亜細亜の街角
ミナンカバウ人の故郷
Home 亜細亜の街角 | Bukittinggi / Indonesia / May 2009

ブキティンギ  (地域地図を開く)

アガム高原の中央部に位置する標高930m,人口約10万人の高原の町である。スマトラ島中部の西岸部分を占める西スマトラ州の州都パダンから北へ約90kmのところに位置し,州の主要民族であるミナンカバウ人の故郷である。

ここは標高が高いため赤道直下としては過ごしやすいし,農業に適した土地もあった。ミナンカバウ人はこの高原を本拠地とし,次第に南部の海岸地帯にも進出していった。

周囲をムラピ山,シンガラン山,サゴ山,パサマン山などの山々に囲まれており,西スマトラでも随一とされる美しい景観とミナンカバウ文化が残されていることから多くの外国人観光客が訪れている。ミナンカバウとはミナンが勝つ,カバウ(クルバウ)は水牛を意味しており,水牛と密接な関係のある民族である。

マニンジャウ(07:45)→ブキティンギ(09:15) 移動

移動日の朝はこれで見納めとなるマニンジャウ湖の写真を撮る。市場の近くまで行くと都合のよいことに小型バスが停車している。このバスは07:45に発車した。すぐに九十九折りの急坂が始まる。高原との標高差は700m近い。ところどころで視界が開けマニンジャウ湖を望むことができる。このバスで坂の途中で下車して,歩いて戻るのも楽しそうだ。

バスは09:15にブキティンギのバススタンドに到着した。市内までのベモの運転手にコック要塞のあたりで降ろしてくれと伝えておいたら,わりと近くで降ろしてくれた。しかし,この運転手はなかなか性質が悪い。客を探してのろのろ運転はするし,ところかまわず停車して交通の妨げとなる。僕が降りるときは荷物代を含め2倍の4000ルピアを要求した。インドネシアにはそんなルールはないよと2000を渡して下車する。

ドゥナム ロスメン(D'enamu Rosmen)

ドゥナム・ロスメンはガイドブックにあるように古い建物ではなかった。どうやら改装したようだ。二階の僕の部屋は6畳,1ベッド,広めのバスルーム(シャワーではなくマンデー),机があり清潔である。窓も両側にあり料金の4万ルピアには不満はない。

宿の屋上からムラピ山が見える

高原の町ブキティンギは火山地帯に位置している。町の20kmほど南には西から東にシンガラ山(2880m),ムラピ山(2891m),サゴ山がほぼ一列に並んでいる。

一階の屋上の一部はバルコニーになっておりそこから周囲を眺めることができる。ブキティンギは小さな丘の多い町であり,この宿はコック要塞に続く斜面にあるので眺めはよい。

建物の背後にムラピ山が台形状の姿を見せている。ムラピは活火山で2004年にも規模は分からないが噴火している。「ムラピ」とは「火の山」を意味し,同名の火山としてはジャワ島中部にインドネシアでもっとも活発なムラピ火山がある。

ボトル入りのTeh は2000ルピア

インドネシアではペットボトル入りの水を飲んでいた。値段は600ccで2000ルピア,1.5リットルで5000ルピア程度である。ボトルはザックのサイドポケットに入れておくので,じきに常温になる。ときどき冷たい飲み物が欲しくなると写真のような「Teh」を飲んでいた。炭酸飲料は爽快感はあるが,じきにまた飲みたくなる。習慣性があるのではと疑いたくなる。

「Teh」は茶系の飲み物だ。中国を起源とするお茶の呼称は世界的に「チャ」系統のものと「テー」系統のものがある。「チャ」は広東語の発音に由来し,「テー」は福建省の地方語の発音に由来している。インド以西のアジアは「チャ」系統,ヨーロッパは両者が混在している。日本では11世紀に「チャ」が入ってきている。東南アジア島嶼部は福建省からの移民が多いので「テー」となっている。

コック要塞は公園となっている

宿の前の道を北に向かって登って行くとコック要塞の入り口に到る。入園料は5000ルピアと少し高いと思っていたら,これはとなりの動物園とセットの料金であった。

コック要塞は1821-1837年のパドリ戦争(ずっと下のパガルユンの旧王宮を参照のこと)に備えて構築されたもので,現在では数門の大砲以外には要塞を思い出させるもものはない。

