亜細亜の街角
近代化された北部ボルネオの中心都市
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コタキナバル  (地域地図を開く)

コタキナバルは人口47万人,サバ州の州都であり,東マレーシア(ボルネオ島のマレーシア領域)で最大の都市である。マレー語では「Kota Kinabalu」と表記されるのでKKと略されることも多い。サバ州の政治・経済の中心であり,キナバル自然公園への玄関口としても知られている。町はボルネオ島北東部の海岸沿いの狭い平地に広がっており,中心部の道路は南西から北東に伸びる海岸線と平行している。

町の東側にはすぐ山が迫っており,平地の幅は数100mしかない。実際にはその相当部分は埋め立てにより造成したもので,新しい土地は大きなビルが林立している商業地区となっている。南西にある空港滑走路の北側,州立モスクの北側には水上集落が残されている。ただし,後者は海岸部が埋め立てられてしまったため,内陸の水上集落となっている。

サンダカン→コタキナバル 移動

フィリピンからフェリーでボルネオ島マレーシアのサンダカンに戻り,「Rose B&B」で1泊しコタキナバルに移動した。05:30から水浴びをして移動に備えると,宿のおばさんは朝食の準備を進めている。06時から彼女と一緒に朝食をとる。今朝はトーストの代わりにアンマンをいただく。このアンマンは1個0.3リンギット(約10円)だというので驚いた。日本では3-4リンギットだよと告げると,今度はおばさんが驚いていた。

もっとも,アンマンの0.3リンギットはマレーシアでも破格の値段であり,移動中のドライブインでは1.5リンギットであった。06:30におばさんにお礼を言って出発しようとすると,おばんさんがフィルム・カメラを取り出し記念写真を撮ることになった。ミニバスを乗り継いで郊外のバスターミナルに向かう。

バスターミナルで降りると客引きが集まってくる。コタキナバルは複数の会社が路線をもっているのでこのようなことになる。バスは定刻の07:30に出発した。しかし,20分後に停車した。運転手は何回かエンジンをふかして何かをチェックしている。結局,代わりのバスがやってきて乗り換えとなる。

バス代は35リンギット,サンダカンの港で客を集めている乗り合いバンの60リンギットに比べるとかなり安い。最初の2時間,道の両側の80%はアブラヤシ農園であった。それも道路の周辺だけではなく,はるか先の山の上までがプランテーションになっており,その規模に驚かされる。

山焼きの煙がひどい

一部では小規模な焼き畑が行われており,その煙の中にバスは入っていく。焼畑とは平地もしくは斜面の植生を伐採し,乾季に火をつけて焼き払う農法である。灰が肥料となり1-2年は作物が取れるが,その後は土地が痩せてしまい放棄される。農民は次の土地を求め焼畑を繰り返す。このようにして生計を立てている人々は世界で2.5億人ほどいるとされており,特に中南米では森林破壊の一つの要因となってる。

僕はどうして焼畑が急速に生産能力を失うのか疑問に思ってきたが,ケンブリッジ大学のハンズ氏が原因は主としてリン成分が失われることを明らかにした。リンが土壌からわずか1-2年で失われるということであれば,焼畑は破壊的な農法ということになる。ハンズ氏はそれに代わりインガというマメ科の樹木を利用した森林農法を提唱している。

キナバル山が巨大な山容を見せている

さすがに山間部になるとアブラヤシ農園の比率は下がり,原生林と思われる森も目につくようになる。バスは高度を上げて行き,標高1000mあたりにはラナウの町が広がっている。観光開発が進み,ずいぶんにぎやかなところになっていた。クンダサンには高原の野菜畑が広がっていた。

この辺りはキナバル山観光の拠点になるところだ。キナバル山の公園本部の周辺はずいぶん建物が多く,宿泊施設もありそうだ。路線バスが公園本部の近くを通っているので自力で来ることもできそうだ。バスの右側にはキナバル山が巨大な山容を見せている。バスの中からではまともな写真にはならないので,後日を期すことにする。

Backpacker Lodge は満室であった

13:45にバスはコタキナバルの郊外バスターミナルに到着した。地元の人に聞いて幹線道路でミニバスを待つ。このミニバスはJalan Padang が終点だったので,5分ほど歩いてBackpacker Lodge に到着した。しかし,あっさりベッドの空きはないと告げられた。受付の人がすぐ北側にあるTravelers Light を紹介してもらった。

Travelers Light

Travelers Light は空いていた。僕の部屋は2階にあり,8人部屋で2段ベッドが4つ置かれている。トイレとシャワーは共同となっている。宿代は25リンギットで,朝食が含まれている。最初の日は8人部屋を一人で占拠でき,快適に過ごすことができた。宿の背後は斜面になっており,ベランダからそこの森を眺めることができることもこの宿の良いところだ。

