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日本のエネルギー戦略

2006年5月に通産省は「新・国家エネルギー戦略」を公表しています。この戦略がどのような頻度で公表されるかは分かりませんが,これ以降のものはネット上には公開されていないようです。詳細を知りたい方はページの最後の関連リンクで参照してください。「新・国家エネルギー戦略」の現状認識と課題は下記のようになっています。

1.現状に対する基本認識
(1) エネルギー需給の構造変化
(2) 政情不安等の市場混乱要因及び混乱増幅要因の多様化
(3) 各国で進むエネルギー戦略の再構築

2.新・国家エネルギー戦略の構築
(1) 戦略によって実現を目指す目標
(2) 戦略策定に当たっての基本的視点
(3) 戦略実施に際しての留意事項
(4) 数値目標の設定

戦略を立案するための現状認識は「1.現状に対する基本認識」に述べられています。ところが,その内容は2005年頃の微分値を概観しているのに過ぎません。「世界のエネルギー需要の見通し」ではIEAの試算をそのまま援用し,2002年に比して2030年には60%増加するとしています。

しかし,それらの一次エネルギーはどのように賄われるかについてはほとんど言及していません。つまり,この戦略の基本認識は少なくとも2030年まではオイルピークによる供給不足などは起こらないと考えているわけです。オイルピークが起きないとするならば,いかに石油や天然ガスをかき集めるかが戦略の一つの基本になるわけです。

国家戦略がこのように現在の延長線上に未来がある程度の認識で大丈夫なのでしょうか。現代文明を支えている石油については劇的なパラダイムシフトが起きようとしているという危機感はこれを作成して人たちにはほとんど無いようです。

2012年の日本は原子力発電所がほとんど稼働していない状態となっており,政府はこの夏の電力不足を煽っているようです。しかし,はるかに深刻なエネルギー危機が身近に迫っているのです。それは,オイルピークです。オイルピークは「人類とエネルギー|石油時代の到来」に詳しく述べてあります。

オイルピークに関しては最近2つの注目すべきニュースがありました。一つは2010年にIEA(国際エネルギー機関)が「2006年がピークオイルだったかもしれない」と認めたことです。もう一つは2011年2月に英国のガーディアン紙がウィキリークスによる米国公電の暴露を報じました。それは「サウジアラビアの石油埋蔵量が実は約4割(3000億バレル)も過大評価されている」というものです。

オイルピークとは確認された石油資源を採掘していくと,生産のピークは埋蔵量を半分消費したときに訪れます。オイルピークを過ぎると,石油生産はなめらかなカーブを描いて減少してきます。この状態では石油は「枯渇」ではなく「減耗」と表現されています。

油田ごとの生産は上昇→ピーク→下降のカーブを描きますが,世界的には油田の開発時期が異なりますのではっきりと分かるピークが見られるかどうかは分かりません。ただし,中東の既開発の巨大油田はピークが近いか衰退期に入っていることは明らかです。


「安い石油の時代」の終焉

原油価格が上昇するとより大きなコストがかかっても石油を採掘することになりますので短期的には生産は増大するかもしれません。しかし,ピークから20年後くらい経つとあの時期がピークだったのだと分かるようなカーブになるでしょう。

2011年末の原油価格はおよそ100$/バレルです。これは一時的なものではなく,オイルピークによる価格上昇の始まりと考えるのが妥当です。日本国政府はともかく世界市場はオイルピークを意識しているのは確かです。生産量は今後も(短期的には)増える可能性はありますが,少なくとも「安い石油の時代」終わったと考えるべきです。

オイルピークは原油生産量のピークであり,何年かの(10年を超えるかもしれません)高原状態の後に減少していきます。そのとき何が起きるかということです。石油はまだ半分残されているのですが回復不可能な需給ギャップが発生します。

100の生産能力に対して110の需要があるとどうなるかは明らかです。石油市場には投機的資金が流れ込み,原油価格は高騰します。現在はまだ需給ギャップは生じておらず,価格上昇のレベルですが,その先には価格の高騰期,さらには石油の絶対的な不足期が訪れます。

現代文明とは石油文明であり,オイルピークは文明の衰退を意味します。2009年の日本の1日当たり原油消費量は440万バレル(70万キロリットル)です。一人あたりにすると5.6リットルということになります。この大量の石油が日本の豊かな生活を生み出しており,石油に代わる資源はありません。

