亜細亜の街角
戦争の惨禍を現在に伝える平和祈念公園
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10月25日のフライトは正常に戻ったようだ

大型で強い勢力を保って沖縄本島の東海上で停滞していた台風27号は10月24日になって進路を北東に変え,勢力を落としながら日本の南海上を進んで行った。沖縄はようやく台風の影響から解放され,少なくとも石垣島→那覇のフライトは正常に戻った。

沖縄でもっともお世話になった飲み物

石垣空港の待合室にある自動販売機ではシークヮーサー飲料が売られていた。沖縄本島にもあるとは思うが,見納めになるかもしれないので1本いただく。この飲み物は沖縄旅行の間にもっともお世話になった飲み物である。シークヮーサー飲料は何種類かあるようだが,このブランドがもっとも僕の味覚に適合していた。

石垣→那覇間はスカイマークを利用した

沖縄本島までは完全に雲に覆われていた

台風は進路を変えたといってもその影響が完全になくなったわけではなく,石垣島から那覇まではずっと雲の上を飛んでいた。

10月下旬は修学旅行のシーズンである

10月下旬の沖縄は修学旅行シーズンのようだ。那覇空港に到着したときは2組の団体を見かけた。写真の団体はこれから沖縄を離れるようである。台風のために行動がずいぶん制約されことであろう。

空港の2階はゆいレール駅につながっている

空港の2階から渡り廊下でゆいレール駅につながっている。下を見ると到着した修学旅行生がこれからバスに乗り込むところであった。こちらは1日違いで台風を避けることができたラッキーな団体である。

ゆいレールは沖縄県唯一の電車

沖縄県には鉄道がない。ゆいレールと呼ばれるモノレールが唯一の電車ということになる。自動車社会となっている沖縄では公共交通をバスに頼っているが,那覇市内ならモノレールや軽便鉄道が一つの選択肢となりそうだ。

なぜか糸満公設市場に立ち寄る

那覇空港から糸満方面に移動するのはけっこう大変であり,那覇空港(モノレール)→赤嶺駅前(バス)→糸満漁港入り口(バス)→晴明病院前と移動するはずであった。ところが,赤嶺駅前から乗車したバスには目的地の手前に「糸満入り口」というバス停があり,そこで下車してしまった。地図で確認して間違いに気づき,糸満漁港入り口まで歩くことにした。

その途中に糸満公設市場があり,立ち寄ることにした。ここは昔の駅前商店街のようなところで,残念ながら魚市場は台風の影響なのか休業状態である

公設市場には猫が多い

糸満漁港の漁船は台風に備えて厳重に舫ってある

糸満漁港にはたくさんの漁船が数本のロープを使用して厳重に舫ってある。飛行機は飛んでも海は時化が続くため簡単には出漁できないので,糸満公設市場の魚市場が休業しているのは当然のことであった。ここに来るまでの道沿いの商店や会社の多くはシャッターを下ろしていた。

釣竿

漁港の近くにたくさんの釣竿が立てかけてあった。漁港関係者に使用目的を聞いておいたが,さっぱり記憶に残っていない。そろそろ記憶力が減退してきたように感じる。

みん宿ヤポネシアに到着

糸満漁港入り口(バス)→晴明病院と移動し,バス停から海に向かう道を歩いて行くとちょっと変わった建物と「みん宿ヤポネシア」の看板が見つかった。台風の影響で宿泊日程が変わりそうであったが,なんとか計画日程を守ることができた。

ここは(おそらく)3室の小さな宿で,一泊二食 6,000円である。入り口から入ると黒板に僕の名前が書かれており,ご主人が家族の紹介をしてくれた。2006年に本土から沖縄へ移住した御夫婦が経営する宿であり,みんながゆったりとくつろげ,地球にも人にも優しい宿づくりを進めているとのことである。御主人の話の通り,とても家族的な雰囲気で居心地がよい。

