亜細亜の街角
モスクの多いアナトリア東部最大の町
Home 亜細亜の街角 | Erzurum / Turkey / Sep 2007

エルズルム  (参照地図を開く)

トルコの国土面積は日本のほぼ2倍,東西は1600kmもあり,その大部分はアナトリアと呼ばれる山岳地帯となっている。中部および東部アナトリアは内陸性気候のため夏は乾燥して暑く,冬は寒さが非常に厳しく雪も多い。

温暖な気候の黒海沿岸や,地中海沿岸とは大きく異なっている。経済的にもイスタンブールに代表される西部に対して立ち遅れており,一種の東西格差ができている。

エルズルムは人口約90万人,標高1853mに位置する東部アナトリア最大の都市である。この地域はペルシア,コーカサス,西アナトリアを結ぶ通商路となっているため,昔から多くの大帝国や地域勢力の支配を受けてきた。

町ができたのは5世紀でビザンツ帝国(東ローマ帝国)の要塞都市として歴史に登場している。町の名前も当時の皇帝テオドシウス2世にちなんで「テオドシオポリス」であった。その後,500年間はビザンツ帝国とアラブ王朝の間で争奪戦が繰り返され,11世紀はセルジューク朝,15世紀以降はモンゴル帝国,チムール帝国,オスマン帝国さらにロシア帝国の支配を受けている。

町はセルジューク朝の時代に「Arzen Erzen」となり,これにビザンツ帝国の支配下にあったことを示す「Rum(ビザンチウウムのウムに相当する)」が付加されて「Arzen Erzen al-Rum」が変化して「エルズルム」になったとされている(出典:wikipedia)。

いかにも,多くの民族の支配の歴史を感じる名前である。多くの支配の歴史を映し出すように街にはそれぞれの時代の建築物が数多く残されており,観光地化されていない街をのんびり歩きながら,それらを見て回るのは楽しい。

トラブゾン→エルズルム 移動

06時に起床,朝食は店をまちがえて夕食用のところに行ってしまった。そのため,パンとサラダの予定がパンとスープになってしまった。トルコでは少し柔らかめのフランスパンを切ったものが大きな容器の中に入っており,食べ放題である。スープはそれほどおいいしいものではない。

これで2.5リラ(225円),日本の物価にかなり近い水準になっている。おそらく2007年の秋はユーロバブルがはじけておらず,高いユーロに連動するようにトルコ・リラも高かったようだ。米国のサブプライム・ローンの破綻に始まった欧米の金融危機によりユーロは対ドルでも大きく値を下げている。

1年後の2008年10月のレートをチェックしてみると,ユーロは160円→125円,トルコ・リラは90円→57円になっている。ユーロは78%,リラは63%に下落している。旅行時の時期が悪かったなあ。

チェックインのとき値段交渉で少しもめたが,泊まることになってからは愛想が良くなったおばさんにキーを返してチェックアウトする。広場の前でオトガル(バス・ターミナル)行きのドルムシュ(ミニバス)が見つかり,08時前にオトガルに到着した。しかし,出発時間は09:30である。

トルコのオトガルにはたくさんのバス会社が入っている。鉄道がそれほど発達していないトルコではバスがもっとも便利な交通機関となっている。バス会社の数も多く,そのため地域の主要都市への路線は競合することになる。

チケットを買う場合は,複数のバス会社の中から自分で選択しなければならない。僕は,エルズルムが一番上に記載されたカウンターでチケットを購入した。料金は250kmで25リラ(20$)とアジアの他の地域に比べるとずいぶん高い。

トルコ語はラテン文字を使用しているので読むのは容易だ。第一次世界大戦後,オスマン帝国が解体されトルコ共和国となったとき,初代大統領のアタチュルクがアラビア文字表記をラテン文字表記に変更した。