1バレル100ドルとすれば石油の輸入代金は1日当たり4.4億ドル,1年間では1600億ドルとなります。日本の外貨準備高約1.3兆ドルが8年間で消える数字です。石油以外にも大量に輸入されている天然ガス価格も石油の後を追うように上昇するでしょう。

石油の用途は大ざっぱに動力源が40%,熱源が40%,原料が20%となっています。動力源とは自動車,トラック,船舶,航空機などを動かすためのものであり,熱源は火力発電,暖房,LPガスなどに使用され,原料はプラスチック,自動車のタイヤ,化学繊維などになります。

常温で液体の石油は地球上の資源の中ではもっとも利用しやすいものであり,これに代わる資源はありません。EPR(エネルギー収支比=産生エネルギー/投入エネルギー)が高く,単位体積当たりの熱量が大きく,運搬と保管が容易で,加熱精製することにより多様な燃料や原料になります。

石油の特徴はその多様な用途だけではなく,石油で石油を生産できることにあります。つまり,石油は単独でエネルギーの拡大再生産が可能なのです。この2つの特徴を備えた石油を必要なだけ手に入れることができたので,20世紀後半に人類は急激に経済規模を拡大できました。

食料を含め私たちの身の回りにあるほとんどのものは石油が姿を変えたものか,石油に支えられて生産されたものです。その基幹物質である安い石油の時代が終わり,高い石油の時期→価格の高騰する時期→絶対的に不足する時期へと移行しつつあるのです。

この影響はまちがいなく世界に途方もなく深刻な影響を与えます。地球上には石油に代替できるエネルギー資源は存在しないのですから,石油のもつ機能の一部を他のエネルギー資源でカバーするにしても人類のあらゆる経済活動の混乱と縮小化は避けられないでしょう。

石油価格が上昇するとエネルギー,食料,工業製品のすべてのコストが上昇します。さらに,石油生産が減少することは人類が経済活動を通じて生産できるモノの総量や消費できるエネルギーの総量が減少することを意味しています。

生産の総量は「豊かさ」そのものであり,消費できるエネルギーの総量は「快適さ」となりまます。それが減少します。20世紀後半から続く人口と経済規模の拡大は石油によるバブルのようなものなのです。

石油の次には天然ガスや石炭にもピークが訪れます。中国も2030年前にあるとされる自国の石炭のピークが経済のピークになるかもしれません。生産の総量が減少する時代では生きていくためには欠かすことのできないものの生産は優先されるでしょうから,残りのものの生産は大幅に縮小せざるを得なくなるでしょう。また,収入が増加しない状態ですべての物価が上昇するので,モノを大切に使用することになります。

この家計の防衛的反応でモノはますます売れなくなり生産は縮小します。安い石油の供給とともに拡大してきた経済は安い石油の時代の終焉を起点として,石油が枯渇する時代の経済規模に向かって縮小均衡を開始します。この縮小均衡点がどのレベルに落ち着くかはそれぞれの国の対応により異なるでしょう。

米国のように広い国土と一定のエネルギー資源がある国では相対的に影響量は小さいものになります。米国が低いEPR(エネルギー収支比)にもかかわらずバイオエタノールの生産拡大を目指しているのはオイルピーク後も液体燃料を確保するという国家戦略の一環と考えられます。

カナダの非在来石油資源であるオイル・サンドの開発も同じです。また,天然ガスについては非在来資源であるシェール・ガスを大規模に開発しています。これもエネルギー安全保障の一つの政策と考えられます。

米国に比べて1/30の国土しかない日本には有力な化石エネルギー資源はほとんどありませんので米国以上に石油時代の終焉に備えなければなりません。ピークオイルのもたらす影響の大きさは国内のすべての原子力発電所が停止する程度のものではありません。日本という国の存亡がかかっているのです。石油の不足する時代に備えることこそがエネルギー国家戦略の基本とすべきなのです。

前ワールド・ウオッチ研究所長のレスター・ブラウン氏は環境保全と気候変動の立場から「プランB」を提唱しています。彼は石油の減耗については触れず,適切な政策を実行していくことにより気候変動の防止と経済成長は両立できると説いています。