周辺はミニ遊園地となっており家族連れあるいは先生に引率されて大勢の子どもたちが訪れていた。幼稚園児の一団もいる。男女ともピンク系のジャージー姿であり,女子は白い簡易スカーフを付けている。先生の指示で彼らは円形に座り,ザックから飲み物とお弁当を取りだし昼食となる。

昼食が終わると子どもたちは遊具で遊ぶ

昼食が終わると子どもたちは遊具で遊ぶ。複合遊具に近い滑り台がお気に入りのようだ。地球儀形の回転ジャングルジムも人気がある。先生は遊んでいる子どもたちに格別の注意は払わない。

日本であったらなにかったらすぐに責任を問われることになる。学校や公園にある遊具は子どもたちの冒険心を刺激し,日常生活にはない運動能力を高めてくれる。その一方で転落,衝突,挟まれるという危険もついてまわる。

子どもたちは遊びの中でそのような危険を予知し回避する方法を学んでいく。屋外で遊ぶことの少なくなった日本の子どもたちにとっては貴重な体験の場である。

その一方で,事故はつきものであり,遊具本来の機能の中に潜む危険性と安全管理の不具合をどのように切り分けるかが重要であり,遊びには一定の自己責任が伴うことを認識する必要がある。

動物園との連絡橋はブキティンギのシンボル

このあたりは二つの丘が並んでおり,コック要塞は西の丘,動物園は東の丘にある。この二つの丘の間に連絡橋があり,その下を道路が走っている。

連絡橋は中央部で門のような建造物で支えられており,道路から見ても連絡橋であることはすぐには分からない。この連絡橋はブキティンギのシンボルの一つとなっている。

連絡橋から見るシンガラ山

連絡橋の上からは町の南にそびえるシンガラ山が優美な姿を見せている。下を通るジャラン・アハマッ・ヤニ通りはヒルズ・ブキティンギ・ホテルまで続いている。ヒルズの名前の通りそこも少し高い地形となっている。

博物館の建物はミナンカバウ様式である

東の丘はブンドカンドゥン公園となっており,博物館と動物園がある。博物館の建物は伝統的なミナンカバウ様式であり,近郊を散策する予定のない人はこの建物でミナンカバウ様式を堪能していただきたい。

屋根の破風は片側が3つあり,先端は鋭く天を突いている。正面から見るとこの破風の先端部はちゃんと水牛の角のように見える。屋根もちゃんとヤシの繊維で葺かれており,伝統家屋の雰囲気を十分に備えている。

平民の人々のようだ

博物館の中にはミナンカバウの伝統的文化を表す文物が展示されている。王族だけでは平民と思われる人々の人形もある。これで見る限り男性も女性も頭巾を被っていたようだ。

女性の頭巾の特異な形状は博物館の屋根と同じように水牛の角を模したものである。正装のときに肩から下げる折りたたんだ布は現在でも見られる。

王族の結婚式であろう

王族の結婚式の様子を表す人形も展示されている。冠にも服にも金がふんだんに使用され,できらびやかに飾られている。そういえば,かってのミナンカバウは金の産地であった。男女とも赤い服を着ているので,赤はこの地域ではめでたいあるいは高貴な色であったのだろう。

ここでもジョカ(チョンカ)が展示されていた

博物館には遊び道具や生活道具なども展示されている。ここでもジョカあるいはチョンカ(フィリピンではソンカ)と呼ばれている遊び道具が展示されていた。

これでこの遊び道具を見たのはフィリピンのコルディエラ地域,マレーシアのクチンについで3回目である。この遊び道具は対になっる穴の数を変えても広く東南アジアの島嶼部に広まっていたことが分かる。

僕が習った遊び方については「バナウェ」のページを参照していただきたい。動物園はさして見るべきものはない。

ミニチュアの伝統家屋も展示されている

動物園はそれほほどのものではない

デイゴは沖縄県の花になっている

デイゴ(Erythrina variegata|マメ科)はインドやマレー半島が原産の落葉高木である。日本でも沖縄には自生できており,春から初夏にかけて咲く赤い花がみごとである。

1967年に県民の投票により「沖縄県の花」として選定された。もっとも,デイゴが見事に咲くとその年は台風の当たり年になるという言い伝もある。

宿の近くでモスクを見つける

店先に置かれている乾き物

インドネシアではこのような穀物の粉を整形したスナック菓子がよく見られる。

ショッピングセンター

時計塔も町のシンボルとなっている

時計塔はジャラン・アハマッ・ヤニ通りの南端から東に200mほどいったところにある。狭いながらも広場の中心にあるのでとてもよく目立ち,町のシンボルでありランドマークにもなる。

