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2008/03/15

人類の進化と拡散


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■ヒトと猿が分かれる

地球上の生命体は共通の形式をもつ遺伝子(DNA/RNA)をもっています。遺伝子は不変のものではなくある確率で変化(突然変異)し,それが生物の進化を引き起こしています。2つの種を比較したとき,遺伝子の共通部が多いほど2つの種は近縁であり,相違点が多くなるほど遠縁の種であることが分かります。そして遺伝子が突然変異を起こす単位時間当たりの確率が明らかになると,遺伝子の相違の大きさから2つの種がどのくらい前に共通の祖先から分かれたかが算定できるようになりました。

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ミトコンドリアDNAをもちいた算定では,およそ500-600万年前にヒトとヒトに最も近縁な類人猿であるチンパンジーの仲間が分かれたと推定されています。現在のところ人類の特徴を持つ最古の化石はおよそ500万年前のものであり,サルとヒトの共通 の祖先に当たる化石はまだ見つかっていません。 また,東アフリカを中心に多くのヒトの化石が発見されていますが,そのほとんどの種は絶滅しており現代人にはつながっていません。発見されたヒトの化石はまさしく点であり,時代は分かってもそれが旧い種が進化したものなのか,あるいは新しい種に進化したものなのかも簡単には分かりません。そのため,ヒトが猿人から進化して現代人(ホモ・サピエンス)に至る道のりも完全な線でつながれたわけではありません。

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■初めに二足歩行ありき

ヒトとは何かと問われると,脳が発達しており火や道具を使うことができる(チンパンジーやオランウータンも簡単な道具を使います),複雑な言語を使用することなどがあげられます。しかし,他の類人猿にはみられない大きな特徴は直立二本足歩行をすることです。直立二足歩行はヒトの体型を猿人やサルと大きく変えるとともに,手の発達,脳の発達を促しました。

チンパンジーやその近縁種は現在でも森で樹上生活をしているので,ヒトとサルの共通の祖先も樹上生活をしていたと推定されます。どうしてヒトが二足歩行を始めたかははっきりとは分かっていませんが,アフリカ大地溝帯の活動が活発になり,その西側に高地が形成されたため,東側の森林地帯は乾燥化しサバンナになったことが影響していると考えられています。この乾燥化のため大陸の東側では森林生活からサバンナでの生活へと生活環境を変えざるを得なかったのかもしれません。

しかし,最新の報告では2001年にチャドの沙漠で発見された「トゥーマイ」は700万年前のものとされ,二足歩行というヒトの特徴を有する最古の化石とされています。大地溝帯の西側で最古のヒトの化石が見つかったことから,大地溝帯による乾燥化が二足歩行を促したという仮説は見直しを迫られています。「トゥーマイ」の暮らしていた環境は森林と水系を有する草原の境界であり,水系の食べ物を求めて二足歩行を始めたという考え方が自然のようです。もっとも,肉食動物から身を守るためチンパンジーのように,樹上に寝床を作っていたと考えられています。

ともあれ,二足歩行はヒトとサルを分けた決定的な要因として考えられています。二足歩行の結果,手を自由に使用することができるようになり,複雑な作業もこなすことができるようになりました。それは,脳の発達にもつながったことでしょう。

最近のNHKスペシャル「病気の起源」ではどうしてサルから進化した人類が体毛を失ったかについて新しい学説を紹介していました。人類の祖先はチンパンジーのように樹上生活をしていたため,直射日光にさらされることはあまりありませんでした。

ところが森林生活からサバンナ生活に生活環境を変えるとき汗腺による体温の調整機能が不十分であったため簡単には適用できなかったとされています。人類は体毛を減らし,汗腺を発達させることにより,直射日光下でも歩き回れるようになったそうです。しかし,体毛を失った結果,皮膚が紫外線に直接さらされるようになり,その防御手段としてメラニンをもつようになりました。メラニンは皮膚の色を決めるもので,メラニンが多いと褐色の肌になります。

