亜細亜の街角
アララト山がよく見えるクルド人の町
Home 亜細亜の街角 | Doubayazit / Turkey / Sep 2007

ドウバヤズットとクルド民族  (参照地図を開く)

トルコを訪問したら「クルディスタン」の地を踏んでみたいとかねてから考えていた。安彦良和氏のマンガに「クルドの星」という名作がある。

1985年頃から連載が開始されたもので,日本人とクルド人の間に生まれた主人公の少年が父親と母親を探すためトルコに行き,トルコ政府とクルド人ゲリラの戦闘に巻き込まれていくというストーリーである。

クルド人は中東のトルコ,イラン,イラク,シリア,アルメニアにまたがる地域に居住する印欧語族系の民族である。人口は2000-3000万人と推定される。これはアラブ,ペルシャ,トルコに次ぎ中東で4番目の人口をもつ民族である。

クルド人は独自の言語をもち,彼らの居住する地域を「クルディスタン」と呼んでいるが,その地域は上記の国家により分断されており,独自の国家をもたない世界最大の民族となっている。

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国はその支配地域を大幅に失うことになる。空白地域は戦勝国の英国とフランスが民族の意志とは関係なく線引きし,南クルディスタンはイラクとイランに編入された。

北クルディスタンは1923年に成立したトルコ共和国の一部となった。これ以後クルド人はそれぞれの政府に対して,独立あるいは自治を求めて戦うことになる。

トルコ国内には東部を中心に約1500万人のクルド人が居住しており,これはトルコ人口の約25%に相当する。しかし,トルコ政府は1923年の共和国建国以降一貫して「クルド人」という民族の存在を否定している。

それには現在のトルコ政府,トルコ国民にも言い分はある。第一次世界大戦後の領土分割によりチュルク系民族の居住地は,現在のトルコの半分以下に制限されそうになった経緯がある。1920年に締結されたセーブル条約である。

それによると,オスマン帝国が支配していたアラブ人居住地域はさておいて,現在のトルコの国土のうち,ヨーロッパ側は連合国の共同管理,ギリシャ人の多いイズミール地区はギリシャに割譲,アナトリアの東部はアルメニア人国家とクルド人国家を樹立するという内容になっている。

1918年11月:第一次世界大戦終結
1919年05月:アナトリア権利擁護委員会の結成
1919年05月:ギリシャ軍がイズミール地区を占領
1920年03月:大国民議会開設,アンカラ政府樹立
1920年08月:セーブル条約締結
1920年09月:アルメニア人国家の独立宣言
1920年11月:フランス軍,イタリア軍と和平樹立
1920年12月:アルメニア人国家滅亡,ソビエトに併合
1921年02月:ロンドン平和会議
1921年03月:モスクワ条約締結,トルコの領土拡張
1921年09月:ギリシャ軍とサカリア川の決戦
1922年09月:スミルナ市陥落,ギリシャ軍が撤退
1922年10月:英国と休戦協定,トラキアのギリシャ軍撤退
1922年11月:スルタン制度の廃止,オスマン帝国滅亡
1923年07月:ローザンヌ条約締結
1923年10月:総選挙,トルコ共和国成立

第一次世界大戦終結からトルコ共和国成立までのできごとを整理すると上記のようになる。まさしく,英国を始めとするヨーロッパ列強によりトルコは解体の危機にあった。これを救ったのがケマル・アタチュルクに代表されるアンカラ政府である。

貧弱な装備の軍隊を率いてアルメニア,クルド,イタリア,フランスそしてギリシャの軍隊と戦い,アナトリア擁護を実現したのである。そのため多くのトルコ軍人の血が流された。イスタンブール政府を代表するスルタン・メフメト6世はトルコの未曾有の災難に対してなす術をもたなかった。

この分割案にもっとも積極的だったのはギリシャである。1919年にギリシャ系住民の保護を理由に,イズミールにギリシャ軍が上陸した。長い間,オスマンのくびきにつながれていたギリシャの民族主義は狂信的なものであった。

ギリシャの意図はアナトリアの西半分を支配下に置こうとするものであり,それはかってのビザンツ帝国の領土を回復しようとするものであった。人口500万人のギリシャはスミルナ市(現在のイズミール)に10万人,トラキア(トルコのヨーロッパ側)に3万人の軍隊を派遣したのである。

