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大理(ダーリ)  (参照地図を開く)

大理市は雲南省の西部に位置する大理ペー族自治州の州都である。標高は約200m,面積は1457km2でそのうち耳(さんずいに耳)海が17%を占める。人口は42万人,主要民族はペー族で,他にも漢族,イ族,リス族などが暮らしている。

地理的には南北方向に蒼山と耳海が向かい合うように位置し,大理周辺の観光スポットはその間にある。交通の中心は湖の南端にある下関で,そこから大理古城,喜州,周城,沙坪を結ぶ道路が走っている。

大理は4000年前にすでに人間が暮らしていた。前漢時代には武帝がこの地に「葉楡県」を置いた。7世紀には6つの部族が勢力を競っていたが,唐王朝に支持された南詔国が統一を果たし,本拠地を大理に移した。

このときから大理が雲南エリアの中心地となった。10世紀に南詔国を滅ぼした大理国も13世紀にはフビライが率いるモンゴル軍に滅ぼされた。元王朝は行政の中心を昆明に移したため大理の栄華は500年で終わることになった。

大理はシナ・チベット語系のペー族が過半数を占めているため,彼らの伝統文化が色濃く残っている。ペー族のペーは白を意味し,白色を最も尊び,民族衣装も白を基調にした華やかなものである。しかし,観光地のガイドやお祭りの時などを除くと民族衣装はほとんど見られない。


騰沖(600km)→下関(10km)→大理

騰沖(20:20)→下関(07:20)→大理(08:00)と寝台バス(115元)とミニバス(1.2元)を乗り継いで移動する。騰沖の宿を追い出され汽車站に行き,大理行きの最終寝台バスのキップ(上段)を買う。バスは定刻を1時間ほど過ぎてから,乗客の有無を確認することなく発車した。すぐに町の灯りはなくなり,対向車のライトだけがまぶしい。

乗客はすぐに眠りの態勢に入ったので,僕も薄いふとんを被った。夢うつつの中で怒江と思われる大きな橋を渡った。下関には07:20に到着した。汽車站のおばさんに4路バスの停留所を教えてもらいミニバスで大理に向かう。バスはちょうど自行車旅館の前に止まってくれた。

非典(重症急性呼吸器症候群)による旅行者制限のため騰沖の宿を追い出され,急きょ大理に来ることになった。しかし,途中で見かけた大理歓迎悠(この文字は日本語フォントにはなくUNICODEになるので使用できない)の立体看板の上には暗雲が立ちこめていた。


大理古城

「非典(SARS)」から逃れて大理にやってきた。ここには同じように非典の影響で滞在している日本人旅行者が多く,雲南の旅行情報が入手できる。麗江の四方街は閉鎖された,景洪は外国人立ち入り禁止となった,昆明は入れるが出る手段は飛行機だけだなどなど,非典の影響は深刻であった。しばらくここに滞在して様子を見るしかない。

自行車旅館には個室とドミがある。ドミに何らかの不都合があるらしく,1階の中庭に面した個室に泊まることになった。部屋(10元)は4.5畳,2ベッド,T/Sは共同,まあまあ清潔である。部屋のカギはちょっと信頼性がないので貴重品は持ち歩くことにする。

沙平の月曜マーケット

今日は月曜日なので沙平の月曜マーケットに行くことにする。ローカルバスに乗り,地図を指差しながら行き先を指示したのに,周城のあたりで下ろされた。次のバスで沙平に行くと小さな市が開かれていた。

規模は小さく,別にガイドブックに載せるほどのものではないなと思っていたら,景洪のドミで一緒だった日本人に出会った。非典防止のため雲南省でも旅行者の移動が規制されるようになった。この市場も規制の対象になり,規模を縮小して仮の場所で開かれているという。

雲南省ではまだ非典の患者が出ていない。地域の大がかりな防疫体制は過剰反応としかいいようがない。「非典」を逃れて大理に来たものの「非典」の影響からは逃げられない。

喜州では農作業を写真にする

沙平では収穫が少なかったので喜州に寄ってみた。幹線道路と喜州の間の道の両側は水田や畑になっており,小麦の刈り入れと田植えが並行して行われていた。どうやらこの地域の裏作は小麦のようだ。

荒起こしや代掻きといった力のいる作業は男性,田植えは女性というように作業の性分化ができている。農作業のエリアでは民族衣装は見られない。確かにあの白い服は農作業に向かない。

そろそろ田植えの時期なので,裏作の麦は急いで麦を刈らなければならない。しかし,ある畑では腰の曲がったおばあさんが一人で麦を刈っている。遅々として進まないので,手伝ってあげようかと思って畑を見ると,すでに水が入っている。これではスニーカーでは入れないので援農は断念した。

公開されている厳家大院も閉じられていた

喜城にはペー族の古い家屋が残っている。門には古色ゆかしい絵が描かれたタイルが張られており,いい感じだ。みやげもの屋は開いていたが,肝心の観光客は本当に少ない。

公開されている厳家大院も閉じられており,三房一照壁というペー族独特の住居は見ることができなかった。老人たちがお寺の石段に座って雑談をしている。売り物の藍染の布が彼らを隠していたが風がおもしろい光景を演出してくれた。