部屋には冷房が入っており,操作は1階の管理人が行っている。これが非常に寒い。自分の部屋の冷房を切ってもらっても両側の部屋の影響で十分に寒く,冷房嫌いの僕としてはこれには往生した。本来の冷房運転時間は21時から06時であるが,僕が部屋に滞在していると,管理人の女性が気を利かせて冷房を入れてくれる。最初の1時間は快適であり,そのあたりで切ってもらっていた。

宿の朝食はセルフサービスである。トーストを焼き,コーヒーをいれ,使った食器は自分で洗うルールになっている。今朝はトースト3枚,バナナ1本,コーヒーの朝食であった。小食の僕としてはこの程度で十分だ。

宿の裏手の斜面を登ってみる

アトキンソン時計塔

宿の前の通りを少し南西に行くと丘の上に時計塔がある。「名古屋駅前のおじさん」というブログにこの時計塔のいわれが記載されていたので引用させていただく。アトキンソン氏はシェセルトン地区の初代の地区局長であったが,28歳の若さで亡くなった。母親は深い悲しみにくれ,息子が好きだったコタキナバルの町を見下ろせるところに時計塔を建てた。

昼間も白い優雅な姿を見せており写真写りはとてもよい。夜はライトアップされて,さらに趣き深いものになる。上記のいわれを知ると,夜の時計塔からは子どもを失った母親の哀しみが伝わってくるようにも感じる。でも,現在は二人とも天国で再会しているので母親の哀しみは癒されていることだろう。

キナバル山のロッジは120リンギットになっている

キナバル山の日程を確定するため,Wisma Sabah にある旅行代理店に行って公園内の宿泊施設の料金を確認したところ,1泊120リンギット(約4000円)であり,予算が合わないので断念した。この宿泊施設の料金は2001年が6リンギット,2007年が24リンギット,2009年が120リンギットと8年間で20倍にもなっており,これでは日帰りのツアーを利用するしかない。

同じ建物内にツアーを扱っている旅行会社があり,キナバル山とポーリン温泉の1日ツアーが190リンギットであり,ここで予約しておいた。ここには日本人スタッフがおり,ツアー日程が決まり次第,宿の方に連絡を入れてもらうことにした。夕方,宿に戻ると管理人の女性がツアーは2日後の26日,08:15にピックアップという連絡を受けていた。

カジキはこの町のシンボルなのであろうか

海岸近くには新しいコンドミニアムが林立している

少し沖合には小島が点在している

サバ州の主要民族は先住民族と中国系である

立派な歩道橋

日本のODAの救急車

オープンカフェ?

南国らしい鮮やかな色彩の布地

市場で目についた商品

日曜マーケット

コタキナバルの中心部ではJalan Gaya 通りを使って日曜市が開かれる。車両の通行が禁止された通りの両側に露店が出ているので,往復すると両側の店を見ることができる。露店の種類は多様である。手工芸品の土産物屋はけっこう多い。果物屋はスーパーよりかなり安い。

お土産になりそうな商品

漢方の健康飲料や薬の材料も売られている

中国系の住民が多いせいか,漢方の健康飲料や薬の材料も売られている。僕はポーリン温泉へのツアーに備えて短パンを買っておいた。実際にはポーリン温泉では足を浸かるほどの時間もなく,この短パンはジャワ島の共同温泉で初めて役に立つことになった。日曜市は午前中だけのもので,14時に動物園から戻ってきたら撤収が進められていた。

トーチジンジャー

珍しい赤い花も売られていた。花の感じはショウガに似ていると思ったけれど,帰国後にネットで調べてもなかなかヒットしなかった。熱帯植物を集めているいくつかのサイトを訪問し 「シンガポールで出会った花たち」のページで見つけた。和名の「トーチジンジャー(Nicolaia elatior,ショウガ科・エトリンゲラ属)」は英名そのままである。

トーチジンジャーで検索すると8万件もヒットした。けっこう名の知られた植物のようだ。原産地はインドネシアの多年草である。ショウガとしては特別に華やかで大きな花をであり,世界の温室では人気の高い植物であると記されている。葉と花が別々の茎となり,花茎はまっすぐ立ってその頂部に球状花序をつける。花と同色で外側に開いているものは苞である。若い花は刻んで薬味として利用されるという。

