亜細亜の街角
ガンガラーの谷とおきなわワールドを楽しむ
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ドラゴンフルーツ園

翌日は06時に起床し,足音を忍ばせて宿を出る。まだ写真には暗い時間帯であるが,道路を歩くには問題ない。目的のドラゴンフルーツ園は大渡にあり,そこまでは徒歩で20分ほどの距離である。国道331号線に出るとこの時間にジョギングする人が何人かおり,これにはちょっと驚く。

目的のドラゴンフルーツ園は低い囲いの一部が無くなっており,自由に出入りすることができる。とはいっても,ここは私有地の農園なのでできるだけサボテンに触れないように撮影させていただく。

写真からすぐ分かるようにドラゴンフルーツはヒモサボテン属(Hylocereus)に属するサボテンの果実である。その形状から「サンカクサボテン」とも呼ばれている。ヒモサボテンの仲間の原産地は北米から南米にかけての亜熱帯・熱帯地域である。

純白の美しい大輪の花を咲かせ,一夜限りでしぼんでしまうためしばしばニュースにもなるゲッカビジン(月下美人,Epiphyllum oxypetalum,サボテン科・クジャクサボテン属)はヒモサボテンの近縁種であり,花や果実も類似している。

その月下美人と同じような美しい一夜花が見られるというのであるから早起きもやむを得ない。06時30分頃にドラゴンフルーツ園に到着すると純白の花がたくさん咲いておりさすがに感激した。

沖縄では果肉が白いもの(Hylocereus undatus)と赤いもの(Hylocereus costaricensis)の二種類が栽培されており,果実には特筆できる特徴があるが,サボテンの形状や花の概観には大きな違いは現れない。ここのものも果実を切ってみなければどちらかは分からない。

宿の食事では赤い果肉のものが出された。僕は東南アジアで白い果肉のドラゴンフルーツを食べ,ほとんど野菜のような味のため,再びトライすることはなかった。しかし,沖縄のものは十分果物として評価することができ,認識を変更させられることになった。

東南アジアでもっとも流通量が多いのは白肉種であり,品種改良されていない原種に近いものであったり,未熟なため果物というより野菜といった風味の場合がある。固定された品種で施肥を行い,きちんと樹上で完熟させれば糖度も20度程度と甘くなる。その代り,日持ちがしなくなるために一般市場には流通せず,そうしたものを日本で目にする機会は非常に少ない。(wikipedia)

ここの農園にはたくさんの花が咲いており,とりあえず手当たり次第に写真を撮る。写真にはまだ暗い状況なのでフラッシュを使用することにする。大輪の白い花なので背景が暗い方がずっと引き立つ。そのため,花との距離を少し取った方がよい。明るくなってきた空を背景にするとちょっと寝ぼけたような写真になる。

サークル状の雄しべからはみ出すように雌しべがある

すでに働き者のハチがやってきている

ヒモサボテンの仲間は夜間に花を咲かせ,翌朝にはしぼんでしまう。彼らはコウモリとかガのように夜間に活動する動物に受粉を媒介してもらっている。原産地では月下美人はある種のコウモリが媒介者となっているという。ドラゴンフルーツの場合は早朝からミツバチが頻繁に訪問していた。この時間でも花は開き切った状態であり,おそらくミツバチが花粉媒介者であろうと推測する。

09:10|花は半分くらい閉じている

朝食をいただいてからもう一度,訪問してみると花は半分くらい閉じた状態になっていた。花を訪問するミツバチも少なくなり,そろそろ花の終わりにさしかかっているようだ。

一日前の花はこのようになる

1日前の花はしおれてしまい,その後に花の根元の部分がふくらみ,緑色の果実となる。写真の花の左側に見える緑色のものがふくらみ始めた果実である。緑色の果実は大きくなるとともに表皮が薄い赤色から濃い赤色に変化していく。

■調査中

少し赤みがかってきた果実に小さな昆虫が止まっていた。背中の模様からカメムシの仲間と推測されるが,昆虫の種を特定するのは非常に困難なので調査は諦めることにしている。

カメムシといえば沖縄には「ナナホシキンカメムシ」というカメムシらしくない金属光沢をもった種がいる。ときには一枚の葉の上に群らがっていることもあり,そんなものが見られたらとても幸せなことだ。残念ながら10月下旬では時期が悪かったようだ。

「玉泉洞」までバスで移動する

大渡のバス停から「玉泉洞」までバスで移動する。玉泉洞は82系統バス(糸満BT→玉泉洞)の終点であり,331号線から県道17号線を北に3kmほど入ったところにある。82系統バスは1日12往復なので行動はバスの時間に合わせなければならない。