■ホモ・エレクトスの拡散

不思議なことにヒトの進化の舞台はほとんど東アフリカとなっています。なぜアフリカだけが新しい人類発祥の地になるのかは分かっていません。猿人(アウストラ・ピテクス)はアフリカを出ることはなかったと考えられています。しかし,約250万年前に出現したホモ属は石器を作り,肉食を始め,異なる環境へ適応できるようになりました。

肉食による栄養状態の改善は脳の巨大化,複雑化に大きく寄与したであろうと考えられています。また,植物だけを食料としていた頃に対して,その分布範囲を大きく広げることが可能となりました。彼らはホモ・エレクトスに進化し,アフリカを出てヨーロッパやアジアに拡散しました。インドネシアのジャワ原人,中国の北京原人はその子孫です。しかし,彼らは数十万年前(一部は数万年前)に絶滅しており,現在のアジア人の祖先というわけでありません。

■アフリカ単一起源説

かつて,人類はそれぞれの地域で個別に進化してきたと考えられていました。例えば北京原人が東アジア人に,ネアンデルタール人がヨーロッパ人に進化したという考え方です。これを多地域起源説といいます。しかし,現代人のミトコンドリアDNAを調査した結果,アフリカ人同士の違いの大きさはアジア人とヨーロッパ人の違いより大きいことが分かりました。このことは,現代人の祖先はアフリカで生まれ,その後アフリカを出てヨーロッパやアジアに拡散していったことを意味します。現在の学説ではおよそ15-20万年前にホモ・サピエンスが東アフリカで誕生し,およそ10万年前にアフリカを出て,ヨーロッパやアジアに進出していったと考えられています。

ヨーロッパにホモ・サピエンスが進出していった頃,そこにはまだネアンデルタール人が存在していました。彼らの間に何らかの交流があったのかもしれません。しかし,ネアンデルタール人はほどなくして絶滅しています。同じようにホモ属にはかって10数の種があったと考えられていますが,いずれも絶滅しており,ホモ属はホモ・サピエンスの1種になっています。

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■ホモ・サピエンスの拡散

およそ10万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスは急速に地球上に拡がっていきました。5万年前にはアジア南部,ヨーロッパ,オーストラリアがその居住範囲となりました。大型草食獣を追ってアジア大陸を北上していったグループもありました。2万年前に最後の氷河期に入ると彼らは動物と一緒に移動を開始し,海水面が下がっていたため陸続きであったベーリング海峡を歩いて渡り,北米大陸に達しました。そして,氷河期の後退とともに南下して行きました。北米大陸と南米大陸を縦断しその南端に達するまでわずか3000年ですから驚きの速さです。もちろん,彼らは移動するだけではなく新大陸の各地に定住していきました。

氷河期には海水面が低下したため東南アジアには現在のインドシナ半島,スマトラ島,ジャワ島,ボルネオ島までを含む「スンダランド」という大きな陸地が広がっていました。氷河期が終わり海水面が上昇するとスンダランドは半島と島嶼部に分かれました。人々は島から島へと移動する航海術を発達させ,さらに東の島々を目指しました。1700年前にはポリネシアに達し,1500年前にはハワイ諸島やイースター島,ニュージーランドにも進出しています。こうして世界の各地に散らばった人類は,およそ1万年ほど前から食料調達の新しい手段として「農耕」を開始し,急速にその数を増やしていきます。

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■農耕の始まり

火と道具を使用することにより人類は世界各地に居住範囲を広げていきました。当時の人類は狩猟採集生活を送っていましたが,増え続ける人口を養うためおよそ1万年前に世界各地で農耕が始まりました。メソポタミアでは麦,中国南部ではコメ,東南アジアや島嶼部ではバナナ,タロイモ,キャッサバ,メキシコ南部ではトウモロコシというようにそれぞれの土地で自生していた野生種の植物を栽培種に育て上げたものです。農業は世界のさまざまな場所でそれぞれ別個に生まれてきたのです。農作物の多様性の中心地は世界中に6カ所あり,そこは最初にその作物を栽培植物化した地域と対応します。農民たちは数千年にわたり好ましい性質を有する変種を育ててきました。

