亜細亜の街角
宿の屋上からタージマハルを眺める
Home 亜細亜の街角 | Agra / India / Apr 2010

アーグラー  (参照地図を開く)

アーグラーはデリーから200kmほど南東にあり,ガンガーの支流のヤムナー川に面している古い歴史をもった町である。インド古代叙事詩「マハーバーラタ」にも登場しており,古代ローマのプトレマイオスが作成した地図にもAgara と記されている。

15世紀には現在の町の基礎が築かれ,16世紀にはムガール帝国の第3代皇帝アクバルがここに都を置き,約1世紀にわたり帝国の首都として繁栄した。その時期に建造されたタージ・マハルやアーグラー城などは歴史的建造物として世界遺産に登録されている。現在は人口130万人の大都市であり,年間400万人(そのうち外国人は20万人)もの人々が訪れる大観光都市でもある。

プシュカル(07:00)→ジャイプール(10:30) 移動

06:45にチェックアウトする。アーグラーまでの所要時間は10時間程度と見込まれるので,明るい時間のうちに到着するためにはこの時間帯に移動を開始しなければならない。マーワール・バススタンドでアジメール経由のジャイプール行きに乗車する。ラジャースタンでは200kmを越える長距離バスは本数が少ないのでアジメールからアーグラー行きのバスは難しいと判断した。

79Rpの料金から考えると距離は150kmくらいありそうだが,7割くらいの行程は高規格道路になっており,所要時間は2.5時間であった。インドの高規格道路は町の近くで一般道路と出入りすることができるるようになっており,そのようなところがバスストップとなっている。そこから入り込んだのかラクダ車が高規格道路の路側帯を移動しているのには驚いた。


ジャイプール(11:00)→アーグラー(17:00) 移動

アーグラ行きのバスは窓口でチケットを買ったので座席指定になっている。しかし,ことバスに関してはほとんど意味を持たない。実際,僕の席には誰かが座っており,「そこは僕の席だよ」とやるのはおっくうだ。一つ後ろの座席に座ることにしよう。メインザックは網棚に上げることができるので,バス移動における精神的負担はたいぶ軽減されている。

13:30にバスは田舎道の食堂の前に止まった。3台のバスが停まっており,ここはバス会社の指定食堂のようだ。といっても僕が食べることのできるものはほとんど何もない。野菜のてんぷらでも注文すべきだったと悔やむ。ここのテイクアウトの容器は木の葉を数枚重ねて成型してある。これならば路上に捨てられても牛の食べ物になる。ここの停車時間は20分であった。


シャンティ・ロッジに向かう

17時少し前にアーグラのバススタンドに到着した。ここからタージ・マハルの近くまでは4kmくらいあり,オートリキシャーとの面倒な交渉が待っているなと思ったらその通りになった。
「このホテルまでいくらだい」
「そのホテルなら知っているよ,100Rpだね」
「それはあまりにも高いんじゃない」
「いくらなら乗るんだい」
「そうだね,50Rpだね」

運転手は観光用の料金表を見せてくれた。タージ・マハルは150Rpになっている。しかし,それは往復かつ現地での2時間程度の待ち時間を含めたものである。らちがあかないので別のリキシャーを探そうとすると60となった。どうやらそれが彼なりの限界値のようだ。

日没前の光の中でタージ・マハルの写真を撮る

オートリキシャーはちゃんシャンティの前に到着した。部屋を見せてもらうとシングルはフルであり,ダブルは300と言われた。予算に合わないのでそのことを告げると250に下がった。 部屋は6畳ほどの広さがあり,そこに2つのベッドと2つのソファーが置かれているので手狭である。シャワー室は広く清潔である。さすがに設備は値段相当に良い。

18時に宿の屋上で少し早い夕食にする。日没前の光の中でタージ・マハルの写真を撮る。この宿は南門の正面ではないので,南門とタージ・マハル本体が横並びになって見える。この角度もいいものだ。ここの屋上レストランはタージ・マハルのビューポイントになっているのか,屋上のさらに上の席にヨーロピアンの大きな団体が上がっていった。

前の通りを結婚式の行列が行く

二階の部屋で日記を書いているとにぎやかや音楽が聞こえてきた。廊下の窓から覗くと結婚式の行列のようだ。日没後の時間帯なのでフラッシュ無しの写真はほとんど期待できない。馬に乗っている人は頭からすっぽりと飾り布を被っている。えっ,花嫁なの?・・・。結婚式で白馬に乗って街を歩くのは花婿の役どころなのにと思ったらやはり馬上の人は男性であった。