といっても,ブキティンギの町の中心部は1km四方ほどの広さであり,僕のような方向音痴でも(磁石さえあれば)迷うこともない。時計塔の文化はオランダからのものであろう。しかし,さすがというか最上部にはミナンカバウ様式の屋根がついている。

ミナンカバウ様式の屋根は新しい建築物にもついている

パノラマ公園入口

時計塔からパノラマ公園入口までは直線距離で500mほどであるが,地形に合わせて道路を通しているので1kmくらい歩くことになる。パノラマ公園からはインドネシアのグランドキャニオンともいわれるガライ・シアノッ峡谷を展望することができる。

スマトラ島の背骨となっているバリサーン山脈の分水嶺は越えている思っていたら,シアノッ峡谷を削り出した川は南東から北西方向に流れている。ブキティンギの少し南側に分水嶺があり,川はそこからブキティンギの横を通り,大きく半円形を描きながらインド洋に注いでいる。

峡谷はブキティンギの町の南側で半円状に広がっている特異点となっている。この地形の北側に両岸を結ぶ橋が架かっている。その先(下流側)の峡谷の幅はだいたい一定しており,峡谷の雰囲気はそちらの方が分かりやすい。

旧日本軍防空壕

パノラマ公園の中にはスマトラ全域を統括する旧日本陸軍の第25軍司令部の防空壕跡が残っている。1987年インドネシア政府はその遺構を「インドネシア労務者を殺害し遺棄した穴」として国立公園に指定し,防空壕入り口にには旧日本軍が労務者を殴打するレリーフを設置したという。建設労働者のひどい待遇と完成後に秘密保持のため3000人を殺害したという情報はどこから出てきたのかは分からない。

このインドネシア政府の一方的な虐殺表示に対して,日本人ジャーナリストは当時の日本軍関係者から聞き取りを行い,防空壕建設においては旧日本軍による虐待も虐殺もなかったと指摘した。インドネシア政府は1997年に間違いであることを公式に認め,レリーフは撤去された。

この一件は日本の名誉回復につながったので拍手をする人も多いと思うが,ジャーナリズムの使命は日本の名誉に関係なく真実を伝えることに尽きる。日本に不都合な歴史的事実に対しても読み手は「日本の名誉」というフィルターを外して冷静であるべきだ。

防空壕の中は整然と区画されており,綿密な設計に基づくものであることが分かる。壕の先はシアノッ峡谷の崖にも通じており,これは換気および非常用の脱出口と推測される。穴の一つからはシアノッ峡谷を見下ろすことができる。

ガライ・シアノッ峡谷とシンガラ山

パノラマ公園から眺めるガライ・シアノッ峡谷とシンガラ山の風景である。峡谷は半円状に広がっているため,本来の谷までの距離は遠い。谷は全長で4km,ほぼ垂直の崖は100mほどの高さがある。谷の風景とシンガラ山は不思議によく調和している。この谷を歩くコースもお勧めである。

なぜか竹にサルが取りついている

公園内にはサルがたくさん生息している。ニホンザルよりは一回り小さく,尻尾は体長と同じくらいに長い。公園内で人から食べ物をもらうのに慣れているようだ。たまた峡谷を眺めていたらサルが竹にしがみ付いている。竹にはサルの食料になるものはなにもないのに・・・。ちょっと不思議な光景であった。

峡谷の底は水田になっている

パノラマ公園の展望台からシアノッ峡谷の底を眺めることができる。一部は水田となっており,稲穂は緑から黄色に変わりつつある。滞在中に峡谷散策ルートをたどり水田を見ることにしよう。

子どもたちも一緒に礼拝している

展望台からパノラマ公園の入り口には戻らず先を行くと石段があり,そこを下ると一般道に出る。そこには民家に囲まれるようにしてモスクがある。

時刻は16時少し前でちょうど礼拝が行われていた。イスラムの礼拝は例外なくメッカの方向に向かって行われ,多くの場合は男女別である。

ここでは礼拝堂が背の高い衝立で仕切られており,前半分は男性,後ろ半分は女性が使用している。白いタイルの床の上には礼拝用の正式のじゅうたんが敷かれている。この時間は子どもたちも参加しており,男女とも大人の背後で礼拝動作を繰り返していた。

