亜細亜の街角
民宿スリコ家で歓待される
Home 亜細亜の街角 | Kutaisi / Georgia / Sep 2007

クタイシ  (地域地図を開く)

クタイシはトビリシから西に221km,人口約20万人,グルジア西部の中心都市である。古くからギリシャ世界とも関係が深く,ギリシャ神話のアルゴナウタイ物語(*1)の中に登場するコルキスはこの地域にあったコルキス王国のことである。

*1)イオルコスの王子イアソンは叔父から王権を取り戻すため黒海東部のコルキスに行き,黄金の羊の毛皮を持ち帰る冒険に出る。ギリシャ全土から募った勇者とともに船大工アルゴスが建造した船(アルゴー号)で出帆する。彼らはアルゴナウタイ(アルゴー号乗り組みの一行)と呼ばれ,数々の苦難と試練を乗り越え黄金の羊皮を手に入れる。しかし,この物語は決してハッピー・エンドで終わらない。

10世紀にクタイシから出たバグラト朝は東西に分かれていたグルジアを初めて統一した。周辺の帝国との戦いに打ち勝ち,タマル女王(在位1184年-1213年)の統治時代に王国の版図を南コーカサス全域にまで広がり,西アジアの強国となった。タマル女王はビザンツ帝国が十字軍のため一時滅亡したとき,亡命貴族がトレビゾンド帝国を建国するのを援助したことでも知られている。

トビリシに遷都するまでクタイシはバグラト朝の都となっていた。現在のクタイシはこじんまりとして気品に溢れる街である。町を見下ろす丘に立つバグラティ大聖堂,近郊にあるゲラティ修道院はユネスコの世界遺産に登録されている。

ネットでクタイシの情報を探していたらクタイシと名付けられた小惑星に関する記述がウィキペディアに載っていた。それによるとクタイシ (1289 Kutaissi) は1933年にロシアの天文学者グリゴリー・ネウイミンがクリミア観測所で発見したとある。町の名前が天体の名前になるなんて素敵なことだ。

トビリシ(230km)→クタイシ 移動

カズベキから帰ってきて再び「ネリ・ダリの家」に宿泊する。07時に起床し,パンとトマトで朝食をとる。昨夜は同宿の日本人旅行者と一緒に200円のキャビアとワインをいただき,すぐに寝込んでしまった。

情報ノートには「安物のキャビアはホウボウの卵を着色したものだ。本物は大さじ一杯でも3000円くらいはする。味はイクラを10倍くらい濃くしたものだ」と記載されていた。まあ,そんなところであろう。

キャビアはチョウザメの卵を塩漬けにしたものでカスピ海とアムール川が主要産地となっていた。チョウザメの仲間は一般的に長寿で最高級のキャビアのとれるカスピ海のベルーガは成熟には20年を要するという。

産卵も鮭のように一度だけではなく何度も行うことができる。キャビアを取るためには固体を殺さなくてはならないので,捕獲はその後何回も繁殖できる可能性を奪うことになる。

当然,人間による捕獲のためチョウザメ資源は減少していくことになる。カスピ海ではソ連の崩壊により乱獲が始まり,何種類ものチョウザメは絶滅の危機に瀕している。2006年にカスピ海産のキャビアの国際取り引きはワシントン条約により当面禁止された。

先進国では1990年代から大規模なチョウザメの養殖が始まった。現在出回っているキャビアはほとんど養殖ものであり,日本でも1缶5000円から4万円くらいで販売されている。

キャビア仲間の二人は昼過ぎの国際バス(25$)でトルコのトラブゾンまで一気に移動するという。国境付近の移動の面倒さを考えると,25$はそんなに高いものではない。後で僕はそれを体験することになる。

僕はクタイシが見たかったのでメトロでディドゥベ駅に行きミニバスでクタイシに移動する。ディドゥベ駅前のバスターミナルを利用するのはこれで3度目になる。クタイシ行きのミニバスはバスターミナルの外れの方にあり,座席に坐っているとちょっと怪しげが男性が10ラリのプリントを乗客に渡し,料金を徴収している。

バスはのどかな田園地帯を走る,ときどき町や村が現れる。トイレ休憩1回でクタイシ駅前の長距離バスターミナルに到着する。ここは街の中心部から2kmくらい離れている。駅前の路上からNo.1の市内バスが出ており,それで中心部のダヴィド・アグマシェネベリ広場まで移動する。