人類の一員としてそうなれば幸いであると考えますが,残念ながら人類の飽くなき欲望は基幹資源である石油が手に入る間は止まらないでしょう。石油価格が上昇から高騰期を経由して絶対的な不足期に移行して初めて自分たちの経済基盤が危機に瀕していることに気が付くことになるかもしれません。


日本の究極目標は「核燃料サイクル」の実現でした

日本では2011年に原子力発電に対するパラダイムシフトが起きました。安全神話は虚構のものであったことが明らかになり,原子力に対する強い逆風となっています。この40年間,経済産業省のエネルギー政策はひたすら「核燃料サイクル」という究極目標の実現を目指すものでした。

巨大なエネルギー関連予算の大半は原子力に振り当てられており,自然エネルギー関連の予算はそれと比べようもありません。この巨額の予算と電力会社からの直接・間接の寄付金等が「核燃料サイクル」に対して異論を許さない閉鎖的な原子力村を支えてきました。

福島第一の事故後の2012年度においても原子力関連の予算は(内訳の変更はありましたが)ほとんど変わっていません。政権交代があっても,最悪の事故があっても政府の軸足は原子力から脱け出せないようです。このままでは日本は新しいエネルギー社会の構築に失敗し,原子力と心中してしまうかもしれません。

原子力は熱と電気を産生できるだけであり,石油のように多様なエネルギー源となり,それ自体で拡大再生産が可能なエネルギー源ではありません。石油が不足する時代に日本が生き延びるための新しいエネルギー政策が必要です。

過去40年間の切り札とされてきた核燃料サイクルの中核となる「高速増殖炉」は冷却材にナトリウムを使用するという危険なものです。福島第一は深刻な被害をもたらしましたが,最悪というわけではありません。

想定される最悪の事態は格納容器の大規模な破損であり,発電所周辺が高線量の放射性物質に汚染されることです。このような事態になると事故を終息させるための作業がまったくできなくなります。

今回の事故で水素爆発により破壊された原子炉建屋内には使用済み核燃料のプールがあり,そこには原子炉内に収納されている核燃料の数倍あるいは数十倍の放射性物質が含まれたおり,その主要な物質は半減期が30年というセシウム137や2.4万年のプルトニウム239です。

原子炉から取り出されたときの燃料棒集合体は半減期の短い物質が非常に強い放射線を出しますが,プールで100日ほど冷却されるとセシウム137が放射能の主要物質となります。プールにはこのような使用済み核燃料が大量に保管されています。

仮にプールの冷却ができないような事態になると冷却水の蒸発→燃料棒の過熱→溶融→放射性物質の放出という事態となり,(チェルノブイリのように人命を無視した封じ込めをしない限り)放射性物質が放出されるのにまかせるしかありません。最悪シナリオの汚染地域は東北と関東の全域に及ぶと試算されています。

ナトリウムを使用した高速増殖炉で事故が起こるということは,福島第一の最悪シナリオと一致します。金属ナトリウムは水と爆発的に反応し,強アルカリ性の水酸化ナトリウムと水素が発生します。そうなったらもう手の施しようがありません。

福島第一は全電源喪失後の対応にいくつもの不備がありましたが,なんとかあの程度の被害(放射性物質の放出)に留めることができました。巨大な天災により引き起こされた事故ですが,最悪の事態に至らなかったのは人々の努力と幸運によるものとしなければなりません。

人類は多くの巨大システムを構築し完全に制御できると考えてきました。しかし,巨大システムには必ず人間が制御できない要素があることを忘れてはなりません。それを意識しない安全宣言は机上の空論に過ぎません。

起こりうる最悪の事態を想定するならナトリウムを冷却材に使用した高速増殖炉などは机上の検討ならともかく,実用化しようなどと考えること自体が正気の沙汰ではありません。

福島第一の事故の後でも高速増殖炉から撤退する機運が原子力を推進する人々からは出てきません。「核燃料サイクル」の実現という究極の目標を達成するためにはどのようなリスクも容認されるなどと考えているなら原子力村を政治的に解体するしかありません。

福島第一の事故から10カ月が経ってから一部の原子力村の重鎮とされる人たちから反省の言葉が発せられるようになりました。願わくは多くの原子力村の人々が「巨大システムには必ず人間が制御できない要素があること」を認識され,自分たちの考えたシステムにどのような問題点があったのかを検証していただきたいものです。