玉泉洞で下車すると,「おきなわワールド」と「ガンガラーの谷」という二つの見どころが道路を挟んで位置している。とりあえず「ガンガラーの谷」ツアーを申し込みに行くことにする。道路から駐車場に入るところに「トックリキワタ」がちょうど花を付けていた。

植物の名前についてはときどきとんでもない誤用や混用がある。「キワタ」もその一つに挙げられる。次の二つの植物は別種であるがどちらも和名には「キワタ」が使用されている。

トックリキワタ

学名Ceiba speciosa
科名パンヤ科(アオイ科)
属名セイバ属
和名トックリキワタ
英語名Floss silk tree


キワタ

学名Bombax ceiba
科名パンヤ科(アオイ科)
属名キワタ属
和名キワタノキ,インドキワタノキ,インドワタノキ
英語名cotton tree,tree cotton


このように混同される一因は学名にある。「 Bombax ceiba」の学名が先にリンネにより付与されているにもかかわらず,異なる植物の属名に「ceiba」を使用したことが混乱をまねいた。同じ名称を学名の属名と種小名の両方に使用した植物学者の罪は重いようだ。

「ceiba」はスペイン語由来の言葉で「真綿」を意味している。キワタの仲間もトックリキワタ仲間も類似の果実を付け,熟すると開裂し内部から綿のように白い繊維質にくるまれた種子が出てくる。この限りではどちらの種にも「ceiba」が使用されたのは無理もないことであると学者に同情したくなる。

属名のレベルで説明するとキワタという名前の本家は「キワタ属」であり,後から割り込んできた「セイバ属」は一般的にパンヤ,パンヤノキ,カポックと呼ばれる。にもかかわらず,「セイバ属」の種を「トックリキワタ」と名付けたところにも第二の罪がある。もっとも英語名の「Floss silk tree」にしても直訳すると「真綿の木」なので同じようなものだ。僕にとっては「キワタ」はいろいろと罪深い名前である。


トックリキワタ(Ceiba speciosa)

原産地はブラジル南部からパラグアイ,アルゼンチンにかけての南アメリカ中部である。セイバ属を代表するパンヤノキ(Ceiba pentandra)は樹高は60-70mにもなり,巨大な板根をもつ。熱帯雨林のようなまとまった樹冠ではないが,大きな枝が四方に樹冠を形成する。この樹冠の末端の枝全体にサクラのように白あるいはピンクの花を咲かせる。

トックリキワタは板根が発達しないこと,幹が徳利のように膨らむことを除くと同様の樹形となる。ただし,幹の膨らみはかなり個体差がある。沖縄では街路樹などにもなっており,9月から12月にかけてが花の時期となる。花の付き方は個体差があり,中には枝全体がピンクの衣をまとうようなものもある。

花が終わると多数の15cmほどの紡錘型の果実を付ける。中には多数の種子が入っており,その周囲を少し黄色みがかった綿のような繊維が取り巻いている。

繊維質の主成分はセルロースとリグニンである。果実が熟すると外側の仮種皮は裂開し,内部の繊維質が出てくる。この繊維質は軽く,水に浮き,防水性をもつ。この繊維は糸にはならないので,そのままの形でマットや枕,ぬいぐるみの詰め物として利用される。最近ではライフジャケットなどにも利用されている。

種子はワタと同じように油分を含んでおり,搾油してカポック・オイルが作られる。このオイルの性質は綿実油に近い。


キワタ(Bombax ceiba)

キワタはキワタ属の落葉高木である。和名のキワタは「木に生る綿」の意味であり,漢字では木棉となるが,「もめん」と混同されるのでカタカナ表記になる。原産地は熱帯アジアであり,インド圏から東南アジアに分布しており,インドキワタ,インドワタノキなどとも呼ばれている。
br> 樹高は20-30m,幹は直立することが多く,円錐状の突起に覆われている。枝は水平に伸びる性質がある。この枝が水平に伸びる樹形が識別の一つの決め手になる。

落葉樹であり,赤い花が葉よりも先に開くのでこの時期のものはとても目立つ。花は5弁で大きさも形も椿の花に似ており,花弁が基部でつながっているため花が落ちるときも椿のように花弁全体がぽろっと落ちる。

花の後には20-30cmほどの緑色の細長い紡錘形の果実がたくさんつく。この状態のキワタもとても目立つ。実が熟すと表皮は茶色に変わり開裂し,内部に詰まっている白い繊維質がはじける。この繊維質が綿花と似ているので「キワタ」という名前が付けられた。実際,集められてクッションなどの詰め物に利用される

本家のワタ(アオイ科・ワタ属)と同じように,この繊維質の中に種子が入っている。ワタはこの種子を風に乗せて運搬する役目をもっているようだ。繊維が切れて小さな塊になると,十分に風に乗ることができる。それに対して大きな塊のままだとそのまま下に落下してしまう。