日没後のタージ・マハルの様子を見るため屋上のレストランに出向いてみる。新月のため月明かりがほとんど無く,タージ・マハルはヤムナー川の対岸からの光で,おぼろげなシルエットになっていた。これでは満月の夜のタージはまったく想像できない。

風景の透明感が悪い

夜間は排気ガス等が拡散せず地表付近に留まっているようだ。昨日の夕方は気が付かなかったが大気の透明感がずいぶん悪くなっている。直線距離で200-300mのタージマハルも少し霞がかかったようになっている。

この優美な建造物も工場から排出される酸性ガス,車両からの排出ガスによりどんどん蝕まれていることだろう。2000年に訪問したとき近くで見ると,白大理石の建物は有害ガスや酸性雨により黄色くなっていた。

旧市街の深部は僕でもたじろぐ

タージの南門を見に行こうとして宿から南に向かったのはひどい錯覚であった。宿はタージマハルの南側に位置していたのだ。そのため旧市街の深部に向かってしまい,細い路地の両側に市場が並ぶバザールに入ってしまった。

この路地の臭い,ハエの多さには,このような地域を数多く歩いてきた僕でもたじろぐほどのすごさであった。ゴミと汚水のすぐ横で食べ物屋が営業している光景はインドらしいといえばそれまでであるが,さすがにたじろぐ。

まちがいに気付いて旧市街の路地をたどり北に向かう

たじろぐといえばこの路地のハエの密度はすごい。歩いているとハエに当たりそうになる。目の前を飛び回るので手で払いながら歩くことになる。

子どもたちの写真は撮りやすい。写真の要求も多いが撮りたいと思うものが少ないのが難点だ。さすがに15分ほど歩いて間違いに気が付くことになった。北に向って道なりに歩いていくと見覚えのある赤い三角屋根の建物が見つかった。

タージ西門横のモスク

西門の横にはモスクがある。道路から4mほど高いところに広場があり,その西側に横長の建物がある。広場の端からでも建物の全体をフレームに入れることはできない。ミフラーブは西側に面しており,礼拝のためのじゅうたんは二列しか用意されていない。

ミフラーブの周辺に10人ほどの人々が集まっており,なんとビリヤニと呼ばれる炊き込みごはんを食べていた。ヒゲが白くなった男性が容器からビリヤニを取り出し,周囲の人々にふるまっている。

ビリヤニは僕の好きな食べ物の一つだ。しかし,朝食を残してしまうくらい食べた後だったので遠慮することにする。モスク本体は南北方向に長い建物であり,東から光が入っているときの写真は光の加減がおもしろい。

17時になるとアザーンが始まったのでタージ西門近くのモスクに上がる。今朝は気が付かなかったが,上の広場の端に蛇口の付いた水場があり,男性たちはそこで身を清めている。

ここに集うムスリムの人々はテロとはなんの関係もない人たちである。にもかかわらず,イスラム過激派のテロによりずいぶん肩身の狭い思いをしていることだろう。

広場の隅に豆がまかれ,鳩とインコがそれを食べている。望遠はないのでそっと近づいて写真を撮る。礼拝に参加する人数は15人ほどであり,建物の大きさに比して寂しい。西日の状態では写真はかなり暗くなる。やはり,ここは午前中の光が良い。

西門チケット売り場

西門のチケット売り場にはインド人の観光客が詰めかけている。インド人の持っているチケットを見せてもらうと,入場料は20Rpとなっていた。外国人の場合は入場料250Rpに加えてADA(インド考古学局)料金の500Rpが加算される。タージだけで750Rp,アーグラー城を含めると1000Rpにもなる。今回はどちらも入らなかった。

ローカル・バススタンド

タージ・マハルの西門から公園地帯を抜けてアーグラー城までの道が続いている。その途中にローカル・バススタンドがある。近郊へのバスが出ているのかと思って立ち寄ってみると,団体用の観光バスがたくさん停まっているだけのところであった。ここはインド人の団体ツアー客用の駐車場という機能しかもっていない。

