亜細亜の街角
歴史的建造物と土産物の溢れる町
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ウルグベク・マドラサ

ウルグベク・マドラサの正面はは落ち着いた雰囲気をもっており,いかにも神学校にふさわしい。全体およびイーワーンの構造はラビ・ハウズ周辺のものと同じである。

イーワーンの両側を飾る装飾タイルはモザイクではなく絵付けタイルが使用されている。ここではコーランの一節を記した流麗なアラビア文字が装飾絵柄として使用されている。

アブドゥルアジズ・ハーンのマドラサ

ウルグベクと向かい合っているアブドゥルアジズ・ハーンのマドラサは工事中でイーワーンは鉄パイプのやぐらに囲まれていた。建物の左側の装飾タイルははがされているのか地のレンガがむき出しになっている。

鉄パイプにジャマされてよく観察できなかったが,イーワーンの天井にはイラン様式のスタラクタイト(蜂の巣状になった装飾要素,鍾乳石装飾とも呼ばれる)が施されていた。ブハラでスタラクタイトがあるのはここだけかな。

このマドラサの内部は土産物屋がいないので閑散としていた。学生の宿坊は中庭に面した部屋になっている。中を覗いてみると6-8畳の広さで,床は焼きレンガである。中には中二階をもつ部屋もある。

カラーン・モスク周辺

タ−キ・ザルガラーンの西側にはカラーン・モスクとミーリ・アラブのマドラサが向かい合っている。その間にはカラーン・ミナールがそびえている。この3つの建造物がブハラ観光のハイライトといったところである。

カラーン・モスク

カラーン・モスクはタジク語で偉大なモスクを意味する。その名の通り1万人が一度に礼拝できる広さ(中庭を含めてであろう)をもっている。しかし,その正面入り口のイーワーンはどちらかというとシンプルだ。

8世紀にアラブ人が最初のモスクを建てて以来,常に金曜モスクはこの場所に置かれてきたという。12世紀にモンゴル軍はモスクがあまりにも立派だったため宮殿と間違えて破壊してしまった。現在のものは16世紀に建てられたものである。

その後もソ連時代には宗教が否定されて倉庫に転用され荒廃していたが,1970年代に修復が始まり,ソ連崩壊による独立後は他の歴史的建造物と同じように修復が進められ現在の姿になっている。

金曜モスクらしく過剰な装飾を排した建物となっており,中央アジアの歴史的建造物としては珍しく礼拝の場にふさわしい静謐なたたずまいを見せている。全体は長方形の形状をしており,長手方向はほぼ東西方向となっている。

ブハラから見るとメッカは南西方向にあたるのが,キブラ(モスクにおけるメッカに向いた壁面)は西ということになる。長方形の周囲は連続するアーチにより支えられた空間となっており,中心部は広い中庭空間となっている。

長方形の各辺の中央にはイーワーン(アーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲んだ門)が配されている。東側だけが外向きとなっておいる。

カラーン・ミナールのある東側のイーワーンが入り口となっており,アーチの空間を抜けると中庭に出る。正面には青いドームをもった大きなイーワーンがあり,そのアーチがミフラーブとなっている。

観光地巡りから一転して静謐なモスクのたたずまいになっており,その落差の大きさがこの空間の美しさを増幅するのか感動的である。施設内にはほとんど人はおらず,静かなたたずまいのモスクの雰囲気を堪能することができる。

正面のイーワーンの背後には青いドームの上部が覗いており,中央アジアの青い空によく映える。門の前には小さな六角形の建造物がある。特に飾りのないこの建造物は礼拝の前に手足を洗うための泉水であろう。モスクの中庭にはこのような建造物が多い。

中庭の両側の建物の内部はアーチと柱の連続する白い空間であった。床は石畳になっているので金曜日の大礼拝のようなときはこの空間にはじゅうたんが敷かれるのかもしれない。

西側のイーワーンの背後にある青いドームは中庭からは全体が見えないので,外に出て建物を半周して背後から撮ることにする。比較的新しい修復のためかブハラの青空に見事に調和している。

半周するついでに南北のイーワーンの外側がどうなっているかを確認しておいた。構造的には内側と同じになっており,青い装飾タイルがないためレンガの構造がそのまま見える。