ラテン文字だけでは表記できない発音のため,いくつかの発音記号を付加したラテン文字を追加している。もっとも,文字はラテンでもトルコ語はアルタイ語に属している。

日本語と同じように膠着語(日本語の助詞や助動詞にあたる接尾辞を付着させて文法関係を示す)であり,語順も日本語に似ている。現在のトルコは日本とは9000kmも離れているが,歴史を遡るとチュルク系民族の故郷はモンゴル高原である。言語が東アジア系であるのは当然である。

さて,チケットを買っただけで安心してはならず,会社名とバス乗り場をちゃんと確認しておかなければならない。小さな町でもバス会社ごとに乗り場が異なっているからである。

発車時間前に乗り場の近くで待機し,入線したバスの会社名と行き先を確認してから乗り込む。もっとも車掌にチケットを見せて確認してもらうのが一番だ。バスは28人乗りの中型,内装も値段相応にきれいだ。

しばらく平坦な道を走っていたが,じきに川沿いの登りの道となる。高原に出ると,一面の農地と牧草地になっている。これがアナトリアの原風景なのだろう。13時にBayburt のオトガルで降ろされ,バス会社のカウンターに引き渡される。

どうやら最初のバスはエルズルムへの直行便ではなかったようだ。じきに大型バスがやってきて,それに乗りなさいと案内された。バス会社は異なるのにオリジナルのチケットで乗車することができた。なんだかよく分からない仕組みだ。

メルセデスの大型バスはさすがに乗り心地が良い。車掌が「コロンヤ」と呼ばれる香りのついた水をもって席を回る。乗客は両手で受け,手をこすり合わせてきれいになった気分になる。紅茶とコーヒーのサービスもある。

トルコではコーヒーは簡単には飲めないので,バスの中ではいつもコーヒーをお願いしていた。残念ながらアラビア風のトルコ・コーヒーではなく,インスタントである。

バスが停車する。軍隊による検問である。乗客のIDカードが集められる。アナトリアの東部はアンカラ政府と対立しているクルド人の多い地域であり,検問は治安上の措置らしい。

アナトリア東部の内陸部の年間降水量は300-400mm程度で,半乾燥地帯といってよい。しかも,降水量は春先に多く,7-9月は乾期にあたり,かなり乾燥している。湿潤な黒海沿岸のトラブゾンからエルズルムに移動したら,日記用に使用していたノートがしわしわになってしまった。

ここでは海岸から内陸に直線距離で200km移動しただけで,そのくらい気候が変化する。気温は25度くらいはありそうだが,湿度が低いのでけっこう快適である。

半乾燥地域なので周辺の山は緑が少ない。峠を越え視界が広がると荒地といってもよい風景が広がっている。その中でも一部の斜面には農地と林が見られる。特に灌漑設備は見当たらないので,緑の地域も天水で潤っているようだ。

蜜蜂の巣箱が100個ほども並んでいる。周辺には潅木の群落がある程度で,ほとんど花を見かけていなのに,こんなところでもハチミツを集めることができるのだ。

平坦な地域に出ると広大な麦畑が広がっていた。すでに収穫は終わっており,コンバインが刈り取ったあとが薄い茶色の面となっている。麦わらも家畜の飼料にするのか畑には何も残されていない。

Yeni Cinar Hotel

エルズルムのオトガルは町の中心部から西に1.5kmのところにある。市内までは市バスを利用することができる。市バスは大きな通りで僕を降ろしてくれたが,そこがどこなのか地図と照合できない。

こんなときは地図と照合できてランドマークとなる大きなホテルやショッピング・センターの場所を周囲の人にたずねるのがいい方法だ。

このときは分かりやすいウル・ジャーミイをランドマークにしてたずねたため,かなり遠回りをしてしまった。結局,15分の距離を30分かけてYeni Cinar Hotel に到着した。

ここは受付もしっかりした普通のホテルである。部屋は4.5畳,1ベッド,T共同で清潔である。トルコの物価はずいぶん高くなっており,この共同シャワーのない部屋でも13リラ(10$)もする。顔を洗うための洗面台は部屋にある。また,トイレで手桶に水を汲んで水浴びくらいはできる。