この木の根元にはそのような繊維質の塊がたくさん落ちている。繊維質の中には黒いあずき大の種子が含まれている。繊維質はワタに比べるとずっと柔らかく,短い。そこには小さな塊になって飛距離をかせごうとする戦略が見てとれる。

枝にぶら下がっている実は表皮がきれいにはじけて内部の繊維質が出ているものと,一部しか出ていないものがある。内部の圧力がうまくかからないときれいに開裂しないようだ。

ガンガラーの谷の手前にあるガジュマル広場

ガンガラーの谷の手前には広い駐車場があり,その向こうにガジュマル広場がある。ほぼ等間隔に植えられたガジュマルはその一つひとつが大きな木陰を作っている。

ガジュマルはなんとなく聖木という雰囲気がある

ガジュマルはその特異な樹形からなんとなく聖木という雰囲気がある。八重山の黒島では一面が牧場用に整地されたにもかかわらず,ガジュマルのある一画はそのままにされていた。御嶽にもガジュマルの木があり,やはり聖木とされているようだ。インドではインドボダイジュは仏教の聖木であり,ベンガルボダイジュはヒンドゥー教の聖木となっている。

宮本輝の作品に「森の中の海」という小説がある。阪神大震災をきっかけに主人公は夫の不倫を知り,ひょんなことから知り合いになった老女から相続することになった奥飛騨の山荘へ子供たちとともに住むことになる。その山荘の敷地には複数の樹木が絡み合って一つの巨大な樹木になっているものがあった。この樹木は大海(ターハイ)と呼ばれ,物語において重要な役割を果たすことになる。ガジュマルの木を見ていてふとその木のことを思い出した。

ケイブカフェ入り口

ガンガラーの谷の出発点は巨大な石灰岩の洞窟である。ここにはカフェが営業しており,テーブルとイスが置かれている。洞窟の内部は外に比べると多少なりとも涼しく感じる。それでもカフェでは熱源を使用しているので,洞窟内の温度上昇により環境が変化することを防止するためか,複数台の大きな扇風機が外に向かって回っている。

明るいところにはクワズイモが繁茂する

洞窟に通じる道の両側は樹木が伐採されているため,明るいところを好むクワズイモが大きな群落を作っている。

小さなコオロギ

クワズイモの葉の上に小さなコオロギがとまっていた。おそらくマダラコオロギ(Cardiodactylus guttulus)であろう。コオロギの名前が付いているが,厳密にはマツムシの仲間である。奄美大島以南に分布しており,体長は35mmほどである。写真のものはずっと小さく,おそらく幼虫であろう。

石段を下るとカフェのカウンターがある

洞窟の入り口には天井から巨大なつららのような鍾乳石が垂れ下がっている。その下の石段を下るとカフェのカウンターがあり,ここで「ガンガラーの谷」ツアーの申し込みを受け付けている。

沖縄はオフシーズンの時期なので予約は不要だろうとたかをくくっていたら,2時間後のものになった。そのため,駆け足で「おきなわワールド」を見学し,ツアーに参加してから再び「おきなわワールド」と「玉泉洞」を見学することになった。

沖縄では縄文時代やそれ以前の人骨が発見されている

沖縄では縄文時代(約1万6,500年前から約3,000年前)およびそれ以前の旧石器時代の人骨が発見されており,日本人のルーツについて貴重な資料となっている。もっとも有名なものは「港川人」である。この頭骨を含む人骨は沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で発見されたもので,約1万7000年から8000年頃ものだと推定されている。

旧石器時代の「港川人」は頭骨の復元から縄文人の祖先ではないかと考えられてきたが,国立科学博物館の最新の研究では頭骨が再復元され縄文人の祖先ではなく,オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いと考えられるようになっている。

この古い南方系集団は5万年前から1万年前に東南アジアやオーストラリアに広く分布していたが,その後に農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり,オーストラリア,ニューギニアなどに限定されるようになったと考えられる。

この結果,港川人は本土の縄文人とは異なる集団とされるようになった。洞窟の中にはかっての港川人の復元模型の写真が展示されているが,「港川人」の再調査を進めている国立科学博物館は顔立ちの復元図を作り直した。新しいイメージは従来のものから大きく変わり,オーストラリアの先住民に近いものとなっている。

「港川人」の身長は男性で約153-155cm,女性で約144cm。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく,下半身がしっかりとしていたとされている。また,顎ががっしりしていて硬いものも食べていたとされている。