ガムランの演奏に使用される横置きのゴング

ドリアンとジャックフルーツ

■調査中

■調査中

ブンタン(ポメロ)は本当に大きい

日曜マーケットは繁盛している

空港までミニバスで行くには

サバ州観光局の発行しているシティ・マップではコタキナバルの新空港は旧鉄道駅から2.5kmほど離れている。コタキナバルから先はサラワク州のミリに飛ぶ予定だったので,空港と旧鉄道駅を合わせて見ようとしてお出かけした。

宿の西側の大きな通りにバス停があり,そこで17Bのミニバスに乗るように教えられた。コタキナバルの新空港にはターミナルビルが二つあり,それぞれ別の道からアクセスしなければならないというやっかいなところである。タクシーに乗れば何の問題もないが,できればちゃんとミニバスで行きたいものだ。マレーシア航空のカウンターがあるターミナル1は幹線道路に面しており,バスの運転手もターミナル1ならばこのバスでOKだと言ってくれた。

モータリゼーションが急速に進んでいるマレーシアでは幹線道路が次々と高規格化されており,インターチェンジのような構造を含め,車優先の道路となっている。旧鉄道駅の前は中央分離帯のある片側3車線の道路であり,歩道橋なしでは横断は不可能である。銀色の屋根の新しい建物が見えたところで天井をコインでたたいて止めてもらう。100mほど先にある歩道橋は機能しておらず,空港には高規格道路を横断するしかないことが分かった。

北ボルネオ鉄道

この辺りは旧鉄道線路,高規格道路,空港の滑走路が平行している。旧鉄道駅と紹介したが実際には休業中の鉄道駅である。再開のめどが立っていないので説明をはしょって旧鉄道駅としておいた。空港から道路と区分された歩道を旧鉄道駅の方に歩いてみる。

レールは錆びついている。線路は列車が運行されなくなるとすぐにサビが出てくる。列車が走ると車輪と線路の間の摩擦によりこすられ,きれいな金属面が出てくる。駅舎は現在も機能しており,機関車が展示されていると思ったら列車を改造した商店であった。食道も営業していた。ごはん,いんげんの炒め物,かき揚げの3品で2.7リンギットの昼食となった。

州立モスク

1977年に建造された州立モスクは金色の大ドームと1本のミナレットをもっており,小ドームをもった16本の円錐形の構造体に囲まれているため要塞のような外観になっている。ドーム直下の2階部分が礼拝堂ととなっており,収容人数は7500人とされている。

1階には礼拝前に顔や手足を洗う水場と一体になっている池がある。ミナレットは池の中央から立ち上がっており,上部の屋根を突き抜けてそびえ立っている。屋根はガラス張りになっているので,池の周辺の空間は照明なしでも十分に明るい。

大ドームの下の2階部分が礼拝のための大きな空間となっており,7500人が収容可能とされている。近代的な建築技術が採用されており,ドームを支える円錐形の柱の間はガラス張りの壁面となっている。ただし,明るくなり過ぎないようにするため装飾板により一部の光は遮られている。モスクの必須要素であるキブラ壁(メッカの方向に向いた壁面)はなく,石板のようなミフラーブが置かれている。

床は一面に赤紫色の同一柄のじゅうたんで覆われている。この柄の一つが礼拝時の一人分のスペースになる。じゅうたんの柄はアーチ型の門のものが多く,それは天国への入り口を表しているとされている。礼拝の時間帯は外来者の服装チェックがあるようだが,この時間帯はほとんど人はおらずチェックもなかった。

表土が薄いので根は地表近くを広く這うようになる

州立博物館

州立博物館は州立モスクの南西側の少し高い丘の上にある。距離は500mほどでも車社会のマレーシアでは大きな通りを横断するのは苦労が多い。ようやく博物館の裏手(南側)にある通りに出る。汚れきった水の流れる水路の向こうに博物館の特徴のある建物が見える。この建物はルングス族のロングハウスを模していいるという説明が公式サイトにある。車で訪れるときの入り口は北東側になるが,南からも細い道を上っていくとことができる。

この小道の両側にはショウジョウヤシが植えられている。幹は赤い竹という表現がぴったりする。半島マレーシアで最初に見たときはヤシなのか竹なのか識別できなかった。道はメインの入り口となる水の流れる岩山のところに続いている。入り口の手前には先住民の使用する背負いかごの大きな模型と壺が置かれている。この壺も北ボルネオの歴史と深いつながりをもつ。

博物館の入場料は5リンギット,しかしシニア料金は2リンギットとなった。内部は完全に写真撮影禁止であり,カメラの入ったザックごと地下にある荷物預かり所に預ける規則になっている。入り口正面に展示されているクジラの骨格だけは写真に残しておきたかったが,かなわなかった。このクジラは2006年にガヤ島周辺の浅瀬に迷い込んで戻れなくなったニタリクジラのもので全長は20mもある。