ヤポネシアの夕食

この日の夕食はチャンプルー,もずく汁,ツルムラサキおひたし,豆腐とベジタリアンとなっている。僕はそれほど肉にこだわらずに何でも食べることができるので,この地元の食材を使った自然食にまったく不満は無い。

ショウジョウソウ

翌日は朝食前に海岸を散歩してみた。道路わきの庭にポインセチア似の花を見つけた。ショウジョウソウ(Euphorbia heterophylla ,トウダイグサ科・ユーフォルビア属)の一年草であり,原産地は北米南部から南米にかけての地域である。

同属のポインセチア(Euphorbia poinsettia)は木本植物であり,ショウジョウボクとも呼ばれている。花弁のように赤く見えているのは苞葉(つぼみを包んでいた葉)であり,緑色から赤く変化する。花は苞葉の中心部に小さなものがかたまって咲くが,まったく目立たない。

早朝の糸満海岸

半分は岩礁地帯となっている

貝の群落|これは巻貝

ほとんど生物などは見られないと思っていたら潮間帯には巻貝と二枚貝の群落があった。どちらも岩が見えないくらいに密集しており,異様な光景に驚いた。

巻貝の方はイシダタミ(Monodonta confusa )もしくはオキナワイシダタミ(Monodonta labio)であろう。分布範囲を考えるとオキナワイシダタミの可能性が高い。岩の窪みを埋め尽くすように密集しているのでこのような名前が付いたと思われる。茹でたり味噌汁の具として食べることはできるが,市場に流通することはない。磯遊びの子どもたち以外は見向きもされない地味な生物である。

貝の群落|これは二枚貝

二枚貝の密集度もすごい。こちらも岩がまったく見えないほどに密集している。「磯,二枚貝,密集」で検索すると「ムラサキイガイ」あるいは「ヘリトリアオリガイ」が出てくる。僕にはどちらかは判断がつかないが,ヘリトリアオリガイの可能性が高い。

ヘリトリアオリガイ(Isognomon acutirostris,マクガイ科)は潮間帯の岩場に密集して付着する。足糸孔から丈夫な足糸を何本も出して体を岩に固着させ,人間がつまんで引きはがそうとしてもびくともしない付着力をもっている。他の多くの二枚貝類と同様に濾過摂食であり,潮の流れにより運ばれてくるプランクトンを水ごと吸い込み,濾し取って摂食する。

枝サンゴのかけらが集まる場所もある

晴明病院のバス停

宿で朝食をいただき,バス通りとなっている国道331号線に出る。そこに晴明病院前のバス停がある。ここから平和祈念公園までは東に約1.5km,ひめゆりの塔は西に約2kmのところにある。

今日の移動計画は晴明病院前(徒歩)→平和祈念公園(バス)→ひめゆりの塔(徒歩)→平和創造公園(徒歩)→晴明病院前(徒歩)→宿である。まず晴明病院前のバス停の写真を撮って331号線を東に歩き出す。

宿に向かう道の両側にはシーサーが置かれている

このシーサーは宿の前の道と国道331号線が交差する手前にある。台座には「さつきの城」と記載されており,地域の自治会が建てたようだ。

ハイビスカスはもう何枚撮ったことだろう

糸満市は沖縄本島の最南端に位置する

糸満市の中心部は沖縄本島の西海岸にある糸満漁港周辺であるが,町村の合併により平和祈念公園までの南海岸一帯が市域となっている。糸満BTと玉泉洞を結ぶ82系統のバス停には伊原,米須,大渡,摩文仁など合併前の地名がいくつか見られる。写真の地域は米須のあたりである。

沖縄本島にもアダンはある

サトウキビ畑は広い面積を占めている

おきなわ平和ひめゆり観音像

ネット上には建立の云われなどが記載されているかと検索してみたがまったく見つからなかった。観音像の設置場所は国道331号線沿いにあるが,平和祈念公園に向かう車が停車して訪れるようなところではないようだ。