沖縄では「港川人」以外にも旧石器時代の人骨が多数発見されている。これは沖縄の地質によるものが大きいと考えられている。沖縄本島を始め多くの島は弱アルカリ性の琉球石灰岩に覆われている。人骨はリン酸カルシウムからできているので,酸性環境では容易に溶け出してしまう。しかし,沖縄では弱アルカリ性の環境が現在まで古い人骨を保存してきた。

石垣島では新空港の工事現場から多数の人骨を含む地層が発見された。石垣市白保竿根田原洞穴周辺遺物散布地(通称C1洞穴)は新石垣空港の外れにあり,そこで発見された人骨は約1万5000年から2万年前のもので,日本最古の年代になることが分かった。その結果,旧石器時代に石垣島にヒトが存在していたことが明確になり,人類学のうえで重要な発見となった。

おきなわワールド入り口のシーサー

ガンガラーの谷ツアーの申し込みを終わり,おきなわワールドに向かう。入り口には何か球体を抱いている恐そうなシーサーが迎えてくれる。このシーサーの抱いている球体には梅の花のような紋が付いており,内容は不明だ。

シーサーというより中国紫禁城の獅子のようだ

建物手前の獅子像はシーサーではなく中国皇帝の権威の象徴となっている獅子像のようだ。北京の紫禁城にはこの獅子が玉を足で押えているポーズのものがあり,そう考えると入り口のシーサーもそのポーズの一種なのかなという気もする。

シーサーの園芸

樹木をシーサーに見せる園芸作品も置かれている。こちらは秋田のナマハゲという造形である。

珍しくスズメガが静止して吸蜜していた

ここでは犬用の服になっている

客寄せの紅型を着た人形

初めて見た「SPAM」の現物

沖縄には「SPAM」という畜肉加工食品があるということは承知していたが,おきなわワールドで商品のパッケージを初めて見て,缶詰加工されたハムであることが分かった。西表島や黒島の宿の食事に角の丸い厚切りのハムが出され,おそらくこれが「SPAM」であろうと推測していた。しかし,これがうわさの「SPAM」ですかと宿の人にたずねるのも恥ずかしくてそのまま今日に至っていた。

米軍および米国統治下の沖縄では畜肉製品の缶詰であるコンビーフとSPAMは急速に普及し,現在の沖縄料理ではランチョンミートは欠かせない食材となっている。このような肉食の普及は沖縄の人々の健康と平均寿命に大きな変化をもたらした。

かっての沖縄はきちんとした統計のある地域としては世界一の長寿地域とされていたことがある。それは,温暖な気候と地域のさまざまな食材を利用し,肉食がごく少ない食事に起因している。

しかし,終戦後における肉食文化の急速な普及は世界一の長寿地域を普通の長寿地域,さらには比較的若い世代に脳出血,急性心筋梗塞,慢性肝疾患・肝硬変など生活習慣病の死亡率が全国平均より高い地域へと変えてしまった。

厚生労働省の「2010年都道府県別生命表(ゼロ歳児の平均寿命)」によると沖縄の男性は30位,女性は3位となっており,いずれも5年前の調査から順位を落としている。米国の統治から日本に返還されて40年近くが経過しているにもかかわらず,米国統治時代に浸み込んでしまった食生活には改善の兆しは見えない。

ハブのエキスを抽出する

王国歴史館では世界のシーサー展が開かれていた

展示品の大半は日本のものであった

琉球紅型

沖縄で見たかったものの一つが「紅型」である。紅型は沖縄独特の染織であり,その起源は13世紀頃に遡るとされている。最初は布地に直接絵を描く技法であったと考えられており,現在の紅型にあたる染色技法が確立されたのは18世紀頃とされている。

14世紀から16世紀にかけて大いに繁栄した琉球王国は日本,中国,東南アジアと広く交易をする海洋貿易国家であった。紅型のルーツには日本の友禅,インドネシアのバティック,中国の印花布などにあると推測され,それらの技法を包括して,琉球独自の技法を創り出したと考えられる。そのことは,古い紅型の紋様に中国的なものと日本的なものが並存していることにも表れている。

紅型は琉球王府の保護のもとに時代を受け継がれたが,明治の廃藩置県により琉球王府が解体され,首里城は明治政府によって接収され,王家は退去を命じられた。華族となった尚家の当主は紅型衣裳をはじめ多数の宝物や文書とともに東京に居を移した。

その文物は尚家の屋敷で手厚く保管され,関東大震災や東京大空襲などの被害をまぬがれた。沖縄本島は太平洋戦争の末期の激戦地となり,琉球王朝の文化遺産は首里城とともにそのほとんどが灰燼に帰した。

東京に移され奇跡的に戦火をまぬがれた貴重な文物が沖縄に戻されたのは1995年のことである。それらは那覇市に寄贈され,2006年にはその歴史的価値が認められ,美術工芸資料85点,文書資料1166点が国宝に指定された。これらの文物は紅型の再生に大きな役割を果たした。

