亜細亜の街角
二つの町で宿探しに苦労する
Home 亜細亜の街角 | Zagatara / Azerbaijan / Aug 2007

ザガタラ  (地域地図を開く)

バクーからグルジアを経由して黒海に至るルートは古くからアジアとヨーロッパを結ぶ重要な通商路の一部であった。標高2500mにあるシェキはアゼルバイジャンで最も美しい古都と言われている。町の起源は紀元前に遡る。古くから養蚕が盛んであり,今日でも絹織物は町の主要生産品である。

シェキ・ハーン国の時代,都のシェキは現在のところから5kmほど北にあった。しかし,1772年に大洪水が起こり町は壊滅したため,現在のシェキ(当時はヌハ村)に都を移転させた。

それ以降,町は順調に発展し,1968年にヌハからシェキに改名された。現在のシェキは人口62,000人,地域で最大の町にもかかわらず,東側はすぐ近くまで山が迫る緑豊かな町となっている。

ザガタラはグルジア国境まで50kmほどのところにある小さな町である。この先のバラキャンの宿が不透明であったのでここに泊まることにした。レンガや石造りの家屋が並び,天気が良ければ周辺の緑と合わせて良さそうなところであるが,僕の滞在した日は曇り空であった。

グルジア国境で再会したJさんは,バラキャンにも新しい宿ができていること,グルジアのラゴデヒを経由する国際バスが運行されていることを教えてくれた。

クバ(166km)→バクー移動

09:30にチェックアウトしてバスターミナルに向かう。事前にチェックした情報では「シャマフ」と読めるマルシュルートカがあり,それを利用すればわざわざバクーに戻る必要はないと勝手に考えていた。

バスターミナルに行ってみるとさきほどの車は満席になっており次の車を待つことになった。それにしてもシャマフ行きにしてはずいぶん乗客が多い。アゼルバイジャンの地図を広げてシャマフに行くかとたずねると答えはノーであった。似たような地名を勝手読みしてしまったらしい。

危うく知らないところに行ってしまうところであった。結局,10:30のバスに乗りバクーに戻ることになった。このバスはシャマヒンカBTを経由して中央BTまで行ってくれた。マルシュルートカの場合,1kmほど歩いて中央BTに移動しなければならないのでこれは助かった。

シェキ行きのバスは23:30発でまだチケットは販売されていない。窓口の青年がバスまで連れて行ってくれた。運転手に料金の7マナトを払い,荷物は側面の荷物室に入れてもらいカギをかけてもらった。これで夜まで自由時間となる。

バクー(327km)→シェキ 移動

バクーで半日の自由時間を楽しみ19時過ぎに中央BTに戻り,夕食を摂ろうとしたらすでにメインディッシュは無くなっており,非常食のパンと紅茶という寂しい夕食になる。

バスの出発時間は23時なのでターミナルのベンチで本を読んで過ごす。バスは定刻に出発した。普通バスの車中で眠るのは難しいけれど,仮眠くらいはとることができる。

バスは7時間をかけて327kmを走破し,06時にシェキのバスターミナルに到着した。あたりはまだ暗く宿を探せる時間帯ではないので,バスターミナルのカフェで紅茶を飲みながら,読書と日記で08時まで過ごす。

第一目標のホテル・キャランバンサライは19世紀のキャランバン・サライ(隊商宿)をそのままホテルに改装したもので,とても雰囲気が良いと旅行者の人気も高い。ガイドブックには「夏のシーズン中は込み合い,予約無しに泊まるのは難しい」と記載されているがトライしてみよう。

キャラバン・サライまでは1km強ある。川沿いの道を北に歩き,川の合流部で東に折れる。ここから先はけっこうな上りになり疲れる。ようやくキャラバンサライに到着すると,道路わきの駐車場に車がたくさん駐車しており嫌な予感がする。

受付で聞くと満室ということであっさり断られた。まだ時間が早いので,「今日チェックアウトする人はいませんか」と重ねて聞くと,「今日は無理だろう」という冷たい返事である。不幸なことにこの日は金曜日であった。

しかたがないのでマルシュルートカで来た道を戻りシェキ・ホテルに行く。ここはソ連式の宿で部屋ごとの料金の差が大きい。スイート(単に部屋が2つつながっているだけ)が40マナト,一番安い部屋は10マナトである。

この部屋は4.5畳にベッドが一つあるだけのものだ。5マナトでも高いくらいでとても料金に見合うものではない。ここは即座にお断りする。

さらに西に歩いてバザールの裏手にあるサーヒルに行く。ここは改装されていた小ぎれいなホテルになっている。料金はシングル,ツインとも16マナトであり,とても宿泊できる料金ではない。

最後に民宿はどうかとシェキホテルの近くにあるスペクトルという旅行会社を訪ねたが,所番地は合っているのにそれらしいものはない。周辺の人々も誰も知らないという。後日Jさんに会って,スペクトルはシェキホテルの中に移動した,民宿は朝食付きで10マナトであることが分かった。

シェキ(75km)→ザガタラ 移動

ということでシェキに宿泊することは無理と判断し,国境近くのザガタラまで移動することに決めた。バスターミナルに戻ると11:40発のミニバスはすでにチケットが無かった。次の便は15:00とずいぶん間があいている。