ミーリ・アラブのマドラサ



ミーリ・アラブのマドラサ正面のイーワーンは背後に2つのドームを配した堂々としたたたずまいを見せている。イーワーンの壁面は見事なモザイクの装飾タイルで飾られている。

イーワーンの両袖に当たる部分の装飾タイルはエスファハンのマスジェデ・エマーム(王のモスク)のものとよく似ており,精緻さと芸術性においても決してひけをとらない。

壁面の複雑なアラベスク紋様の一部を拡大してみると色ごとに模様に合わせて加工したタイルを組み合わせていることが分かる。

カラーン・ミナール

カラーン・ミナールは12世紀に造られた。最上部ののぞき窓の下にわずか青色のタイルが見える以外はレンガの凹凸だけできれいな紋様を描き出している。モンゴルの襲来の時も,1920年に赤軍が城内に突入したときも破壊をまぬがれた強運の建造物である。

かっては,この上から4人のミュエッズィン(ムアッズィン,礼拝を呼びかける人)がアザーンを朗誦したという。しかし,現在はあのイスラム圏の風物詩ともなっているアザーンはこの町では聞こえてこない。

カラーン・ミナールは最上部まで登ることができる。しかし,入場料は4000ソムと高額だ。またヒヴァのように筋肉痛になったらという恐れも手伝って止めておく。しかし,このようにやり残したことは後々になるとだいたい後悔の種になる。

地元の小学生低学年か幼稚園の子どもたち

カラーン・ミナールの下には地元の小学生低学年か幼稚園の子どもたちが先生に引率されて集まっている。カメラを向けると壁のところに集まってくれたので集合写真になる。おや,すでにVサインができる子どももいるではないか。

じゅうたんバザールとその周辺

カラーン・モスクの横を西に歩くと左右に商店街が現れる。左側の商店街の背後にはカラーン・モスクのドームが大きく見えるのでちょっとした写真ポイントになっている。

右側の門をくぐると広場になっており,そこがじゅうたんバザールである。古代からイランとの関係が強かったので,ブハラではじゅうたん製造が盛んなのであろう。

背の低い直方体の建物から色とりどりのじゅうたんが下がっている。小さなものは巻かれて地面に立てられている。イランでずいぶんすばらしいものを見てしまったので,ここのものには目が行かない。

土産物|刃物

ナイフは鉄製にしては光沢があり過ぎているのでクロムメッキのように感じる。上に展示してあるハサミは鳥を思わせるような不思議な形状をしている。

クルィティ・バザール(その1)

ラビ・ハウズから東に歩き,ロータリーを南に行くとクルィティ・バザールがある。このバザールはとても大きい。衣料品や日用雑貨の店はさておいて,生鮮食料品を扱う建物は陽気で人なつっこいおばさんたちが大勢おり,とても楽しい。

日本でいうと「肝っ玉母さん」といったおばさんたちから盛んに声がかかる。おかげで写真の枚数が増える。野菜はとても立派だ,オアシスの豊かな恵みが並んでいる。

クルィティ・バザール(その2)

果物も品質の高いものが多い。一人ではそんなに食べられないので,ブドウ,リンゴ,ナシを0.5kgずつ買って1400ソム(140円)である。本当はこの季節はメロンがお勧めなのだけれど,ヒヴァでずいぶんいただいてしまったので目先を変えてみた。

宿で食べてみたらどれも十分においしい。ここの果物に比べると日本のものは甘すぎて,果物本来の味が分からない。建物の外にも露店の売り場はあり,おばさんたちは日傘をさしている。ここでも声がかかり,なかなか先に進めない。

旧市街の観光地域は物価が高いので夕食はバザールにある食堂でいただく。シャクリク2本,パン,チャーイの組み合わせで1200ソムは,ブハラでは妥当なところだ。肉の筋の部分を残したところ,さっそく肉食のハチがやってきて,おこぼれに与かろうとしている。

土産物|民族衣装の女性

民族衣装の女性たちの人形が目についた。女性はゆったりとしたズボンとゆったりした長衣の組み合わせとなっている。男性はゆったりとしたズボンと前で合わせる上着の組み合わせである。