金物屋のご主人

宿の向かい側には金物屋が多い。真ちゅう,銅,ブリキ,ステンレスのナベやボウルが店の内外に積んである。日本では専門の厨房でなければとても使用しないような直径50cmほどもあるズンドウナベや直径80cmもある深いナベが置かれている。

大家族制や近所とのおつきあいがしっかり残っている田舎では,このような調理器具が必要なのかもしれない。ほとんどヨーロピアンに見える店の主人は,商品と一緒にカメラに納まってくれた。

大八車による移動販売

エルズルムの街には南北のメンデレス・チャド通りと東西のジェムフリエット通りが走っている。この2本の道路の交差点(特別の名前がないのでA交差点と呼ぶ)から半径500mくらいの地域に街の主要部がある。

A交差点から北に500mくらいのところにギルキ・カピ・ロータリーに出る。僕の宿はこのロータリーから3分のところにある。ロータリーから北西に500mくらいまっすぐ行くとエルズルム駅に突き当たる。街の見どころはA交差点を挟んで東西線のジェムフリエット通りの両側にある。

ギルキ・カピ・ロータリーの東側のジャーミィ

ギルキ・カピ・ロータリーの東側にジャーミィ(モスク)がある。石造りの方形の建物の上に大きなドームを乗せ,角に一本のミナレットが立っている。この町のジャヤーミィはこの形式のものが多かった。

ジャーミィはトルコ語でモスクを表す。しかし,アラビア語では金曜日であり,金曜大礼拝の行われる大きなモスクがマスジッド・ジャーミィ(金曜モスク)と呼ばれていた。それが,トルコではジャーミィ(金曜)の方がモスクの一般名詞として使用されるようになった。

ちなみに,モスクはマスジッドがイスラム支配下のスペインでメスキートになり,それが英語の「mosque」になったものである。したがって,イスラム圏ではイスラム教礼拝堂を表す一般的な言葉は「マスジッド」となる。

トルコからアラブ圏のシリア,ヨルダンに南下すると「マスジッド」になるはずである。地元の人と話すときにもモスクではなくマスジッドを使用したら,好感をもたれるかもしれない。

さて,このモスクは特に見るべきところはないけれど,周辺がオープンのチャイハネになっている。モスクの敷地内にはスペースがあるので,そこにテーブルとイスを並べている。ここで坐っているのはすべて男性である。

トラブゾンのアタチュルク広場にあるチャイハネには家族連れを何組も見かけたので,ここが男性専科となっているのは,ジャーミィという場所もしくは土地柄によるものであろう。

ここのチャイハネは50ほどのテーブルがあるのでいろいろな人を見ることができる。0.5リラのシャーイ(紅茶)をいただきながら,人間を観察することにしよう。

子どもたち

エルズルム駅

ロータリーから北西にまっすぐ行くとエルズルム駅にぶつかる。石造りの2階建て,バスターミナルに比べると開店休業のような状態である。駅前広場には古い蒸気機関車が展示してある。

トルコの物価はかなり高い。食事も日本と同じくらいなので,長期旅行者はとてもレストランで注文を出せるような状態ではない。ありがたいことに,トルコには「ロカンタ」というできあいの料理を注文できる仕組みがある。詳細はトラブゾンのところを参照していただきたい。

この街にもちゃんとロカンタがあり,初日の夕食はミンチ肉と野菜のトマトスープ煮である。この煮込み料理は種類も豊富でほとんど外れはなかった。サラダと食べ放題のパンをつけて4リラ(3$)である。

日本人にもっとも知られているトルコ料理はやはりドネル・ケバブであろう。しかし,この街ではドネル・ケバブはあまり見かけなかった。アナトリア東部は西部に比べて食習慣が異なるのかもしれない。

石畳の道

06時に起床,今日は街を一回りする予定だ。07時前に宿のとなりのロカンタで朝食をいただく。チキンスープ,パン,チャーイで2リラとありがたい値段だ。トマトソース味のスープにはおかゆのような米粒が入っている。しっかりした朝食をとり,南に向かって歩き出す。

