亜細亜の街角
観光客の途絶えた観光地
Home 亜細亜の街角 | Srinagar / India / Aug 2004

レーからスリナガルへ移動する

レー(06:00)→ラマユル→ワカ→ダラス(19:00)と移動する。スリナガルまではバスで1泊2日が必要だ。前日にチケットを買い,停電の中でチェックアウトして,バススタンドに向かう。

外に出ると雨が降っている。バススタンドに着くと暗い中で室内灯を付けたバスがいる。行き先を確認し,屋根に上り荷物を防水シートの下に入れる。バスは定刻に出発しインダス川の峡谷を上り下りしながら西に進む。

インダス川と別れる

川沿いの道を行く場合,支流が流れ込むところでは支流の谷を上流側につめて橋を渡らなければならない。そのため,走行距離は地図上のみかけよりずっと長くなる。インダスと別れて単調な景色が始まる。

ラマユルゴンパ(13:00)

レーから100km,ラマユルゴンパは谷あいの丘にあった。何人かの乗客が大量の食料とともにここで下車した。おかげでちょっと遠いけれど,ラマユルの写真が撮れた。

停戦ラインから5kmほどのところを通過する

インダスの小さな支流が停戦ラインというきわどいところを通る。マナリルートに比べると,スリナガルルートは最高高度が4000m程度なのでずっと楽だ。しかし,距離は長いため一泊二日の行程となる。

ダラスで1泊する

暗くなってからダラスと思われる村のホテルに到着した。宿は意外ときれいなドミであった。僕は韓国人の尼さん2人と同室である。夕食は彼女たちに2人の米国人を加え,にぎやかにいただく。日本滞在が長い米国人は,日本からインスタントミソ汁を持参してきており,みんなでおいしくいただく。

急峻な山道

ダラス(03:30)→スリナガル(12:30)と移動する。3時少し前に宿のスタッフが各部屋のドアをたたいて回る。バスは定刻通りに出発したが,4時のチェックポストで15分,6時には90分も待たされた。

バスは峡谷の道を走る。はるか100mほど下に谷川が見える。座席が谷側なので垂直に落ち込む谷がよく見える。路肩の余裕が少ないので,バスが転落しないかと恐怖も感じる。

スリナガルにつながる広い谷に出る

バスはラダックを抜けてカシミールに入った。山の緑が美しいし,豊かな谷の風景に変わる。雨が多いせいだろう,屋根は三角のトタン屋根で,緑の中に映えている。モスクの屋根もトタンである。

ヒマラヤ山脈の西端に広がるカシミール盆地は,乾燥した南の平原部に比べると別天地のように美しい。1947年にインドが独立するとき,宗教の違いによりインドとパキスタンが分離することになった。

多くの藩王国はどちらに帰属するか選択を迫られた。カシミール藩上国は,地理的には印パの境界にあり,住民の8割はイスラム教徒なので,パキスタンヘの帰属が順当であった。

しかし,藩王がヒンドゥー教徒であっため帰属を明らかにせず,密かに独立を目指した。これに対し,パキスタンは1947年10月,事実上の武力介入に乗り出す。驚いた藩王はインドの支援を求め,インドヘの帰属文書に署名した。

これを法的根拠に,インドはカシミールに軍隊を派遣し,印パ両軍が全面衝突することになった。これがいわゆる第1次印パ戦争である。この戦争は1949年1月,国連決議で停戦が実現し,カシミールを分断する停戦ラインが引かれる。停戦ラインは第3次印パ戦争(1971年)後,やや修正されて現在の実効支配線になっている。

インド側カシミールでは,イスラム教徒が多数派で,心情的にはパキスタンに近い。ジャム・カシミール州政府の腐敗,経済の停滞により,1980年代からインドからの分離独立を目指す武装闘争が始まった。極度の治安悪化に伴い,唯一の産業であった観光は壊滅的打撃を受けている。