3基の風車のうち2基が回っていた

331号線を挟んで平和祈念公園の北側にある糸満市観光農園には風力発電用の風車が3基並んでいる。今日はそのうち2基の羽がゆっくりと回転していた。

この施設では年間86万kWh(平成20年度実績)を発電し,園内の照明などの電力として利用されている。一般家庭の年間消費電力は約2400kmhなので,86万kwhは360世帯分に相当する。

平和祈念公園

一般的には「平和祈念公園」とされているが正式には「沖縄戦跡国定公園」の一部である。僕もこの旅行記を書いているときにwikipedia を読み,初めてこのことを知った。国定公園の広さは81.3km2 (陸域31.27km2,海域50.03km2)であり,戦跡としては唯一の国定公園である。1965年(昭和40年)に琉球政府立公園に指定され,1972年(昭和47年)の本土復帰に伴い,国定公園に指定された。

沖縄では第二次世界大戦における太平洋地域での最大規模の陸上戦闘が行われ,「沖縄戦」あるいは「沖縄の戦い」と呼ばれている。沖縄戦は1945年3月26日から始まり,主要な戦闘は沖縄本島で行われ,組織的な戦闘は6月20日ないし6月23日に終了した。

沖縄戦における日本側の戦死者は軍属が9.4万人(総戦力11.6万人),民間人死亡者が9.4万人とされ,米軍の戦死者は1.2万人,戦傷者7.2万人(陸上戦力約10万人)であった。沖縄戦に参戦した日本軍は11.6万人なので戦死率は80%を越えている。

米軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。これに対して大本営の方針は米軍に大打撃を与えて有利な終戦に持ち込もうとするものであったが,現地第32軍司令部は戦力の1/3に相当する精鋭旅団を台湾に移動させられたことから,米軍上陸時の決戦から本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦(持久戦)」に変更した。

4月1日,米軍は本島中西部で上陸を開始した。第32軍は水際作戦を放棄し宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったため,米軍はほとんど反撃を受けることなく上陸に成功し,その日のうちに北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)を確保した。4月3日には米軍は東岸の中城湾に到達し,本島は南北に分断された。米軍は飛行場の修復を進め,4月8日には北飛行場に戦闘機89機が配備され,上陸船団の防空任務を開始した。

日本軍第32軍の作戦計画は本島南部を主戦場とすることになっていたため,北部には少数の戦力しか配備されておらず,米軍は4月22日まで本島北部を制圧した。しかし,南部は首里の日本軍司令部の手前に丘陵地形と地下壕を利用した何重もの陣地により,進軍してくる米軍と一進一退の攻防が繰り広げられた。米軍戦死者の多くはこの時期のものである。

5月4日・5日に日本軍は総反撃に転じたが,大打撃を受け継戦能力を一気に喪失した。5月12日から米軍は首里に向けて総攻撃を開始し,激しい抵抗と雨に悩まされながらも戦略拠点を制圧し,日本側は首里の防衛も困難な状態となった。

5月24日,第32軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定し,本島南端の摩文仁に撤退して新たな防御線を構築した。この時点で第32軍は戦力の80%を消耗していた。6月中旬までに多くの防衛線が崩壊し,日本軍の組織的戦闘能力は壊滅した。6月23日第32軍司令官・牛島中将と参謀長・長勇中将が摩文仁の軍司令部で自決し,沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。大本営も6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。

終戦後,沖縄県は米軍の占領下に入り,1950年12月まで軍政が続いた。その後も米国の琉球列島米国民政府と下部機関である琉球政府による統治が行われ,日本に返還されるたのは1972年5月15日のことであった。

最後の激戦地となった南部地域ではいくつもの集落で住民が全滅したり,国外移住により人口が減少し,自治体としての規模維持のため合併を余儀なくされた。沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」としており,例年この日には摩文仁の平和祈念公園で県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。

