ルアンナムタ (参照地図を開く)
フェイサイ(09:00)→ルアンアムタ(18:00)まで乗合トラックバスで移動する。ここはなかなかの悪路で,乾期に移動する場合でもそれなりの覚悟が必要である。ルアンナムターの名前を繰り返しバスを探す。チケット売り場で話を聞くと,怪しげな英語ながらミニバスで9時発車,料金は300Bということだけは分かった。
ちょうどこのとき日本人旅行者が入ってきて,同じ内容を確認した。Sさんはプロのカメラマンで,カメラだけでは食べられないのでいろいろなバイトをしているとのこと。バス代が異常に高いですねね,でもこれしか無いんだからしかたがないですねと話しながらチケットを買う。チケットは手書きで何やらラオス語で書かれている。この思い出のチケットは残念ながら乗車のとき回収されてしまい手元にはない。
バスは小型トラックを改造したもので,荷台の左右にベンチ型の座席と屋根が取り付けられている。ここに大人12人と子供3人,さらに荷物が積み込まれる。ザックのような大きな荷物は屋根の上に載せられる。僕とSさんは最後尾である。
道路は全線ダートである。バスはすぐに山道に入り,道路の凹凸が大きくなると前後と左右のゆれがひどくなる。最後尾の座席では加減速時に乗客の体重が加わる。外に押し出されないためには荷台から外に出ている金具を握り,腕をつっぱっていなければならない。腕はすぐに疲れてくるがひたすらがまんするしかない。また前輪が巻き上げる土埃がひどく,膝の上のサブザックは赤色に染まっている。
道路の周囲はうっそうとした森林に覆われている。多くは焼畑の後の二次林で大きな木は少ない。集落は5-10km離れて点在しており,集落の近くには現在作物を育てている焼畑も見られる。乾期の今は次の焼畑の準備が進められており,森の一画が伐採されているところもある。
集落の家屋は高床式,壁材は竹,屋根は草葺である。女性の服装は民族色の強いものではなく,平地のラオ人とそれと類似している。彼らにとっては土埃をあげて通りすぎる我々の車はやっかいもののはずであるが,子供たちはさかんに手を振ってくれる。このような村で写真を撮りたいものだ。
急斜面の下は川になっており,ここからしばらく川沿いの道になる。しだいに集落が大きくなる。それにつれて焼畑も多くなり,伐採された森林も目立つようになる。最近降った雨のせいか道はぬかるんでいる。それを大型トラックがかきまわすので深いわだちになっている。
トラックバスが突然止まる。前方に大型トラックが2台止まっており,人々は水を流し固い地面を削っている。右側はひどいぬかるみになっており,トラックの通路を確保しようとしているようだ。こんなときはぬかるみに石でも入れるのが普通だが,ここでは逆側を削っている。ここで30分の休憩ができてずいぶん助かった。
トラックバスは9時間で200kmを走破しルアンナムタの市場近くのバスステーションに到着した。幹線道路沿いにあるプランGHの部屋は4畳半,シャワー・トイレは共同,ベッドは2つそれに机がある。部屋もシャワー室も清潔で部屋代は25000K(125B)である。
朝食前に市場に出かける。市場の建物の外は露店になっており,売り手にも買い手にも頭に金属製の飾りのついた帽子をかぶり民族衣装のアカ族と思われる人々がたくさんいる。彼女たちは近郊の山から暗いうちに出てきて,市場でものを売ったり買ったりして,昼前には集落に帰る。
市場にはいくつかの珍しい食材がある。中でも食用にする大ネズミには驚いた。竹を編んだカゴの中には普通のネコくらいの大きさのネズミが入っている。体はとても大きいが姿かたちはやはりネズミである。
暑さのため濃縮ジュースを水で割り氷を入れたジュースがおいしい。10才から12才くらいの子供たちは母親に倣って刺繍の練習をしている。まだ技術は稚拙なので,練習用もしくは自分の巻きスカートに使用するのかもしれない。それにしても彼女たちは写真に対しておおげさな拒否反応を示す。しばらく一緒にいて何かのきっかけで仲良くならないとよい写真はとれない。
帰りに小学校に立ち寄る。この学校には日本の援助により建設されたと意味の文章を刻んだ石柱がある。学校は終わっていたが子供たちが残っていたので15人くらいを相手に折り鶴教室を開催する。これで仲良くなって集合写真をとる。
朝食後の市場には黒い帽子,腰までの短い黒い上着,膝までの短いズボン,白いスパッツという珍しい民族衣装の女性たちがいた。中には子供も混じっていたのでキャンディーとフーセンを撮影料にして撮らせてもらった。彼女たちは「ランテン」と呼ばれる人々である。2年後に写真を持参して同じ服装の女性に尋ねると「この人は知っている。写真は届けてあげよう」という偶然にもめぐり合えた。