多民族国家のインドは国内各地に分離主義の火種を抱えており,カシミールで妥協すれば他の地域の分離主義を勢いづかせると懸念している。

一方,パキスタンはイスラム教徒の国として建国した歴史があり,カシミールの放棄は国家の根幹にかかわる問題と認識している。核兵器をもった両国が停戦ラインを挟んでにらみ合う構図は,地域の大きな不安定要因になっている。

ナギン湖に泊まる

昼過ぎにバスはスリナガルに到着した。バスの中に乗り込んできた客引きの青年の案内で,ナギン湖に浮かぶ「NAVIS」というハウスボートに泊まることにする。大きな船で居間,食堂,2つの寝室がしつらえてある。

スリナガルの観光は,絶不調のようだ。普段なら1000Rpはしそうなのに,2食付の300Rpで,この立派なハウスボートを独り占めできた。カシミール内のイスラム過激派の活動により地域の危険性が大きくなり,観光客とくにデリーから飛行機でやってくる富裕層が激減したため2000隻はあるとされているハウスボートには閑古鳥が鳴いている。

オーナーは物静かな老人であった。それに対してハウスボーイは「日本に行きたい,プレゼントは何をくれる」とうるさい。おまけに僕がいるときも,いないときも,勝手にボートに入り,居間で堂々とテレビを見ている。さすがにこの件はオーナーに文句を言わざるを得ない。

ハウスボートから見たナギン湖の風景

足ならしに周辺を歩いてみる

渡し板を通りハウスボートからは岸に移ることができる。パキスタンのチトラルでその大きさに感動したチナールの木がここでも大きな枝を広げている。

長屋のような建物がいくつかあり,子どもたちが遊んでいる。色の白いかわいい子どもたちだ。ここでは,観光客からものをもらうことに慣れてしまった人々に数多く出会ったので,この子たちに写真のお礼のキャンディーをあげるのはちょっとためらわれた。

少し歩くと市街地になる

ハウスボートから見る夕暮れのナギン湖

早朝のナギン湖

2日連続の寝不足のため昨夜は21時にベッドに入り,07時までぐっすり眠った。寝室は網戸だけなので夜半には寒さを覚え長袖のフリースを着込むことになった。

ナギン湖はダル湖という大きな湖の一部になっている。ここに泊まったのは正解であった。ダル湖の大部分は周辺からの生活雑排水の流入により,水質の悪化がひどく,ウキクサやハスが水面を覆っている。それに対して町から遠いナギン湖周辺はなんとかまだ汚染を免れている。

周辺には鳥が多く,そのさえずりや羽音で目を覚ます。僕は早朝から船の舳先で朝陽の風景を楽しんでいた。正面の山の背後がうす赤くなり,水面を染める中を小舟が進んでいく。旅人にとっても写真好きにとっても幸せな時間である。

しかし,現実にはダル湖の環境は面積の縮小と生活排水による水質汚濁により危機に瀕している。ダル湖はカシミール渓谷の多くの湖とつながっている。渓谷全体の水量が減少しており,湖の面積は往時の75km2から12km2に減少している。

この現象はカシミール渓谷だけのものではなく,インドの湖沼の大分は縮小あるいは消滅している。その原因は地下水位の低下である。地下水位が低下することにより地表にある湖沼の水が減少するわけである。

2002年のデータでは11億人近い人口を抱えるインドでは国土の55%にあたる1.8億haが農地となっている。このうち43%が灌漑農地,57%は天水に依存している。

農村人口は70%を越え,就業人口(4.6億人)の60%が農業に従事している。農家の経営規模は農地面積が2ha以下の零細・小規模農家が全体の約8割を占めているが,農地面積では全体の3割しか保有していない。

主要生産穀物はコメが1.3億トン(籾)と小麦0.65億トンであり,合計2億トンが11億人弱の食糧となる(以上農林水産省HPより)。一人平均で年間200kgの穀物から何とか生きていけるだけのカロリーが摂取できる。

1993年のインド政府の評価によるとインドの年間平均降水量は約4兆m3,そのうち利用可能水量は地表水と地下水を合わせて1.9兆m3と見積もられている。実際には地形等の制約条件により,そのうち60%が利用されている。