朝食の味方

南に伸びる道

この時期の大理は出会いの場所であった。モーハンで一緒だったオーストラリア人,景洪のドミにいた日本人,ムアンシンのGHで一緒だった日本人カップルに1日で会うことになった。考えてみれば雲南の旅行者が大理に集中するのでこのような状態も起きうる。のんびりと南に歩いていく。

大理古城の南楼に登る

大理古城の南楼は2元を払うと登ることができる。最上部からは四方を見渡すことができる。北には城内の瓦屋根の古い家並みが広がる。南の城外にも古い町並みが続く。遠くには楼門が見える。城内の道路はすべて石畳になっており,蒼山からの用水が東西に流れている。

大理の地理を言い表すと,東に耳海(アールハイ)をおき,西に蒼山を望むということになる。南楼からは西に城壁が伸び,その向こうに蒼山が青空を背景に連なっている。1400年前から蒼山は大理の町の盛衰を見てきた。残雪の季節であれば,さらに絵になる風景であろう。

昼食のため自行車の前の太陽島に行く。日本人旅行者が集まっており,雲南省内の移動は困難になっている,景洪や麗江が事実上閉鎖されているという情報が話されている。僕もいざとなったら昆明からバンコクに戻るしかないという腹を固めた。

中国らしい遊覧船

このところ大理の天候は良くない。空の6割は灰色の雲に覆われ,強い風がときどきほこりを舞い上げる。もう雨期が近いのかもしれない。4路のバスに乗って下関に行く。耳海にそそぐ川には水門がある。水門の上にも古風な中国建築物が建てられており,なかなかの風情である。

川沿いの道は大理港まで続いており,400人くらいは乗れそうな巨大な遊覧船が4隻係留されている。中には中国らしく龍をあしらったものもある。それよりずっと小さい,15-20人乗りの船も動き出す気配は無い。耳海の観光船は観光客の激減により完全に停止していた。

ペー族の民族衣装は白を基調としている

大理三塔(崇聖寺三塔)

大理三塔は大理のシンボル的な存在である。塔の周囲は高さ3mほどの塀に囲まれており,入場料は32元を払わないと満足な写真も撮れないようになっている。周囲を1周してみたが好ましいビューポイントは発見できなかった。

それに対して,三塔の北側にある三塔投影公園ならば4元で入場できるうえ,公園の池越しに三塔の一番美しい姿を見ることができる。普段ならば大勢の観光客が押し寄せてくる場所であるが,非典の影響で観光客が激減しているため,公園の風景を独り占めである。

大理石をスライスする

大理はその名の通り大理石の産地であり,大理石の加工品がたくさん売られている。中でもスライスした大理石の表面を磨いて,その模様を絵あるいは風景にに見立てた飾り物が目立つ。

三塔公園の近くに大理石の加工場があった。ザー・ザーと低い音をたてながら巨大な機械は動き,大きな石を木材のように切っていく。巨大な鉄の枠に5cmほどの間隔で30本ほどの鋸の歯が取り付けられており,近くのエンジンが鉄枠を前後に動かしている。

鉄枠を支える台はスクリュー・ボルトに固定されており,常に下向きの力がかかるようになっている。鋸の加熱を防ぐため上からは水がかけられている。この巨大な仕組みにより大理石は少しずつスライスされていく。

大石を運ぶ

大理古城と下関の間に観音寺がある。自行車旅館のおばさんが紙に「観音堂」と書いて行くことを勧めてくれた。ミニバスに乗り車掌にメモを見せるとちゃんと降ろしてくれた。そこは何回か通った市場の横であった。

観音堂は立派な中国風の建物で入口の上部には「大石庵」,壁には「南無阿弥陀仏」と書かれている。日本の浄土宗とどこかでつながっているのかもしれない。大石庵のいわれは中の壁画にある。

門をくぐると次の門があり,その向こうには金色の布袋様のような太鼓腹の男性の像が笑っている。よもやこれが本尊ではあるまいな思いながら,奥に進むと,ようやく観音様に対面することができた。

一番奥の本堂から声が聞こえる。僧侶と大勢の信者がお経を唱和している。木魚と鉦がリズムをきざんでいる。本堂の前門には「大石を担いで戦を止める」と書かれた壁画が飾られている。平和を求める民衆の願いが形になっているように感じた。中庭には8重の塔があり,これもなかなかのものである。

麦を運ぶ

大理と耳海の間の平地は農地になっている。5月の大理は裏作の麦の刈り入れが終わり,表作の田植えが行われる季節だ。耳海を見ようと大理から歩いてみる。収穫した麦をのせて馬車がゆく。一昔前の日本の風景である。自然の恵みの範囲で,自然の与えてくれるエネルギーの範囲で生活する,中国の農村には持続可能な生活がまだ残っている。

耳海と水田の間に村があり,村の道では麦の脱穀が行われている。棒の先に回転する部材が取り付けられた道具を使用している。棒を振り上げ,振り下ろすタイミングで回転させると麦を打つことができる。しかし,決して効率の良い方法ではない。僕も道具を借りてトライしてみたが,けっこうな労働である。

