亜細亜の街角
ヒヴァ→ブハラはとても遠かった
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ブハラ  (参照地図を開く)

紀元前1500年頃,中央アジアや南ロシアの草原地帯で遊牧生活を営んでいた印欧語族に属するアーリア人がイラン高原やインド亜大陸へと移動し,イラン人およびインド人を形成する主要民族となった。

民族移動の過程,もしくはイラン高原からの再移動により,ザラフシャーン川流域のオアシスやファルガナ地域ににはイラン系の定住民が住み着くようになった。彼らはオアシスを中心とするいくつかの都市国家を建設した。

イラン系定住民族の一部はソグド人と呼ばれ,ザラフシャーン川流域のオアシスにブハラ,サマルカンド,ペンジケントなどの都市国家を根拠地としていた。ソグド人はシルクロードの国際商人として活躍し,彼らの居住地域は「ソグディアナ」と呼ばれていた。

ブハラはもともとペルシャ民族との政治的・文化的なつながりが深く,紀元前6世紀にはアケメネス朝のに併合されてその地方州となった。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王に征服され,南に位置するバクトリアの地方州とされた。

中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは,ソグド人による激しい抵抗に直面した。マケドニア軍は過酷な対ゲリラ戦を強いられ,将兵の士気の低下を招いたとされている。

8世紀初頭にはこの地域はイスラム帝国(ウマイヤ朝)の支配下に入り,次第にイスラム化が進んだ。ペンジケントのソグド人はイスラム化に反発し,蜂起したもののその多くは殺害された。その後ソグド人が歴史に登場することはなかった。

9世紀,ブハラは中央アジアで最初のイラン系イスラム王朝であるサーマン朝(874-999)の首都となり,最初の黄金時代を迎える。王朝の庇護のもと優秀な宗教学者,文学者,科学者が集まり,ペルシャとイスラムを癒合した文化が花開いた。現在残っている旧市街の中心部の街並みはこの時期のものである。

16世紀にはウズベク族のシャイバニ朝がチムール帝国を滅ぼし,ブハラを首都としてブハラ・ハーン国を興した。ブハラ・ハーン国はジャーン朝,マンギット朝と変遷するが,ブハラは変わらず繁栄を続けた。モスクやメドレセ(神学校)など現在残っている歴史的建造物の大半がこの時期のものである。

19世紀に入ると帝政ロシアが中央アジアに進出してきた。1868年にはサマルカンドが陥落し,ブハラ・ハーン国は形は保ったものの帝政ロシアの保護国になった。

ロシア革命の混乱を経て,ソ連は中央アジアに対して民族による領土的自治を実現し,ソ連邦へ編入させる構想を立てた。1924年の「民族境界区分」の決定により中央アジアには民族別の共和国が成立し,ソ連邦に参加することとなった。

この地域でイラン系定住民の血を色濃くもっているのはタジク人であり,現在でもブハラではペルシア語系のタジク語を母語とする人々が多数を占めている。ソ連の崩壊と各共和国の独立により,タジキスタンとは国境により隔てられてしまったが,タジク系住民の中にはタジキスタンへの共感を抱く者も少なくない。

ヒヴァ(28km)→ウルゲンチ(709km)→サマルカンド 移動

08:30にチェックアウトしてウルゲンチ行きのトロリーバスに乗る。15分ほど走ると乗客が増えて満席となる。そんなときに老夫婦が乗り込んできた。この国ではイスラームの教えが生きており,そんなとき当たり前のように若者は席をゆずる。僕もそれに倣って「どうぞお座り下さい」と席をゆずる。譲られた方も大げさなお礼などはなく席に着く。ちょっといい感じだ。

このトロリーバスは立っている乗客がつかまる横棒の位置が高すぎて使えない。座席につかまって前後左右の揺れに対応しなければならない。バス停以外でも煩雑に停車して乗降があるため,いつもの倍の1.5時間もかかった。

荷物を背負って降車するとき膝がカクッとなってしまった。ウルゲンチの長距離BTに到着すると,昨日僕にブハラ行きのワゴンの情報を教えてくれた青年がおり,僕の荷物はブハラと表示されたワゴンに乗せられた。

とりあえず冷たい水のボトルを買い,ゆっくり飲む。1.5リットルで50円の甘露である。すぐに半分ほどがなくなる。乾燥気候のため汗はそのまま蒸発してしまい,ほとんど汗をかいたという気はしない。