オイルピークが現実の問題となっており,エネルギー社会の転換に残された時間はそれほど多くはありません。「核燃料サイクル」にさっさと見切りをつけ,原子力予算の少なくとも半分以上を石油が不足する時代に備えたエネルギー政策・開発と使用済み核燃料量の直接地層処分の実現に振り向けるべきでしょう。

原子力発電は新しいエネルギー社会構築の過渡期のエネルギーと割り切り,福島第一の経験から安全性を担保した対策と運転員の教育・訓練を実施し期限付きで稼働させることになります。ただし,巨大地震と津波の影響を考えると太平洋側の原子力発電所の再稼働はすべきではありません。

エネルギーや経済の仕組みを変革するには20-30年ほどの期間が必要です。エネルギーの国家戦略とは大きな世界の変化を見通し,20年後,50年後にどのようなエネルギー社会を実現するかという基本構想を立案し,実現手段を立案するものでなければなりません。

2006年の「新・国家エネルギー戦略」をプランAとするならば,オイルピークさらには福島第一の事故を加味した「日本版プランB」が求められます。プランAはいまだに化石燃料や原子力に依存したエネルギー大量消費社会を未来の姿としています。快適で便利な暮らしのために,大量生産・大量消費のために巨大なエネルギーが使用される社会です。

残念ながらこのシナリオは必ずどこかで破たんします。石油価格の高騰期に入ると日本の工業立国としての地位は急速に低下し,同時に石油輸入代金により貿易赤字は急激に増大します。絶対的不足期になると工業の一部が成立しなくなるかもしれません。

私はすでに年金世代ですからうまくいったら破局は経験しないで済むかもしれません。しかし,現在の子どもたちは(オイルピークに備えなければ)確実に破局点を経験するでしょう。現在の社会を動かしている大人はそれほど豊かではないけれどある程度の生活を送れる社会を子どもたちに引き渡す責務があります。それが「日本版プランB」です。

戦後,ずっと続いてきた成長神話が永続するはずはありえないのですから,この辺りで立ち止まってよく考える必要があります。東日本大震災と福島第一の事故は社会の新しい姿を考えるよい機会になるのではないでしょうか。


エネルギー社会の未来像

石油,天然ガス,石炭といった化石燃料はいつかは必ず枯渇します。それ以前に需要と供給の関係が崩れ,市場価格は高騰します。そのような変化は最初に石油において現れます。

石油は地球上で最高のエネルギー資源であり,次のような特徴があります。
(1) EPRが高い
(2) 常温で液体であり熱源,動力,原料として使用できる
(3) 石油単独で再生産が可能である

残念ながら他の化石エネルギー資源では石油の代替はできません。原子力や現在の自然エネルギーが生み出すことができるのは電力だけであり,石油のもつ機能が代替できるわけではありません。石油の減少は食料や工業製品の生産力に直接影響します。これが現代文明=石油文明といわれる所以であり,石油生産の減少は石油文明の衰退を意味します。

穀物の2/3とエネルギーの大半を輸入に頼っている日本は米国に比べてはるかに豊かさを放棄しなければやっていけなくなります。米国も自国の食料確保のため輸出を禁止することは十分に考えられることです。石油資源の囲い込みが起こり,現在のような自由市場が継続できるかどうかも分かりません。

穀物と石油の輸入が絶たれるかどうかは分かりませんが,石油が不足する時代が20年以内にやってくる可能性が非常に高いにもかかわらず,政府はほとんど危機感をもっていないようです。現在の子どもたちに絶望的な社会を引き渡さないようにするためには大人世代が知恵を絞らなければなりません。

化石燃料の枯渇した状態で生き延びることのできる社会を「低エネルギー社会(脱石油社会)」と定義することにします。この社会では必要なエネルギーをすべて再生可能な自然エネルギーでまかなうことになります。

社会が利用できるエネルギーは現在の日本よりずっと少ないものにならざるを得ません。当然,社会の生産量も現在よりずっと少ないものになり,現在定義されている「豊かさ」や「快適さ・便利さ」さが放棄され,必要最小限のニーズを満たす社会ということになります。この縮小均衡社会が「低エネルギー社会」の基本モデルとなります。