スリコの家

ダヴィド・アグマシェネベリ広場の中心にはダヴィド4世の騎馬像があり北側にはメスヒシュヴァリ記念劇場があり,街の最適なランドマークになる。ここからトビリシ通りの坂を登っていき,右側に100番地の表示があったらそこを左折する。

スリコの家は特に表示はないのでうろうろしていたら,庭にいた男性から声がかかかった。彼はここに滞在しているドイツ人の旅行者であり,スリコ夫人に引き合わせてくれた。料金は2食付きで20ラリと妥当なところだ。

この家は寝室が5つある大きなもので,旅行者に2部屋を開放している。宿泊人数は最大で4人といったところだ。住人はスリコ夫妻,2人の娘,孫1人,どちらかの妹とその娘の7人である。完全な女系家族で,しかもスリコ氏は別の町に行っているとのことだ。

昼食のパンを食べていたら,スリコ夫人がナスの炒め物とワインを持ってきてくれる。ナス料理はスパイスがちょっときつい,ワインはそれこそ舐める程度で勘弁してもらった。この家は油断をしていると,僕の腹のすき加減にかかわらずいつでも食べ物が出てくる。

バスルームは広く,バスタブにはいつも水が張ってあった。これは断水に対する自衛手段のようだ。その中にはメロンが1個だけ浮いていた。水浴びをするときはこの水を使用することになる。

建物の外階段で屋根の上に上がれる。天気が良いとここで日光浴を楽しめるし,夕陽をぼんやり眺めているのもいい。ブドウの木がここまでつるを伸ばしており,一部はぶどう棚のようになっている。スリコ夫人はときどきぶどうを収穫して宿泊客に振るまっている。

アグマシェネベリ広場

アグマシェネベリという名前はイランの大統領アフマデネジャブとどうも混同してしまう。グルジアの地名は人名は非常に発音しづらいものが多い。この広場や北側にあるメスヒシュヴァリ劇場などもそうだ。現地で場所をたずねるときなどは発音にずいぶん苦労した。

広場は大きなロータリ-になっており,周辺には写真写りの良い建物が多い。メスヒシュヴァリ劇場の左には丘の上に立つバグラト大聖堂が見える。

ブルヴァリ公園

広場の西側にはブルヴァリ公園がある。ヒマラヤスギかトウヒの仲間が高い梢を空に伸ばしており,いい木陰を作っている。人々はあちらこちらにあるベンチに腰を下ろし,暑い午後をやり過ごしている。旧ソ連の国にはこのような公園をよく見かける。政治色やレーニンの銅像を撤去すれば,そこは市民の憩いの場になる。

公園の片隅に音楽を奏で,歌う4人の女性像がある。薄暗い空間でこの白い像はずいぶん輝いて見えた。公園内にはいくつもの噴水があり,この時期は涼しさを提供してくれる。

噴水の回りには若者がたむろしており,彼らには近づかない方がよい。グルジアを一通り回ったヨーロピアン旅行者の話では「グルジアではクタイシが一番危険」ということだ。

確かに経済の不振にあえぐグルジアでは若者の失業率が高く,外国人をねらった暴力をともなう犯罪も多発している。しかし,うわさほどクタイシは危険なところではなかった。明るいうちに普通に行動している分にはほとんど危険は感じなかった。噴水の前にいるのもおそらくただの若者であろう。

赤い壁の建物

ブルヴァリ公園の北側はパリアシュヴィリ通りで,広場からリオニ川の橋に出ることができる。右側には中央バザールがあり,ここのにぎわいは一見の価値がある。通りに面した普通の家の横壁は一面が赤茶色のレリーフで飾られておりこれは見事なものだ。

T/Cを両替する

バザールは後で見学することにしてパリアシュヴィリ通りを西に歩き銀行でT/Cの両替をする。グルジアではドル建てのT/Cをドルキャッシュに両替することができる。

中央アジアやアゼルバイジャンではT/Cはほとんど使用できなかったし,これから向かうトルコもT/Cは使用できないという情報が伝わってきている。

銀行に入り両替の窓口でT/Cを出すと,かなり待たされたけれどドルキャッシュに両替してくれた。手数料は0.7%と信じられないくらいの安さだ。窓口の女性にお礼を言って500$弱の現金を受け取る。