11時を回ったところで乗り合いタクシーの運転手がやってきて,「今日は乗客が僕一人なのでワゴンは運行しない,乗り合いタクシーは20,000ソム」だと交渉に来た。

確かにワゴンのところには他の乗客が誰もいない。しかし,2万ソムはいかにも高く,交渉してもこの値段は変わらなかった。サマルカンド行きのバスの情報を確認すると,「バスは15時発,ブハラは24時,サマルカンドは05時到着」らしい。

ブハラでは旧市街から1kmほど離れたロータリー付近で降ろされることになっている。真夜中に見知らぬ街の路上で放り出されるのは願い下げだ。料金を頭の中で計算し,7500ソムサマルカンドまでが行き,翌日の朝便でブハラまで(おそらく3000ソムくらいだろう)戻ることにした。

チケットを買ってとりあえず昼食をとることにする。ワゴン車から荷物を取り出し,BTの向かいにある食堂に入る。サモサを2個とチャーイを注文する。

サモサのパンは店の前の土窯で焼いている。けっこう大きい上に具もしっかり詰まっており,2個で十二分というところだ。BTに戻り本を読みながら時間を過ごす。

ウルゲンチのBTからは各地へのバスが出ているが,その運行状態はかなり 不安定のようだ。ここでヌクス行きのバスを待っていたフランス人の二人連れはしばらくして「今日はヌクス行きのバスは無いらしい」と嘆きながら出て行った。

駐車場にはバスがたくさん停車しており,車体のやりくりがつかないわけではない。やはり,バスの運行は乗客の人数次第なのかな。僕のバスにしても掲示板には18時発となっている。ここの交通事情はまったく謎だらけだ。

幸い僕のバスは15時に満員状態で出発した。荷物室が無いのでメインザックを座席の下に入れる。座席の背もたれは通常よりも傾いた状態で固定されているので,足元がきゅうくつだ。おまけに隣の席の太ったおばさんのためにさらに窮屈になる。

さらに,さらに,足元の横にはヒーターがありこれがとても熱い。この暑い時期にヒーターをわざわざ入れることはないので,エンジンの冷却システムの一部として常時オンになっているようだ。本当に乗り心地の悪いバスだった。

16時に大きな川の鉄橋を渡る。大きさからしてアムダリアの本流であろう。川の周囲だけは緑の大地となっている。すぐに鉄道線路を横切る。線路に砂が押し寄せないように,枯れた葦のような植物が周辺に植えられている。これはタクラマカン沙漠で見かけた中国の知恵だ。

このあたりはトルクメニスタンとの国境地帯にあたり,道路は国境を越えないようアムダリアを離れ,砂漠地帯に向かう。再び水路が現れた,今度は人口の水路である。バスはしばらく水路の土手の上の道を走る。

ところどころに堰があり,そこで水の配分が行われている。土手の周辺には小さな植物の固まりが見られる。それを食べる家畜の群れが歩いていく。牧童の姿は見当たらない。

キジルクム(赤い砂漠)の名前通りに周囲の砂は赤い。少しは雨が降るのか,地平線の先まで乾燥に強い潅木が生えている。200-300頭の家畜の大きな集団も見かけた。道路のすぐ横を移動しているので写真にはありがたい。羊,ヤギ,牛が混じった集団は乏しい草を求めて移動している。緑はたくさんあるけれど,家畜が食べられる草は少ない。

前の席のおじさんが歌を歌い出した。一曲終わるとアンコールの拍手が起こり,彼は次々と披露してくれた。素朴な曲で外国人の僕には,みんな同じ曲に聞こえる。夕食のため小さな食堂に止まってくれた。注文ができずに困っていたら,後ろの席の家族連れがパンと肉を分けてくれた。イスラム圏では人々はかくも旅人にやさしい。

ブハラには24時に到着した。やはり,路上であるが周囲には灯りのついた家がたくさんあるので,ここで一夜を過ごすことはできたかもしれない。ブハラでは何人かの乗客が降りたので,後部の席を独り占めすることができた。これで自分のザックを座席の上に置くことが出来るようになり,狭い,熱い状態から解放された。そのおかげで,短い時間ではあるが眠ることもできた。