英国が装備を支給し,後押しするギリシャ軍10万人がアンカラ近郊のサカリア川でアンカラ政府軍5万人と激突した。アンカラ政府軍は人数・装備ともに優勢なギリシャ軍を内陸部の戦いに誘い込み,なんとかこれを撃退した。

アンカラ政府軍はその一年後にスミルナ市に撤退したギリシャ軍を壊滅させた。サカリア川の戦闘でほとんどの物資を使い果たしたため,その回復には一年という期間が必要なほどアンカラ政府は貧しかった。

ギリシャ軍はアンカラへの進軍中にトルコ人の村々を焼き払い,市民を虐殺した。トルコ人の怒りはスミルナ市のギリシャ系住民に向けられたのは,当然であった。英仏の帝国主義的野心が生み出したセーブル条約は多くの兵士と市民の犠牲を生み出した。

ローザンヌ条約が調印される

1923年7月にスイスのローザンヌで旧連合国とトルコ政府,周辺諸国を交えローザンヌ条約が調印された。この中で東トルキアおよびイズミールはトルコ領となり,現在の国境が確定した。

ギリシャではクーデター,英国では総選挙により政権は変わることになる。第一次世界大戦後に生じた一連の流血は,大英帝国といえども,もはや帝国主義的な振る舞いはできないことを知らしめたはずである。しかし,第二次世界大戦の前後に同じような過ちは世界各地で繰り返された。

トルコ国民は共和国がケマル・アタチュルクに従って戦った多くの軍人の血によって贖なわれたことを知っているし,学校でもそのように教えられているはずである。そのため,トルコ共和国においては現在でも軍隊は市民の尊敬の対象になっている。

ローザンヌ条約の中にはギリシャとトルコ間での住民交換が含まれていた。地理的に近接している両国の住民を民族的な特徴で識別できるものではない。ギリシャ人とはギリシャ正教徒であり,トルコ人とはイスラム教徒であった。

約100万人のギリシャ正教徒とはギリシャへ,50万人のイスラム教徒はトルコに移住した。現在のトルコには例外的に認められた少数のギリシャ正教徒が,イスタンブールと東ラタキアに居住している。

このような歴史的事実から「トルコ共和国にはトルコ人しかいない」という発言が出てくるのであろう。しかし,クルド人は帰るべき国を持たないのである。

トルコ政府が独自の言語と文化をもつクルド人コミュニティに対して,トルコ語教育を押し付けてきたのは事実であり,クルド人を二級市民のように扱ってきたのも事実である。

1984年にオジャラン議長が率いる「クルディスタン労働者党(PKK)」が,トルコ政府に対して武装闘争を開始する。15年にわたる武力衝突の中で4000もの村落が破壊され,国内外へ避難したクルド人は300万人以上にのぼる。

イラン国境の町ドウバヤズットはクルド人地域に属しており,町からは雪を頂いた大小2つのアララト山が美しい姿を見せている。この風景を見るだけでこの街を訪問する価値がある。また,荒涼とした風景の中でたたずむイサク・パシャ宮殿もお勧めである。

しかし,この地域はやはり貧しい。街を歩いていると定職につけない若者たちがなにかとちょっかいを出してくる。大人はクルド人としての誇りに裏打ちされているのでそのようなことはないが,若者たちは不満の捌け口をいつもどこかに探している雰囲気が感じられた。

トルコは1999年12月に正式にEUの加盟候補国に認められた。しかし,クルド人問題などを加盟各国から指摘されており,加盟交渉は開始されずにいる。そのため,2002年に人権問題の改善を図る法律を成立させた。
その骨子は下記のようになっている。
(1) クルド語などによる学習の権利と放送の許可
(2) 死刑制度の廃止
(3) 国家,政府,軍などへの批判に関する罰則廃止

これが契機となり,クルド人がクルド人として胸を張って生きていける社会が実現することを期待したいものだ。しかし,EU委員会は同年10月に加盟交渉に関する年次報告書を公表し,人権問題などを理由にトルコとの交渉開始の時期を明記しなかったため,再びクルド人に対する風当たりは強くなっている。