宿の西側,南に向かう道の両側は商店街となっており,衣服,貴金属の店が並んでいる。しかし,さすがにこの時間にはすべてシャッターが下ろされている。この道路は「チフテ・ミナーレ神学校」近くのロータリーまで,ずっと石畳になっている。

この車の時代になぜ石畳なのかと疑問が生まれる。トラブゾンでもアタチュルク広場周辺の通りは同じような石畳であった。何か意味があるのかもしれない。使用されている石は15cm四方ほどの方形で,表面は磨かれてはいない。

名前の分らない銅像が立っている

南北方向の石畳の道は東西線のジェムフリエット通りに交差する。ここもロータリーになっており,周辺には名前の分からないジャーミィや銅像が立っている。

チフテ・ミナーレ・マドラサ(神学校)

西側には「チフテ・ミナーレ・マドラサ」の特徴的な二本のミナレットが見える。ロータリーのあたりから見ると方形の建物の前部に二本の煙突が立っているような構図である。しかし,実際には中庭のあるコの字型の建物のはずだ。方形に見える建物の後ろ側にはアルメニアやグルジアの教会を特徴付けるドームがある。

「チフテ・ミナーレ神学校」は13世紀にイルハーン朝(フレグ・ウルス)のスルタンの妻により建てられた。フレグ・ウルスは現在のイラン,イラクを中心にしており,この建造物のファザードを見る限りでは文化的にはイランの影響が強いようだ。

注)マドラサ(神学校)とはイスラム神学校であり,そこで多くの学生がコーランやイスラム法について学んだ。このようなマドラサを維持するための費用は地域の有力者が寄進していたらしい。

注)イルハーン朝とはモンゴル帝国の一部であるフレグ・ウルスの別名である。チンギス・カァンの孫(チンギス→トルイ→フレグ)にあたるフレグは,1253年にモンゴルの征西軍を率い,シリアからアフガニスタンにまたがる地域を制圧し,地域王朝を開いた。これをフレグ・ウルスという。

注)スルタンとはイスラム世界の世俗権力者を意味する。地中海世界の南半分と中東を支配したオスマン帝国の最高権力者もスルタンであり,地方の豪族もスルタンと称していた。一方,宗教権威者はカリフと呼ばれており,スルタンを兼ねることもよくあった。

ファザード(正面図)は長方形の無骨な姿をしており,入り口の両側には高さ30mのミナレットが配されている。この構図はイランの宗教建造物でよく見かけるイーワーンを踏襲している。建物本体の上には背の低いドームがあるようだが,下からはよく分からない。

アーチ型の入り口の上部には,これもイランの宗教建造物に多い鍾乳石飾りが施されている。建設当時はこのイーワーン部分は彩色タイルで装飾されていたと考えられるが,現在ではむき出しの石像建築になっている。

それでも,石に彫られた幾何学的な紋様と彩色タイルが残っている二本のミナレットは,往時の美しさの一端を今に伝えている。ファザードの袖の部分には生命の木と双頭のワシのレリーフがある。

トルコ観光局の案内板によると龍のレリーフもあるようだが確認できなかった。いずれにしても,偶像崇拝が禁止されているイスラムの宗教施設にそのようなデザインを彫り込むのは異例のことだ。

内部は中庭になっており,それをコの字形の回廊をもつ二階建ての建物が囲んでいる。ここはマドラサなので建物は個室に分かれている。それぞれの4.5畳ほどの広さの部屋は一人あるいは二人の学生の居室になっており,彼らは終日イスラムについて学習を深めていた。

しかし,現在この建物はほとんど無管理状態になっており,回廊には土産物となる商品が並べられている。それは政教分離を定めたトルコの一面の姿である。建物の奥にはトルコ共和国の初代大統領であり,政教分離を国是としたアタチュルクのレリーフが飾ってあったのが印象的だ。

