亜細亜の街角
■変わりつつある世界遺産の町
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ボーダガヤ  (地域地図を開く)

ガヤから南に10kmほどのところにボーダガヤがある。高さ52mのマハボーディ寺院がそびえ,そのとなりに聖なる菩提樹の木がある。その下で瞑想に入った釈迦は,長い夜があけるころ,世界の真理を理解するに至った。

人はなぜ存在し,どのように生きればよいのか,苦しい修行の果てにはっきりとその答えを得た釈迦は,その後ブッダ(悟りを得た人)と呼ばれるようになった。このためボーダガヤは仏教徒の最大の聖地となった。

釈迦の生涯は80年ということはよく知られているが,生年ははっきりしていない。研究者によりBC566年からBC463年まで100年近い差が生じている。これは,インドでは輪廻転生の考え方が広く普及しており,年代を正確に記す習慣がなかったためである。

紀元前1500年頃,滅亡したインダス文明のあとを埋めるようにインド北部にはアーリア人が進出してきた。アーリア人は定義された民族ではなく紀元前2000年頃に南ロシアから中央アジアに進出してきた民族集団が自分たちのことを「アーリア(高貴な)」と自称していたことに起因している。

アーリア人は中央アジアから二手に分かれ,片方はイラン高原,片方はインド・パンジャブ平原に進出した。彼らは先住民族と混血しながら,現在のイラン人,インド人を構成する主要民族となっていた。

インドにおいては先住民族のドラヴィダ人を奴隷化して支配するようになった。その支配体制を確実なものにするため,肌の色を基準とする階級制度を制定した。この区分は「ヴァルナ」と呼ばれ,そのものずばり「色」を意味している。

中央アジアに進出してきた頃のアーリア人は,自然現象を神々として崇拝する宗教を持っており,司祭が社会的に重要な地位を占めていた。この宗教観はイラン・アーリア人,インド・アーリア人双方に引き継がれていく。

インド・アーリア人は紀元前16-10世紀頃には聖典「リグ・ヴェーダ(神々の讃歌)」を編纂している。ヴァルナおよびそれに基づく階級制度(ヴァルナ・ジャーティ)は,「リグ・ヴェーダ」の中に記されている。

こうして,バラモン(正確にはブラーフマナ=僧侶)を頂点とするインド独特の階級制度が確立していった。この時期の古代インド宗教を現在に伝わるヒンドゥー教と区分するためバラモン教と呼んでいる。

注)現在の「カースト」はインドにやってきたポルトガル人がインドの習俗や階級制度を総称した呼び名であり,必ずしも「ヴァルナ・ジャーティ」を正確に言い表すものではない。

アーリア人は支配地域をインド北部全体に広げ,ガンジス川の流域には多くの小国が並立するようになった。ドラヴィダ人を初めとする先住民族は,インド南部あるいはデカン高原に追いやられた。

しかし,紀元前5世紀頃になると祭祀に偏重したバラモン教に飽き足らなくなった人々が新しい思想を求め出した。経典には彼らのことを「六師外道」と記されている。仏教もその新思想の一つとして生まれた。

釈迦はヒマラヤ山麓の小国サーキャ族の王子として誕生した。本来の名まえは「ゴータ,ア・シッダールタ」である。仏典では彼の誕生と出家の物語は多くの脚色に彩られている。

ブッダはコーサラ国の舎衛城の郊外にあった祇園精舎で比丘たちに自分の出家について,「出家前のわたしは大変幸福な生活のなかにあった。それにもかかわらずその生活にとどまることができなかったのは老,病,死のことに思い至ったからだ」と話している。これが脚色されて「四門出遊」の物語になっている。

29歳で出家した釈迦は,肉体を痛めつける苦行や断食により覚りを得ようとしたが果たせなかった。ブッダは最終回答として瞑想と正しい行いにより覚りをひらき,ひいては解脱できることを世に示した。仏典では次のように記されている。

釈迦はウルヴェーラー(優留毘羅)村,ネーランジャラー(ネーランジャー)川の近くの一本の大きな樹のもとで,ついに大いなる解決に到達することができた。これを大覚成就あるいは悟り(覚り)という。

このときブッダが得た悟りとは「縁起の法」として語られている。「これあればかれあり,これ生ずればかれ生ず」と解かれている。それによって,万法(一切の存在)は明らかになり,一切の疑惑は消失したと述べられている。