イズミール→ドウバヤズット 移動

06時に起床しガイドブックの移動情報をチェックする。隣のロカンタに行き朝食をいただく。スープとパンの組み合わせで2リラだ。スープはポタージュに見えたけれど,別物であった。妙に粉っぽいし,明確な味がついていない。それでもパンに浸して食べるのには十分だ。

ジェムフリエット通りの球形の噴水のあるロータリーの近くでオトガル(バスターミナル)行きの市バスを待つ。11番のバスがやってきて,運転手が乗れと手招きをする。

僕が「2番のバスでオトガルに行く」と答えると,「そのバスは無い」と言われ,乗車する。バスは少し走って止まり,運転手は「あちらの方向に歩いていけ」と教えてくれる。

確かに数分でオトガルに到着した。近距離だったためか運転手は料金を受け取らなかった。イスラム圏ではときどきこのような親切に出会うことがある。

僕は長い旅行の中でも多くの文化や人々を見るのでほとんど退屈とか飽きるということはない。そのように毎日を新鮮な視点で過ごすことができるのは,ときどき受けるこのような暖かいもてなしや,異国の旅人に無邪気な好奇心を示してくれる子どもたちに出会うからなのかもしれない。

オトガルではドウバヤズット行きのバス会社はすぐに見つかった。トルコでは珍しくチケットは手書きであった。出発時間は09時,バス会社の係員から事務所の中で待つように指示された。バスは始発ではないので,僕が間違えないように配慮してくれたようだ。

バスはベンツの大型車である。座席間隔も広く,エアコンも適度に効いているので快適である。道路の状態も良好だ。水やコーヒーのサービスがあり,コロンヤ(コロン水)サービスも2回あった。

30分ほど走り,ドライブインで朝食休憩となる。このドライブインは道路に面しており,道路を挟んだ向かい側は刈り取りが終わった麦畑になっている。ドライブインの背後にも田舎の風景が広がっている。

これはいいところに停まってくれたと周辺の撮影に出かける。といっても,バスの発車時間は分からないので,そうのんびり回っているわけにもいかない。裏手の村の様子を何枚か撮る。ドライブインは周囲より少し高くなっているので視界はよい。

右手の方は一面のヒマワリ畑になっている。花の盛りは過ぎており,花が下を向いているので写真で見てもヒマワリとは気がつかないほどだ。

ヒマワリ(向日葵)の原産地は北米,全ての種類が名前の通り太陽を追って花が動くわけではない。ある種のヒマワリ,それも生長が盛んな若い時期だけに見られる現象である。

ヒマワリの花は円形の外側に花弁が付いているので全体で一つの花のように見えるがそうではない。ヒマワリが属している「キク科」の花は多数の小さな花が集まったものであり,頭状花序という専門的な名前がつけられている。

一つ一つの小さな花は小花(しょうか)と呼ばれ,個別に実を結ぶのでヒマワリの種子は広い円形面にたくさん付くわけである。それでは,ヒマワリの外側にある花弁のようなものは何かというと,それは小花の花弁なのである。

小花は二種類に分かれている。一つは花びらの基部が細い筒状となり,先端部が少し開いた形状のもので筒状花(つつじょうか)あるいは管状花(かんじょうか)という。ヒマワリの中心部は管状花がたくさん集まっている

もう一つは花びらの基部は同じく細い筒状であるが,その先は一つの方向に向けて大きな花びらとなるもので,これを舌状花(ぜつじょうか)という。ヒマワリの周辺にある大きな花びらはこの舌状花のものなのである。以上がwikipediaや他の情報をもとに僕なりに理解した内容である。

ヒマワリは日本では観賞植物となっているが,世界では種子を食用にしたり,油を絞るために栽培されている。植物油としての生産量はパーム油(380万トン),大豆油(367万トン),ナタネ油(184万千トン)についでヒマワリ油(111万トン)となっている。

道路の向かいの畑に羊の群れがやってきた。親子二人の男性が300頭あまりの羊を追っている。これはなかなか壮観な眺めだ。羊たちはそれほど固まらず長い列を作り,草を食みながら移動している。

群れの中には牧羊犬とロバも混じっている。ここの羊の毛色は一様ではない。7割は日本では珍しいこげ茶色であり,3割は白い毛である。白い毛の中には頭部が黒いものの含まれており,多様な集団になっている。思いがけないところでアナトリアの田舎の写真が撮れたのでご機嫌である。