紅型の技法を簡単に説明すると次のようになる。

●糊置き
和紙を彫って作った型紙を生地に置き,防染糊をへらで塗っていく。色を差す部分が模様に,防染糊を施した部分が後に白地となる。

●色差し
糊が完全に乾くと色差し→二度塗り→隈取りの行程で染色する。隈取りは紅型独特の技法で,模様に立体感や遠近感を出す。

●蒸し→水元(みずもと)
配色後に色を定着させるため蒸してから水にさらし糊を洗い流す。

琉球ガラス体験工房

琉球ガラスは沖縄本島を中心に生産される独特の色彩と形状をもったガラス工芸品である。琉球ガラスがある種のブランドになったことにより,同じ材料と技法を使用して海外で生産したものを「琉球ガラス」の名称で国内販売ができるかという裁判が起こされ,2013年の2月に那覇地裁の判断が示された。

判決は琉球ガラスの産地表示性を認め,産地を表示せずに沖縄以外で製造されたガラス製品を「琉球ガラス」として販売してはならないというものであった。

これは微妙な判決である。生産地あるいは原産国を表示をすれば「琉球ガラス」として販売できることになるからである。この問題は「琉球ガラス」を「地域ブランド」として認めるか,一般名称とするかにより大きく扱いが変わる。

琉球ガラスは独特の色合いがその生命線である。このようなガラス工芸は太平洋戦争後の資源難のため米軍基地で捨てられたコーラやビールの空き瓶を溶かして再生したことから始まっている。雑多な瓶を溶かして再生したことから,厚手の赤色や緑色などの多彩な色合いとなり,再生の過程で混入する気泡と相まって独特の味わいをもつガラス製品となった。(wikipedia)

1980年代からの沖縄ブームもあり,観光客による需要は大きく跳ね上がった。琉球ガラス製品を生産する工房や会社も増え,新たな材料や手法なども取り入れて,芸術的な作品から贈答品向けまで多彩な品ぞろえとなっている。

琉球ガラスは陶器(壺屋焼,琉球焼),紅型,織物(各種),楽器(三線)とともに県指定の伝統工芸製品となっている。おきなわワールドではこのような伝統工芸の体験場所があり,琉球ガラス体験工房では自分オリジナルのガラス工芸品を作ることができる。

私たちが一般的に「ガラス」と呼んでいるものはシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするす非晶質固体である。シリカは岩石の主成分であり,本来の結晶質の姿は岩石である。ところが,シリカを高温で溶融させ液体状態にしてから,結晶化が起こらないような十分に速い速度で冷却すると透明な非晶質固体となる。これがガラスである。

ガラス工芸品は液体状態で目的の形に整えてから冷却させる。冷却は早い速度が必要ではあるが,ガラス製品の損傷を避けるため、約600℃の徐冷窯に入れ,一晩かけて常温まで徐々に冷ます。

ガラスを作るときに微量の金属化合物を加えると色付きのガラスができる。琉球ガラス工房では調合士が色別に原料を調合し,一晩かけてガラスを熔かす。体験工房では溶融した状態の色ガラスから制作が始まり,その多くは宙吹き法で息を吹き込み膨らませ基本の形に成形する。

観光客が体験できるのはこの工程である。吹き棹からの切り離しや,口部および底部の整形は工房のスタッフが担当する。楕円形のガラスの球が広口のグラスに変わっていく工程は見ているだけでも楽しい。

ものによっては,工程の途中に瞬間的に一部を水に浸すと,ガラスの表面に細かいひびがたくさん入る。これを整形窯でもう一度過熱すると,ひびとひびの間がくっつき,ひびを紋様として活かせるようになる。

ガジュマルの木に結び付ける

ガジュマルの木にはたくさんの紙が結び付けられている。これはおみくじか願い事を記したものと思われる。ガジュマルの木の下で手を振っているのは「キジムナー」である。

キジムナー(キジムン)は沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物,妖怪,妖精であり,ガジュマルの古木の精霊とされている。

「体中が真っ赤な子ども」あるいは「赤髪の子ども」,「赤い顔の子ども」の姿で現れ,人間のような生活スタイルをもち,人間と共存するタイプの妖怪として伝えられることが多い。人間と敵対しない妖怪であるため,沖縄ではキジムナーをデザインした民芸品や衣類などが販売されている。

三線体験

熱帯果物園|クドンドン

クドンドン(Spondias dulcis,ウルシ科・スポンディアス属)はマレーシア,ポリネシア原産の常緑樹である。樹高は20mほどになる。同じウルシ科のマンゴーと近い植物であり,マンゴーのようにツルから垂れ下がったような果実を付ける。