サマルカンド(276km)→ブハラ 移動

バスはサマルカンドのスィーブ・バザールに到着した。04:30なので早起きの市場もまだ完全には動き出していない。バスの中で他の乗客と一緒に待つことにする。

05:30にバスが動き出すというので下車する。サマルカンドには公営と民営の二つのバスターミナルがあり,民営バススタンドのほうが利便性が高い。17番と45番のマルシュルートカはまったく見つからず,回りの人も分からないようだ。

固有名詞がガイドブックに乗っていないので「○○に行きたい」と告げることもできない。結局,アフターバグザールに行くという軽ワゴンに乗ると,残念ながら公営のBTに着いてしまった。運行表にはブハラ行きの便が2便記載されているが,乗客が少ないのか運行されていない。どうもブハラは僕にとっては鬼門のようだ。

さてさてどうしたものかなと思案していると,06:30発でブハラから80kmほど離れた「ナヴァーイ」を通るバスがあると教えられ,それに乗せられてしまった。うまくすると,そこからブハラ行きのミニバスに乗れるかもしれない。

途中から道路の状態はとても良くなる。片側2車線で高速道路に近い。道路の両側はずっと農地と家並みが続いている。綿,トウモロコシ,果樹園がメインで,驚いたことに水田もあった。ここは砂漠地帯,どうしてコメなんだ。

10:30にナヴァーイの路上で降ろされ,歩いてBTに到着する。ここにはバスは見当たらず,マルシュルートカと乗り合いタクシーしかいない。乗り合いタクシーの運転手は「ブハラ行きのマルシュルートカは無い,乗り合いタクシーは5000ソムだ」と威張っている。ここでは,乗り物は完全に売り手市場になっている。

タクシー運転手は値引き交渉にはまったく応じてくれない。マルシュルートカが出ないかとしばらく様子を見ていたが,どうやら運転手の情報は正しいようだ。料金を払い乗り合いタクシーでブハラに向かう。

ヒヴァ→ブハラの交通費を計算してみると16,000ソムとなり,乗り合いタクシーの20,000とそれほど差は無かった。骨折り損のくたびれ儲けといったところだ。

ナズィラ&アズィスベクGH

乗り合いタクシーはたぶん旧市街の北側のバスターミナルに到着した。ここの物価はかなり高い。昼食はシャシリク(串焼き,ケバブ)2本,パン,チャーイで1500ソムである。

BTの前で「ラビハウズ」と言っていると,73番のマルシュルートカの乗せられ,ラビハウズの東にあるロータリーの辺りで下ろしてくれた。ざっと1kmかと地図をしまって歩き出す。

予定していたナズィラ&アズィスベクGHはすぐに見つかった。部屋は8畳,2ベッド,T/HS付き,エアコンと机もありとても清潔で居心地がよい。料金は朝食つきで10$,ここではしかたがないところだ。気持ちのよいお湯のシャワーで頭を洗い一休みをする。

宿の部屋は清潔でとても居心地がよかったけれど,昨日宿のおばさんから「客が混んできたのであなたは応接間に移動してね」と頼まれていたので荷物をもって移動する。

新しい部屋はゲスト・ルームではなくここの住人用の応接間である。10人は座れる大きなテーブルが中央にあり,壁の飾り棚には中国やヨーロッパの陶磁器が並んでいる。

床にはじゅうたんが敷かれ,そこに日本のようにふとんが置かれている。T/Sは住人のものを共同使用することになる。朝食は質・量ともに合格点である。甘いパン,チーズとサラミ,目玉焼き,ヨーグルト,果物と食べきれない量がテーブルに並んでいる。

とりあえずラビ・ハウズ

宿を出て右に曲がるとすぐにラビ・ハウズに出る。ラビ・ハウズはタジク語で池の周りを意味する。17世紀に造られた長方形の貯水池の三方に歴史的建造物が建てられている。

現在でこそラビ・ハウズは池になっているが,造られたときは飲料水,生活用水の貯水池であったにちがいない。沙漠においては「水」はもっとも貴重な資源である。

このラビ・ハウズおよびそこにつながる水路は専任の水管理者により厳しく管理されていたことだろう。当然,水をむやみに汚すことは重大な罪であり,それは子どもたちにも徹底していたことだろう。