途中で列車を見かけた。アルメニア国境に近いカルスの町に向かうものであろう。カルスは第一次世界大戦後にアルメニア人国家の独立宣言が出されたとき,その首都になるべき町である。しかし,その夢は費え,現在の狭い国土に封じられている。

12:30にアグリの町に到着した。この地域ではかなり大きな町であり,乗客の半数はここで下車した。終点のドウバヤズットまではあと2時間というところである。

前の席の英語を話せる青年はプルサ出身の軍人であり,ドウバヤズットに着任するようだ。クルド人とトルコ政府の関係に対する僕の微妙な感情に気が付くことなく,青年は気楽に話しかけてくる。適当に相手をしていたが心は少しずつ重くなる。

エルズルム ホテル

14:15にドウバヤズットのオトガルに到着した。到着の少し前にアララト山が見えたので,(ああ,もうじき到着するな)と分かる。この町の幹線道路は北西から南東に向かう一本しかない。オトガルはこの道路に面しており,少し北西方向に歩くと5分でエルズルム・ホテルが左に見える。

不思議なことに市街地の入り口には自動車を通さないための取り外し可能なゲートがある。そのため通常,市街地のメインストリートは歩行者天国になっている。

トルコの物価はひどく上がっている。ガイドブックは2001年のデータが記載されており,エルズルムはシングルで2$になっていた。それが10リラ(7.5$)である。アジアから来るとトルコの物価高は本当に苦労する。部屋は4.5畳,2ベッド,T/S共同,窓もあり清潔である。

このホテルで困ったことは洗濯物を干す場所が無いことである。僕の探し方が悪かったのか,どこにも見当たらなかった。仕方がないので窓際につるしておいたが,乾き具合はかんばしくなかった。

裏の丘に登る

市街地の南東300mくらいのところに50mほどの丘がある。そこに登ると周辺が一望できる。丘に通じる道には子どもたちが多く,写真を撮れとうるさい。10代後半の少年たちもたむろしており雰囲気は良くない。

この年代の少年たちは学校に行くか,働くかのどちらかのはずだ。それがどちらでもない。学校は嫌だが,さりとて働く場所もないといった感じを受ける。精神的にはかなり荒んでおり,旅行者にちょっかいをかけるくらいしかすることがないようだ。

この丘には2回登ることになり,2回目の時はかれらに取り囲まれ,「そこを通してくれ」状態であった。登り始めてちょっと水を飲もうと背中のザックを前に回すと火のついたタバコがくすぶっている。

穴は開いてはいないもののナイロン生地に大きなこげあとがついている。やれやれひどいいたずらをするものだ。トルコでもこのあたりは貧しい地域に属している。貧しいといってもそれは相対的なもので,例えばインドの貧しさに比べるとはるかにましな生活であろう。

もちろん,ここでは働いている子どもたちはたくさん見かけた。靴磨きの道具を抱えカフェに坐る大人と交渉している少年はよく見かけたし,屋台を引いて商売をしたり,商店の下働きをしている子どもも多い。

そのような子どもたちは旅行者と遊んでいる暇はない。せいぜい僕のスニーカーの汚れを磨かせてくれと言いに来るぐらいのものだ。旅行者につきまとったり,ちょっかいを出すのはもう少しましな家庭の子どもたちである。

暇を持て余した子どもたちは珍しい外国人が来ると,かっこうの遊び相手ができたとでも思っているようだ。あまり相手にしないでさっさと彼らの縄張りから離れてしまうのがよい。

丘は小石の多い急な斜面になっており登りづらい。ようやく上に出ると360度の眺望となる。市街地は北から北東方向に広がり,その向こうにおもしろい形状の孤立した岩山がそびえている。全体の雰囲気は中央アジアに近い。

北西方向には標高5,137mの大アララト山が少し霞んでいるもののきれいな姿を見せている。実際には30-40kmくらいは離れているけれど,距離感に乏しく山裾までなら軽く歩いていけそうな感じを受ける。

2週間前はアルメニアからこの霊峰を眺めていた。ちょうど表と裏から眺めることになり,ピークが左から右に変わっている。アララト山の向こうに隠れているアルメニア国境までは60-70kmである。国境が開いていれば数時間で移動できる距離だが,現在の両国の関係から国境は閉鎖されている。