ロータリーから見たとき背後にあった搭状の建物は近くから観察すると,アルメニアやグルジアで見たキリスト教の教会とは似て非なるものであった。教会の場合は三角形の切妻屋根をもつ建物を交差させ,その中心にドームを置く構造となっている。

ここのものはドーム構造は同じでも,地面からそのまま石組みで円筒形の胴部を造り,その上に円錐形の屋根を置いたものであった。似て非なるものとはいえ,やはり隣国の建築様式に影響されているのであろう。

トルコ政府観光局の情報では「ウチュ・キュムベットレル霊廟」にある12世紀の建造物はグルジア,アルメニア,初期トルコ建築の特徴が混ざり合ったスタイルとなっていると記されている。

道路を挟んで「チフテ・ミナーレ神学校」の向かいには「城塞」がある。この上からは市内を見渡すことができるけれど,あいにく大規模な修繕工事が行われており,入ることはできなかった。

神学校の西側にある「ウル・ジャーミィ」は現役のイスラム礼拝堂である。一本のミナレットをもった,石造りの建物には小さな窓があるだけで,まるで刑務所のようだ。この時間帯は入り口の扉は閉まっており中には入れない。昼過ぎに前を通ると中では説教が行われていた。

「城塞」は大規模な修繕工事中であった

現役のハマヌだという

神学校の南側に「ユチュ・キュンベルト霊廟」があると記載されていたので,そちらに歩いていく。丘の上に丸屋根と複数の煙突を配したおもしろい建物があったので立ち寄ってみるとハマムであった。

ハマムは中東でよく見られる公衆浴場である。僕の経験ではバスタオルを腰に巻いて中に入る。湯船はなく,蛇口のお湯で体を洗う。中央には下から熱せられた大きな大理石の台があり,その上で横になる一種のスチームバスである。

頼めばマッサージもやってもらえる。もちろん,男性客には男性が担当する。話のタネにこの地域を訪れたら一度は経験しておく価値がある。

二人に呼び止められ紅茶をごちそうになった

建物がハマムと分かったので先に進む。歩道にテーブルが置かれたカフェで話をしている男性の写真を撮ったら呼び止められ,紅茶をごちそうになった。トルコ人はお茶のもてなしが本当に好きなようだ。この日も行く先々でお茶を出され5-6杯はいただいた。

8人の子持ち一家

丘の途中で姉弟の写真を撮ったら家に案内された。この家には5歳から15歳まで8人の子どもがいた。ほとんど毎年一人のペースで出産していたことになる。さすがに,8人で十分と思ったのか,この5年は子どもがいない。う〜ん,これでは人口が増えるわけだ。

このうち7人の子どもは集合写真に入ってくれた。一番上のお姉さんはそろそろお年頃らしく辞退された。中庭のゴザに坐るとお母さんが昼食の準備をしてくれた。僕を含めて11人でにぎやかな食事になった。

薄焼きパン,紅茶,ハチミツ,ナシ,プルーンをいただく。この人数では食事代だけでも大変だろう。両親に入り口で撮った集合写真をみせてあげると,大いに喜んでくれ,「自分たちも撮ってくれ」と要求された。

両親の写真を撮り,画像の閲覧でもう一度盛り上がる。子どもたちからは二人ずつの個別写真を要求され枚数が増える。昼食のお礼に日本から持参したヨーヨーを作ってあげる。これも大いに喜ばれた。

靴磨き屋の道具箱

結局,「ユチュ・キュンベルト霊廟」は見つからず,東西線のジェムフリエット通りに戻り西に歩き出す。この通りは幹線道路で人通りも多い。それを当てにして靴磨き屋が店を出している。トルコの靴磨き屋の道具箱は金色に輝く真ちゅうで覆われており,写真写りがよい。

ご当地のウエディングドレス

ララ・ムスタファ・パシャ・ジャーミィ

A交差点の向こうに「ララ・ムスタファ・パシャ・ジャーミィ」のドームとミナレットが見える。道路側からは本体部分の半分くらいは看板が貼り付けられた塀に隠されているので,反対側からの写真がよい。

