亜細亜の街角
カヘティの中心となる小さな古都
Home 亜細亜の街角 | Telavi / Georgia / Aug 2007

テラヴィ  (地域地図を開く)

ジョージア(グルジア)の歴史はおおまかに西ジョージアと東ジョージアに分けられる。ギリシャ時代からローマ時代にかけて,西ジョージアではコルキス王国(Egrisi王国)が,東ジョージアにカルトリ王国(イベリア王国)が並存していた。

4-6世紀にどちらもキリスト教に改宗する。この時代西ジョージアはビザンツ帝国,東ジョージアはペルシャの支配下にあり,地域の覇権勢力により分断されていた。その後,一時期はイスラム勢力の支配下に置かれたが,11世紀にはバグラト朝のもとで東西ジョージアを統一した王国となる。

といっても小さな王国が独立を保つのは難しく,長い間ビザンツ帝国の属国となっていた。そのため,文化的にも宗教的にもビザンツ帝国の影響を大きく受けてきた。

16世紀に入るとオスマン帝国が地域の支配勢力となり,ジョージアは再び西部をオスマン帝国が,東部をサファヴィー朝ペルシアが支配するようになる。

18世紀になると帝政ロシアが大カフカス山脈を越えて侵攻し,ペルシャ,オスマン帝国から南カフカス地域を奪いジョージア全体が帝政ロシアの支配下に入った。ロシア革命を機に1918年ジョージア民主主義共和国として独立宣言をするものの,ソ連邦に組み込まれる。

1991年,ソ連邦の解体により独立を果たすが,その前後から多くの「国内紛争」を抱えることになる。南西部のアチャラ(紛争番号3)自治共和国はジョージア独立時から半独立国として中央政府の統治から外れていたが,2004年に平和裏に統合された。

1991年のジョージア独立,新憲法の制定により,自治共和国の地位を危うくすると感じたイスラム系住民の多いアブハジア(紛争番号1)は1992年に主権を宣言しロシアへの帰属を要求した。

ロシアの支援を受けたアブハジア軍とジョージア軍との間で激しい戦闘が続いた。国連の仲介で1994年に停戦が実現し,アブハジアは事実上の主権を獲得した。

南オセチア(紛争番号2)はロシア連邦内の北オセチア共和国への編入を求めている。ロシア革命後ジョージアに編入されたが民族的にも文化的にも国境を接する北オセチア共和国(ロシア連邦内の共和国)に近い。ソ連時代を通じてジョージア化政策がとられ,ジョージア語の教育が強制された。

1989年,南オセチアでの公用語をジョージア語とすることが決定されると,南オセチア自治州人民代議員会議は,南オセチア自治州を自治共和国に昇格させることを要請したが,ジョージア最高会議はこの要請を拒否した。

1990年ジョージア最高会議は共産政権時代に採択された全法律の無効化を決定した。これは南オセチアの自治権の無効化を意味した。これに対して,南オセチア自治州人民代議員会議は,主権宣言,共和国への昇格等を決定した。

1991年ジョージア政府は南オセチアに警官隊と民兵を投入し,オセチア人に対する大規模な弾圧を始めた。オセチア人は自警団を結成して武装闘争を開始し,地域からジョージア人勢力を追い出した。

1992年5月に住民投票の結果を受けて南オセチア共和国は独立を宣言した。6月にはロシア,ジョージア,南北オセチア4者による紛争調停の原則に関する協定が署名され,平和維持軍が導入された。南オセチアは国際的な承認のないまま完全な独立国の体裁を整えている。

独立直後から国内紛争およびそれにともなう難民の流入によりジョージアの経済基盤は破壊され,政情は不安定のまま推移する。1992年から最高権力者の地位にあったシュワルナゼ大統領は2003年のバラ革命で辞任し,2004年の大統領選挙ではサアカシュヴィリ現大統領がが圧勝した。

サアカシュヴィリ政権は欧米よりの政治・経済制度を目指し改革を進めており,それはロシアとの関係を悪化させていく。2006年11月,ロシアはジョージアへ供給する天然ガスの料金を2007年から2倍強に値上げすると発表した。