目を東側に転じると幹線道路がまっすぐ南東方向に走っている。市街地のすぐ外は軍隊の駐屯地と演習場になっている。この丘の上からはよく分からなかったが,翌日,道路から見ると戦車や装甲車が並んでいた。

ここは,アルメニアとも近いし,クルド人の居住区でもある。アルメニアとは古くからの確執があり,クルド人はトルコ政府に対して決して良い感情は抱いていない。トルコ軍にとってはここは最前線なのだ。

駐屯地の向かいにもここと同じような岩山があり,頂上にはトルコの国旗が翻る軍隊の監視所がある。トルコに限らず多くの国では軍関係の施設は撮影禁止である。この岩山もその中に含まれている。しかし,この小山だけはこの地域の軍の象徴として撮らせてもらった。

南東方向の幹線道路は,6km先で荒々しい表情の山にぶつかり,その中腹に「イサク・パシャ」の宮殿が小さく見える。明日はあそこまで歩かなければならない。

丘の下の住民につかまる

歩行者天国

市街地の幹線道路は両側が車両通行禁止の鉄柵が設けられており,日本でいう歩行者天国状態であった。チャイハネの前では車道にテーブルが並べられ夕方の時間帯になると,人々が集まっている。

ここでも,テーブルに坐っているのは男性だけだ。彼らはお茶(紅茶)を飲み,世間話をしながら優雅な時間を過ごしている。靴磨きの少年が彼らの間を足しげく回っている。

トルコでもっともよく見かけたのはバックギャモンというゲームである。僕はこのゲームの内容をまったく知らない。それぞれ15個の白と黒の駒を使用し,2個のサイコロの目により,駒を移動させ,相手の側にすべて移動させると勝ちになるようだ。

僕がとなりで見ていると一人が紅茶を注文してくれた。もちろん,僕が支払うことは許されない。お茶を飲み,ゲームを眺めていると,すぐに時間が経ってしまう。テーブルの男性たちにお礼を言ってもう少し街を歩くことにする。

印欧語族に属するクルドの人々とユーラシアの東から移動してきたチュルク系の人々の識別は容易ではない。移動の過程で多くの民族と,特に中央アジアに居住していたイラン系の民族と混血したので,日本人から見るとこれといった差異は見出せない。

それでもなんとなく,この人はクルドであろうという雰囲気は感じることができる。子どもを抱いているおじさんに写真をお願いしたら快く承知してくれた。骨太でたくましい体はいかにも山岳民族という感じである。

この街のパンは二種類あった。小型のフランパンのように細長いものとナンのように薄いものである。どちらも酵母で発酵させているのでふっくらと焼きあがっている。

早朝には細長いパンを満載した荷車を少年が押して,街を回っている。値段は2本で0.5リラ,これにトマトをつけると立派な朝食になる。

中心部の散策で出会った人たち

ちょっと変わった店内装飾のあるロカンタ

夕食はちょっと変わった店内装飾のあるロカンタでいただく。カッパドキアを模したオブジェ以外は国籍不明の装飾であり,なんとなくその雰囲気には魅かれるものがある。しかし,注文をしたナス,ジャガイモ,牛肉の炒め物は油っぽくて僕の好みではなかった。

早朝の風景

朝日の状態の景色を見るため,翌日の早朝にもう一度,南西の丘に登ってみた。民家の横から登ろうとしたのがまちがいのもとで,番犬に見つかり吠えられた。一匹が吠え出すと,近所の犬がみんな吠え出すので別の場所から登らざるを得なくなる。

昨日は分からなかったモスクのミナレットが何本も立っている。光が異なると見えてくるものがあるようだ。アララト山は半逆光になっており,午後の光のほうが写真写りはよい。

アンティークのじゅうたん屋にて

幹線道路を南西に向かって歩き出す。オトガルの近くにアンティークのじゅうたん屋がある。展示されているのはじゅうたんとキリムである。

南北は北緯35度から50度にかけて,東西は中央アジアから西アジアにかけての地域は草原地帯と乾燥地帯が隣接している遊牧民とオアシス定住民の大地であった。

遊牧民の女性たちはヤギや羊の毛を利用した染織りの文化を発展させ,現代に伝えている。それは,ペルシャに代表されるじゅうたんやキリム(毛織物)であり,中央アジアのスザニ(刺繍布)である。