平和祈念公園は沖縄県が設置し,沖縄県平和祈念財団が公式管理者に指定されている。「平和祈念公園」の公式ウェブサイトには次のような説明文が記載されている。

平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」,糸満市摩文仁の丘陵を南に望み,南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。公園整備は琉球政府時代に着手,復帰後昭和47年から都市公園として本格的な整備を進めています。

公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館,沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」,戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」,そして摩文仁の丘の上には「国立沖縄戦没者墓苑」や府県,団体の慰霊塔が50基建立されています。国内外の観光客をはじめ,慰霊団,修学旅行生等が多く訪れる聖地であり,観光の要所ともなっております。


331号線から中央園路を進んでいくと案内所があり,ここで資料などが入手できる。案内所の前からちょうど園内循環電気自動車が出発するところだったので乗り込む。車は案内所→多目的広場→平和の丘→各県慰霊碑→展望台と進んで行った。展望台のところで停車したので,僕はここで下車して,その後は各県慰霊塔→第二展望台→黎明の塔→健児の塔→わんぱく広場を経由して平和の丘に戻った。

各県の慰霊塔は道の両側に位置しており,このあたりが摩文仁の丘である。坂道を上りつめたところに展望台がある。そこから石段を上ったところに第二展望台があり,そのあたりが摩文仁の丘でもっとも高いところである。

第二展望台のところには「勇魂の塔」と「黎明之塔」が建てられている。ここから石段を降りて行ったところに第32軍の司令部壕があり,そこで6月23日第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が自決している。

勇魂の碑

石段を下ると大きなガジュマルが枝を広げている

黎明の塔から石段を下ると第32軍司令部のあった壕があり,そこは閉鎖されている。周辺は深い森となっており,特に石灰岩の岩を抱えるように繁茂しているガジュマルが目につく。

軍によ使用された洞窟であろう

斜面の下には自然の洞窟が口を開けており,米軍の砲撃から逃れるため,このような場所も利用されたのであろう。

周辺にはたくさんの洞窟が口を開けている

沖縄師範健児の塔

沖縄師範学校男子部の生徒たちは第32軍配下の各部隊に配属され,住民に対する情報工作などの後方任務についていた。戦局の悪化により摩文仁一帯へ移動し,多くの犠牲者を出した。

独立臼砲第一連隊戦没英霊之碑

風部隊之碑

民家のシーサーにより公園の外に出たことを知る

南園路

平和記念公園の境界道路となっており,右側はわんぱく広場となっている。

亀甲墓(きっこうばか)

沖縄の方言ではカーミナクーバカと呼ばれる。名前の由来は墓室の屋根が亀甲形をしていることによる。琉球王朝時代の破風墓が原型であり,士族にのみ許された形式であった。明治維新後は庶民の間でも急速に普及した。

昔の沖縄では天然の洞窟や岩陰に遺体を運んで風葬にする習慣があった。時代が進むと岩盤に横穴を掘り,その入り口を石垣で塞ぐ掘込墓と呼ばれる形式の墓が登場する。

16世紀になると掘込墓の前面を切り石で装飾する破風墓と呼ばれる家型の墓が登場する。破風墓の正面屋根を亀甲型に装飾した墓が亀甲墓である。当時の沖縄では火葬は一般的ではなく,風化した骨を洗って蔵骨器(厨子甕)に入れており,亀甲墓の墓室は家族あるいは一門の大きな蔵骨器を複数収めるだけの空間となっている。

島守の塔

沖縄県知事島田叡および沖縄県職員の慰霊塔である。島田叡は神戸市出身であるが,沖縄に空襲が激しくなった頃,前任知事が本土に逃げ帰ったため内務省から内示を受けた。

赴任すれば死が待っている情勢に周囲の人々は辞退を勧めるものの,島田は「私が行かないと断ると,誰かが行かなければならない。私は死にたくないので,代わりに君行って死んでくれなんて云えないじゃないか」と沖縄へ赴いた。