従来,ロシアはCIS諸国に対しては国際価格の半分ほどの価格で天然ガスを供給してきた。しかし,ロシア離れが進むウクライナやジョージアに対しては供給価格を国際価格に引き上げるというエネルギー恫喝を始めた。ジョージアは天然ガス需要の100%をロシアに依存しており,その影響は大きい。

この事態は天然ガスの40%をロシアに依存しているEUにとっても他人事ではない。ロシアはEUへの天然ガス供給を強化するとともに,域内のパイプライン事業を買収し,EUをロシアの天然ガスの支配下に置く戦略を描いている。

ロシアからのパイプラインは欧州に網の目のように広がっている。ドイツを拠点に西はポルトガル,南は北アフリカ,北はフィンランドに至っている。それはEU経済を支えるエネルギーの大動脈となっている。

この大動脈をロシアに支配されることになるとEUのエネルギー安全保障は根本から揺さぶられる。EUがジョージアやウクライナの事件に神経を尖らせるのは当然である。

2007年11月にサアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にジョージア全土で非常事態宣言が発令された。僕がジョージアに滞在していた8月はまったく平穏であり,その3ヵ月後にこのような事態になるとは想像もつかなかった。

テラヴィは11世紀および17-18世紀にこの地にあったカヘティ王国の古都で人口28,000人の小さな町である。ジョージア東部に位置するカヘティ地方はジョージアワインの一大生産地として知られている。遠くに霞むカフカス山脈を背景に一面に広がる葡萄畑はこの地方を象徴する風景である。

ジョージアは長寿大国としても知られている。100歳を越える高齢者が多いのは毎日ジョージア・ワインを飲み,伝統的なヨーグルトを食べているためだといわれている。

ジョージアワインはカへティ方式と呼ばれる独特の醸造方法により,健康や美容に害を及ぼす活性酸素を抑制するポリフェノールを豊富に含んでいる。しかし,アルコールのまったくダメな僕にとってはこのすばらしいジョージア文化を味わうことは叶わない。

伝統的なヨーグルトと葡萄畑の風景,そしてテラヴィ周辺に点在する8世紀から16世紀にかけて造られた修道院や教会といった古い建築物だけでガマンすることにしよう。

2015年4月に日本政府が国家の外名を「グルジア」から「ジョージア」に変更したので,この旅行記でも国名の表記を変更する。

アゼルバイジャン→ジョージア 国境移動

07時に起床,裸で寝てしまったせいかのどがちょっと痛い。昨日の夕食に慣れないピザを食べたところ腹具合がよくない。まあ,制御範囲内なので今日の移動は大丈夫であろう。宿にまったく恵まれなかったアゼルバイジャンとも今日でお別れである。

外に出ると今にも降り出しそうな空模様で肌寒い。バラキャン行きのミニバス(0.6ソム)はBTの表側の路上から出ている。ミニバスは1時間ほどで国境から10kmほど北西にあるバラキャンの路上に停車した。

近くにはタクシーがたくさん待機している。「ジョージア国境に行きたい」と言うと「5ソム」という答えが返ってくる。ガイドブックの記載は3ソムなので交渉が始まり4ソム(560円)で折り合いがついた。

実はこの町からジョージアに向かう国際バスが出ている,その情報をチェックし忘れて高い移動となってしまった。国境に到着するとJさんがバスから降りてくるので声をかける。思いがけない再会に彼も驚いていた。

彼はバラキャンに泊まり今朝の国際バスでジョージアに向かうという。お互いに宿代が設備に比して異様に高いアゼルバイジャンで苦労したようだ。しかし,彼はシェキの民宿にもちゃんと泊まったし,バラキャンの宿も見つけたようだ。

アゼルバイジャン側の国境は何台かの車は通過しているものの,人は通してくれない。待っている間に体が冷えるので長袖を着る。ゲートが開くとそこで意味の無いパスポートチェックがある。