緯度が近いせいか見慣れた植物が多い

リオニ川を渡る

リオニ川の橋を渡り,石畳の道を登っていく。自然石を磨いて平らにしたような石が敷きつめられておりなんかいい感じだ。T字路の交差点のところに小さな公園があり,そこの男性に「バグラト大聖堂」とたずねると「あっちだよ」と教えてくれた。

道沿いの家の庭には藤の花が咲いている。花房は小さいもののちゃんとした藤の花である。「藤」の原産地は東アジアと思っていたら,北アメリカにも自生しているという。もっとも,マメ科の植物にはつる性のものが多く,花の形や色も類似しているので,僕がここで見た植物は「藤」という確証は無い。

日本にも2種類の固有種があり,いかにも東洋のなまめかしさを体現している花である。しかし,公園の藤棚の優雅な姿は仮のものであり,自然界においては他の木に巻きついて,樹木の上部を占拠したり,幹を変形させる有害植物である。

バグラト大聖堂

男性たちに教えられた道を歩いていくと教会の絵がある案内板があった。路地を入っていくと鐘楼と円錐屋根をもった教会がある。石造りで立派なものだがバグラト大聖堂ではない。内部は明るい感じのフレスコ画で溢れており,今までのグルジア教会とはずいぶん趣が異なる。

元の道に戻り先を行くと丘の上に石垣で囲まれた大聖堂がある。鐘楼は残っているものの,聖堂本体の屋根と円柱型の塔はすでに失われている。このあたり一帯はウキメリオニの丘と呼ばれ,クタイシの町を見下ろす場所にある。

クタイシがバグラト朝の都であった1003年に建設され,当時の王にちなんでバグラト大聖堂と名付けられた。17世紀にオスマン帝国がこの地を支配した時に破壊され,そのままになっている。

バグラト大聖堂のファサード

前室にはたくさんのイコンが飾られている

中に入ると屋根の残っている前室にはたくさんのイコンが飾られていた。聖母マリアもキリストもその容貌はコーカソイドのものであるが,中には黒いキリストを抱いた黒いマリアのものがあった。

カソリック,東方正教会を問わずキリスト教世界には「黒いマリア」あるいは「黒い聖母子」の像やイコンが多数存在し信仰の対象になっている。カソリックが布教した新大陸やアジアにもそれは広まっている。

「黒いマリア」については多くの説があり,おそらく地域により異なる理由があったとみられる。その多くはキリスト教以前のいくつかの信仰対象が形を変えて黒いマリアになったという説である。

中には非常にシンプルな説明もある。それは「マリア像の祭壇ではロウソクとお香を絶えず使っていたので,少しずつ像の顔が黒くなった」というものである。この場合,黒は篤い信仰心の証ともなる。

イコンも教会だけではなく,各家庭の部屋の角に置かれ,いつもローソクが使用されていたはずだ。ローソクの煤でイコンが黒くなり,黒い聖母となったというのは,謎解きのロマンは無いけれどあっさりとした説得力がある。

至聖所の壁面には大きなイエス像が描かれている

会堂部分は天井が失われている

会堂部分は天井が完全に無くなっており,原形がどのようなものであったかは推測がつかない。ていねいに切り石を積み上げたアーチが部屋を囲んでいるが,この部分は新しく10世紀のものとは思われない。

壁の構造は自然石を積み上げて一定の形を造り,その外側に切り石(化粧石)を貼り付けている。化粧石が剥離したところには建築時の構造壁が見られる。外に出て全景の写真を撮ろうとすると,いつもは中心となるドームが無いので,構図がうまく決まらない。

ちょっと変わった聖母子像

町を見下ろす地点には鉄の十字架が立っている

町を見下ろす地点には鉄の十字架が立っている。そこからはクタイシの町が一望できるがそれほどの景色ではない。奥の方に城塞跡があり,往時の栄華を懐かしむように三本の杉の木が立っている。この石垣の上に坐って夏の午後を過ごすのも良さそうだ。

帰りは近くの階段を下りて川沿いの通りに出た。対岸にはロシア正教の教会がある。小塔の上部はおわんを伏せたような屋根になっており,今まで見てきたものとは様式が異なっている。ここからの教会はけっこういい絵になる。しかし,もう18時を大分回っており,宿に戻らなければならない。