人間が一日に必要な水は最低でも20リットル(バケツ1杯)とされている。しかし世界の1/6に相当する11億人の人々はそれすらも手に入れることが難しいと報告されている。

水に恵まれた日本では想像もつかないことであるが,現代においても,世界の多くの地域では「きれいな水」は非常に貴重な資源なのだ。私たちはいつもきれいな水使えるありがさを忘れてはならない。

池の回りは桑の木が生い茂りよい木陰を作っている。テーブルや寝台が置かれ露店のチャイハナになっている。ここはいつも地元の人々が家族連れで坐っており,のんびりと食事やお茶を楽しんでいる。

シルクロードの雰囲気作りのためだろうか,ラクダの像がいくつか配置されている。中国はこういう演出が得意だけれどやめてもらいたい。午前中は池の周囲から噴水が噴出し,涼しさを演出している。

桑の老木の中には曲がりくねって池にせり出しているものもある。これはなかなか絵になる。写真だけ見ると中国の庭園のようだ。また枯れた老木もあり,これも趣き深い。

ハウズはブハラ旧市街の中心の一つであり,東にはナーディル・ディワン・ベギのマドラサ,北には北にはコカルダシュのマドラサ,西にはナーディル・ディワン・ベギのハンカーが池を囲むように配置されている。この3つの建物はほとんど同じ造りである。

ホジャ・ナスレッディンの像

ラビ・ハウズの東にロバに乗った男性の銅像がある。彼の名前はホジャ・ナスレッディン,13世紀にアナトリア西部(現在のトルコ)で生まれ,イスラム神学者であると同時に大変ユーモアのセンスがある賢者であったという。

彼の笑い話は中東や中央アジアのイスラム世界に広く知られているので,ブハラに銅像があってもとくに場違いではない。まあ,日本の一休さんのような人だったらしい。

彼の笑い話を一つ紹介しよう。
ある日,友達がホジャ・ナスレッディンに
「この世で一番値打ちがあるものは何ですか」と訊ねた
ホジャは「それは忠告じゃ」と答えた。
友達は少し考えてから,
「そんなら,一番値打ちの無いものは何ですか」と訊ねた
ホジャは「これまた忠告じゃ」と返事した。

忠告は聞き入れられれば価値はあるが,聞き入られなければ無価値だと彼は言いたかったのだ。日本でも徳川家康の側室に「お梶の方」という聡明な人がおり,このような逸話が残っている。

家康が家臣たちに「一番おいしい食べ物とは何か」とたずねたとき,そばで控えていたお梶の方は「それは塩でございます」と答えた。「では一番まずいものは何か」とたずねられると,お梶の方「それも塩でございます」と答えたという。どこの世界にも似たような話は残っているものだと感心した。

ナーディル・ディワン・ベギのマドラサ

ラビハウズの東側には「ナーディル・ディワン・ベギのマドラサ」がある。前面には木が茂っており,このマドラサのイーワーンを正面から撮ろうとすると木の枝がジャマになる。

マドラサとはイスラムの神学校で,そこで多くの学生がコーランやイスラム法について学んだ。このようなマドラサを維持するための費用は地域の有力者が寄進していたらしい。

このマドラサの入口の構造はペルシャ起源のイーワーン(アーチ型の入口を四角く枠取りした壁で囲んだ門)となっている。そしてあろうことか,その上部には太陽に縁取られた人の顔と不死鳥が描かれている。

この構図はサマルカンドのレギスタン広場にあるシールダール・マドラサのものと類似している。偶像を禁じているイスラムにあっては,このような図柄はたいへん珍しい。

壁面を飾るタイル装飾

イーワーンの両側はアーチ状に凹んだ上下二列の壁面となっている。このアーチの上部もイーワーンと同様の装飾タイルで飾られている。ただし,このアーチ部分の装飾は「単色・方形の色タイル」を組み合わせている。当然,このような方法では複雑な模様を描くことはできない。

それに対してアーチとアーチの間にある柱状の壁面には複雑な模様が作りだされている。これは「モザイク・タイル」という手法が使用されている。モザイクタイルは単色のタイルを目的の絵柄に合わせて削り,たくさんの断片を組み合わせて大きな絵柄パネルに仕上げる非常に手間のかかる技法である。