アグラ・フォートの南側から入る

タージ・マハルの西門からアーグラー城までは約2kmの大きな通りが続いている。両側は公園になっているが,この季節は緑が少ない。アーグラー城の入り口は北西側にある。

この城の南東側で道路は二手に分かれ,城の北側で合流する。その近くにアーグラー・フォート駅がある。東側の道は城とヤムナー川の間を通るので歩いてみたい道である

しかし,アーグラー城の南側にある作業用の門が開いており,作業員が入っていいよと言うのでここから入って城の東側の写真を撮らせてもらう。赤砂岩でできた城は深い濠に囲まれ,その威容を誇っている。

東側には庭園がある。一般の入場者は南端のアマル・スィン門から城内に入ってしまうのでここには来ない。庭園の芝生に水をやっているところではインドオオミツバチの吸水行動が見られた。

ここからの城の眺めは観光客と逆方向を見ることになり,ちょっと面白い。10年前にそこから眺めた「囚われの塔」から下を見ている観光客がたくさんいる。そのときは城壁にオオミツバチの大きな巣があったのだが,今回は肉眼で確認した範囲では見つからなかった。

僕にとってはこのくらい見学させてもらえると十分だ。いちおうアマル・スィン門まで歩いてみた。さすがに10年前の記憶は残っている。ただただ広くて退屈な建物という印象であった。観光客の出入りしているアマル・スィン門の写真を一枚撮って宿に戻ることにしよう。

バザールを歩く

今朝歩いたバザールを歩いてみる。少年たちがしつこく写真を要求する以外はこれといった題材が無く,仕事中の人を中心に写真を撮る。それにしても,この少年たちは本当にジャマだ。僕が撮ろうとするとフレームの中に入り込んでくる。これは迷惑極まりない。このような少年は現地語で追い払わないとさっぱり効き目がないのでますます厄介だ。ホウキ屋の店先で一枚撮らせてもらう。インドではこのような短いホウキで腰をかがめて掃除する

決して貧困を強調する写真を考えているわけではない

バザールの先は下水地区になっていた。上流からの汚水が溜まりひどい悪臭を放っている。200mほど歩いてみたが,水道橋のような構造があり,そこで引き返すことにした。

このような地区で写真を撮ることは大人にとっては好ましくないのだろう。僕の前に並んだ子どもたちをしかりつける人もいた。僕としては決して貧困を強調するような写真を考えているわけではないが,ある種の人の目にはそのように映るのかもしれない。

タージの西門は長蛇の列であった

夕方に順光となるのでもう一度タージの西門の写真を撮りに行く。西門に近づいて驚いた。長蛇の列である。入り口で荷物検査とセキュリティ・チェックがあり,これに時間がかかっている。

何回かのイスラム過激派のテロにより,インド社会の安全性は大きく低下した。国の至宝ともいうべきタージ・マハルが傷つくようなことになれば,インド政府の国際的な体面はそれ以上に傷つくことになる。

滞在三日目に宿を変える

アーグラーからは夜行列車でゴンダに移動することにしており,すでにチケットを入手している。夜間にオートリキシャーと交渉して駅に向かうのは面倒である。まあ,タージ・マハルの南側はもう十分に見たので,アーグラー駅周辺を見学することにしよう。ということでアーグラー駅の近くに宿を変えることにした。

アーグラー・フォート駅はアーグラー城に面した南口がメインになっている。僕の向かうホテルは北口にあるので連絡橋で線路を越えなければならない。この連絡橋からはムガール時代のものと思われるすばらしい建物が見える。これはジャマー・マシジット(金曜モスク)である。町で最大のモスクはよくこの名前で呼ばれることがある。

アジャル・インターナショナル・ホテルの受付はちゃんとしたホテル仕様である。最も安い部屋は300Rpであり,設備に比して少し高いかなというレベルであった。7畳くらいの部屋のうち2畳はシャワー室になっている。ベッドは2つでとても清潔である。窓は廊下に面したものしかなく,通気性は期待できない。インドの安宿では珍しくシャワーがちゃんと機能し,水浴びの回数の多い僕としてはうれしい。

廊下をはさんだ反対側の部屋の冷風装置が動き出した。エアコンではなく大きな箱の中水を入れ,水を吸い込んだワラ束が気化熱で箱の中の温度を下げる。この空気をファンで部屋の中に送り込むという装置である。なかなか良くできた器械で十分に涼しさを運んでくれる。

宿のある駅の北側は旧市街の中心部で狭い道路を人,荷車,バイク,車が行きかっており,油断するとバイクに引っかけられそうになる。宿の前にはスパイスを扱う店が多く,ここを通ると鼻がむずむずしてくる。働いている人々は写真に対して,ああいいよと気軽に撮らせてくれる。タージ・マハルの南側とは同じ旧市街とはいえかなり感じが異なる。