アナトリアの東端にあたるこの地域でもペルシャ文化の影響かじゅうたんとキリムが残っている。もちろん,どちらの布も遊牧生活に必要なものとして生産されてきたわけであるが,女性たちはその中にすばらしい色彩感覚で民族のモチーフを織り込み,まるで絵画のように訪れる人々の目を楽しませてくれる。

僕としてはこのように高価でかさばるお土産を買うことはできない。ウィンドウ・ショッピングで民族の紋様,その多くは繁栄や幸福の意味をもつとされている,を堪能させてもらった。

ドウバヤズットのオトガル

ピクニックがてらイサク・パシャ宮殿に向かう

街を出ると両側は軍隊の駐屯地となっている。左側はアララト山を背景に数十台の戦車や装甲車が屋根の下に並んでいる。戦車の砲身はこちらに向けられており,おだやかではない。右側は演習場のようで,荒地になっている。

当然,このあたりは写真撮影禁止区域になっており,監視所には兵士が立っている。カメラを持って歩いていると彼らから呼び止められる。
「この辺りは写真禁止だよ」
「分かっています,あの丘はどうですか」
「もちろん,ダメだよ」

アララト山が近い

昨日,南西の丘から撮った岩山はやはり禁止区域に入っていた。そのようなことはおくびにも出さず,従順な旅行者を装い,先に進むことにする。広い駐屯地が終わってもう少し歩いてから写真を開始する。

アララト山は頂上付近だけ雪に覆われており,今日も美しいシルエットを見せている。おそらく,アルメニア人のようにこの山を魂のふるさととする感情はトルコ人にはないであろう。ここはトルコ共和国の東の外れであり,彼らにとってのアナトリアの原風景はずっと西のもののはずだ。

子だくさんの家

道路の右側に小さな集落があるので覗いてみる。子どもたちが駆け寄ってきて,「フォト,フォト」と写真をせがむ。「ハイ,ハイ,まとめてとってあげますよ」と集合写真にする。陽射しが強すぎてきれいな写真にはならない。

女の子6人に男の子が一人,よもや同じ家の子どもではないだろうね。コンクリート・ブロックを積み上げた家の前に縁台があったので,ここでヨーヨーを作ってあげる。最年長の子どもはもらったヨーヨーを家の中に隠し,二個目をもらいに来る。材料の数を数えておいたのでそれはすぐ分かるよ。

この家の父親と母親が出てきたので作業の合間にさきほどの集合写真を見せてあげる。これが気に入ったのか一家の集合写真まで撮らされた。

子どもたちはヨーヨーがよほど気に入ったのか,トルコ式のキスをほほにしてくれる。そのような習慣のない日本から来た旅行者はただただ驚いて半分氷っていた。

アララト山の風景は変わっていく

牧草かハーブであろう

水のある緑の農地と茶色の丘陵

子どもたちにお別れして先を進むと,近くの岩山がアララト山を隠すようになる。このあたりは農地にはなっておらず,半分枯れた短い草が生えているだけだ。

水の供給が追いつかないのかなと思っていたら,その先には緑豊かな農地や牧草地が広がっていた。土地の境界を示すものなのか,一列に木が植えられている。

農地の向こうには低い山があり,山と平地の境界は緑と茶色の境界にもなっている。やはり,水の供給なしにはここでは十分な緑は育たないようだ。

放牧からの帰りか町に売りに来たのか…

トラクターに拾われる

イサク・パシャ宮殿に向かう斜面はけっこう急な坂道になっている。途中でトラクターのおじさんが乗せてくれたので,ずいぶん楽ができた。おじさんにお礼を言って僕は宮殿に,トラクターを山裾を回るように東に向かっていった。

イサク・パシャ宮殿

イサク・パシャ宮殿は17世紀にクルド人指導者により建設された。建物はオスマン,ペルシャ,アルメニアなどの折衷様式となっており,確かに城門,大ドームはペルシャ,ミナレットはオスマン,後ろの小ドームはアルメニア(グルジア)で見たものになっている。