化石燃料や原子力発電は未来の縮小均衡社会に移行するためのつなぎのエネルギーと考えなければなりません。縮小均衡社会とは化石燃料なしで持続性をもつ社会であり,人類が追い求めてきた「果てしない欲望」を放棄した社会ということになります。このモデルを実現できなければ人類は石油バブル崩壊により文明の崩壊を経験しなければならないでしょう。

20世紀の後半から続く人口と経済規模の拡大はまさしく石油に支えられたものですから,その支えを失ったら崩壊するしかありません。食糧とエネルギーの不足する世界で何が起きるのか想像もしたくありません。

石油が減耗期に入るのは時間の問題であり,すでにその時期に差し掛かっている可能性も高いのです。とはいうものの人類の使用できる石油はまだ半分残っていますので,その減耗期間に他のエネルギー資源の力を借りながら新しいエネルギー社会を構築しなければならないのです。

レスター・ブラウン氏が提唱している自然エネルギーによる電力で水を電気分解して発生させた水素を基幹エネルギー物質とする「水素エネルギー社会」は技術開発により可能かもしれません。

しかし,水素は資源として存在しているわけではなく,他の物質からエネルギーを使用して取り出さなければならない二次エネルギーです。そのため,石油に比べてはるかにEPRの低いものになります。また,天然ガスよりはるかに液化が困難であり,輸送や保管に不向きな物質です。現在のエネルギー大量消費社会をそのまま「水素エネルギー社会」に移行させることはとてもできません。

新しいエネルギー社会のキーワードは「人口減少」,「必要最小限の経済」,「持続可能」ということになります。現在,問題となっている少子高齢化による人口減少は石油の不足する時代を考えると望ましいことなのです。

日本も人口が半分になったら,(一定のエネルギーが使用できれば)食糧問題は解決できるかもしれません。いかに石油の不足する時代を国内の資源+αで乗り切るのかを真剣に考えなければならない時期に来ています。


「低炭素社会」と「低エネルギー社会」

石油は動力源,熱源,化学工業原料という3つの側面をもっています。石油のもつ3つの機能側面のうち(移動体の)動力源,原料は一部を除き他のエネルギー資源では代替できません。

原子力発電や自然エネルギーは熱や電気を産生することができるだけであり,ウランを採掘したり,太陽電池パネルを製造したり,発電設備を建造するためには石油の力を借りなければなりません。

石油は自分のエネルギーだけで再生産が可能ですから優れたエネルギー資源なのです。原子力発電は(発生エネルギーは大きくても)石油なしには再生産も廃棄物の処理もできないエネルギーなのです。この差を認識しておかなければなりません。

化石燃料の大量消費による地球温暖化を防止するため提唱されているモデルは「低炭素社会(水素エネルギー社会)」であり,石油が不足する時代に必要なモデルは「低エネルギー社会(脱石油社会)」ということになります。両者とも化石燃料からの脱却というテーマでは一致していますが本質的な差があります。

「低炭素社会」は技術によりエネルギー問題が解決できるという発想です。エネルギーの担い手を炭素から水素に変えることにより現在の豊かさや快適さは維持できるというものです。一方,「低エネルギー社会」は巨大なエネルギーで豊かで快適な暮らしをしている人々のライフスタイルの転換を求めるものです。

どちらがオイルピーク以降の社会のあるべき姿になるかについては議論のあるところです。石油の不足する時代でもエネルギーの技術革新により豊かな社会を持続できると考えるか,地球上で最高の資源が不足するようになるのだから技術では豊かな生活は支えきれないとするかというところに本質的な相違があります。

その相違は米国と日本を比較すると出てきます。広い国土と石油以外の化石エネルギー資源をもっている米国は「低炭素社会」を実現できるかもしれません。風力,太陽光による自然エネルギーへの転換も比較的容易でしょう。それに対して国土が狭く他の化石エネルギー資源に乏しい日本は自然エネルギーへの転換は容易ではありません。

地球の受ける太陽輻射量は約180兆kw(180Pw)であり,そのうち70%(126兆kw)ほどが地表に到達します。このエネルギーは人類が使用しているエネルギーの1万倍もありますが,地球表面に広く分散しており,それを集約しなければエネルギー資源としての価値をもちません。