その向こうにイミグレーションの建物があり,係官は我々のパスポートを一括して受け取り,我々はその向こうで待機する。国際バスの運転手が全員のパスポートを一括して受け取ってきたので,返してもらうとき「ラゴデヒまで乗せてください」と頼んだら,あっさり断られた。

そこから歩いて橋を渡るとジョージアである。小さな小屋のようなカスタムで入国スタンプを押してもらい,それで手続きは完了した。欧米への傾斜を強めているジョージアは日本を含め欧米諸国の旅行者のビザを免除している。それでもこの入国の簡単さは驚きに値する。

近くの人に少し先に両替所があると教えられJさんと一緒に行ってみる。そこはただの商店で,副業に両替をしているようだ。アゼルバイジャン・マナト→ジョージア・ラリの交換レートは1対1.8だという。これは正規レートより10%ほど悪い。とりあえず必要な14マナトを25.2ラリと交換する。

ラゴデヒまでのタクシーはこの商店の横から出ている。料金は交渉により2ラリ(約140円)となる。30分ほどで到着したラゴデヒはアゼルバイジャンよりだいぶのどかな田舎町であった。アゼルのように石油が出るわけではないので,バスターミナルのイスなどは壊れたままだ。

ここからテラヴィ行きのバスが出ており,チケット売り場で確認すると12:30とのことであった。そのへんに停まっているミニバスには行き先表示のプレートがあるが,ジョージア文字はまったく読めない。

ジョージア文字は3-5世紀頃に作られたとされている。ギリシャ文字の影響が見られるとされれるが実物はとてもそうとは思われない。ロシア語以上になじみにくい文字であり,南インドの文字と同じくらい覚える気が失せる難解さである。

1時間ほど時間があるので近くの教会を見に行く。ザガタラよりはカフカス山脈が近くなったような気がする。町の北側にはかなり高い山の連なりが見える。教会は赤いレンガの色がそのままの建物で敷地の広さに負けないほど大きい。

中に入ると正面には東方正教会に共通する扉をもつ壁がある。これは「イコノスタス(聖障)」と呼ばれており,壁面にはイコン(聖人画)が飾られ,来世と現世を分けるものとされている。壁の向こう側は至聖所であり,そこには聖職者以外は入れない。

マナナの家

ミニバスは12時過ぎに現れたが実際に発車したのは14:30であった。このバスは2時間ほどでテラヴィのバザール近くの路上に到着した。ここから宿泊予定の「マナナの家」まではどう行ってよいのかさっぱり分からない。

マナナの家はいわゆる民宿である。ジョージアやアルメニアは安宿が少ないので,どうしても民宿を利用せざるを得ない。ガイドブックに「Nadikvaris k.9」という住所が記載されていたので,タクシーでナディクバリ通りに行ってもらう。

タクシーは公園の手前で止まり,運転手は「ここがナディクバリ通りだ」という。番地のプレートが無いので彼の指差す方向に歩くと公園の階段に行き当たる。引き返して周辺の人にk-9番地をたずねても要領を得ない。

そのまま歩くと番地の表示プレートがあった。どうやら9番地はその先らしい。マナマの家にはちゃんと番地表示があり,ようやくたどり着いたようだ。しかし,そこは集合住宅であり,どのドアから入っていいものやら分からない。

建物の裏に抜ける通路があったので裏に回り,そこで「マナナさんの家はどこですか」とたずね,ようやく見つけることができた。僕は裏口からマナナさんの家に入り,出てきた婦人に「マナナさんですか」と聞くと「私がマナナよ」という返事であった。

マナナさんは60代半ばのとても上品な婦人で,ここに一人で住んでいるようだ。英語はほとんど通じない。彼女はいろいろ説明してくれるときは,ロシア語(たぶん)を使用していた。

このアパートは裏から洗面所,台所,部屋1,部屋2,居間が一直線に並んでいる。居間の横には表の玄関がある。僕は部屋1に泊まることになった。直線の導線の両側に壁に接してベッドがあり,壁にはじゅうたんが張られている。