昼食をごちそうになる

建物の周辺は城壁で囲われているので,全貌を見るには斜面を登り,上のチャイハネから見学するのがよい。斜面を登り出すとピクニックに来ているトルコ人の一家が大きな岩の下に敷物を敷いてくつろいでいる。ちょうど昼食の時間だったので父親に呼ばれ参加することになった。

どうやらニ家族が一緒のようで,母親と思しき人が二人で準備を進めている。ゆでたじゃがいも,これは僕の大好物だ。それにパン,チーズ,サラダ,紅茶ともりだくさんの食べ物が並ぶ。

たくさんご馳走になったのでこれはお礼をしなければならない。いつものヨーヨーを取り出して子どもの人数分を作ってあげる。これだけでとても喜ばれるので,僕の常備品には欠かせない。

一組目の家族の集合写真を撮り画像を回覧する。二組目の家族の集合写真も要求される。宮殿を背景にした子どもたちの写真もずいぶん喜ばれた。しかし,彼らにプリントをあげる術はない。

今回の旅行は長いので,いつものように住所をお聞きして日本から送るには,件数が多くなりとても無理だ。画像を見るだけで満足してもらうしかない。昼食のお礼を告げて僕はさらに上のチャイハネまで登ってみた。

斜面のチャイハネ

さすがにチャイハネからの景色はすばらしい。イサク・パシャ宮殿を前景にドウバヤズットの街が広がっている。その少し手前には二つの小さな丘が見える。街に近い丘は今朝登ってきたもので,その隣は軍の監視所がある丘だ。

街を外れると緑は少なくなり,ところどころに緑の濃い農地がある。それにしても,このような荒涼とした大地で人々はどのように生計を立ててきたのであろう。

冬は-30℃にもなり,降雨量も東京の1/4ほどの半砂漠地帯である。しかし,ここはクルドの人々のかけがえのない土地であり,人々は「クルディスタン(クルド人の土地)」と呼ぶ。

イサク・パシャ宮殿から視線を右に90度回転すると,小さな谷を挟んで古い城塞とモスクがある。城塞は岩山の構造を利用して造られており,いかにも山岳地域の砦という感じがする。この城塞は紀元前9-6世紀にこの地域を支配したウラルトゥ王国の時代にさかのぼるという。

僕の立っている岩山の斜面にはクルド人文学者アフメッド・ハニの霊廟がある。こちらは改修されたのか,時代が新しいのか,ずいぶん新しいもののように見える。どちらも,近くまで行って見ることはしなかった。

ドウバヤズットの町を眺望する

清楚な白い花

宮殿の下はキャンプ場になっている

帰りは宮殿の横をそのまま下った。道路に比べるとかなり近道になる。道路に再び出るとすぐ横に水場があり,たくさんの家族連れでにぎわっている。調理済みの食料を持ってきているグループもいれば,本格的にバーベキューをしているグループもいる。

ここはドウバヤズットの人々のピクニック場になっている。子どもの多いグループで紅茶をいただき,写真を撮ってしばらくここで過ごす。スカーフ姿の女性を含め,特に写真に対する禁忌はないようだ。

水のあるところの風景

水の乏しいところの風景

行きはトラクターで運んでもらった道を振り返る

道端で昼食をとっている人々

道のりの半分くらいのところで車を停め,道端で昼食をとっている人々がいた。ここでもお呼ばれして,飲み物と食事をいただくことになった。ちょうど通りかかった日本人のカップルがいたので彼らもご一緒することになった。それにしてもどうしてこんな場所で食事なのだろう。

バックギャモン

名前は知っているが自分ではやったことがないゲームだ。この町では男たちはこのゲームに熱中しており,中央通りの歩行者天国では何組もの男性たちがボードを囲んでいる。

夕暮れのアララト山

夕暮れの小アララト山

丘の近くの家で呼び止められる

今日の夕食は挽肉を使ったキョフテとサラダ

珍しくレストランで食事をすることになった。トルコではひき肉を使用した焼肉料理は「キョフテ」といって「ケバブ」と区別している。これに色つきごはん,サラダ,ナンをつけて4.5リラであった。ざっと400円の夕食である。ロカンタで食事をしても4リラ程度なのでこのレストランはパフォーマンスが良かった。


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