この集約のためには一定の面積の土地が必要なのです。風力も同様です。山がちで平地の少ない日本は一人当たりの面積において非常に不利な環境にあります。米国型の「低炭素社会」による解決方法は日本では期待できないでしょう。

食糧とエネルギーが自由に取引できない時代に備えて,日本はそれらをどうすれば自給できるかを考えなければなりません。来たるべき冬の時代に備えてまだ石油が残されているいるうちに「低エネルギー社会」への足固めが必要です。

「低エネルギー社会」のキーワードをもう一度出してみますと「人口減少」,「必要最小限の経済」,「持続可能」です。それは現在の日本人がもっている景気や経済成長に対する考え方とまったく相容れないものです。現代社会の経済は成長が停滞すると「不況」いうことになります。先進国も新興国も途上国もひたすら経済成長を追い求めており,その先にある危機にはまったく無頓着のようです。

しかし,現実の問題として石油が高騰あるいは不足する社会では食糧,工業製品,物流のコストはすべて上昇します。大量生産,大量消費社会に依拠している「貿易立国」の図式は崩壊し,日本経済は縮小均衡に向かいます。経済が停滞ではなく縮小するのですからその影響量は非常に大きなものになることでしょう。

食料生産にも石油は欠かせません。米国の農業は巨大な農業機械なしには成立しません。米国式の近代農業のエネルギー収支(生産エネルギー/投入エネルギーの比率)は2程度です。食糧から得られるエネルギーの半分の石油エネルギーが使用されているのです。

石油の高騰は穀物の価格にそのまま反映されます。石油が不足するようになると,輸出用の穀物を栽培することは禁止されるかもしれません。日本でも高い穀物を高い輸送料を払って輸入するより,国内で食料を自給しようということになります。

「低エネルギー社会」は日本という国土でどうすれば国民が(現在より豊かでなくても)ある程度のレベルで持続的な生活ができるかを考える社会であり,それは古い日本の伝統である自然と共存できる社会ということになります。

そこには豊かさや快適さを表すGDPは政策の基準にはなりません。仮にGDPという指標が残されるとすれば,それは縮小均衡(持続可能レベル)に向けて右肩下がりのものになるでしょう。

そのような社会でも最小限のエネルギーは必要であり,基本となるものは液体の燃料と電気エネルギーということになります。この2種類のエネルギーを自然が与えてくれる範囲で産生し,持続的な社会を動かしていくことが「低エネルギー社会」の実現には欠かせません。日本のエネルギー開発の究極の目標はこの二つの実現であるべきです。


低エネルギー社会の要素技術|電力

「低エネルギー社会」でも必要最小限の液体燃料と電力は産生しなければなりません。つまり,「バイオ燃料」と「自然エネルギー発電」という二つの要素技術が必要となります。これらの要素技術によりどれだけのエネルギーがまかなうことができるかは未知数ですが,化石燃料が枯渇した時には人類が利用できるのは太陽エネルギーだけなのですからそれから産生できるエネルギーの範囲でやっていくしかないのです。

電力に関しては小規模水力発電,風力発電,太陽光発電を組み合わせる分散型のシステムとなります。現在のように100万kw級(一般家庭250万世帯に相当)の大規模発電所ではなく,1000世帯分をまかなう程度の規模のものをネットワーク化することになります。

化石燃料のようにEPRの高いエネルギー資源を利用する場合は大規模化により(少なくとも発電に関しては)効率は上がります。しかし,広く分散している自然エネルギーの場合は大規模化による効率向上は望めず,逆に自然災害等によるプラントの停止のデメリットの方が大きくなります。小規模で分散していることはそのような災害時にもネットワークの一部が停止するだけで済みます。

定格1000kw(1Mw)以上の太陽光発電設備をメガソーラーと呼び,現在の発電効率では左記のような性能となっています。太陽光発電は燃料費は不要であり,運転コストは保守・管理費用だけに限定されます。したがって,太陽光発電のコストは設備寿命の間における総発生費用(初期費用+修繕・保守費用+金利)と期待総発電量から算出されます。それを簡単に表したものが左図の発電コスト換算係数です。