大きさは手のひらに2-3個乗るほどである。熟していないマンゴーよりももっと青臭くて酸っぱいという評価がネット上に掲載されており,市場で売り物になるような果物ではないようだ。僕もこの果物は見たことがない。

熱帯果物園|フクベノキ

木の幹に緑色のかんきつ類のような果実が付いている。この植物は初めて見た。案内板には「ふくべ」と記されていたが,正式な和名は「フクベノキ」である。日本語の一般名称では「ふくべ(瓢)」はゆうがおの実である瓢箪(ひょうたん)を意味する。樹木の幹に付いている丸い果実から「ふくべ」の名前を付けたと推測する。

フクベノキ(Crescentia cujete,ノウゼンカズラ科・フクベノキ属)の原産地は熱帯アメリカとされている。英語名は「calabash tree(瓢箪の木)」であり,果実の殻は各種の器や工芸品・装飾品,楽器のマラカスとして利用されている。

熱帯果物園|バニラはランの果実である

熱帯果物園|バナナは立派に育っている

熱帯果物園|サポジラ(アカテツ科・サポジラ属)

サポジラ(学名:Manilkara zapota )の原産地はメキシコであり,スペインが植民地にしたことにより世界各地に移入された。東南アジアではフィリピンが起点となっているようだ。樹高は30-40mまで達し,樹皮にはチクルと呼ばれるチューインガムの原料となる白く粘り気のある物質が含まれているので,和名はチューインガムノキとなっている。

葉は厚い照葉樹であり,季節に関係なく開花し果実をつける。果実の外観はジャガイモに似ており,とても地味である。おそらく,果物の屋台などで見かけたことがあるはずであるが,記憶には残っていない。ということでまだ食べたことはない。食べた方の感想は非常に甘くキャラメルか綿菓子のような風味,あるいは甘柿を更に甘くした感じと記されている。

熱帯果物園|パイナップル(パイナップル科・アナナス属)

パイナップル(パインアップル, 英名:pineapple)の原産地は熱帯アメリカである。植物名をアナナス,果実をパイナップルと呼称を分ける場合もある。英名:pine-apple はマツカサを意味しており,パイナップルの形状が類似していることから転用された。英語のapple にはリンゴ以外に一般的な果実という意味もある。

アナナスの仲間なので葉は地下茎から長い剣状の葉が叢生し,その中心部の太い茎に果実ができる。作付後15-18か月で収穫することができる。果実の表面に並んでいる亀甲紋は一つ一つが小果の集まったもので,果実の本体は花托が膨らんだものである。ジューシーな甘さがあり,東南アジアや南アジアでは水分補給に好適な果物である。

熱帯果物園|パンノキ(クワ科・パンノキ属)

パンノキ(Artcarpus altilis)はクワ科の常緑高木であり,大きな葉は7-9裂の掌状となっている。パンノキ属の学名はパン(artos)と果実(karpos)を組み合わせてものとなっており,そのままパンの木ということになる。英語名も「Breadfruits tree」である。

果実は直径10-30cm,枝先に2-3個ずつ着生する。果肉にはでんぷんが多く,蒸し焼き,直火焼きなど加熱調理して食用にされる。また火であぶって乾燥させ,ビスケット状にして保存することもできる。

原産地とされるポリネシアはおおむねハワイ諸島,イースター島,ニュージーランドを結ぶ三角形の広大な地域を占めている。有用な食料となるパンノキは海洋民族であるポリネシア人の拡散とともに分布域を拡大していったと考えられている。

熱帯果物園|スターフルーツ

スターフルーツは果実の断面が星形をしているためそのように名づけられているが,味の方はたいしたものではない。ここではちょうど熟し過ぎて茶色に変色した果実のそばでピンクの可憐な花が開花する直前の状態であった。

竹馬も自由に使用できる

いそいでケイブカフェに戻る

ツアーの時間が迫ってきたので急いでケイブカフェに戻る。洞窟の奥にベンチが並べられており,そこでツアー内容の説明を聞く。所要時間は1時間半ほどである。

ガンガラーの谷とは琉球石灰岩層を地下河川が化学的および物理的に浸食してできた鍾乳洞である。この地下河川はおきなわワールドの敷地内にある玉泉洞に続いていた。地図で確認すると鍾乳洞を形成した雄樋川(ゆうひがわ)は国道331号線に近い長毛(港川)で海に注いでいる。このあたりは「港川人」が発見されたところである。

時間の経過とともに鍾乳洞の一部は崩れ落ちガンガラーの谷となった。ケイブカフェのある洞窟は崩落をまぬがれた鍾乳洞の一部である。

説明を聞いてからガンガラーの谷に出発する

ツアーコースについては「ガンガラーの谷公式ウェブサイト」に詳しく記されている。説明を聞いて洞窟の背後にあるガンガラーの谷に出発する。一行はガイドが1名,ゲストが16名である。

