亜細亜の街角
チベット亡命政府の町
Home 亜細亜の街角 | Dharamsala / India / Aug 2004

ダラムサラ  (地域地図を開く)

英国統治時代の避暑地であったダラムサラは,1959年にインドに亡命したダライ・ラマ14世の亡命政府が置かれた。周辺にはそのとき,あるいはそれ以降にチベットを脱出した6000人にあまりのチベット人が暮らしている。

ダライ・ラマ亡命後,チベット仏教界の高僧たちも亡命し,ダラムサラはチベット仏教と文化の一大センターになった。インドにあるチベット世界として旅行者の人気も高い。

中国とチベットの関係は中国を清朝が支配していた頃までさかのぼって考える必要がある。清朝の全盛期ともいえる乾隆帝の時代の1792年にネパールのグルカ族のチベット侵入に対抗するため出兵している。

これ以降,清朝はチベットに大臣を派遣し,その権限をダライ・ラマと同格とした。これにより,チベットは独立した勢力から清朝を宗主国とする関係となった。しかし,清朝の国威が衰えるとチベットは再び独立した勢力に戻った。

現在の中国は清朝の最大版図を中国領と考えているようだ。チベットも18世紀の終わりからから数十年間は中国の支配下にあったので中国の領土なのだと主張している。

しかし,清朝が間接的にチベットを支配していた時期およびその前後もチベットは英国やロシア,モンゴルと一定の外交関係をもっている。特にインドを植民地とした英国はアッサムやシッキム地域とチベットの国境線を1890年のシッキム条約で確定させ,チベットをロシアとの緩衝地帯としようとした。

辛亥革命により中華民国が成立した時期に中国,英国,チベットの三者会談が開かれ,中国は「チベットは中国領の一部である」と主張している。これはチベットの独立を認める英国の主張と対立し,会談は物別れに終わった。

1949年に中華人民共和国が成立すると中国は即座に人民解放軍をチベットに送り込み,全域をを制圧し自国に併合した。チベット人の抵抗は武力で鎮圧され,1959年の蜂起を機にダライ・ラマはインドに亡命した。

チベットは「西蔵自治区」となったが,他の少数民族自治区と同様に,漢人の共産党が支配する構造が一貫して続いている。1959年以降もチベット人への大規模な人権侵害は続き,一説によると100万人もの人々が命を失ったとされている。

文化大革命の時代には紅衛兵が送り込まれ,多くのチベット仏教の寺院が破壊され,僧侶は還俗させられた。経済成長の時代になっても,中国政府は漢人の移住を奨励した。

現在のチベットでは漢人がチベット人を上回っており,自治区内でもチベット人は少数派になっている。チベット人は民族のアイデンティティーを奪われ,文化的にも経済的にも漢人に隷属する生活を強いられている。


アムリトサル→ダラムサラ 移動

アムリトサル(09:00)→パタンコット(12:15)(13:45)→ダラムサラ(17:30)とバスを乗り継いで438kmを移動する。アムリトサルのバススタンドは宿から3kmほど離れておりリキシャー(20Rp)で行く。ダラムサラへの直行便はないのでパタンコット乗換えとなる。

パタンコット行きのバス(45Rp)はすぐに見つかった。北部インドでは快適なバス移動を期待してはいけない。暑さと,狭さと,振動に耐えて目的地に早く着くことを祈るしかない。たまに,すいたバスに乗れたらそれはヒンドゥーの神様の思し召しと思えばよい。

荷物室はほとんどないので,荷物はすべて客室に持ち込まなければならない。混雑してくると,荷物のスペースを確保するのが大変だ。

出発時にバスは満員になる。次の大きなバススタンドに着くと大半の乗客は降り,新たな乗客で満員になる。これを3回繰り返してパタンコットに到着する。このスタンドにはちゃんとキップ売り場がある。そこでダラムサラ行き時間を確認しキップ(68Rp)を買う。

昼食をとりゆっダラムサラの町くり休憩するとバスが入ってくる。このバスも満員になる。風景は平地の水田からしだいに山の風景に変わっていく。何ヶ所か写真に撮りたいところもあったが,3人掛けの真ん中ではどうにもならない。

インド人はバスの出入り口付近に固まる傾向があり,前の席を確保したい僕にはいい迷惑だ。ダラムサラへの道は舗装されており,特に難所もなく,バスは下のダラムサラのバススタンドに到着した。ここからミニバス(7Rp)に乗り換え400m上のダラムサラに向かう。

ダラムサラはチベット仏教最高位の地位にいた「ダライ・ラマ」の亡命先として世界的に有名になる。彼の亡命後,この町でチベット仏教が学べるということで,多くのヨーロピアンを惹きつけるようになった。

旅行者も多く,安宿もチベット食堂も充実している。僕の泊まった「Kalsang GH」の3畳ほどの部屋代は70Rp,食事はチベット料理やパスタが30-40Rpで食べられる。居心地のよい町なので長期滞在者も多い。

さすがは標高1800mの避暑地である。涼しくてよく寝られた。それどころか毛布一枚では少し寒いので長袖を着て寝ることになる。翌朝,町は雲海の中にすっぽり入っている。