縁起とは「たとえば生があるから老・死がある。これは存在の法則として定まっていることである」。縁生とは「たとえば,老・死・(苦)は条件があって生じるものである。だから,条件をなくすることによって老・死・(苦)もまたなくすることができる」。

この「縁起」と「縁生」の考え方は非常に難しい。老・死は定まったものであるといいながら,なくすることができるというのである。僕は個人的に「生があれば老・死は避けられない。しかし,老・死による恐れや苦しみは条件をなくすることによって,なくすることができる」と解釈している。

ラージギル→ボーダガヤ移動

ラージギル(09:30)→乗り換え(11:00)(11:45)→ガヤ(13:15)→ボーダガヤ(14:00)と110kmをバス(55Rp)で移動した。土産物屋のスクーターで町に出て,ガヤ行きのバス(35Rp)をつかまえる。

彼の話の通り,大きなバスは橋を通れないため乗換えとなる。橋の手前でバスを下り,橋を渡って次のバスを待つ。接続が悪くここで45分も待たされ,2時間の行程を4時間かけてガヤに到着する。

ガヤの小さなBSに着くとオートリキシャーが待ち構えている。ボーダガヤまで乗り合いで10Rpのところを,100,50という声が飛び交う。どうも20が最安値のようだ。実際に乗ってみるとネーランジャ川の橋を渡ったところで乗り換えになる。そのため10+10=20になる図式だ。

乗り換えの車は乗合トラックバスである。場所の分からない終点から西に歩き出すとすぐにマハボーディの大塔が見えたので一安心である。


Wellcome Guest House

5年ぶりのボーダガヤはずいぶん変わっていた。マハボーディ寺院の南側には細長いビルが建ち,宿と食堂が集まっている。僕の泊まった「Wellcome」の部屋(100Rp)は6畳,2ベッド,T/S付きで清潔である。料金はオフシーズンのためディスカウントされているようだ。

マハボーディ寺院

6時に起きてマハー・ボディ寺院を見に行く。ここは生きている寺院なので,世界遺産に登録されても入場は無料だ。入口でカメラチャージ20Rpを払い,履物を預ける

。大塔は改修工事の足場が組まれており写真には適さない。大塔の周囲の壁面を飾るブッダ像や神像をていねいに見て回る。裏手には菩提樹が大きく枝を広げている。菩提樹と大塔の間には金剛座がある。人々は菩提樹や金剛座に触れ宗教的感激に浸っている。

大塔の周囲にはくすんだピンク色の囲いがある。正面の鳥居形の部分は古いものであるが,,残りの部分はコンクリート製でちょっと興ざめである。囲いの外側には2つの回廊がある。外の回廊は履物OK,その内側は履物禁止である。午後になると石畳が熱くなるので,ゆっくり回るならば午前中がよい。

大塔の内部は寺院になっており,金色の仏像が置かれている。なぜか冷房が入っているのでここが最も快適な場所だ。その前で瞑想する人は多い。ブッダ成道の地で祈ること...,それは仏教徒にとり最大の幸せなのだろう。僕もしばらく瞑想をしてから外に出た。

そのとき,入口の床に何か文字のようなものが書かれていることに気が付く。文字の形からみて,古い時代のものだ。内容は分からない,仏教に対する深い帰依の言葉であろうかと推測する。

マハーボーディ寺院の基壇を一周する仏像

ブッダがその下で悟りを啓いた菩提樹

南西側から見た大塔

敷地内には多くのストゥーパが奉納されている

大塔の周辺には多くのストゥーパが並んでおり見ごたえがある。しかし,古いストゥーパの仏像には顔を削られたものも少なくない。また,ストゥーパそのものが破壊されたものも多い。芝生の上に板を敷いて,五体投地を繰り返している僧もいる。

中にはヒンドゥー教の神像もある

ストゥーパと仏像は見ていて飽きない

ヒンドゥーの神話にありそうな像も刻まれている

本殿入口の床には古い文字が刻まれている

大塔の内部は寺院になっており,金色の仏像が置かれている。なぜか冷房が入っているのでここが最も快適な場所だ。その前で瞑想する人は多い。ブッダ成道の地で祈ること...,それは仏教徒にとり最大の幸せなのだろう。僕もしばらく瞑想をしてから外に出た。

そのとき,入口の床に何か文字のようなものが書かれていることに気が付く。文字の形からみて,古い時代のものだ。内容は分からない,仏教に対する深い帰依の言葉であろうかと推測する。