外国人観光客が多いので高級ホテルもある

ブキティンギの最高級ホテルは(おそらく)ヒルズ・ブキティンギである。ジャラン・アハマッ・ヤニ通りが突き当たる南側の小さな丘にある。建物が堂々としていたのでめったにないことに写真にした。

旧名はノボルテ・コラリアのようだ。現在は単に「The Hills」と表示されている。四つ星ホテルで客室数は101,中庭にはプールが備え付けられている。料金はミニマムで70$プラス税金とサービス料となっている。ざっと85$くらいにはなりそうだ。これはドゥナムの宿代の20倍以上だ。

土産物屋で見つけたワヤン・ゴレッ

インドネシアはジャワ島やバリ島を中心に影絵芝居の伝統文化が息づいており,ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。

白い幕を張り,その背後で一人のダランと呼ばれる語り手が声を出すとともに人形を操り,観客は幕の前面からダランの語りと人形の影で物語を楽しむ。当初は絵巻物を操る「ワヤン・ベベル」であったが,そこから人形影絵芝居が生まれた。

日本人にもよく知られている「ワヤン・クリッ」は水牛などの皮革でされた平面的な人形で,ダランが操作するための棒がついている。物語の臨場感を高めるために白幕の内側には10数人のガムラン奏者と女性の歌い手がいる。

「ワヤン・ゴレッ」はジャワ島西部生まれたもので,人形は木製で衣装を身に付けている。こちらも同じようにダランが演じることになる。

宿から眺める朝日

赤道直下にあるブキティンギの日の出は06時あたりである。赤道とは北極点と南極点を結ぶ地軸(自転軸)に対して直角な平面と地表との交線のうち最大長のものと定義される。そのため赤道上ではいつも昼夜の時間が等しく,正午に太陽が真上にくると考えられがちであるが,実際には地球の公転面に対して地軸が23.4度傾いているため状況は異なる。

昼夜の時間が同じ長さであり,日の出,日没の時間もほぼ一定という点は正しい。一方,正午の太陽が真上に来るのは春分の日と秋分の日だけである。正午の太陽がもっとも低くなるのは夏至と冬至の日であり,真上に対して23.4度北と南に傾く。太陽は見かけ上,赤道面に対して23.4度傾いた黄道面を動くことになり,黄道面と赤道面が交差する点が春分・秋分の日ということになる。なんとも説明が難しい。

この連絡橋は町のシンボルとなっている

コック要塞とブンドカンドゥン公園のある二つの丘を結んでいる連絡橋はブキティンギの町のシンボルとなっている。この下を通っているのがジャラン・アハマッ・ヤニ通りであり,この写真は南側からのものである。

朝市が開かれている

ブキティンギの市場は時計塔の北側の丘の上にある。ここから石段を下りたところでは朝市が開催されていた。時刻は07時を過ぎたあたりで,近郊の農家の女性が収穫物を路上で販売しているものだ。上の市場で店を出すにはなにがしかのお金が必要なのだろう。路上の朝市は無料だ。

近郊の農村から収穫物を運んできているようだ

朝市の商品は路上に広げられたシートの上に並べられている。一人の女性が販売する量も背負いカゴ一つ分くらいのものだ。値段も上の市場に比べると安いのだろう。朝食の材料を買い求める人でけっこう繁盛していた。

朝食は赤米のおこわとピサンゴレン

ブキティンギの近郊にはミナンカバウ文化の見られる観光スポットが点在している。この地域の起点となるのは40kmほど南東の「バトゥ・サンカル(Batu Sangkar)」である。

小高い丘の上にある市場から石段を降りたところにある青空市のところでベモをつかまえ,バススタンドまで移動する。バトゥ・サンカルと声をかけると小型バスはすぐに見つかった。

10分後の07:50の出発ということで朝食の時間はない。朝市で買ったトマトを近くの水で洗い,飲用水でもう一度洗っていただく。

バトゥ・サンカルの集落で下車すると目の前にカフェがあるので入ってみる。赤米のおこわとピサンゴレン(揚げバナナ)があったので紅茶と一緒に注文する。合計で5000ルピア(50円)であり,田舎の物価はかくも安い。