16世紀半ばに建てられたもので,トルコを代表する建築家ミマール・スィナンの手によると言われているが,イスタンブールなどで見かけた彼の建築物とはまったく趣が異なっているのでおそらく違うであろう。

方形の本体の上には中心部の大ドームを囲むように小ドームが配されており,これはオスマン様式と呼ぶべきものである。本体の角に配された一本だけのミナレットはこの地域の基本形になっているようだ。

ミナレットの上部にはテラスが置かれ,礼拝の時刻になると,ここから礼拝を呼びかけるムアッジンのアザーンが響いたことであろう。現在はテラスの上にスピーカーが取り付けられており,電子制御の音声が流れるだけである。

入り口の近くには八角形の東屋のような水場があり,人々はここで身を清めてから礼拝に向かう。内部は一面に同じ柄のじゅうたんが敷かれ,巨大なシャンデリアが周囲を照らしている。上部はステンドグラスになっており,光の具合はとてもよい。

建物の平面図はほぼ正方形に近く,4本の柱とそれに連なる4つのアーチが天井を支えている。メッカに向いたミフラーブの横には異様に高いミンバル(説教台)が置かれている。イマームがこの最上部に坐って説教をするとしたら,近くから見上げると首が痛くなりそうだ。

ヤクティエ・マドラサ(神学校)

パシャ・ジャーミィのすぐ西側に「ヤクティエ・マドラサ」がある。ここも周辺に樹木があり写真のアングルが難しい。このマドラサはイル・ハーン朝の地方領主が1310年に建造したものである。

建物本体の平面図はほぼ正方形で,東側中央に円筒形の胴と円錐形の屋根をもった付属施設が付加されている。一本だけのミナレットは西南の隅に配されている。

エルズルムから見るとメッカは南南東に位置しているので,この地域の宗教的建造物は南北を基軸に造られ,北に入り口,南にミフラーブという構造になっている。したがって,シェムフリエット通りの北側の建物は道路からみると裏側に入り口がある。

建物の周辺は観光客や礼拝者のための屋外チャイハナ(カフェ)になっている。ファザードには彩色されていない細かいレリーフが彫り込まれている。入り口の上部を飾る鍾乳石飾りも単なる石の凹凸で表現されている。

イランや中央アジアの華やかな彩釉タイルを見てきたので,このような造形は逆に新鮮に写る。入り口の袖には鷲,生命の木,獅子をモチーフにしたレリーフがあり,これはイスラムの宗教的建造物としては異例のものだ。

チフテ・ミナーレ・マドラサも同じように物の形をそのまま写し取ったレリーフが残されている。イル・ハーン朝の時代,この地域ではそのようなものに寛容だったのかもしれない。

このマドラサのミナレットは印象的なものであった。現在は一本しか残っていないが,建設時は建物の四隅にあったという。交錯する縄目模様とその間を埋める陽にあせた青の紋様がタイルで表現されている。

街角の風景

エルズルムは急速に変わりつつある町という印象を受けた。表通りには世界を代表する企業の看板があるかと思えば,その前を馬車がゆっくり通り過ぎていく。

アタチュルク公園

ジェムフリエット通りをまっすぐ西に進むと,大きなロータリーになっており,その中央になかなかしゃれた噴水がある。全体は球形であり,中心部からたくさんのパイプが放射状に伸びており,その一本一本から水が噴出している。

球体全体が水に包まれ,そこから細かい霧のような水滴がしたたっている。時間と場所を選ぶと虹も見える。噴水池の一端には横長のレリーフとその上に立つ軍服姿のケマル・アタテュルクの立像がある。

レリーフの下部には1919年7月23日の日付がある。第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は解体され,アラブ人居住地域は英仏の管理下に置かれた。チュルク系民族が多数を占めている現在のトルコ共和国の領土もいくつかに分割されオスマンから切り離されようとしていた。