島田は県民生活の安全や食糧確保,また県民の本土疎開・避難などに尽力した。沖縄戦が始まると県庁等の役所も島民と同様に洞窟に避難して執務を続けたが,6月には摩文仁の丘に追い詰められた。島田は県庁組織の解散を宣言し,「生きのびて沖縄のために尽くしなさい」と退去を拒む県職員,警察官たちを避難させた。自身は荒井退造警察部長とともに壕に留まり最後を遂げた。

1945年7月9日,島田知事の殉職の報により,内務大臣は行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈り,「其ノ志,其ノ行動,真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。

終戦後,間もなく沖縄県民の間から島田知事の遺徳を讃える声が広がり,昭和26年に県民の浄財により島田知事をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑として「島守の塔」および殉職した島田知事と荒井部長の「終焉之地」碑が建立された。

平和の丘

「平和の丘」とその北側の「式典広場」は沖縄全戦没者追悼式が行われる場所である。正面が「平和の丘」であり,その前に式典における献花台や焼香台が置かれる。

「平和の丘」に設置されている彫像は2001年6月15日に完成しており,アーチとその背後のフォルムから構成されている。安定感のあるフォルムは「揺るぎない誓いの精神」を表現しており,黒御影石製のアーチは「平和のくさび」,彫像の中心には琉球石灰岩の要石は沖縄を表している。

沖縄平和祈念堂

沖縄平和祈念堂は沖縄県民をはじめ全国民の平和願望,戦没者追悼の象徴として昭和53年(1978年)に建設された。堂内には沖縄県の各市町村および学童による募金活動の支援を受けて沖縄出身の芸術家山田真山が18年余の歳月をかけて原型を制作した沖縄平和祈念像が安置されており,その胎内には「平和の礎刻銘者名簿」が納められている。

平和の礎は半円形に広がっている

「平和の礎」は太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として平成7年(1995年)6月に建設された。屏風状に並んだ刻銘碑には国籍を問わず,軍人・民間人の区別なく,全ての戦没者の氏名が刻まれている。

この施設は沖縄戦などで亡くなった全ての戦没者を追悼し,恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに,平和学習の拠点とするためとされている。「礎(いしじ)」とは建物などの基礎の「いしずえ」を沖縄の方言で「いしじ」と発音することに由来するものであり,平和創造の「いしずえ」となることを期待して名付けられた。

  「平和の礎」のデザインコンセプトは「平和の波永遠なれ(Everlasting waves of peace)」となっており,屏風状に並んだ刻銘碑は世界に向けて平和の波が広がるようにとの願いをデザイン化したものである。(沖縄県平和記念財団サイトより引用)

平和の礎は半円形に広がっており,その扇の要の位置には円形の「平和の広場」があり,その中心には「平和の火」が設置されている。「平和の火」から「平和の丘」に向かうメイン通路は6月23日の日の出の方位に合わせてある。

6月23日は沖縄での組織的戦闘の終結した日であり,沖縄県では「慰霊の日」として県民の休日となっている。「慰霊の日」には平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が開催され,沖縄県知事はもちろん 総理大臣や衆議院議長,参議院議長などが参列し,戦没者の冥福と世界の恒久平和を願う式典が執り行われる。

平和の礎の前で修学旅行生が平和を祈っていた

戦争の惨禍を子どもたちに伝え,戦争放棄と平和の大切さを学習する場として「平和の礎」は広島平和記念公園,長崎平和記念公園とともにもっともふさわしいところであろう。

「平和の礎」には24万人余の氏名が刻まれている。数字にしてしまうと24万人であるが,一人一人の名前が記されることのより,圧倒的な量感で戦争の悲惨さを伝えてくれる。

太平洋戦争が終わってから70年近くの歳月が経過しており,子どもたちの中には日本と米国が戦争をしたことすら知らない人もいるという。戦争の悲惨さや残虐さなどは別の世界の出来ごとと考えている子どもたちには,実際の戦争はアニメやゲームの世界の中の戦いではなく,生身の人間同士の殺し合いであることをこころに刻んでもらいたい。