記憶している範囲の展示物は1階がクジラの骨格,20世紀初頭の写真,第二次世界大戦の記録,Cave Coffin,各民族の伝統衣装,道具類,2階はセラミック類,ポタリー,野生生物のはく製・写真となっている。

州立博物館の東側には各民族の伝統家屋の展示場がある

博物館の東側は斜面となっており,その下には北ボルネオの先住民族の伝統的な家屋が展示されており,「Heritage Village」と呼ばれている。博物館はちょっと高い丘となっており,一段低いところにある「Heritage Village」との間はつり橋で結ばれている。

つり橋の下は森になっており,往時の熱帯雨林の様子が多少なりとも理解できる場所となっている。熱帯雨林はよくジャングルと形容されるが,僕がボルネオ島の奥地でホームステイした経験からすると,下層の植物がそれほど多くないため,湿地帯のような場所を除くと意外と歩きやすいところであった。このように植物が絡み合って行く手をさえぎるジャングルはとても歩きたいとは思わない。

マンゴスチンの木は初めて見た

「Heritage Village」の区画内にはマンゴスチンの木があり,ピンポン玉大の未熟な果実が地面に落ちていた。別の木には同じような果実がついている。市場で売られているものに比べるとずいぶん小さい。マンゴスチンの木は初めて見たので,記念に撮影する。

Heritage Village

熱帯性スイレン

タコノキ

細身の川舟も展示されている

伝統家屋(その1)

「Heritage Village」は池の周囲に先住民族の家屋が展示されている。床と壁は竹を裂いて作った板状のものであり,屋根はニッパヤシで葺かれている。家屋の構造は似たようなものだが,民族により内部の造作は異なっている。ブルネイ・ハウスは木材を使用しており,風通しがよいのでしばらく休憩させてもらった。

伝統的な歓迎の飾り付けなのだろう

伝統家屋(その2)

伝統家屋(その3)

写真の家屋は切妻屋根の両端部に破風板の先端を伸ばし交叉させたものが取り付けてある。これは伊勢神宮にある千木(ちぎ)と同じ構造である。千木のように屋根の棟先に聖なるシンボルを取り付ける文化は,東南アジアではよく見られる。ときにはそれは水牛の角そのものとなっていることもある。千木文化のルーツは東南アジアであり,日本が黒潮海洋文化圏に含まれていたことの証でもある。

家屋の内部はワンルームの広い空間となっている。主要構造材には竹が使用されている。屋根はニッパヤシで葺かれているため軽いので竹でも十分間に合うようだ。床材には裂いた竹が使用されており,奥に向かって右側は一段高くなっている。このラインに沿って細い柱が並んでいる。

おそらく低い方は作業場であり,高い方が居住区間として使用されていたのでは推測する。右奥隅には中二階があり,転落防止の柵が設けられていることから子どものための空間となっているようだ。

水面を歩くようなタコノキは絵になる

農耕用の道具

女子学生が見学に来ていた

伝統家屋(その4)

伝統家屋(その5)

竹製の屋根材

ニッパヤシもしくはサゴヤシの葉を利用した屋根材

付属の植物育成園

博物館前の土産物屋周辺

博物館に付属する土産物店の横には巨大な葉を広げた植物が群生していた。高さは1mを越えている。一見してサトイモの仲間である。東南アジアではサトイモ科のタロイモが常食される。タロイモも非常に葉の大きなものを見かける。しかし,ここのものは同じサトイモ科クワズイモであろう。

クワズイモはサトイモ以上に大きな葉をもっており,日本ではもっぱら観葉植物とされている。親芋の回りに小芋を付けるサトイモと異なり,クワズイモは棒状の塊茎となっており,毒性があるので食用とはならない。そのため,クワズイモと呼ばれている。しかし,中には食用にできるものもあり,東南アジアや西太平洋に島々では栽培されている。

博物館から宿までは1時間近くかかった。空港から積算すると今日の散策コースは9-10kmといったところである。水分の消費量は1リットルとアイスコーヒー1杯であった。

コタキナバルの近代的な街並み

コタキナバル・ツーリズム

町の北側にある港湾施設

この町にはユニークな建物が多い

夕日の風景

18時を過ぎると夕日の時間帯になる。商業地区を抜けて海岸に出る。コタキナバルの商業ビルは10階建てほどの高さなので威圧感はない。海岸は広い遊歩道になっており,のんびり夕日を楽しめる。小さな島が点在しており,家路につく漁船の列が少し赤みを帯びた西の空を背景にシルエットになっている。

よく利用した中華食堂

ツルのオブジェ


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