しかし,この技法により(コストと時間の制約がなければ)あらゆる模様を描き出すことができる。モザイクタイルの技法は画期的なもので中央アジアやイランでは重要な宗教施設でしばしば見ることができる。

先に訪れたヒヴァでは自分の見た範囲ではモザイク・タイルは見かけなかった。その代わりにヒヴァでは「絵付け装飾タイル」が多用されていた。絵付け装飾タイルは大きな壁面の設計図を描き,それをタイルの大きさに合わせた方形の区画に分割する。設計図に合わせて一つ一つの区画に相当するタイルに絵付けして焼き付けるものである。

出来上がったタイルを設計図に合わせて組み合わせると設計通りの壁面装飾が出来上がる。この手法はモザイクよりずっと簡単に壁面を自由に飾ることができるので,この手法は広く使用されるようになり,オスマン帝国時代の装飾タイルは非常に完成度が高いことで知られている。

中庭は土産物屋とレストランに占拠されている

マドラサは多数の学生が生活する施設でもあったので,中庭に面して多くの部屋がある。通常は6-8畳ほどの部屋に複数の学生が寝起きし,勉学に励んでいた。

中に入るとこの中庭も,かっての学生が寝泊りしていた小部屋も土産物屋とレストランに占拠されていた。ちょっとマドラサの雰囲気からは遠いが,これがブハラのスタイルなのだ。

ブハラには入域料もないし,歴史的建造物の入場料もとられない。その代わり建物の中には土産物屋が店を開いている。彼らが出店料を支払っているので観光客は入場無料になっているのかな。個人的には観光客から一定の入域料を徴収して,それを保守費用に充当すべきと考える。

ナーディル・ディワン・ペギのハーンカー

ブハラの旧市街の見どころはラビ・ハウズからみて西→北→西とクランク状に並んでいる。そして,交差点に相当するところには「ターク」と呼ばれる屋根付きのバザールがある。

ハウズから西に歩いていくと右手にナーディル・ディワン・ペギのハーンカーの側面がある。側面には装飾タイルは使われておらず,けっこう無骨な建物に見える。正面のイーワーンには最小限の装飾タイルが使用されており,青空を背景にしっとりとしたたたずまいを見せている。

内部は全面的に土産物屋になっており,なんとなくゆっくり見学していられない。壁面の一部はアーチ型の窪みとなっており,その内側の装飾がすごい。表面を飾るものはタイルと思われるけれど,あまりにも稠密で華やかなのでそれに目を奪われてしまった。

ハーンカーとはイスラムの「スーフィズム」の修道場である。これに対してマドラサは法学・神学などを教える神学校と位置づけられている。中央アジアや中東の旅行者の間でもスーフィズムは正しく理解されておらず「ああ,あの白い長衣を着た男性が集団でくるくる回るあれでしょう」くらいの反応しかない。

スーフィーは「イスラム神秘主義」と訳されており,何か怪しげなイメージがつきまとっている。トルコではアタチュルク革命時にスーフィーは違法であるとされ,教団は解散させられた。

代表的な行法であるセマー(旋回舞踏)は観光客向けのショーという名目でのみ許されているという。本来は白いスカート状の長衣を着用し,音楽に合わせて回り続けることで神に近づくという儀礼である。

スーフィーはこの旋回舞踏の儀礼のみが有名となっているが,本来の姿は「ムスリムとしてよりよく生きるにはどうしたらよいのか」ということを考え,実践し,教える一種の倫理学に近いものであった。

スーフィーは師もしくは長老(シーク)を中心とする共同体や同胞団としての形態をとることが多い。それは,イスラム創成時にできた預言者ムハンマドを中心としたウンマと呼ばれるイスラム共同体に近いものである。

余談になるが,それらの共同体のなかで修行に打ち込んだり,あるいは教えを説いて各地を遍歴したりする者は「ダルビッシュ」と呼ばれていた。日本ハムの有名な投手の名前はここからもらったものだろう。

この建物の内部も土産物屋になっており,商売物の布を展示してあるミフラーブの空間は意外と良い雰囲気になっている。ミフラーブの上部のアーチは平面の装飾タイルを使用して見事な飾られている。ブハラでもっとも印象に残った装飾タイルである。

ここの商売物のスザニにもすばらしい一品があったので写真にする。ここで使用されている多くの絵柄はそれぞれが何かを題材としているようにも見えるし,単にデザインであるようににも見える。