平和の礎から慶座断崖(ギーザバンタ)を望む

平和の礎から北東に1kmほどのところにある具志頭村の南海岸は高さ50mほどの断崖が続いており,ギーザバンタ(慶座断崖)と呼ばれている。沖縄戦の末期,米軍に追い詰められたたくさんの住民はここから身を投げて命を失った。米軍はここを「スイサイド・クリフ(自殺断崖)」と呼んだ。

太平洋戦争においては同じように民間人や日本兵がが米軍に追い詰められて断崖から身を投げたところがある。北マリアナ諸島サイパン島最北端の岬では米軍の投降勧告に応じず,1万人ともいわれる人々が80m下の海に身を投じて自決した。多くの人が「天皇陛下,万歳」と叫び両腕を上げながら身を投じたことから,戦後に「バンザイクリフ」と呼ばれるようになった。

平和祈念資料館|沖縄戦時の写真が展示されている

平和祈念資料館|洞窟内での様子を表すジオラマ

平和祈念資料館|本土復帰前後の新聞記事

戦争とは残酷で汚辱にまみれている

平成24年度児童・生徒の平和メッセージ展作品

平和祈念資料館展望室からの眺望

平和祈念資料館展望室からの眺望

平和祈念資料館展望室からの眺望

千羽鶴飛翔壁面組絵皿(101枚組)

平和祈念資料館の1階エントランスは徳島県在住の梅田純一が制作した100枚の組絵皿で構成された「千羽鶴飛翔壁面組絵皿」と「夜桜壁面組絵皿」が展示されていた。この作品の展示期間は6月23日〜11月20日までであった。絵皿の1枚ごとに鶴の飛翔や夜桜が描かれ,それらが100枚組み合わされることにより大きな構図が描き出されるようになっている。

夜桜壁面組絵皿(100枚組)

子ども・プロセス展示室の入り口に展示されている千羽鶴

平和資料館の子ども・プロセス展示室の入り口には子どもたちから寄せられた千羽鶴が飾ってある。これは戦争の犠牲になった多くの霊を弔い,沖縄戦の歴史的教訓を次代伝え,世界に平和を発信する機関としての平和資料館の設立理念に合致することから,いくつかの要件を満たすものを受理している。

平和祈念資料館|1階の子ども・プロセス展示室

子どもの顔写真で作った地球儀は面白い発想である。

第一駐車場にはガジュマルが木陰を作っている

国道331号線に面した第一駐車場には多くのガジュマルがあり,枝を大きく広げている。

ガジュマルの下からは空が見えない

バスに乗って平和祈念公園からひめゆりの塔に移動する

平和祈念公園を出て路線バスで「ひめゆりの塔」まで移動する。バス停で下車して驚いた。周辺は土産物屋だらけである。ここは修学旅行生が必ず立ち寄る「名所」となっているため,土産物屋によっては一等地の商売となる。しかし,「ひめゆりの塔」の謂れを考えるとこの光景はちょっと悲しい。

ひめゆりの塔の紀

バス停から「ひめゆりの塔」に向かう途中に石碑があり,「ひめゆりの塔の紀」として次のように記されてる。

昭和二十年 三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は,軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。

  戦闘がはげしくなるにつれて,前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり,南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。

日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて,手を引き肩をかし砲弾をくぐり,包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。

南にくだった後は病院は本部,第一外科,糸数分室,第二外科,第三外科に分かれて業務を続けた。 第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり,看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。

翌十九日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し,奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等二十九名,民間人六名も運命をともにした。

その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。

戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち,次第に整備された。

ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員十六名,生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ,平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。


ひめゆりの塔は沖縄戦で亡くなった沖縄県立第一高等女学校および沖縄師範学校女子部の生徒・教職員の鎮魂のための慰霊碑である。教職員を含むひめゆり学徒隊240名のうち死亡者は生徒123名,職員13名,合計136名であるが,このうち解散命令以降に117名が亡くなっている。