カフェのおばさんに頼んで昼食をいただく。パン,ジャガイモと牛肉のスープ,紅茶,サラダで2.4マナトである。味は値段相応にとてもおいしく満足だ。

15時のミニバスは定員を8名もオーバーした状態で出発した。進行方向右側には大カフカスの山の連なりが眺望できる。周辺の農村の風景もけっこういい感じだ。しかし,この頃には疲れ果てており,写真をとる元気は無かった。

ギョリュシ・モーテル

ミニバスは途中で乗客を降ろし,16:30にザガタラのBTに到着した。BTの表側(幹線道路に面している)はほとんど機能しておらず,モーテルの看板は出ているものの2階の宿は営業していないようだ。裏手の駐車場に面したギョリュシ・モーテルは10マナトの部屋しかないと言われる。

幹線道路は南東(バクー方向)から北西(国境方向)に向かっており,BTはその左側に位置している。幹線道路を北西に行くとロータリーがある。ここから北西に行くと街の中心部になる。

その手前にアゼルバイジャン・ホテルや新しいモスクがある。アゼルバイジャン・ホテルは改装されて「Hotel ZAOATALA」に変わっており,ここは満室であった。ダブルの料金が10なのでたぶんザガタラではここがお勧めである。仕方が無いのでギョリュシ・モーテルに泊まることにする。

このモーテルはカフェを兼ねており,従業員の態度はひどく悪い。しかし,ここしか泊まるところが無い。部屋は12畳,1ベッド,T/S付きで清潔である。窓が小さく風が入らないので暑い。扇風機は必需品である。料金は10マナト,2日間で16マナトと交渉してみたがまったく相手にされなかった。

屋根の上では従業員が何やら工事をしている。そのため突然水が出なくなった。今日はぜひともシャワーを浴びたいので主人に文句を言う。従業員が窓の外で何やら作業をすると,茶色の水が出るようになった。しばらくするときれいな水に変わり,ようやくシャワーが浴びれることになった。

バスターミナル

道路から見てもなんの建物かは分からない。建物の背後に駐車場がある。僕の宿は駐車場に隣接している。

パン屋のおばさん

幹線道路を右(南東)に行くとバザールに出る。しかし,17:30はもう遅すぎるのかほとんどの店は閉まっていた。パンはまだあるのでトマトをいただく。

国産のたばこ?

小さな町に車が多い

近くに大きな通りがあり,その向こうにカフカスの低い山並みが見える。

バザールというよりは電気店

正面に大きな「SAMSUNG」の看板がある。その右側には「KONIKA」のデジタルプリント・ショップ看板がある。

石造りの民家が多い

周辺の民家は自然石とレンガの組み合わせでできている。漆くいは塗られていないので石の模様がそのまま出ておりいい感じだ。山並みを背景に家屋の写真を撮りたいと路地を歩いているとBTに出てしまった。

陽気な運転手

コーカサスの山が近い

ザガタラはコーカサス山脈(カフカス山脈)の山裾に位置しており,ここから直線距離で15kmほど北東に国境線がある。コーカサス山脈はカスピ海と黒海をつなぐように1200kmにわたって東西に伸びている。地質時代,コーカサス山脈の造山運動によりカスピ海からアラル海にかけての地域は古地中海から切り離され,内陸の塩湖となった。 地政学的にもコーカサス山脈はヨーロッパとアジアの境界となっている。しかし,ロシア帝国は苦労してコーカサス山脈を越え,その南に位置しているアゼルバイジャン,グルジア,アルメニアを支配下に置き,それは旧ソ連に引き継がれた。

屋根飾り

古い民家も石造りだ

AG SARAI

幹線道路を左(北西)に行くと大きなロータリがあり,「AG Saray」と書かれた2階建ての細長い建物がある。壁には部屋ごとにエアコンが取り付けられているのでここも宿泊施設なのかもしれない。

「サライ」という言葉は「24時間テレビ |愛は地球を救う」のテーマソングのタイトル,あるいは雑誌のタイトルになっており,日本語にも入ってきている。

語源はペルシャ語の「サラーイ」であり,家あるいは宿を意味している。かってのシルクロードでは一定区間ごとに隊商宿が整備されており,それらは「キャラバン・サライ」と呼ばれている。

オスマン様式のモスク

ロータリーから北東に行くとモスクがある。建物の上部はドームになっており,周りにも小さなドームが複数配置されている。建物両側には2本の背の高いミナレットが立っており,トルコの影響を受けた様式である。

モスクの周辺は障害物が多く全景をフレームに入れるポイントはなかなか見つからない。裏手の空き地に入り込んで写真を撮っていたら,警備員に注意を受けた。

子どもたちの写真が撮れた

川沿いの感じの良い民家

この周辺には古い家屋が多く,のんびり歩くにはいいところだ。しかし,今日は時間が無いので早足で回る。涸れ川沿いの道に出ると,向こう側にはクルグスタンでよく見かけた形状の屋根をもった家屋が森の中に点在している。

石垣はちょっと稚拙だ

インラインスケートで遊んでいた子どもたち

道路では3人の少女がインラインスケートで遊んでいる。カメラを向けると喜んでモデルになってくれた。しかし,近くの家の窓から男性が彼女たちを叱るような声をあげた。この田舎町では子どもといえども表で女の子が外国人と接するのは快く思われないようだ。

夕食は近くの新しい食堂でいただく。ピザとトマトサラダの組み合わせで料金は2.4マナト,味はまあまあである。この食堂は従業員の対応も洗練されており,初めてこの街でまともなサービス業に接したような気がする。


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