その夜は病気の妹さんを除く6人プラス宿泊客2人でディナーとなる。男性は宿泊客の2人だけ,残りはすべて女性である。ドイツ人はロシア語がある程度できるので通訳もやってくれる。

スリコ夫人はとてももてなし好きで,ワインとリキュールが出される。この家の住人は酒を飲めない人がいるとはまったく知らないようで,ハウスワインをどんどん勧められる。

一生懸命辞退していたが,やはり少し飲まざるを得なくなる。ずいぶん食べ,ワインでほろ酔いになり,楽しい夕食となった。この家のもてなしのこころはスリコ氏ゆずりのようだ。

町の中心部

07:30に起床,昨夜はワイン効果のため歯も磨かずそのまま寝てしまった。夜半から涼しくなり,シーツにくるまって気持ちよく寝られた。

スリコ夫人はもう起きていたのでダイニングのテーブルで日記を書く。日記が終わった頃に朝食となる。今朝のメニューはパン,サラダ,目玉焼きで量は充分にいただく。

同宿のドイツ人はこれからバトゥミに向かうと言う。黒海に面した港町のバトゥミは魅力的ではあるが,安宿がないという話が伝わってきているので僕はそのままトルコに抜けるつもりだ。

バザールの周辺

劇場の裏手のバス停に行きゲラティ修道院行きのミニバスを探す。当該のミニバスはフロントガラスに修道院の絵が表示してあり分かり易い。出発時間を確認すると11時ということなので30分ほどバザール近くで写真を撮る。

グルジアのチーズはスリコ家の2日目の夕食に出た。ほとんどクセがないので問題なく食べることができる。チーズの原形は路上で恰幅のよいおばさんが売っていた。直径25cm,円形のパンのような形をしている。

おもしろいパン屋も営業していた。壁に高さ50cm,幅100cmの窓のような空間があり,そこが売り場になっている。カメラを構えるとおばさんが二人こちらを見て微笑んでいる。

新聞スタンドもあり,そこでは雑誌類も一緒に売られている。表紙を見る限りでは完全にヨーロッパを指向している。文字はグルジア文字だけで,アラビア数字は1ヶ所しか見つからなかった。グルジアでもそろそろアラビア数字が普及しそうな雰囲気がある。

バザールの近くでは箱に詰めたままの果物の露店がある。リンゴ,洋ナシ,プルーン,プラム・・・,この国の果物の品質はとても良い。バザールの建物内ではやはり肉屋がすごい。牛の上半身と下半身がそのまま吊るしてある。日本のようにスライスするのではなく,ブロックでどんと売るようだ。

ゲラティ修道院に向かう

ゲラティ修道院はクタイシから11kmほど離れた丘の8合目くらいのところにある。ミニバスは幹線道路から枝道に入り,急な坂を登り修道院に到着した。運転手は親切にも帰りの時間を書いたメモを渡してくれた。中に入ると建物の全景はバランスよく撮れない。

ゲラティ修道院の全景は簡単には撮れない

いったん外に出て道路の左の斜面を登って写真ポイントを探す。入口の門を含めてきれいな全景が撮れたのでまず満足する。現在の門は東側にあり,手前から聖ゲオルギ教会,聖マリア大聖堂,聖ニコライ教会,学院跡が一直線に並んでいる。聖ニコライ教会の右側には鐘楼がある。

これらの建物は建築時期が異なっているにもかかわらず,全体として見事な調和を保っている。小さなくぐり戸を通って中に入る。門の内側は石畳の通路になっており,多くの人々がそこを通ったため磨き上げられている。この修道院も入場料がとられない。世界遺産で入場料を徴収しないケースは極めて珍しいのでは・・・。

ゲラティ修道院は1106年にバグラト朝のダヴィト4世により建てられた。王家の菩提寺のように位置づけられ,歴代の王の墓がある。12世紀に開かれた付属の学院には,国内各地から著名な学者が集まり一種の科学アカデミー,あるいは教育機関として機能していた。

ソ連時代は当局により閉鎖され,1988年に活動を再開したという。現役の教会あるいは修道院として機能しているので入場料はとられないという理屈のようだ。しかし,文化財の保存には多額の費用が必要であり,その一部を観光客が負担するのは当然だと思う。

