャンマーの宿には朝食つきのところが多い。ここの朝食はビュッフェスタイルで,パン,フライドライス,果物,ジュース,コーヒー,紅茶から選択するようになっている。のんびりと豊かな朝食をいただき,うるさい夜で悪かった機嫌がだいぶ回復する。
宿の屋上はこのあたりで一番高い場所である。北側には低い建物と緑地の向こうにシュエタゴン・パゴダが見える。東側にはやはり低い建物に混じって,この国の経済発展の象徴のような巨大な高層ビルがいくつか見える。南側はヤンゴン川がすぐ近くまで迫っている。
パーンからヤンゴンに戻ったときはスーレー・パゴダのすぐ西側にあるピー・ウン・リーUGHに宿泊した。料金は7$であるが立派なホテル仕様である。この宿はパーンから一緒になったドイツ人写真家に教えてもらった。
彼は毎年アジアに着ており,ミャンマーは7回目だという。さすがにこの国の抱えている問題点についてはよく承知している。木材の大きな集積所では顔をしかめていた。
太平洋戦争におけるインパール作戦についても知っていた。補給を考えない無謀な作戦だったと話は続いた。また先の戦争で日本では300万人が犠牲になったことを話すと,彼はドイツでは800-900万人が亡くなったという。
ピー・ウン・リーUGHの部屋は10畳,2ベッド,T/S付きでとても清潔である。温度設定のできるエアコンも入っており,居心地はとても良い。レセプションにはテレビがあり,日本語放送も入るようになっている。
エアコン付きの部屋は快適である。夜中に一度切ってみたらどんどん暑くなり再び入れ直す。さすがにヤンゴンのコンクリートの建物では通気性が悪くファンだけではちょっと苦しい。それでも早朝の外気は涼しく,昨日の暑さは嘘のようだ。
今日の予定1号はバングラデシュ大使館にビザを取得に行くことだ。スーレーの南側で情報を集めると大使館は移転しているらしい。20チャット(3円)というただ同然の市バスに乗り,メイ・ニゴンで下車して,炎天下をしばらく歩いて大使館に着いた。
しかし,スタッフは「ここでは日本人にビザは発給できない」の一点張りであきらめるしかなかった。幸い航空券はダッカ経由コルカタまで買ってあるので,コルカタの領事館でもう一度トライすることにする。
大使館を後にして,シュエタゴン・パゴダに歩いて行く。太陽は暴力的に熱くなってきた。体の水分がどんどん抜けていくようだ。ミャンマー製のレモンソーダで喉を潤す。まさしく甘露である。
パゴダは丘の上にあり,東西南北の4つの階段が上に通じている。僕はズルをしてエレベーターで上がる。出口のそばに料金所があり,外国人を見つけるとチケット売りのおばさんが駆け寄ってくる。料金は5$ととても高い。
シュエタゴンはミャンマーでもっとも信仰を集めるパゴダの一つだ。高さ100mのパゴダの周りを64の小さなパゴダが囲んでいる。パゴダはすべて金色,強い日差しの中で強烈に輝いている。しかし,大パゴダは清掃(修理)中で,上部の2/3は竹の骨組みとシートに覆われている。
シュエタゴンには本当に数え切れないほどの仏像があり,人々は思い思いに仏像の前で祈っている。酷暑の時期なので仏像に水をかける人も多い。ミャンマー人の団体がカメラマンに記念写真をとってもらっている。みんなが集まったところで僕も集合写真を撮らせてもらう。画像を見せてあげると大はしゃぎで,次々と撮影の要求がくる。
日差しがやわらいできたのでスーレー周辺を歩いてみる。スーレーは街の中心部にあり,かっこうのランドマークになっている。10年ぶりのスーレーはほとんど変わっていなかった。
人々は仏像の前で手を合わせ,長い間祈っている。上座部仏教においては,僧侶は僧院で修行をするのが務めである。日本の寺院のような住職という役割は無い。スーレーのような大きなパゴダにも僧侶はいない。
スーレーが薄闇の中でライトアップされる頃,その北側からアザーンが聞こえる。そこには「ベンガル人の金曜モスク」がある。2本のミナレット(尖塔)がそのシンボルになっている。男たちは横の洗い場で手足と顔を洗い,祈りの場に向かう。
虚飾と偶像の一切無いシンプルな広間で男たちは西の方角に向かって祈る。床は1人分のスペースを印されたじゅうたんになっている。100人ほどの人々は@直立,A中腰でお辞儀,B跪いて頭を床につけるという行為を何回か繰り返す。何度も見慣れた光景であるが,やはり祈りの姿は心を打たれる。
午後はヤンゴン川の舟遊びと思って船着場に行く。しかし,川岸はずっと塀で囲われておりアクセスできない。しばらく歩くとようやく船着場に着いた。乗船待合室で対岸までの渡し船の料金をたずねると,ミャンマー人は50チャット,外国人は1$(880チャット)である。このひどい料金格差には納得できないので拒否すると,すぐに乗船用の施設から追い出された。
仕方がないので近くの屋台からヤンゴン川の風景を眺める。船着場の横の川岸から見ると,対岸に向かう立派な船が屋根付きの突堤に係留されている。同じような船が川を行き来している。ちょっとくやしいので,少し東側に歩き,小さな船着場で再挑戦してみたら,ここは外国人乗船は不可であった。何ということだ。
ヤンゴン中央駅を出て町をぐるっと一回りして戻ってくる環状線がある。一周すると2時間半の小旅行である。乗車するためには外国人用のキップが必要である。ヤンゴン中央駅の半円形のキップ売り場の裏から入る。パスポートを提示し1$を払うとキップがもらえる。
始発時はガラガラである。座席はベンチシートになっているので,クツを脱いで膝を抱えて横向きに坐ると景色が見やすい。乗車口の扉はないのでそこから眺めるのもよい。ただし,ここに立っていると検札に来た車掌にしかられる。
出発してしばらくは線路が低いところにあり,土手が視界をさえぎる。途中駅で大量の人と荷物が積み込まれる。中には自転車もある。停車時間がそれほど長くないので戦場のような騒ぎになる。外の景色は次第に田園風景になる。視界はよくなりそれなりに楽しめた。
市場は建物の中よりもその周辺がおもしろい。野菜,魚,肉などの露店が並び,すばらしい写真の題材に事欠かない。近くには高さ20-30cmの小さなイスと,これまた低いテーブルが並べられ,軽食とカフェになっている。この形式の食べ物屋は市内のいたるところにあった。
ティンジー・マーケットめざしアノーヤター通りを西に歩く。右手に(市場の北側)にヒンドゥー寺院のゴープラム(塔門)が見える。高さ20mほどの塔門は極彩色の神々の像ですきまなく埋め尽くされている。
塔門は南インドのヒンドゥー寺院によく見られる。とするとこの地域の人々は南インド出身なのかもしれない。遠くインドから仏教国に移住させられても,ゆるぎのない信仰を持続させることのできる強い宗教に,無宗教の僕は少しひるむ。