Silinduang Bulan の王宮

都合の良いことにここはバイクタクシーの運転手のたまりばになっており,パガルユンとバリンビンでそれぞれ1時間をかけることを条件に4万ルピアでバイタクを雇うことにした。

距離と時間からすると3万あたりが妥当なところだが,どのみち気に入ったところがあれば何回も止めてもらい写真を撮ることは分かっていたので4万で手を打った。

最初に「シリンドゥアン・ブランの王宮(Istano Silinduang Bulan)」を見る。ガイドブックには掲載されていなかったので運転手に名称をメモにしてもらう。

典型的なミナンカバウ様式の建物であり,壁面の装飾がすごい。屋根は伝統的な植物繊維ではなく瓦で葺かれている。建物本体の正面には左右に一対の小さな倉のような建物が配されている。これもミナンカバウでよく見られるものである。

入り口の前には石碑が置かれている。紋章が刻印され,アラビア語のタイトル,英語,インドネシア語の文章のあとに数人のサインがある。入り口は中央のテラスのある部分の両側となっている。

このテラスの壁面にはちょっと怖い水牛がにらんでいる。この水牛の周囲の壁面装飾は写真でもよく分かる。基本的には板に彫刻したものに彩色してある。このような抽象的な装飾はイスラムにも見られるが,水牛は偶像禁止の戒律に抵触しないのであろうか。内部には大きな木をくりぬいた5-6mの長さの太鼓が置かれている。

パガルユンの旧王宮

これはかってのパガルユン王国の王宮を復元したものであり,現地ではイスタノ・バサ(Istano Basa)と呼ばれている。建物は2007年の落雷による火災で焼失し,2009年は再建工事が進められていた。ちょうど先端部の持ち上がった破風の骨組みができていた。

建物は基本的には木造であり,屋根は竹で組まれている。屋根の先端部は小屋梁からずいぶん高いところにあるので,それを支える小屋束(こたつか)の構造は複雑である。現在ではアルミ材を使用している。

19世紀に再建された王宮は1966年の火災で焼失し,1976年に現在の場所に再建された。そこはかつての王族の生活ぶりや伝統衣装・調度品を紹介する博物館となっていた。2007年の火災から再建中の王宮が同じような博物館機能をもつかどうかは分からない。

東南アジでもっともよく利用されている屋根材はチガヤのようなイネ科の草とニッパヤシ,サゴヤシといったヤシの葉である。ヤシは葉軸の両側に対称的についている小葉を切り離し,2mほどの心材(多くは竹が使用される)を挟むように折る。

葉の半分くらいが重なるように次の葉を取り付けていく。最後に竹の表皮のような縫い材により止めていく。こうして長さ2m,高さ数十cmのパネルができる。標準的な屋根を葺くにはこのパネルが300-600枚必要となる。

ところが,ミナンカバウの王宮ではヤシの葉ではなく,ヤシからとった丈夫な繊維が利用されている。おそらく,オウギヤシの葉柄基部(葉鞘)の繊維であろう。これはシュロの幹に巻きついている繊維とそっくりである。この繊維が利用されるのは見栄えの良さからであろう。

14世紀に興ったパガルユン王国はミナンカバウ独特の母系制社会の伝統を守り,飲酒や賭博も公に認められていた。しかし,19世紀に入ると西側のアチェの影響でイスラム原理主義を掲げるパドリ勢力が台頭し,伝統社会を守ろうとするアダット勢力との間で武力紛争が始まった。

この紛争により1815年までにパガルユン王族のほとんどが虐殺され,オリジナルの王宮(イスタノ・バサ)は消失している。残ったアダット勢力はオランダ軍と協力関係を結び,オランダ軍の支援を受けて1821-1837年のパドリ戦争へと展開していく。

マニンジャウで漠然とミナンカバウの母系制社会,慣習法(アダット)とイスラムの男性中心社会がどのように折り合いをつけたのか疑問をもっていたが,やはり悲しい歴史が秘められていたことが分かった。

近代的なモスク

パガルユンの旧王宮の近くには近代的なモスクがある。このモスクにはまるで灯台のような円柱形の尖塔が付属している。となりにはこれも近代的なイスラミック・センターの建物がある。

ほとんど隣り合わせにパガルユンの旧王宮とモスクがあるのはこの地域の歴史的な対立関係を象徴しているようにも見えるが,それは考え過ぎなのかもしれない。

周囲は水田地帯となっている


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