この谷は原始の森ように見えるが,周辺はすべて農耕地となっており,幅200m,長さ1km弱の地域だけが開発を免れている。しかし,鍾乳洞の川の上流部は農耕や畜産業で汚染されており,ようやく改善されてきたところだ。

中国から持ち込まれた孟宗竹

モウソウチク(Phyllostachys heterocycla,孟宗竹,イネ科・マダケ属)はアジアの温暖湿潤地域に分布する大きな竹であり,高さ25mにも達する。原産は中国江南地方であり,非常に有用な植物であるため,日本や東南アジアの広い地域に移入されている。日本でも北海道函館以南に広く分布している。

タケノコは4月頃に地下茎から発芽する。このタケノコは大型で肉厚で柔らかく,えぐ味が少ないため食用に供される。日本では建材や生活用品,工芸品の材料として竹の利用が減るとともに,タケノコも安価な中国産のものに押されて竹林が放置され,その結果,竹の地下茎が周囲の森林や人の生活環境に侵入して猛威をふるっている。その大半は孟宗竹である。

竹林が過密になって暗くなると,竹は光を求め地下茎を伸ばして外に向かう性質がある。地下茎の伸長速度は1年に7-8mにもなる。新しい竹は地下茎に連なる他の成熟した竹の栄養で育ち,タケノコの状態から2ヶ月足らずの間に20mにも成長する。このような成長戦略をもっているため,一つの竹林の竹はすべて同じ遺伝子をもつことになる。

ここのものは日本種の真竹に比べると株が密集している感じを受ける。竹林という名前の通り,真竹は広い範囲に広がりをもつが,孟宗竹は密集した大きな株をもち,竹林の景観は真竹のものとかなり異なる。

母神の洞窟

父神の洞窟

ガンガラーの谷の中にも鍾乳洞は残されている。かっては,谷の全域がこのような鍾乳洞となっており,それが崩落して川は地下河川から地上河川となって現れた。父神の洞窟内は照明設備がないので入り口にランタンが用意されており,それに点火し各自が手に持って洞窟内に入る。父神のシンボルはナニであり,ランタンの光の中でフラッシュなしで撮影すると,手振れも重なってなんとなくそれと分かる写真となった。

内部を見るためにはランタンが必要だ

これが父神のシンボルかな

ジョロウグモはいたるところに網を張っている

オオジョロウグモ(Nephila pilipes,ジョロウグモ科)は日本で最大のクモであり,昆虫等には十分免疫のある僕でもちょっとたじろぐサイズのものもいる。足が長いこともあり最大のものは20cmにもなるという。

本来の食性はセミやチョウなどの昆虫であるが,ときには巣にかかった小鳥も食べてしまうという。もっとも,このように大きくなるのはメスだけであり,オスは格段に小さく,体色も真っ赤なので別種のように異なる。

このクモはけっこう大きい

岩の上から長〜い根を下ろす

写真の岩場の上部が鍾乳洞の天井であったところであり,下部が地下河川の底である。鍾乳洞の天井が崩落し,崩落した岩は水により浸食され谷構造となった。岩場の上部に根を下ろしたガジュマルはどんどん根を伸ばしていくものの,なかなか地面に到達できないためこのような姿になった。

大王ガジュマルがガンガラーのシンボル

ツアー最大の見どころは「大王ガジュマル」と呼ばれている巨大なガジュマルである。この木は崩落した鍾乳洞の天井が一部分残り,自然の橋のような構造になったところで芽吹いた。

ガジュマルは発芽すると上方に幹を,下方に気根を伸ばしていく。この木は橋構造の上で芽を出したため,地上に到達するためには長い気根を伸ばさなければならず,幹や枝葉と同じくらい長い根となった。

地上に到達した気根は養分と水分を吸い上げるとともに,幹のように太くなっていく。地上に到達するまでの時間がかかったため,ガジュマルは広げた枝から多数の気根を出し,それがすだれのようになっている。

大きすぎて1枚の写真には入りきらない

このガジュマルは大きすぎてとても見える距離からは一枚の写真には収まらない。ガンガラーの谷のパンフレットには地上から枝葉の大部分を収めた縦に長い写真が掲載してある。このような神秘的な姿をお伝えできないのはとても残念である。

種子が天然橋の上に落ち上下に根と幹を伸ばしたようだ

背後は天然橋になっている

自然の橋をくぐって裏側に出ると,「大王ガジュマル」に隠されていた橋の様子がよく分かる。二酸化炭素を溶かし込んで少し酸性になった雨は石灰岩でできた橋を少しずつ浸食し,いつかはこの橋も崩落することがろう。そのとき「大王ガジュマル」が残っていれば,橋という支えを失っても,幹のようになった気根が本体を支え,その姿を留めることができるかもしれない。