インドでは郵便物を列車で運んでいる

駅舎の北側は郵便用の基地がある。インドでは長い間,鉄道は郵便物を運ぶ唯一の交通機関であった。そのため,駅舎の中に郵便用の基地がある。駅まで届けられた郵便物は町の中央郵便局に移され,そこから個別に配達されることになる。このように列車で郵便物を運んできたため,現在でも急行列車の名前には○○メールというものも多いのはその名残りである。

連絡橋を渡って駅の南側に出る。ここはアーグラー城と線路に挟まれた地域で,食堂と商店が少し並んでいるだけのところだ。ヤームナー川を見たかったので北東方向に歩き出す。ちょっと歩いただけで体の水分が抜けていくような気がするので,その前にスプライトをいただく

アーグラー城の庭園

道路とアーグラー城の間は庭園になっており,簡単には乗り越えられない柵で囲われている。小さな門が開いていたので中に入ってみる。

ムスリムのお墓がある。おそらく聖人の墓なのであろう。傍らの木は外観は異なるがイチジクの仲間のようだ。幹や太い枝にたくさんの果実を付けている。直径2cmくらいの果実は周辺に散らばっている。

近くには豆か穀物がまかれており,リス,鳩,インコが集まっている。普通レンズではちょっと遠いので城の濠に座ってレンズを交換する。埃の多い地域なのでできれば屋外ではレンズは交換したくない。これで迫力のあるインコやリスの写真を撮ることができた。

通りすがりの人がお墓を指差して10Rpというがこれは無視した。この庭園は城の濠に沿ってずっと続いているが,不法占拠者の姿が多くなってきたので外に出ることにした。

鉄道の陸橋は人も渡れる

そのままアーグラー城の北側を東に進むと陸橋の近くに「Yanuna」を記された駅名表示があり,線路に上る階段があった。そこを上ると,鉄道線路とばかり思っていた鉄橋の片側には歩道が付いていることが分かった。これで遠回りしないでもヤムナー川の景色を眺めることができる。

鉄橋はゆうに500mはある。これはほとんど川幅と一致するが,乾季の今は手前のドブ川と対岸に近いヤムナーの本流との間に大きな中州ができている。ドブ川は水系としては完全に死んでいる。よどんだ黒い水がたくさんのゴミを浮かべている。

そのような環境でもアマサギと思われる白いサギが二つの集団を形成している。水牛もこのひどい水に入っている。少し先にヤムナー川の本流があり,こちらはまだ川といえる状態である。なぜ,そちらに向かわないのか不思議だ。

鉄橋の上からの洗濯の風景

鉄橋の歩道は進行方向左側にあり,右側には水量の少なくなったヤムナー川を挟んで二つの大きな洗濯場がある。大変な量の衣類が集められ,洗濯され,近くに干される。中州の洗濯場は男物なのか物干し竿にかけられた白い衣類が風にはためいている。

一方,対岸の洗濯場は地面にそのままサリーを広げており,一面に色とりどりの花畑のようになっている。洗濯の風景は鉄橋を挟んで撮影することになり,鉄橋の骨組みの間を選んで撮っていた。

川岸からの洗濯の風景

対岸に渡ると下に降りる階段があった。ここを下りるとアーグラー・フォート駅周辺とはかなり様子の異なるところになる。川岸に行ってみると洗濯の最中である。

ここの洗濯方法は川の中に洗濯板(石板)を斜めに置き,それに衣類をたたきつける方法が一般的だ。川岸にはたくさんのドラム缶を一回り大きくしたような缶が置かれ,一部は下で火が焚かれている。これが何をしているかは不明だ。

こんなところにも個人ツアーで回っている観光客のカップルがガイドに連れられてやってきた。この趣向はツアーガイドの機転によるものであろう。きれいなものを見るだけが観光ではない。その町のもっとも特徴的な人の営みの一つが眼前に繰り広げられている。

駅側に戻るときにやはり望遠が欲しくなる。橋の上にしゃがんで慎重にレンズを交換する。望遠はさすがにこのような環境では使いやすい。鉄骨の間からの撮影であることがほとんど苦にならない。

鉄橋の周辺はたくさんの水牛がいる。多くのものは鉄橋の日陰に一列にならんでいる。川の本流には二つの集団の水牛がいる。やはり,水牛は水の中にいると絵になる。水浴びする水牛の背中には頭が薄茶色のアマサギが止まっている。