この当時は水事情が悪く,浴槽にはいつも水が貯められていた。それでも3日間の滞在中に1回暖かいシャワーを浴びることができた。飲用水は(たぶん水道水だと思う)たくさんのペットボトルに入っており,滞在中はそれをいただいていた。

とても清潔で居心地の良いこの民宿の料金は1泊10ラリ,食事は付いていないようだが彼女が気が向けば出してくれた。また果物も大量にあり,そろそろ賞味期限切れになりそうなものは勝手に食べてもいいようだ。

困ったのは机あるいはテーブルといったものは台所と居間にしかないことだ。居間はマナナさんのベッドもありちょっと入りづらい。台所のテーブルで日記を書いていると,マナナさんが居間の机を使用しなさいと言ってくれた。紅茶や果物も出るし,優雅な日記作業であった。

広場の噴水

宿が決まり夕食方々周辺を歩いてみる。ナディクバリ通りを北西に歩くと噴水のある広場に出る。この広場はどこが道路でどこがスペースなのかよく分からない。噴水がここのよいランドマークになる。

イラクリ2世の騎馬像

噴水から西方向にコスタヴァ通りが伸びており,これが街の目抜き通りである。コスタヴァ通りは噴水の東側にある薄いオレンジ色の家に突き当たる感じで終わり,その家を挟むように右側がナディクバリ通り,左側をいくとイラクリ2世の騎馬像がある。

バトニスティヘ城塞

「マナナの家」があるナディクバリ通りの番地は手前から1,2,3と進んでいく。噴水の北側にはほぼ正方形の形をしたバトニスティヘ城塞があり,城壁の一辺がコスタヴァ通りに面している。

劇場の前にはいつも人が集まっている

噴水の南側は広場になっており,その向こうに劇場がある。夕方になると建物の前にたくさん人々が集まってくる。子どもたちは広場で自転車やローラースケートで遊んでいる。

ぶどう姫の像

城壁の西側には人魚姫ならぬ「ぶどう姫」の像がある。人の体をぶどうの木にみたてて,両肩にぶどうを乗せており,いかにもぶどうの産地カヘティを象徴するような芸術作品である。

固定カメラで写されている家

噴水からコスタヴァ通りを西に行くと両側は商店や数少ない食堂が並んでいる。交差点の角に塔をもった薄緑色の建物があり,歩道の反対側からここを固定のテレビカメラがいつも映している。

その様子はマナナさんの家のテレビで見ることができた。このあたりは僕も頻繁に通っていたのでカメラにとらえられたかもしれない。このローカル放送の目的は不明だ。

ジョージア正教の聖堂

コスタヴァ通りをさらに西に行くと川の両側を南北方向に通る大きな道路との交差点(文中の識別のためA交差点とする)に出る。町は傾斜地にあり,南が高く北が低くなっている。

A交差点を北に下ると右側に商店やバスターミナルが集まる一画に出る。僕がミニバスから降ろされた通りはこの一角の南側の通りである。商店街は東西と南北の道路沿いにあり,この商店に囲まれた内側にはバスターミナルと露店が乱雑に入っている。

この一画が街で一番にぎやかなところだ。ここからさらに北に行くと道路の左側にミニバスとマルシュルートカの発着する広場がある。テラヴィから郊外の修道院や教会に行くためにはどちらの場所から交通機関がでているのか街の人に確認しなければならない。