期待総発電量はシステム利用率12%から算出される固定値となりますので,発電コストは初期費用,修繕・保守費用,金利の3つの要素により決まります。そのような計算の結果が発電コスト換算係数であり,この換算係数を使用すると太陽光発電のコスト(円/kwh)は「初期費用(万円/kw)÷換算係数」で算出することができます。1000kwのメガソーラーの初期費用(建設費用)を50万円/kw,修繕・保守費用=1%/年,金利1%/年の場合は50/1.61=31円/kwhということになります。

今後は普及量の増大とともに初期設置費用のコストダウンが可能であり,太陽光→交流電力の変換効率向上,設備の長寿命化と合わせると20年以内に15円/kw(現時点の火力発電のコストは約10円/kw)が現実的な数字となります。

15円/kwhは現在の発電コストに比較して1.5倍程度になっていますが,石油の不足する時代のエネルギーとしては決して高いものではないでしょう。問題はメガソーラーの敷地面積です。太陽光発電施設の敷地面積はほぼ太陽光パネル面積に等しくなります。つまり,年間100万kwhの電力を産生するためには2haの敷地が必要です。

100万kwの原子力発電発電1基は稼働率80%とすると1年間に「70億kwh」の電力を産生しますので,これは定格出力1000kw(年間発電量100万kwh)のメガソーラー約7000基分に相当し,そのために必要な敷地面積は14,000ha(140km2)となります。メガソーラーの太陽光→電力変換効率は2倍程度の向上は期待できますがそれでも70km2です。

この面積の問題が太陽光発電を含む自然エネルギーの最大のネックになります。もちろん都市においても住宅の屋根に太陽光発電パネルを設置すれば面積は稼げるのですが,太陽光発電といえどもメガソーラーと家庭用小規模発電では効率とコストに差が生じます。自然エネルギーに頼る社会では使いたいだけ電力や他のエネルギーが使用できる社会ではないのです。

風力発電は現在のところもっとも潜在力とコスト競争力のある自然エネルギーです。日本最大の郡山布引高原風力発電所(ウインドファーム)は定格66,000kw,年間発電量12,500万kwhであり,これはおよそ3万世帯分の電力ということになります。

このウインドファームの敷地面積は230haであり,敷地面積当たりの年間発電量は54kwh/m2となり,メガソーラーと同等ということになります。太陽光発電でも風力発電でも自然エネルギーを利用している施設は単位面積当たりの年間発電量は50kwh/m2程度であり,効率が2倍になっても100kwh/m2です。場所を選ぶことにより風力発電と太陽光発電のハイブリッド発電施設が可能であり,その場合の年間発電量は150kwh/m2程度に向上するかもしれません。

日本の年間総消費電力は約1兆kwhであり,仮に100kwh/m2・年の自然エネルギーでまかなうとすれば1万km2(100万ha,100億m2)の土地が必要ということになります。これは国土面積(38万km2)の3%に相当します。風力,太陽光とも施設は分散型で建設できるとはいうものの,陸上では施設面積は限定されます。

ヨーロッパでは遠浅の海が広がっていますので着底式の洋上風力発電が可能ですが,日本の場合はそのような条件の良い場所は限定されます。とはいうものの,日本の領海とEEZ(排他的経済水域)を合わせた面積は約447万km2であり世界で第6位です。この海域の一部に着底式および浮遊式の発電施設を造ることができれば面積の問題はある程度解決する可能性がでてきます。

現在の技術では着底式と浮遊式はおよそ水深20-50mあたりが分岐点となります。この水深の沿岸は漁業との関係もあり,かなり制約されることになります。中長期的に見ると日本で最も可能性があるのは浮体式ということになります。日本風力発電協会の試算では洋上風力の導入可能量6800万kWのうち浮体式が3900万kWを占めています。

九州大学SCFではカーボン・ファイバー製の浮体を採用することにより,建造コスト,耐用年数,騒音などの環境問題をクリアしようと実証実験が行われています。浮体は中抜きの六角形の形状で,これを柔構造で連結することにより大きな施設を建造することができます。浮体の中抜き部分の大きさは500m程度になります。

風車も風を集中させ発電効率を高める実績を持つ「九州大風レンズ研究チーム」が開発・商品化に成功している特異な構造のものを採用しています。風レンズとは風車の羽の周囲をリング状のカバーで囲むことにより,風下側に乱流を発生させ気圧を下げることにより羽に当たる風速を大きくするものです。