聖堂内部のフレスコ画は保存状態がよい

聖マリア大聖堂の内部を飾る12世紀のモザイク画や16世紀のフレスコ画は保存状態もよく秀逸である。16世紀にゲラティ修道院はオスマン帝国軍に襲撃され火をかけられた。聖マリア大聖堂も被害を受け,壁面のフレスコ画はその後に描き直された。モザイクの聖母子像は残ったようだ。

会堂内の壁面もすばらしいフレスコ画で埋め尽くされている。祈りの場をこのような絵画で飾ることの是非はさておいて,その文化財としての価値は大きなものがある。

古いグルジア文字であろう

二人の大天使に挟まれ世の人々を祝福する聖母子像

ドーム最上部のフレスコ画

あらゆる壁面にフレスコ画が描かれている

イコノスタス上部の半ドームのフレスコ画

イコノスタス(聖障)の背後は半形のドームになっており天井部には二人の大天使に挟まれ世の人々を祝福する聖母子像のモザイク画が描かれている。

聖母子像の足元には半円状の曲面に沿って聖書のいくつかの場面がフレスコ画として描かれている。この半形のドームの聖画を見るだけでもここを訪れる価値は充分にある。

聖母子像の背景はビザンツのビザンツの金色であろう

聖母子像の背景となっているのは「ビザンツの金色」であろう。ビザンツ帝国ではモザイクが高度に発展した。そこでは従来の自然石だけではなく,さまざまな色彩の色ガラスが使用された。中でも金色は金箔をガラスで挟み込むという高度な技術により制作され,教会の内部を金色に飾った。

聖母子像のモチーフが多い

歴代の王族のフレスコ画

イコノスタス(聖障)には入り口がある

聖マリア大聖堂の両側にある二つの教会にもモザイク画やフレスコ画が残されている。イコノスタス(聖障)の両側を飾るキリストと聖母子像のモザイクも素晴らしく,保存状態も良い。

聖ニノが十字架を立てる伝説の構図

聖女ニノが十字架を立てさせる場面を描いたフレスコ画は緑を基調にしたものでほの暗い教会の中で他のものとは一味違う輝きをもっている。

学院跡は三角屋根をもった細長い建物であった

ロシア人の団体が入ってきた。彼らは大型バスでやってきてガイドに連れられて各施設を回り,そそくさと帰っていった。彼らの持っているカメラはすでにデジタルになっており,中には立派な一眼レフを首から下げている人もいる。

彼らがいなくなると敷地内は再び静寂に包まれる。学院跡は三角屋根をもった細長い建物だったようだ。現在残っているのは四方の壁面だけである。壁面は加工度の低い自然石をモルタルか漆くいで固めた質素なものである。

ミツバチの給水行動

あまりにもたくさんの絵画を見たので個別の記憶はあいまいになる。外に出ると陽光がとてもまぶしい。大聖堂の西側には水飲み場があり,小さなパイプから冷たい水が流れ出ている。

備え付けのアルミのカップで恵みの水をいただく。水の流れの先には小さなコンクリートの水槽がある。その水際にはたくさんのミツバチが集まっており,水を飲んでいる。この暑さの中ではハチも水分補給が必要なのかな。



ときどき振り返り緑の中の修道院を眺める

この学院跡が敷地の東端にあたり,そこからは緑に囲まれ丘に点在する村の家々を眺めることができる。幹線道路が走っている辺りにも家屋が点在しており,どこを見てものどかな風景が広がっている。

ここからミニバスに乗ってそのままクタイシに戻るのはいかにも惜しい。ミニバスの時間までにはまだだいぶ時間があるし,幹線道路に出ると別の村からの便もあるかもしれない。

のんびりと丘の道を下り,ときどき修道院の遠景を写真にする。丘の8合目にある修道院の周囲には意外と民家が多い。道路わきの農家の庭先はほとんど果樹園になっている。ブドウ,スモモ,いちじく,ザクロがよく実っている。

片斜面のところからはゆるやかな斜面に広がるグルジア中部の田園地帯がよく観察できる。幹線道路に出てしばらく待っていると,14:30に時間通りにミニバスがやってきた。来るときの運転手が笑顔で僕を拾ってくれた。


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