スザニ

「ターキ・サッラファーン(ブハラ2参照)」には彩り豊かなスザニが陳列されており,目の保養をさせてもらった。ヒヴァでは見ることのできなかった「スザニ」をようやく見ることができて,ちょっと感激である。

スザニとはペルシャ語で「糸で刺繍をすること」を意味し,17世紀頃から中央アジアの遊牧民がテーブルクロス,ベッドカバーなどの装飾品として作ってきた美しい布地である。

スザニは母から娘に代々受け継がれてきたものだ。結婚が決まった娘さんとその母親が,幸せな結婚生活を願いながら一針づつ刺繍して作り上げ,花嫁の持参品となっていたという。この伝統的な布地はヨーロッパで評判となり,古いものは大変な高値で取引されるようになった。

僕も何かのテレビ番組で中央アジアの日用品として使用されているスザニとイスタンブールのバザールで高額で扱われる古いスザニを紹介していたのでどのような布地だろうと興味があった。

単純に刺繍の技巧だけなら中国やベトナムにはほとんど絵画に近いような超絶的な作品がある。それに対してスザニは日常品を飾るものであり,そこには古くから伝わってきた伝統的な造形が組み込まれている。ブハラではこのようにすばらしい作品に巡り合えてとても幸福な気分である。

ウズベク絣

ウズベキスタンの染織としては絹経絣が有名です。織物に模様を描きだす方法として「絣(かすり)」がある。日本でも同様の染織技術があり,ウズベキスタンの絣模様になんとなく親近感が湧く。

ただし,日本では比較的地味な色彩であるのに対してウズベキスタンのものは華やかで大胆な色遣いが特徴である。材質も絹であり,現地ではアトラス(絹の王様)と呼ばれている。

それに対して絹と綿の混紡のものはアドラスと呼ばれている。中国から西域,フェルガナと伝来した絹は光沢と艶めかしい色つやにより最高級の布として珍重されている。

アトラスは経絣なので経糸にあらかじめ模様に必要な染色を行う必要がある。伝統的な染色は自然の植物を利用した草木染でである。糸を染めるときに模様に合わせて染めない部分を糸やテープで括り,染料が浸透しないように処理しており。

この糸束を染めて乾かし,括りを解くとその部分だけが白く残る。この作業を何回か繰り返し模様に必要な染が終わってから織機の経糸に取り付ける。

このような絣の染織の技法を国際用語では「イカット」ということが多い。イカットの語源はインドネシア語のの縛る・括る・結ぶという意味の動詞である。多島国家のインドネシアも絣織が盛んであり,島ごとに独自の名称で呼んでいるため「イカット」を共通語にしたという。

土産物|民族楽器

ウズベキスタンというよりチュルク系民族に共通の伝統的な楽器には弦楽器が多い。音の出し方も弦をはじくもの(撥弦楽器),弓で擦るもの(擦弦楽器),弦を打つもの(打弦楽器)が揃っている。ここには打弦楽器は展示されていないがヨーチン(揚琴,ヤンチン)は中国西域やモンゴルではよく見られる。

チュルク系民族の楽器として欠かせないのは「ドイラ」と呼ばれるタンバリンを一回り大きくしたような形状の片面太鼓である。円筒形の胴の片面に山羊などの皮を張り,小さい金輪を付けたもので両手で持ち,指で叩いて音を出す。これはきれいな音を出すのが難しく,僕も試してみたがベチャという音しかしない。

土産物|絵付けタイル

これは宗教施設や宮殿を飾る絵付け装飾タイルの技法をそのまま利用したものである。個人的には建造物を飾る本物の装飾タイルの方が良いと思っている。

土産物|ラクダの行列

ラクダの小さな縫いぐるみは「フタコブラクダ」であった。ラクダにはヒトコブのものとフタコブのものがあり,どちらかいとうとヒトコブがメジャーである。

棲み分けはアラビア半島周辺とアラブ世界はヒトコブ,草原世界およびパミールの東側はフタコブとなっている。ウズベキスタンはその中間に位置しており,おそらく混在していたのでは思うが,少なくとも土産物屋はフタコブであった。