ヤムナー川西岸(駅側)で水牛と遊んでいる子どもたちもしっかり撮ることができた。もちろん洗濯の場面もしっかり撮影した。こちらのの洗濯場ではサリーの洗濯物は少なかった。

皿入りのパパイヤは5Rp

木の葉を数枚使用して整形した皿にパパイヤの切り身を入れたもの,これはいくらと聞くと10Rpだという。5Rpでしょうと言うとそれが市価であった。マサラ入りの塩は遠慮してそのままいただく。これも僕の好きな街角の食べ物の一つだ。

ジャマー・マスジット

宿の近くにはジャマー・マスジットがある。駅の連絡橋から見えた優美な建物である。ジャマー・マスジットの近くにはイスラム教徒が多く,白い帽子に白い上着の少年たちを見かけるようになる。

ザカート用の小銭の手持ちがなくて困ったなと思いながら歩くと,入り口のそばにイスラム食堂がある。僕の好きなチキンカリーとマトンカリーが入った鍋が並んでいる。

昼食は食べていないけれどいろいろ食べたのでちょっと不安ながらマトンカリーとチャパティを一枚注文する。ここのチャパティはナンに近いものでちゃんと土釜の中で焼いていた。3年ぶりのマトンカリーはちょっとスパイシーでもおいしかった。

そのおかげでナンもお腹に納まった。これで43Rpなのだから駅の北側の食堂とは比べ物にならない。明日の昼食もここに来ることにしよう。

ジャマー・マスジット(マスジット・ジャーミィ)とは金曜モスクと訳されている。一般的に金曜日の大礼拝が行われるその町でもっとも大きく立派なモスクのことをいう。線路を挟んでアーグラー城と向かい合っているジャマー・マスジットは当時の支配階級であったムスリムの権勢を誇るような巨大な建造物である。

階段を上っていくと中央に池を配した広場に出る。この池でムスリムの人々は身を清め礼拝前に望む。いまどきのモスクは池の回りに蛇口が用意されており,その水で身を浄める仕組みになっているが,ここの大モスクにはその設備はなかった。広場は50m四方ほどもあり,往時はモスクの中だけではなく広場を埋めて大礼拝が行われたのであろう。

朝の散歩の途中に女学校を発見

早朝なので商店はシャッターを下ろし,道路を行きかう車やバイクもほとんどいない。昨日の雑踏がうそのような状態である。散歩の途中に女学校を発見した。門のところには警備員がおり,さすがに中には入れない。建物の入り口で女生徒が手風琴の伴奏で歌を歌っていた。警備員と先生に断って,この場面だけは一枚撮らしてもらう。

自転車などの修理場

宿の前の通りに自転車や荷車を修理するところがある。といっても建物の前に道具を並べているだけで,建物の所有者から場所を借りているようだ。サイクル・リキシャーの前輪がパンクのようだ。車輪を取り外し中のチューブを取り出し空気の漏れるところにゴムのパッチを貼り付けている。

その後に空気を入れ,漏れているところがないかチェックするため水の入ったバケツの中に沈める。OKとなると空気を抜き,車輪にタイヤを取り付け,その中にチューブを押し込んで,タイヤを被せる。最後の部分は専用の工具が必要である。空気を入れてサイクル・リキシャーの前輪に取り付け,ネジで固定して完了である。利用者は40Rpを支払っていた。

靴の作業所

ジャマーマスジットの近くのイスラム地区を歩いていると,シンナーの匂いが漂っており,通りから靴の作業所が見えた。この作業所では革靴製作の全ての工程が手作業で行われている。

作業の流れは型に合わせて上側の皮を被せ釘で固定している。靴の仕上げ工程では専用の塗料を吹きかけていた。表がシンナーくさかったのはこのためである。中毒にならないようにと塗装場にはファンで風を引き込んでいる。

オーナーはムスリムであるが労働者にはヒンドゥー教徒も含まれているという。彼らの賃金は1日12時間労働で200Rpだという。インドでもこの賃金で暮らすのは大変だろう。誰かが表通りのチャーイ屋に行き,5分後にはチャーイが出てきた。オーナーの甥や姪が戻ってきたのでヨーヨーを作ってあげる。この単純な日本製のおもちゃはどこでも評判がいい。

ヒンドゥー教徒には墓はない


プシュカル   亜細亜の街角   シュラーヴァスティー