展望台からの眺望

展望台からは亜熱帯の森が眺望できるが,この森はそれほど広いものではなく,周囲は農耕地となっている。

なぜか古代人発掘の洞窟は武芸洞と呼ばれている

残された鍾乳洞は縄文時代あるいはそれ以前の旧石器時代の人々の住居として利用されていた。この鍾乳洞は二方向が開口しているため,通気性も良く,雨をしのぐには最適の場所であったことだろう。

石に覆われていた古代人の埋葬場所

ここでは古代人の埋葬場所が発掘された。遺体を縁取るように周囲に石が並べられ,その上にさらに石が置かれていたとのことである。遺体は腐敗するため,多くの場合,住居の外に埋葬されることが多いはずであるが,ここでは一体だけ特別な扱いを受けたようだ。

前後に洞窟が開けているので住環境は良かった

骨から復元された湊川人

「港川人」として有名な頭骨を含む人骨は志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で発見されたもので,旧跡時代にあたる約1万7000年から8000年頃ものだと推定されている。

復元された頭骨から写真のような「港川人」の顔立ちが復元された。この顔立ちから縄文人の祖先ではないかと考えられてきたが,国立科学博物館の最新の研究では頭骨が再復元され,縄文人の祖先ではなく,オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いと考えられるようになっている。研究の結果を繁栄して現在の顔立ちはオーストラリア先住民に近いものとなっている。

おきなわワールドに戻りエイサーを見学

エイサーは沖縄県で旧盆の時期に踊られる伝統芸能である。この時期に現世に戻ってくる祖先の霊を送迎するため,若者たちが歌と囃子に合わせ,踊りながら地区の道を練り歩く。近年では太鼓を持つスタイルが多くなり,踊り自体を鑑賞するために各地域のエイサーを集めたイベント等も開催されるようになり,重要な観光資源となっている。

おきなわワールドでも定時になるとエイサーを見ることができる。ここは壁の無いテントのような屋根が付いており,舞台と同じ床面に半円状にイスが並べられている。近くで見るエイサーは迫力があり,なかなか楽しむことができた。ただし,踊りの間は写真撮影は禁止である。エイサーが終了すると観客と一緒になり盆踊りのような踊りが始まる。

エイサーが終了する・・・

観客参加の踊りの後には希望者はスタッフと一緒に写真撮影をしてもらえる。

琉球王府時代の中国への進貢船であろう

今日の最後は玉泉洞見学

玉泉洞の形成時間は約30万年とされている。琉球石灰岩の地中を流れる地下河川は石灰岩を溶かし,物理的に削って鍾乳洞を形成した。

地下空間ができると地上から浸み込んだ雨水は石灰岩を溶かし,そのしずく中の石灰分は再結晶して鍾乳石が形成される。鍾乳石とは鍾乳洞で二次生成された石灰華生成物の総称であり,その中で天井からつららのように伸びたものを鍾乳石(つらら石),地面から上方に伸びるものを石筍(せきじゅん)という。

米国統治下の1967年に愛媛大学学術探検部の調査により,本洞と支洞を合わせた鍾乳洞の全長は5000mと国内最大級であることが確認された。現在はこのうちの890mが整備され観光洞となっている。

沖縄の石灰岩(主成分は炭酸カルシウム)は比較的新しいサンゴ礁起源であり,本土の石灰岩と比較すると弱酸性の水に溶けやすい性質をもっている。地上に降り注ぐ雨は大気中の二酸化炭素を溶かし込み弱酸性となる。沖縄は気温が高く生物活動も活発なので相対的に二酸化炭素濃度が高いこともあり,玉泉洞の鍾乳石は30年に1cmという速度で成長する。これは本土のものに比べて2倍以上の成長速度である。

一般的に鍾乳石の成長速度は1cm成長するのに約70年,石筍は約130年とされているが,洞窟内の環境や場所,地域の環境条件により大きく異なる。北米の石筍のデータでは1cm当たり240年から2400年となっている。いずれにても鍾乳石は長い時間をかけて洞窟内の環境が育てたものであり,貴重な自然生成物である。

入り口から石段を降りていくとほどなくして本洞窟に到達する。内部は完全に整備されており,見学時の危険性はない。部分的にライトアップされており鍾乳洞の雰囲気がよく味わえるようになっている。

天井から槍のように下がる鍾乳石

初恋広場の意味は?

地煙の滝

水中に素焼きの壺を置くと…

途中で修学旅行生が大挙してやってきた


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