土地の神に祈る

田植えの行われている水田に大勢のおばあさんが集まっている。急いで現場に向かう。彼女たちの前にはお供え物が並び,紙のお札が燃やされる。小さな鐘を鳴らしながら,ゆっくりした調子で声を合わせている。それはこの土地のお経のようにもご詠歌のようにも聞こえる。

彼女たちは土地の神に豊作を祈願しているようだ。一行は場所を移し,何ヶ所かでこの儀式を繰り返した。彼女たちにお付き合いして今日も耳海を見ることはできなかった。

お葬式の風景

翌日のことだった。耳海を見るため東に歩き出す。耳海門の近くでお葬式が行われていた。家の外ではおばあさんが集まり,鐘をたたきながら声を合わせている。田植えのときの豊作祈願と同じものだ。

しかし,注意深く観察すると,彼女たちの頭巾は白色になっている。中国(漢族)では白はお葬式の色だ。あばあさんの一人は黄色と浅黄色の紙を2-3枚づつ燃やしている。お年寄りが知人の死を悼んでいる。遺族は白の頭巾と上着を着て,紙の飾りを前に,地面に跪いている。

苗を運ぶ

大理と耳海の間の水田では田植えの真っ最中であった。茶色の畑の一部分は緑色になっており,そこが苗畑になっている。採られた苗は竹の表皮で束ねられて,田植えの現場に運ばれ,適当にばら撒かれる。

苗を運ぶのは年のいった男性もしくは女性であり,田植えは女性の仕事のようだ。男性は苗のいっぱい詰まった籠を背負って田んぼのあぜ道を歩き,女性は天秤棒の両側に苗を乗せて水田の横を歩いていく。

この辺りの水田は1区画がとても広い。1区画の田植えを1日で終わらせるには1家族だけでは人手が足りない。日本でいう「結い」のような仕組みがあるようだ。水田の巾で1列に並び,両端にひもを張りまっすぐに苗を植えていく。かなりの密植で,横の間隔はわずか10cmである。

老人と孫

古城から耳海を見るため農道を歩く。田植えが盛大に行われているが今日は寄り道をしないでおく。耳海に近づくと村があり,その中の道は迷路になる。空き地の庭に2組の老人と孫が座っている。老人たちは忙しい家族に代わり,孫のお守りをしている。写真をお願いしたらこころよく許してくれた。

お孫さんも可愛いし老人の顔もなかなかである。写真のお礼にフーセンを膨らませてあげると,もう一組の老孫が現れた。おじいさんはキセルを出し,タバコを吸えという。それはちょっとと,僕は自分のタバコを取り出し,みんなに配る。それが中国の流儀である。

アールハイ

いろいろハプニングがあったが,4回目のトライで耳海(アールハイ)に到着した。耳海は細長い湖なので対岸が間近に見える。ガスがかかっているため長手方向にあたる左右の景色はガスの中に隠れている。観光船も動いておらず湖面は静まりかえっている。

右側から漁師の船がやってくる。一人が2丁のオールをこぎ,もう一人が水の中に網で作られたカゴ状のものを入れていく。もう1隻の船は刺し網を流しながら静かに移動している。

耳海からの帰り道,田植えの人々は昼食の最中であった。みんな道路や畑に食卓を広げ,円くなってごはんを食べている。そのうちの一つから声がかかり,お昼をいただくことになった。 豆の煮物,豚の脂身,ピーナッツ,きゅうりの漬物と多彩だ。彼女たちはとても気前がよく,2杯目を食べ終わる前に次を入れられ往生する。

温泉は閉鎖されていた

城内の文化宮の前庭にはテーブルとイスがある。僕は朝食にまんとうを買ってよくここで食べていた。この場所は老人たちの憩いの場である。何人かが集まり,マージャンやカードゲームを楽しんでいる。見物人も多い。こんな老後もいいなとふと考える。

下関から5kmほど離れた下関温泉に行く。バスが分からないのでタクシーを利用する。運転手は15元を要求した。雲南のタクシーは2kmで5元くらいなので,彼の言い値は少し高い。

下関の市内を抜けると道路は悪くなる。右手には立派な高速道路が見える。温泉に近づくと周囲の建物は取り壊しの最中であった。

当然,温泉は営業しておらず,温水プールだけは少数の客を受け入れたいた。温泉の温度は70℃ほどもあり,湯量は小さな川程度である。この一帯の取り壊しの規模からすると,いったん更地にして,温泉リゾートを造りそうな気配である。

気の毒な日本人旅行者

大理に1週間滞在しても状況は変わらないので昆明に戻ることにした。昼下がりの太陽島には日本人は一人しかいなかった。ごはんと大根と豚骨のスープで昼食をとりながら話を聞くと,彼は4日前にラオスから入国した気の毒な旅行者であった。

チベットに行きたいが閉鎖されているので,四川省のチベット族の町に行けないかと情報を探していた。僕は(やり残したことはあるものの)40日ほど雲南を旅行できたので,あきらめもつくが,彼のように中国に入ってすぐに行動の自由を奪われた旅行者は本当に気の毒だ。


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