イスタンブールのオスマン政府は領土に関しては連合国のいいなりとなっていた。これに対して大きな危機感をいだいた軍関係者は,1919年にチュルク系住民が多数を占めるアナトリアとヨーロッパ側のトラキア(ルメリア)の領土保全を掲げるアナトリア・ルメリア権利擁護委員会を結成した。

この会議が開催されたのがエルズルムとシィワスであり,会議の主導権を握ったのは大戦中の英雄ムスタファ・ケマルであった。ここのモニュメントはそのとき様子を描いているものであろう。ロータリーの周辺は整備された芝生になっており,一部は公園になっている。

じゅうたんの移動販売車

近くにはじゅうたん屋が店を開いていた。この店は商品を大型トラックに納めており,側面を持ち上げ,そこからテントを張って店舗にしている。テントの下ではじゅうたんは広げられ,収納される時は丸められる。なかなか機動性のある移動店舗だ。

コーラン

じゅうたん屋の背後には白いテントの臨時商店街もあった。テントの作りからして常設ではなく期間限定の店のようだ。テントの内部は多くの店が入っており,衣類,雑貨,書物,時計など多くの商品が展示してある。なにか催し物があるのかもしれない。

イスラム教の聖典コーラン(クルアーン)を扱っている店もあった。コーランはアラビア語のものを単に読むのではなく,独特の節回しで声に出すことが求められている。そのため,内容を翻訳してもそれはコーランとはみなされない。

トルコではアタチュルクの時代に文字表記をアラビア語からラテン文字表記に変更された。そのため,左側中央のコーランは主文はアラビア文字で表記され,周囲にトルコ語で解説もしくは翻訳が記されている。

童顔の店員

高校生くらいに見える雑貨屋の女性に写真をお願いするとこころよく応じてくれた。彼女とは近くの公園で再会し,今度は彼女の方から噴水を背景にした写真をお願いされた。

中央アジア起源の湯沸かし器

テントの外にはおもしろい湯沸かし器を使用したカフェがあった。中心部に煙突が通るようになったずん胴ナベがコンロの上に置かれている。コンロの煙突はナベを通り上に出ている。これはかなり熱効率の良い湯沸かし器になる。煙から判断すると燃料は薪が使用されているようだ。

ナベの下部には蛇口が,上部にはポットが取り付けられている。お湯を出してポットでお茶を入れ,ナベに取り付けておくと冷めないしかけになっている。この装置がおもしろくてここでも紅茶を注文する。

アタチュルク大学

ロータリーの西側は「アタチュルク大学」の入り口になっている。もっとも道路はロータリーからまっすぐ西に伸びており,その両側が大学のキャンパスになっている。

大学の入り口は城塞を模した門と羽を広げている鷲の像が置かれており,ロータリーから円周道路を挟むといい構図の写真になる。しかし,ロータリーにはちょうど構図を塞ぐように軍用車両が停まっている。運転手が僕に気づき手を振ってくれるので,(いいのかなあ)と思いながら写真にする。

アタチュルク大学は創立70周年ということで,トルコの国旗と紅白の細長い布がいたるところに飾られていた。ロータリーの北側は閑静な住宅街になっており似たような形状のアパートが立ち並んでいる。

トルコの集合住宅は日本のように薄い直方体ではなく,平面図はほぼ正方形である。屋根は四角錐で傾斜はずいぶんゆるやかだ。壁面は少し赤みがかったアイボリーかレンガ色でまとまっており,街並みの景観にも配慮されているようだ。

噴水の風景

アタチュルク公園にあった珍しい球形の噴水も良かったが,このようなクラシックな噴水は安定した風景を演出してくれる。

軍用装甲車はなんのためにあるのだろう

気さくに声をかけられる

大きな調理用具が目立つ

近くのジャーミィのチャイハネ

エルズルムは本当にジャーミィの多い町だ。中心部のA交差点から半径500mの範囲を歩いただけでも20近いジャーミィを見つけた。ほとんどのものが方形の石造りの本体,中央の大きなドームと周辺の小ドーム,一本ミナレットの基本デザインにのとっている。