「ひめゆりの塔の紀」に記されている第三外科壕に攻撃があった6月19日には47名が死亡している。また,「ガス弾を投げ込まれ・・・」との記述もあるが,これは化学兵器の毒ガス弾ではなく発煙弾の黄燐手榴弾によるものである。

黄燐弾は煙幕を張るための発煙弾として世界各国の軍隊において広く使用されているが,黄燐の燃焼ガスは有毒であり,狭い壕内に投げ込まれた場合は程度の差はあれ毒ガス弾に近い効果をもつことになる。

戦後,沖縄戦で死亡した生徒の親である金城夫妻らによって第三外科壕が発見された。その後,真和志村の人らによって遺骨が集められ,1946年4月に慰霊碑が建てられた。塔の手前には入り口が半分埋まった状態の第三外科壕がある。

「ひめゆりの塔」から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており,さらに,その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。また,敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。

「ひめゆり平和祈念資料館」太平洋戦争で住民を巻き込んだ最大の地上戦となった沖縄戦がどんなものであったのか,元ひめゆり学徒生たちの体験を通して,若い世代に伝えているという。

年間約60万人余りが平和学習や慰霊のためこの地を訪れ,塔の近くには寄贈された千羽鶴が絶えることはない。僕は時間がなかったので資料館は訪問できなかったが,第三外科壕の入り口を見ているだけで「戦争の悲惨さ,愚かさ,そして命の大切さを後世に伝え残したい」という両校の同窓生たちの思いが伝わってくる。

沖縄で看護要員として野戦病院などに配属された女子学徒隊は「ひめゆりの塔」の方々だけではない。下表の学校の方々も同じように戦火の中で若い命を散らしている。

学校名 動員数 学徒名
沖縄師範学校女子部157名ひめゆり学徒
県立第一高等女学校65名ひめゆり学徒
県立第ニ高等女学校55名しらうめ学徒
県立第三高等女学校10名なごらん学徒
県立首里高等学校61名ずいせん学徒
私立積徳高等女学校65名せきとく学徒
私立昭和高等女学校17名でいご学徒


国道を東に少し歩くと宮崎県のひむかい塔がある。ここは宮崎県出身の将兵が最も多く戦死したところであり,この地に慰霊塔が建立された。

ずいせんの塔

ひむかいの塔のとなりには「ずいせんの塔」がある。ここは看護要員として野戦病院に配属された首里高等学校の教職員15名,生徒33人,同窓生50人,合わせて98人が合祀されている。

1945年1月に首里高等女学校の4年生61名が3日間の看護教育を受け,実地訓練のため首里赤田の山城病院で合宿している。3月27日に62師団野戦病院ナゲーラ壕の前の広場でローソクの灯りの中で卒業式が行われた。

彼女たちは「瑞泉学徒」と呼ばれ,ナゲーラ壕に配属された。5月下旬になると識名壕,武富,米須,伊原と移動して傷病兵の看護を続けていくが,6月19日に解散命令が下される。その後の運命はひめゆり学徒と同じことになったのであろう。

サトウキビ畑

国道331号線から平和創造公園に向かう道の両側にはさとうきび畑が広がっている。さとうきびは成長すると2mを越えるのでなかなか上から見ることはできない。幸いにも丘陵の段差のあるところで上から見ることができた。

僕の中ではそのイメージは沖縄戦で父を喪った女性の心情を美しい詩に託した名歌「さとうきび畑」のそれと重なっている。森山良子さんの澄んだ歌声が悲惨な戦争と父を喪った少女の悲しみを切々と歌い上げている。

僕にとっては忘れられない歌の一つだ。この歌には反戦を示唆する直接的な言葉はないが,現実の戦争の悲惨さを通して二度と戦争を起こしてはならないと強く訴える力をもっている。

※ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ※
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
むかし海の向こうから
いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
風の音にとぎれて消える
母の子守の歌 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
知らないはずの父の手に
だかれた夢を見た 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
父の声をさがしながら
たどる畑の道 夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
お父さんと呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このまま緑の波に
おぼれてしまいそう 夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ けれどさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
今日もみわたすすかぎりに
緑の波がうねる 夏の陽ざしの中で(後略)

成長したサトウキビは2m-3mにも達し,十分人が隠れることができる。沖縄戦に巻き込まれた人々はサトウキビ畑に逃げ込み,サトウキビをしゃぶって飢えをしのいだという。現在でも沖縄のサトウキビ畑には収集されていない人骨が埋まっているという。

段差の上から見るサトウキビ畑は風が吹くたびに緑の波がうねっていく。この静かな風景を悲しみとともに見なければならなら人たちがいることを忘れてはならない。

道を南に下ると海岸の近くに「沖縄県平和創造の森公園」がある。この森林公園は第44回全国植樹祭の開催意義である「平和で緑豊かな環境を創り,次の世代へ引き継ぐこと」を目的に平成10年に開園した。公園の一部かどうかは分からないが,手前にはいくつかの各県慰霊塔が並んでいる。

平和創造の森公園近くの海岸風景

公園の南側は海岸となっており,ここは沖縄本島の最南端近くにあたり,正面には太平洋,左には半島状に突き出た慶座断崖(ギーザバンタ),右には東シナ海を望むことができる。

国道沿いにドラゴンフルーツ園を発見

国道331号線に戻り宿まで歩いて帰る。途中でドラゴンフルーツ園を発見した。ここは大渡のバス停の近くなので宿から歩いて20分くらいのところである。沖縄ではぜひドラゴンフルーツの花を見たいと思っていた。

ドラゴンフルーツ(dragon fruit) あるいはピタヤ(pitaya)と呼ばれる果物はサンカクサボテン(サボテン科・ヒモサボテン属)の果実である。原産地は中米の亜熱帯地域とされており,現在では東南アジアや台湾,中国南部,沖縄で栽培されている。

僕は東南アジアでドラゴンフルーツを一度だけ食べてみて,野菜のような味のため再びトライすることはなかった。しかし,それは品種改良の進んでいないものであり,沖縄でいただいたものは十分,果物の名に値するものであった。

サンカクサボテンは花が美しく一夜限りでしぼんでしまうためしばしばニュースにもなるゲッカビジン(月下美人,Epiphyllum oxypetalum,サボテン科・クジャクサボテン属)の近縁種であり,同じように夜間に白の大輪の花を咲かせ,翌日にはしぼんでしまう。余談であるが月下美人も適切に受粉させると(自然環境ではコウモリが受粉を媒介する)ドラゴンフルーツのような果実ができる。

僕は月下美人の花の実物は見たことがないので,近縁種のサンカクサボテンの花を見たいと思っていた。ヒモサボテン属の名前のように30-50cmほどのブロック状になった茎をひたすらつなぎ合わせるようにして伸びていく。もちろんブロックの端のところで分岐することもある。おそらく先端部は剪定が必要である。

自然環境ではどのような生活形態をとるか分からないが,茎は自立性がない。そのため農園では支柱に幹となる部分をしばって直立させ,上部から支えに沿って垂れ下がるようにしている。

一つの幹からは複数個の花芽がつくが,適当に間引くことにより,果実の大きさを調整することができる。この農園には今晩にでも咲きそうなつぼみがたくさん付いていた。また,赤く色づいた果実もたくさんある。これを見逃す手はない。明日は早起きしてここに観察に来ることにしよう。

宿で沖縄素材の夕食をいただき,食後の時間は読書と日記作業に当て。僕の部屋には小さな机があり,パソコン作業にはとても都合が良い。明日の早朝にドラゴンフルーツの花が見られる期待にちょっと興奮しながら,10時過ぎにはベッドに入った。


竹富島   亜細亜の街角   沖縄本島・糸満2