女性の眉は左右がつながっている。これはチュルク系民族で広く行われている化粧の一つである。このあたりで昼食の時間になったので宿に戻ることにする。

パン,ハチミツ,ヨーグルトをいただきしばらく昼寝をする。暑い中を歩き回ると体力の消耗が激しいので年寄りは決して無理をしてはいけない。旅程をゆったりしたものにして,例えばブハラなどの大きな観光地は3泊してのんびり見せてもらいうスタイルにしないと身がもたない。

路地に入ると

カラーン・モスクの西には小さな枝道があり,そこに入ると昔の街並みが残っている。とはいうものの通りに面している部分は塀か門扉になっており人影も多くはない。ときどき,子どもたちが遊んでいるので写真にする。

アルク

商店街の西にはレギスタン広場がある。その一画にアルク(内城)がある。というよりアルクを囲むように大きな広場になっている。すでに日がかなり傾いてきており,西向きの城門の前は影になっている。その分,アルクの城壁は赤く染まり,まだ真っ青な背景によく映える。

アルクは歴代のブハラの支配者の居城である。ブハラの町ができた5世紀にはこの場所に城があったという。内部の建物は君主の交代によりしばしば変更が加えられており,現在の姿になったのは18世紀である。城壁は日干しレンガで造られており,高さは20mほどもある。

ロシア革命に端を発した1920年のブハラ革命時には赤軍とアミール(ハーン)との間に激しい戦闘があり,7割が消失したという。現在では一部が修復されて観光客にも公開されている。

子どもたち

この広場には子どもたちの遊び場となっている。3人組の写真を撮ったら,自分たちのお気に入りの背景で一人ひとりの写真を撮らされた。もう一組の2人組の写真はお互いのVサインが相手の頭の上に見える面白いものになった。

レギスタン広場から眺める旧市街

レギスタン広場から眺める旧市街もなかなか良い。ミーリ・アラブとカラーン・モスクの青いドームを従えるようにカラーン・ミナールがそびえている。さすがに19時を回ると写真には不向きの時間帯になる。そろそろ宿に戻るとしよう。

夕暮れのカラーン・ミナール

アルクの西には

朝起きるとなんとなく胃の具合が良くない。軽い下痢になっているので朝食はちゃんと食べるが,昼食は抜くことにする。買い置きのリンゴをザックに入れて出かける。

アルクから西に歩くとじきに大きな通りに出る。道路のこちら側にあるデフカン・バザールの商店街は衣料品が多く,特に面白いところではない。通りの向こう側には近郊バス・ターミナルがありミニバスがたくさん停まっている。

子どもたちが炭酸水売り場の店番をしている。この着色料で鮮やかに色付けされた水は一杯75ソムである。体に良いとはとても思えないが,冷たい誘惑に誘われてつい飲んでしまう。ついでに彼らのリクエストに応えて写真を撮ってあげる。

女性たちの服装

イスラム圏とはいえ,旧ソ連時代を経験しているので女性たちの服装は洋風化しており,足を見せている人も多い。

古い城壁が残っている

道沿いに南に行くと古い城壁が残っている。日干しレンガ造りのためかなり風化が進んでいる。タリバチ門と思われるあたりで曲がると城壁に沿った道がある。城壁は金網で囲われている。道路わきではおばさんたちがずらっと台を並べてその上で衣料品を商っている。

そこに10人ほどの警察官がやってきて,彼女たちの露店は撤去させられた。女性たちが懸命に抗議をしても聞き入られない。僕は城壁を囲む金網の破れたたところに入り,この様子をカメラに収めた。かなり距離があると思ったけれども警官に見つかり,画像は消去させられた。

どこの国でも警察や軍隊の写真を撮ると揉め事の種になる。運が悪いとカメラごと没収という憂き目にあう。ちゃんと安全が確信できる場合を除き,彼らにはカメラを向けないのが無難である。中国ではバスの乗客の荷物検査の様子を写して画像消去を命じられたこともある。

城壁を守る金網はずっと続いており,地元の人もそれが不便なのか,所々に大きな破れ目がある。そこから入ると金網無しの城壁の写真が撮れる。城壁の向こうには大きな貯水池がある。これがブハラの水をまかなっているようだ。

サーマーニー公園

貯水池の南側はサーマーニー公園になっている。家族連れの集団が遊びに来ていた。シスターの姿があったので,彼らはクリスチャンのようだ。カメラを向けるとたくさん子どもたちが集まってくる。