問題はインドにおける貯水量が非常に少ないことである。一人当たり貯水量は200m3であり,この数値はブラジル(3145m3),アメリカ(1964m3),中国(1111m3)と比較しても格段に少ない。

このため灌漑の半分以上は地下水に頼っている。インド全体で2100万本の井戸から涵養量を1000億m3も上回る地下水が過剰に汲み上げられるため,地下水位は危険な速度で低下している。地下水の過剰使用量はインド全体の水使用量の約10%に相当する。

ハウスボート近くの人々

対岸にある大きな通りに行こうとしたら船のオーナーに止められた。町ではイラク戦争に反対する人々のデモがあり外国人は危険だという。仕方がないのでボートの周辺を散策することにする。

広場ではシャーヒワールを着た大人がクリケットの練習をしていた。クリケットは南アジアでもっとも人気と競技人口の多いスポーツである。もちろん子どもたちのグループもクリケットは大好きだ。

湖の周辺に停泊しているハウスボートや家屋からの生活雑排水は未処理のまま湖に排出されており,水質汚染と富栄養化をもたらしている。湖には小魚も多いし,ハスやスイレンも大繁殖しており,岸辺の水面を埋め尽くす勢いである。

観光地のため,そして現在は観光客が激減しているため人々の精神衛生状態はあまりよくない。子どもたちも観光客がなにかくれるのは当たり前と考えている。この種の人々と話すのは僕にとっては精神的な負担が大きい。

昨日,町への道を教えてくれた少年の一人は腕時計をくれという。当人にしてみるとダメモトで口にしているのであろうが,断る方はいやな思いをするということまでは考えに入っていないようだ。

ハウスボートでのんびり昼食をとる

午後,宿で日記を書いていたら対岸が騒がしい。人々の声に交じって,銃や大砲の発射音が聞こえる。対岸の林からは白い煙が何回か上がった。

ハウスボートのオーナーはもの静かな人と書いたがそれは正しくはなかった。写真を撮れと言われて撮ると,日本から送れと言われたこともある。そんなことは簡単だろうと追い打ちが入り,うんざりする。

フローティング・マーケットのシカラの料金をめぐり衝突した。明日のフローティングマーケットのシカラ料金は600Rpと市価の2倍というひどい値段であったからだ。

何回断っても話を繰り返すのでいい加減うんざりする。外に出ても追いかけてくるので「明日,チェックアウトする」と宣言すると急に態度が変わった。

近くの市街地を歩いてみる

フローティングマーケット

結局,シカラに関しては僕がフリーの船頭と交渉し,1時間100Rp,06:00出発,最大3時間でお願いすることにした。ダル湖のフローティングマーケットはつとに有名である。シカラはこの地域特有の屋根付き小船で,小さな櫓一つで動かす。

ハウスボートの東にある橋をくぐる。本体のダル湖とナギン湖はいくつかの水路でつながっている。ダル側はフローティング・ガーデンというと聞こえはいいが,要するにハスやヨシが密集してシカラの通れないところが大きな面積を占めている。

シカラは狭い水路を通って進んでいく。湖面は1cmほどの小さなウキクサに覆われており,シカラを進めるのが大変だ。水路が開けたところにフローティング・マーケットがあった。

たくさんの小舟が周辺に集まっている。集まっているのは全て男性である。商品は野菜で陸の商店より3割かた安い。トウガラシやピーマンは10Rp/kg,タマネギは6-7Rp/kgである。重さが計られ,商品は買い手の舟に移されるが,現金はほとんど見かけなかった。この市場は07:30には消滅した。

町に近い所の環境はひどく劣化している

フローティングマーケットからの帰りにシカラの船頭は町に近い水路を通った。両側に家が立ち並ぶ水路では,汚れ放題の水が臭う。ゴミも浮いているし底がヘドロ状態のためメタンがわいている。生態系は危機的状態である。

町から離れると水質は良くなるが,ハスの群落や半湿地化した広大な地域からすると,ダル湖の将来は悲観的だ。湿地で農業をするため水草を運ぶ舟も多い。


レー 2   亜細亜の街角   スリナガル(その2)