小麦の場合,小アジアでは1万年前の小氷期の影響を受け,採集する植物や獲物になる動物が減少していきました。危機に瀕した人類は野生の小麦をしかるべき方法で地面に蒔くと,数倍の収穫が得られることを発見し,小麦の栽培を開始しました。人類は食糧問題を農耕により切り抜けました。それは定住生活を可能にし,より多くの人口を養うことを可能にしました。農耕には森林や草原を畑に変えたり,灌漑などで大きな労働力を必要とします。人々は農耕のため今までより大きな集団で暮らし始め,その中で指導的な権力を持つ階層あるいは個人が現れ,文明の入口にさしかかります。

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■文明の始まりと文明論

ヨーロッパでは伝統的に「文明」は野蛮や未開と対置されてきました。「文明の光が未開の闇を照らす」というような表現でも分かるように,文明を進歩あるいは優越性の象徴としてとらえる考え方が定着しています。自分たちの文明が他の社会のそれより優れたものであるという一方的,自己中心的な思い込みは,周辺地域あるいは遠く離れた地域を支配するためのイデオロギーとなりました。ヨーロッパ,中国,日本にはかってそのような考え方が厳然と存在していました。

しかし,文明の優劣,あるいは文明と未開を対比する考え方は現在では時代遅れのものになっています。文明を文化に置き換えてみると,世界には多種多様な民族が固有の文化を継承しており,それらに優劣があるはずもありません。 自分の属する文化と同様に他の人々の文化を尊重し,共生することが新しい国際化のキーではないでしょうか。ひるがえって,最近のグローバリゼーションについて考えてみると,本来の意味は別にしても,ほとんど経済至上主義と同意語として使用されており,経済支配のための新しいイデオロギーになっています。それは,決して地球の健康や多くの人々の安定的な暮らしに資するものではありません。

文明の定義は難しいので,とりあえず初期の人類文明の定義を「都市を中心に,単一の定住に比べてより比較的広い範囲で社会としてのまとまりがあり,文字等の記録手段が開発された」状態としておきましょう。私の子どもの頃には「四大文明」があったと教科書にありました。しかし,考古学の研究が進むと,それと同じ時代に文明の定義を満たすような社会は数多く存在していたことが分かりました。どこに,どれだけの初期文明があったかとなるとまだはっきりとは分かっていません。

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■文明の初期から環境問題はありました

約1万年前に始まった農耕は条件の良い土地に人口を集中させる結果を生みました。食糧を調達するため,建築資材や薪を得るため周辺の森は次々と伐採されていきました。森を失った地域は乾燥化し,肥沃な土壌は雨により流失します。乾燥地域で灌漑農業を行っていたところでは,しだいに塩類が集積し(川の水にもわずかですが塩分が含まれています,また灌漑により地中の塩分が表層に移動することもあります),農業には不適な土地に変わっていきました。農業そのものが自然を人類の都合の良い形に変える行為なので自然破壊の要素をもっており,シュメール文明,クレタ文明,ギリシャ文明,マヤ文明は自然資源の荒廃により衰退していきました。文明の初期から環境問題は存在していたのです。

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これに対して中国文明,インカ文明は地域の自然と共生する道を選択したので,少なくとも環境問題による滅亡はまぬがれました。農耕を開始した頃の世界人口は500万人程度と推定されていますが,4000年前には5000万人と10倍になっています。キリストが誕生した頃はまだ2億人だった人口は次の2000年で30倍の60億人に増加しました。特に20世紀は人口増加の世紀で,この100年の間に45億人も人口が増えています。地球環境が急速に悪化していくのはこの時代と重なります。地球は人類に占有され,他の生物は急速にその生息環境を狭められ,過去に何回かあった大絶滅が人類の手によって引き起こされようとしています。人口圧力は現在も特定の地域では増え続けています。21世紀の半ばには90億人に達する人口を地球は養えるのでしょうか。

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