モンスーンの雲海に包まれる

8月中旬になってもモンスーンは終わっておらず,その影響でヒマラヤ山ろくは天気が悪い。ダラムサラ周辺の山々には雲がかかり,背後のヒマラヤは完全に雲の中だ。湿度は100%近く,なんとなく不快感を感じる。それでも酷暑の下界に比べるとここは天国である。

ヒマラヤスギの森の中に町がある

ヒマラヤ山ろくでは標高2000mあたりを境に植生が変わってくる。2000mより下では五葉松が優勢であり,それ以上になるとヒマラヤ杉の森になっている。名前は杉になっているが日本のエゾ松に近い。

幹はほとんど真っ直ぐで,年齢とともに立派な大木になる。当然,良質の木材になる。この辺りの森は太さが一様なので植林によるものかもしれない。森をどんどん失っていく下界とは異なるすばらしい環境がここにはある。

犬と猿

午後になっても雲海は晴れない

ダラムサラの町

ナムギェル・ゴンパ

午後はナムギェル・ゴンパを見学する。下の入口から数えて3階が寺院になっている。山の斜面を利用した造りなので,2階の庭には大きな木がたくさん生えている。

その向こうにダライラマの住居がある。門のところで欧米人のツーリストが掲示板を読んでいる。ダライラマは瞑想の月に入っており,面会はできないようだ。

3階の寺院の手前側では僧の学集会が開かれていた。そのエリアは立ち入り禁止である。外来者の入れる仏堂には,すばらしい壁画がある。

普通は仏像があるはずのところには,マンダラが描かれており,その中心に仏が置かれている。仏の周囲には歓喜仏が配され,左右の壁面には憤怒尊が描かれている。

マニ車を回す

ダライラマの住居

夕方になると雲海は一段と濃くなる

町のあちらこちらに仏塔(チョルテン)が置かれている

雲海の中の景色

雲海がない景色

町に通じる道路は気持ちのよい散歩道になる

久しぶりに雲が切れかかったので山の上の方に歩き出す。木と木の間にひもが張られタルチョが下がっている。横から見ると建物は斜面と一緒にせり上がっているようだ。地すべりでも起きたらまちがいなく大きな災害になる。そのためには健全な森を守ることがどうしても必要だ。

ロバの隊列と出会う

のんびり道草をしながら45分でダラムコートに到着する。峠の茶屋でチャーイとパンをいただく。上のほうから空荷のロバがのんびりやってくる。荷物から開放されてロバもほっとした表情である。

再び気持ちのよい道を歩く

帰りは別のルートで広場に下りる。町の周囲には豊かな自然が残っている。仏教では殺生が禁じられているので猿をいぢめる人もいない。人間の出す生ゴミは彼らのかっこうのエサになる。

町が近くなると人に慣れたサルが現れる

町を訪れる観光客は車からエサを与えることもある。いくつかの好条件が重なり猿たちは,上下のダラムサラを結ぶ道で群れをなして何かを待つようになる。また町の中にも出没し,民家の中にも平気で入り込むようになる。このような猿との共存をどのように評価すれば良いものか…。

赤い衣の僧侶

上座部仏教の僧衣は黄色である。それに対してチベット仏教の僧衣はくすんだ赤である。黄色の僧衣はブッダの言葉の中にあるので理解できるが,くすんだ赤の理由は分からない。

化学染料の無かった時代,くすんだ赤は難しい色であった。チベット仏教圏に属するブータンでは,カイガラムシの一種が巣を作るため分泌する特殊な物質を使って,くすんだ赤の僧衣を染める技術を開発した。

チベット人の町だね

インド人も商売のため上がってきている

モンスーンのヒマラヤ山麓を眺望する

巡礼の道には一休みのためのベンチが置かれている

インド人の観光客はまだ少ない

小さな村のまとまりが見える

巡礼の道

ダライラマの邸宅はチベットのポタラ宮に比べるとごくごく小さい。それでもその周囲は巡礼の道になっている。ダライ・ラマと一緒にチベットから亡命してきた人たちはすでに相当の年齢に達している。

この巡礼の道をたどるのはほとんどがその世代の人たちである。信者たちのある者は杖をつき,ある者はマニ車を回しながら,時計回りに巡礼の道を回る。ところどころに疲れた体を休めるベンチが用意されている。

巡礼の道で大小の石にチベット文字や絵を描いたものをよく見かける。これは「マニ石」とよばれるものでオンマニペニフムの真言,経典の文言,仏教を題材にした絵などがかかれている。

マニ石や石板を積み上げたものを「マニ塚」という。石を一つ積んで経文を唱えると経文を一通り読んだことになるという。信者たちは少しずつ石を積み上げ,それはいつか大きな塚になる。マニ塚を通るときは必ず時計回りで通るのが礼儀である。

下ダラムサラがはっきり見える

この辺りはインド人世界かもしれない

僧侶たちはお出かけのようだ

ダラムサラの子どもたち

糸鋸の巨大なもので木を切る

雲海の中に入る

インド人観光客

露店の土産物は夏場だけであろう

再び雲海が湧き上がってきた


アムルトサル   亜細亜の街角   マナリ