他にも多くの土産物がある

土産物|愛嬌のある像

ナーディル・ディワン・ベギのマドラサの中庭の土産物屋で売られていた。食事を運ぶ男性の愛嬌のある造形である。同じ人物がいろんな料理を運ぶ造形となっているため,例えば白いヒゲの老人だけで何点か異なるものを選び出すことができる。この地域のものではなく,首都のタシュケントからやってきたものという説明がネット上に掲載されていた。

ターキ・サッラファーン

道路の正面にはターキ・サッラファーンがある。タークはたいてい街の交差点にあり,荷物を積んだラクダがそのまま通れるように高いアーチ門になっている。両側にはたくさんの土産物屋が並んでおり,タークの中も今はほとんど土産物屋になっている。

街中の道は現代的な石の舗装になっており,往時の様子は分からない。ターキ・サッラファーンの中および周辺にはたくさんのスザニが土産物として売られている。ヒヴァではスザニをあまり見ることができなかったので,ここのものはじっくり見させてもらった。スザニに関する説明は「ヒヴァ」のページを参照していただきたい。

ウズベキスタンを初めとする中央アジアの刺繍布(スザニ)はヨーロッパでは評判となり,古いものはコレクターに非常な高値で引き取られている。その影響であろうか,欧米人はこの布への関心が強く,ブハラでも主要な土産物の一つになっている。

ここに並べられているものは新作ではあるが,十分に僕の感性に訴えるものであった。「お土産に欲しいなあ」とは思うけれど,旅行はまだまだ先があるので荷物を増やすわけにはいかない。写真に撮って映像だけでガマンすることにしよう。

タークの中はスザニ以外にも素朴な色合いのショルダーバッグや装飾タイルの技術を生かした小物入れなどいいなあと思うものがたくさんある。タークの中は色彩溢れるおもちゃ箱のようになっており見るだけで楽しい。

土産物のなかで面白いものがあった。木枠に隙間をもたして数本の板材を取り付けたものを,中央部で2個連結させたものである。開閉自由で90度くらいの角度で開くことができる。う〜ん,いったい何に使うものだろう。後日,別の街のモスクでこの上にコーランを乗せて読んでいる人がいたので謎が解けた。この道具は読書台だったのだ。

マガーギ・アッターリーモスク

最初のタークを通り抜けると広場になっており,その中央にマガーギ・アッターリーモスクがある。現存するモスクではブハラ最古のもので12世紀に建てられ16世紀に改修された。20世紀に発掘されるまでほとんどの部分が地中に埋まっていたという。

そのため,発掘後もモスクは周囲の地面から2-3m低いところにある。興味深いのは,このモスクの下には6世紀のゾロアスター教の神殿が,さらにその下にはクシャン朝(*注)時代の仏教寺院の跡が見つかったということである。

それはこの地域の宗教の変遷を物語るともに,この場所がブハラ・オアシス地域の聖地もしくは中心地であったことを意味している。複数の宗教が重畳している地域では,このように複数の宗教の聖地となっているところも少なくない。

注)クシャン朝(クシャナ朝)は1世紀から3世紀頃にかけて中央アジアからインド北部を支配したイラン系民族の王朝である。最盛期はカニシカ王の時代で,仏教を保護したことでも知られている。王朝の起源は匈奴に追われバクトリア地域に移動した大月氏の一支族とされている。

ターキ・ティルバック・フルシャーン周辺

広場の北側にはターキ・テルバック・フルシャーンが飾りの無い無骨な姿を見せている。広場の北東側には新しいホテルが建設中であるが,古都の景観を守るため,歴史的建造物に似せて造られており,特に違和感はない。

ターキ・テルバック・フルシャーンの中はけっこう長い通路になっており,両側はすべて土産物屋になっている。ブハラは本当に土産物屋で溢れている。それでも旅行者に対するしつこい売り込みはないので,ゆったりと街の雰囲気に浸ることができる。

タ−キ・ザルガラーン周辺

タ−キ・テルバック・フルシャーンの少し北側にはタ−キ・ザルガラーンがあり,その東側にはウルグベク・マドラサとアブドゥルアジズ・ハーンのマドラサが向かい合っている。

ザルガラーンは大きな建物だ。少し離れて見るとたくさんのドームに囲まれて大きなドームがある。内部はやはり土産物屋が集まっている。四方向に出入り口があるので,ついまちがったところから出てしまう。この頃には土産物には少し飽きがきたのか写真は残っていなかった。


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