風力発電の出力は風速の3乗に比例しますので,羽にあたる風速を25%ほど大きくすると出力は2倍となり,効率が上がります。リングを取りつけることにより騒音を減少させることができ,さらに鳥の視認性が上がるためバードストライクを皆無に近いレベルに抑えることができます。ただし,コスト,発電性能,耐久性などはまったく未知数です。現在では5kwのもので実証実験が行われており,その成果が期待されています。

このような自然エネルギー技術開発に原発に投入されている予算の半分ほどを振り当てることにより,10年後,20年後には現在では考えられないような成果が生まれる可能性は十分にあります。見込みのない核燃料サイクルに見切りをつけ,将来を見据えた新エネルギー開発に政策を転換する時期にきています。


低エネルギー社会の要素技術|液体燃料

化石燃料が枯渇する時代求められる「液体燃料」については植物セルロースからバイオエタノールを製造する研究と藻類を利用する研究が脚光を浴びています。現時点では藻類の利用の方が将来性はありそうです。

藻類とは酸素発生型光合成を行う生物のうち,コケ植物,シダ植物,種子植物を除いたものの総称です。すなわち,真正細菌であるシアノバクテリア(藍藻)から,真核生物の単細胞生物(珪藻,黄緑藻,渦鞭毛藻),および多細胞生物である海藻類(紅藻、褐藻、緑藻)など進化的に全く異なる系統グループの総称です。(wikipedia)

日本ではまだこの分野の研究は立ち遅れていますが,米国を中心として研究・実証プリジェクトが進んでいます。液体燃料を生産するため油分を多く含み,成長の速い藻類が研究の対象になります。

米国NREL(National Renewable Energy Labs)は野外試験施設での成果によりオーバーオールで10g/m2/day,ピークで50g/m2/dayという藻の成長データを得ています。この藻から生産される油は軽油に近い成分であり,陸生の油の採れる植物と比べて面積当たりの生産量が30倍にもなります。

米国のアルジェノール・バイオフーエル社はメキシコのソノラ砂漠で塩水を使い藻を栽培し,年産100万ガロンのエタノールを生産する事業を計画しており,2012年までに生産を全体で10億ガロン,1エーカー当たり6000ガロンに増大するとしています。

上記の2つの報告書は 「藻類からのバイオ燃料生産」より引用したものであり,藻類から油分やエタノールを効率的に産生できる可能性を示しています。藻類を利用することの長所は陸上の食料作物と競合しないこととその高い面積当たりの生産性です。単位体積当たりの燃焼エネルギーはエタノール,植物油,藻類油では異なりますが,単純に単位面積で1年間に産生できる液体燃料の量は左図の通りです。

ナタネに比べるとオイルパームは通年成長ですので生産性が高いようです。バイオエタノールは穀物より砂糖作物の方が生産性が高いこともうなづけます。一方,そのような陸上作物に比べてある種の藻類の生産性は群を抜いていることも分かります。

このような藻類を工業的に連続栽培することができると一定量の液体燃料を産生することができます。日本でも1970年代に大型の藻類バイオ燃料の研究開発プロジェクトが存在していました。しかし,当時の石油価格に比べてずっと割高であったため実用化には至りませんでした。

生産コストだけで比較するならば1970年代の原油は数$/バレルですから,これと価格競争力をもつバイオ燃料ができないのは当然です。しかし,石油が枯渇する時代においてはEPRの条件さえクリアできれば藻類由来のバイオ燃料は大きな可能性をもっています。

藻類の中には光合成を行わない従属栄養型のものもあり,このような藻類の中にも増殖速度が大きく,油分含有量の多いものも大きな可能性をもっています。現在の下水処理に使用されている活性汚泥(バクテリアを含む泥)の代わりに油分含有量の高い藻類を有機物を含んだ排水処理に利用することができれば,人間(動物)の排出した有機物からバイオ燃料を生産することができます。

藻類からバイオ燃料を産生するような研究の成果は採油効率だけで評価するべきではありません。「低エネルギー社会」における優先順位のトップは持続可能性です。どれほど効率が高くても持続可能なものでなければ先がありません。自然と共生する社会においては自然に対する負荷を自然が許容する範囲内に抑えなければなりません。