一回りして宿の近くのギルキ・カピのロータリーに戻る。近くのジャーミィのチャイハネは夕方の時間帯なのでかなり混雑している。壁にプレートが貼られているのに気がついた。

どうやらこの礼拝堂は「アリアー・ジャーミィ」と呼ばれているらしい。もっとも,僕はトルコ文字を正確に読めるわけではない。トルコ語の発音表に基づき,おそらくこう発音するであろうと推定したものだ。

やはり,この時間帯にもチャイハネのテーブルに集まっているのは男性ばかりだ。女性の服装はほとんどがコート,スカーフ姿であり,イランのように黒いチャードル姿の女性もけっこう見かけた。

それに対して,男性の服装はほとんど洋風化している。イスラム帽の着用率は2-3割といったところである。ほとんどの男性は口ひげを蓄えており,イスラム帽の人たちは頬ひげも生やしている。この相関はかなりはっきりしている。

乾物屋

トルコ風ピザ

街角にはナンに近いパンを焼く店がある。ナンは生地を半日ほど発酵させてから焼きあげる。日本人の想像するパンに比べるとずっと密度が高い。ナンを食べなれると,日本の食パンはまったく歯ごたえがなくて,食べたような気がしなくなる。

このパン屋ではトッピングを持参すると,一緒に焼き上げてくれる。出来上がりはトルコ風のピザである。形状は細長く,広げた新聞紙ほどの長さである。これもトライしてみたかった食べ物であるが,一人旅ではその機会はなかった。

しかたがないので,今日も街角のロカンタに入り,出来あいの料理を指差すことになる。チキンの煮込み(胴の半身),パン,サラダで4.5リラである。

男性からの写真の注文が多い

ショッピングセンターの屋根がおもしろい

大規模な道路工事が行われている

サモワール

このような湯沸かし器はトルコ,イラン,中央アジアの国々でよく見かけた。一般的には「サモワール」と呼ばれており,古くは炭が熱源として使用されてきた。現在ではほとんどが電熱型になっている。このような湯沸かし器の起源は中央アジアとされており,「サモワール」という名前はロシア語起源である。

オリジナルは湯沸かし器であったが,お茶の習慣が広まると上部にティーポットを置いて保温する機能をもつようになった。この地域のものはやかんが置かれるようになっており,湯沸し機能が主体のようだ。

板金工房の子どもたち

この施設はマドラサであったと思われる。現在は板金加工所になっており,奥の建物では板金の仕事が行われていた。写真の水場は礼拝前に体を浄めるものであり,すべてのイスラム教施設に備えられている。現在でもきれいな水が湧き出している。

この界隈で遊んでいた子どもたちの写真を撮ると,次から次へと子どもたちが湧いてきて集合写真になった。

バス停の風景

人がたくさん集まっているバス停では男性の服装が洋風化していることがよく分かる。女性の服装もそれなりに洋風化しているが,イスラムの慣習に従いスカーフを着用し,コートを着ている人も多い。

トルコ風のチャイ

トルコ風のチャイはおそらく日本のお茶以上に飲まれている。酒が禁忌となっているので男性同士でチャイを飲みながら世間話をすることになる。使用されているのは角砂糖の形状をしているものの,中には密度の高い固いものもある。これは白砂糖(上白糖)の精製方法によるものである。

さとうきびの液汁にはショ糖成分と黒褐色の糖蜜成分が含まれており,両者を分離する方法は13世紀頃にエジプトで開発された。このとき使用されるウブルージュという素焼きの壺が円錐を逆さにした形状をしているため,糖蜜を分離されたショ糖は円錐形の固形になる。この砂糖は固いためチャイに入れても簡単には溶けず,砂糖の塊をチャイに少し浸してかじり,一緒にチャイを飲むという流儀もある。


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