A交差点の西には古いジョージア正教の教会がある。建物の本体はレンガで造られており,その上の漆くいははがれてレンガの赤い地肌が覗いている。

建物の上に円筒形の塔があり,その上には銀色の円錐形の屋根が置かれている。そして,その頂点には十字架が掲げられている。これが一般的なジョージア教会の様式である

教会の内部ではミサが行われていた。女性の多くはスカーフを被っている。中ではローソクが売られており,人々は競うようにローソクを買い求める。

人々はまるでお線香を挿すように火のついたローソクを大きな蜀台に挿していく。司祭の唱える聖句が会堂の中を響き渡る。ここでは宗教は生活の中にしっかり生きている。

コスタヴァ公園

マナナさんの家から南東に行くと高台があり,公園となっている。公園にはいくくつもの東屋が配置されており,そこはたいていカップルに占拠されている。

公園の北側は視界が開けており,街の半分くらいが眺望できる。最初の日は曇り空であったが,翌日はきれいな茜色の風景に変わってくれた。

バスターミナルまで歩いてみる

昨日はアゼルバイジャン時間で行動していたのでもう寝ようとしたらまだ21時であった。1時間ほどトビリシのガイドブックを読んで寝る。マナナの家のベッドは幅が狭いけれど夜は涼しいのでよく眠れた。

07時に起き出し,音を立てないように注意しながら黒パンと蜂蜜で朝食をとる。08時になってマナナさんの居間のドアが開いた。「出かける前に洗濯をしたい」と告げると,小さなタライを洗面台の上にあげてするように指示された。

考えてみればアゼルバイジャンの1週間はほとんど宿探しに追われ,洗濯どころではなかった。洗濯後にタオルを洗うのを忘れたことに気が付いた。これを忘れるとタオルに臭いが付いて気分が悪い。まあ,水洗いだけでも何とかなるだろう。洗濯物は外の小さな物干しにかけておく。

洗濯が終わったのでバスターミナルの歩いていく。なんといってもグルジア通貨のラリが必要である。A交差点から北に向かう道路は枯れ川の両側に続いている。グルジアはキリスト教国ということもあり,写真に対してはほとんどなんの問題もなかった。それどころこ「孫と一緒に撮ってくれ」というような声がかかることもある。

バスターミナル周辺で両替する

北の商店街に行き,両替屋を探すと二軒が見つかった。店の前に1$=1.66というレートが表示されている。50$札を二枚出すとレートは1.65に下がる。まあいいだろう。1ラリは70円くらいに相当する。物価の水準は15kmほど離れたアラヴェルディ大聖堂やグレミ修道院までの交通費が1-1.3ラリといったところだ。

今日(8月19日)の両替でイラン入国(5月16日)から3か月で1690$となった。タシュケントからバクーの航空券が200$強であったことを考慮すると旅行会計はほぼ計画通りといったところだ。

ともあれ,これでラリが手に入ったので,今日は町から15kmほど郊外にあるアラヴェルディ大聖堂を見に行くことにする。

BT露店の入り口はいつも混雑している

土釜のパン屋もある

パンは細長い楕円形が多い

集合住宅で子どもたちの写真をとる

テラヴィの滞在は3日で,2日目はアラヴェルディ大聖堂,3日目はグレミ修道院を訪問した。この2回の訪問記は1ページにまとめたので,テラヴィの滞在を時間の経過に合わせた旅行記を紹介するのは難しい。

滞在2日目はアラヴェルディ大聖堂からミニバスでバスターミナルに戻り,その周辺を歩いてみた。いくつかの共同住宅がある一画があり,そこで遊んでいる子どもたちの写真を撮る。

宿に戻る途中でもう一組の子どもたちに出会う

コスタヴァ公園

マナナさんの家の近くの高台は大きな公園になっている。階段を登ると芝生と樹木に恵まれた緑豊かな公園である。右側の斜面下は遊園地になっており,夕方から子どもづれの家族でにぎわう。

日本ではフワフワ○○と呼ばれている空気でふくらませた遊具の上で子どもたちは跳ね回っている。夕方の時間帯であり,子どもたちの動きにカメラは追いつけない。唯一,滑り台の上だけは子どもたちも一時停止するので写真になる。

公園の一番高いところには噴水があり,周辺は子どもたちの遊び場になっている。カメラを向けるとみんな噴水池の周りに坐ってくれて,感じの良い集合写真が撮れた。

ジョージア人は「カフカース諸語系」を母語とする民族であるが,こうして集合写真を見ていると,ほとんど東ヨーロッパの民族と容貌は変わらない。


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