敷地内で修行する僧侶も多い

チベット寺院

仏教最大の聖地ボーダ・ガヤにはいろんな国の寺院が建てられている。1日に4つも5つも寺院を見るとどれがどれやら分からなくなる。見ごたえがあるのはチベット仏教系の寺院である。日本寺は装飾が全く無いのでちょっと寂しい。

チベット寺の本堂の壁面はすばらしい壁画で飾られている。千手観音の明かりはついていなかったけれど,自然光でけっこう趣のある写真になった。

ベトナム寺院

ネパール寺院

タイ寺院

ブータン寺院

ブータン寺では内部の壁画の写真を撮らせてくれた。みごとな壁画が並んでいるのに,カメラが悪いのか,腕が悪いのか,その素晴らしさを写し取れないのはとても残念だ。

中国寺院

日本の仏教団体が建立した大仏

■調査中

日本寺院

食事騒動

昼食は下のオム・レストランでいただく。ここはけっこう繁盛しているレストランである。ベジモモを注文すると,中身はほとんど野菜くず状態であり,まずくて食べられない。モモだけがひどいのではと考え,夕食ではトマト・スパゲティを注文した。これはトマト味のスープ・ヌードルで,丼で出てきた。あまりのことに料理人に「本物のモモやスパゲティを見たり,味わったことがあるのか」と聞いてしまった。

2日目,日本寺方向にあるさくら食堂の昼食はまともであった。ジャガイモ,ゆで卵,ラッシーの3品で37Rpである。とくにジャガイモの塩茹では,どうしてこんなに早く調理できるのかと思うくらいすばやく出てくる。ゆで卵の具合も良い。

夕食は広場の南側にあるチベタンのテント食堂でまともなベジモモをいただく。やはりモモはこうでなくてはと独り言をつぶやく。

両替と列車チケット

マーハボディ寺院の見学を終え宿に戻る。カメラ電池のチャージ時間(1時間)分の休息をとる。銀行が開く時間に合わせ,両替のため銀行に行く。2番目だったにもかかわらずルピーを受け取るまで45分かかった。

次は列車のチケットの手配だ。ボーダガヤでチケット手配ができるようになったのはとてもありがたい。チケットをとりやすいという理由でバナラシの近くで幹線が交差するムガールサライまでのチケットをとることにする。

窓口でガヤ→ムガールサライ,ムガールサライ→コルカタを依頼する。しかし,ムガールサライ行きは14:30のものしかないと言われ,そちらは諦める。このチケットについては後日談がある。バラナシからちょっと苦労してムガール・サライに出て,列車を待つことになるが,その列車はバラナシから来たものであった。

子どもたちは写真が大好き

ゴールデンシャワーは花盛り

ビンロウジュの実を裁断する

土曜日はお参りに

チベット寺院の前は200m四方くらいの広場になっている。広場の南側に目的の分からない建物があり子どもたちが集まっている。写真を撮っていると先生が現れ生徒を引率していった。土曜日なのでマハボーディにお参りして,これから戻るところだという。

子どもたちと一緒に広場の東側に行く。5年前はここで宿を取った。しかし,今回その建物は確認できなかった。周辺の建物はすべて変わっていた。世界遺産登録にあわせ大規模な区画整理が計画されており,マハボーディ寺院の周囲の建物は撤去されるという。

学校を訪問する

マハーボーディ寺院周辺の農村風景

ナイランジャラー川の対岸のセーナー村

マハボーディ寺院の横を通りネーランジャ川に出る。川はは完全に干上がっており,そのまま渡れるが,橋を歩くことにする。橋の向こうには大きな木があり,半径20mほどの心地よい木陰を提供している。

その向こうには農地が広がっている。乾期にもナス,キューリ,トウモロコシなどが作られている。小さな水路を通し,畑一枚を水浸しにする灌漑方法である。

畔の草を集めている少女

農地のあぜに生えている雑草は家畜の飼料になる。10-13才くらいの少女たちが根っこごと雑草を集めている。彼女たちは学校に行っていないようだ。

暑季の午後はヤシ酒をやるのが一番じゃ

この木もみごとな樹形をみせている

いい笑顔だね

変わりつつあるブッダガヤー

子どもたちが話を聞いている

お父さんに抱かれてごきげんである

この子の写真を撮ったのが始まりであった

近くの村を歩く


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