この遊園地のジェットコースターはとてもユニークだ。線路はモノレールになっており,乗り物は長いアームで中心部に接続されている。当然,レールは円周上にあり上下に波うっているだけで,動きもゆっくりしている。

子どもたちはそれでも歓声をあげている。彼らが日本の絶叫マシーンに乗ったらまず気を失うことは請け合いである。しかし,考えてみれば日本の遊具はより強い刺激を求めてどんどん過激なものに進化してしまった。

こうした方向は子どもたちにとって果たして幸せといえるのであろうか。刺激による快楽に慣らされてしまうと,次にはより強い刺激が欲しくなる。それは薬物依存症にも似ている。

観覧車からの風景

クルグスタンで乗った観覧車がけっこう良かったので,この遊園地でも乗ってみた。ゴンドラは完全なオープンタイプで,ハンドルにより座席は回転するようになっている。これはちょっと怖い。

一応手すりがガードしてくれるので落ちる心配は無いが,落ちようと思えばすぐにも実行できる。旧市街にはほとんど背の高い建物はなく,緑と灰色がかった茶色の屋根が密集している。この一回転10分のお楽しみは300ソムであった。

イスマイール・サーマーニー廟とチャシュマ・アユップ廟

イスマイール・サーマーニー廟は遊園地から歩いて3分,サーマーン朝の2代目君主の霊廟である。10世紀初頭のもので,完全な形で残っている唯一のサーマーン朝時代の建築物である。

とてもシンプルな建物で,レンガの凹凸により幾何学的な模様を造り出している。サーマーン朝滅亡後はずっと砂の中に埋もれていたという。そのためかなんだかとても新しい建物のように見える。

チャシュマ・アユップ廟は12世紀の建造物,人の霊廟ではなく「アユップの泉」そのものが祀られている。伝承によればこの地を訪れたアユップ(旧約聖書に出てくるヨブに相当する)が地面を杖でたたいたところ,地中から水が湧き出してきたという。

これは一種の聖地伝説であり,この土地はイスラム以前からの聖地であったのかもしれない。イスラム教ではキリスト教の旧約聖書も聖典に含まれているので,ヨブの名前が出てくることに違和感はない。

チャシュマ・アユップ廟はその特異な形状で知られている。円柱型の建物の上に円錐型の屋根を乗せるというスタイルは中央アジアではちょっと類例がない。まるでアルメニアの教会建築を見ているようだ。

霊廟内には泉があり,聖なる水を飲むことができるという。僕は入場料惜しさに中に入らなかったが,フランス人の団体はやはり聖書に縁の建物ということで,ガイドの話を神妙な面持ちで聞いていた。

「ヨブ紀」は旧約聖書の中でも有名な部分だ。熱心なキリスト教徒でもない限り,あの厚くて退屈な旧約聖書を通読した人は少ないだろう。それでもヨブに関する記述は,例えば三浦綾子さんの「続・泥流地帯」にも引用されているので,あのヨブかと思い出される人も多いと思う。

ヨブ記には次のように記されている。突然,財産を失い,子供らを亡くしたヨブは悲しみのあまり上着を裂き地に伏して拝した。悲しみのドン底にありながらヨブは「わたしは裸で母の胎を出た,また裸でかしこに帰ろう,主が与え主が取られたのだ,主のみ名はほむべきかな」と口にした。

バラ・ハウズのモスク

フランス人の団体の後をついていくとバラ・ハウズのモスクに到着した。このモスクは1718年に建てられたブハラのハーン専用のもので,礼拝の時はアルク城からここまで赤絨毯が敷かれ,ハーンはその上をの上を歩いてバラハウズ・モスクまで来てたという。ハウズとは石材できれいに囲った池のことであり,バラハウズとは「池の前」を意味している。

ここでも彼らはベンチに坐ってガイドのレクチャーを聞いている。そのすきに僕は正面の扉を開いて中を覗かせてもらう。現役のモスクだけあって建物の内部は礼拝用のじゅうたんが敷かれ,男性が一人祈りを捧げていた。

モスクの正面には高さ12m,20本のイーワーン(彫刻のある飾り柱)が二列に並んで張り出した庇のような天井を支えている。木造の天井にも凝った装飾が施されている。モスク本体はレンガ造りなので,木造とレンガを組み合わせた建造物になっている。


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