亜細亜の街角
イロイロは静かな町
Home 亜細亜の街角 | Iloilo / Philippines / Mar 2009

イロイロ   (地域地図を開く)

ビサヤ諸島の最西端にあるのがパナイ島である。イロイロはこの島の経済,農業の中心地で,50kmほどの狭い海峡をはさんでバコロド市と向かい合っている。人口は約40万人,フィリピンで9番目に人口の多い都市である。町の面積は56km2なので人口密度は非常に高い。

パナイ島はフィリピン農業の中心地の一つでさまざまな商品作物が栽培されており,イロイロはスペイン植民地時代,アメリカ支配時代を通じて農産物の輸出拠点となってきた。

バコロド→イロイロ 移動

05:30に起床し,朝の水浴びをして,荷物をまとめ06:20にチェックアウトする。表通りに出ると自転車トライシクルのおじさんが目ざとく僕を見つけてこちらにやって来る。おじさんは埠頭までの1.5kmの距離に40ペソを要求した。普通は15ペソ程度なので荷物加算を含め20ペソで行ってもらうことにする。

予想通り「Ocean Jet 社」のチケット窓口は混雑していた。窓口で申請用紙を記入しなければならないので時間がかかるのだ。僕はすでに07:45発のチケットを持っているので,そのままチェックインする。

料金は港湾施設使用料の20ペソを含めて224ペソである。チケットには「senior citizen」と記載されているので,割引料金が適用されているのかもしれない。ガイドブックにはフィリピン航空のシニア割引にも言及しているが国内線は元の値段が安いので使う気にもならない。

船は到着が少し遅れたため出港は08:15と30分遅れとなった。港から見ると洋上には灰色の積乱雲が湧いている。午後には雨かなと予想していたら,出発時には雨になった。

この高速船の座席は一階が一列9人,40列なので340人くらいの座席数である。二階の半分はビジネスクラスになっている。これだけの収容人数にもかかわらずほとんど満席状態であった。事前にチケットを入手しておいたのは正解であった。

バコロド・イロイロ間は二社が毎日4便を就航させているのにこの乗客数には驚かされた。イロイロには09:30に到着,船着場は海から少し内陸に入った入り江のようなところにある。

ビザの延長

高速船の船着場から宿に行く前にビザの延長を申請することにする。というのは船着場のすぐそばにカスタムや市庁舎の建物があるので延長ができると考えたからである。カスタムと表示された白いコロニアル風の建物はとてもよく目立つ。

ビザの延長はどこで出来るのかと周囲を歩いていると,男性が何もたずねないのに,「ビザの延長はこの建物の二階だよ」と教えてくれた。このあたりで何かを探している外国人はみんなビザ延長のためだと相場は決まっているようだ。

彼の教えてくれた建物とはカスタムであった。何のことはない,表から入るとカスタムで,裏から二階に上がるとイミグレーションとなっている。ここでビザの延長が可能である。

フィリピンの観光ビザは到着時に21日間滞在可能なビザを無料でもらえる。滞在が21日以上になる場合は,州都のある町ならおそらくどこにでもあるイミグレーションで59日まで延長することができる。

イロイロの到着時刻が午前中だったので荷物を背負ったままイミグレの受付に行く。申請用紙に必要事項を記入し,係官に提出すると少し時間を置いてから3030ペソを徴収された。

ガイドブックには2020ペソと記載されているが,こちらは通常処理の場合の費用で,即日処理(というよりは即時処理)の場合はこの手数料になるようだ。ここにはフィリピーナに付き添われた外国人男性が何人もやってきてビザ延長を申請していた。確かに彼らも一様に3030ペソを支払っていた。カスタムの外のイスで1時間ほど待たされてから名前が呼ばれた。

パスポートには新しいビザが押されていた。内容を確認してみる。入国は3月4日であり,今回の延長用スタンプには5月2日となっており59日滞在が認められたことになる。もちろん日付のところは手書きになっている。この他にビザ番号と費用の2030という数字が書き込まれている。これでフィリピンにあと50日近く滞在することができる。

郵便局も同じ建物にある

建物の右横に回り込むと郵便局の入り口がある。ちょっと覗いてみると海外郵便の料金表があったので写真にする。アフガニスタン以東のアジアは20ペソ,日本円で40円である。日本国内から出すよりフィリピンから出した方が安いという逆転現象が生まれている。

ル・シャトウ・ド・イロイロ

予定していた宿のル・シャトウは船着場から4kmほど離れている。ジープニーのお世話にならなければならないのだが,どこでジープニーをつかまえられるのさっぱり分からない。幸い宿はモロ教会のすぐ近くにあるので,地元の人にたずねると「そこのデパートの前から乗ることができるよ」と教えられた。

モロ教会がジープニーの終点となっており,宿はそのすぐ近くにあった。受付のフロアはとても立派であり,それにもかかわらず部屋代は280ペソであった。部屋は6畳,1ベッド,トイレ・シャワーは共同,清潔である。

宿の周辺は下町と言う感じである。露店の市場では野菜や魚が商われ,いちおう食堂もある。夜ともなると串焼きの屋台が出るので,そこからごはんと一緒にテイクアウトすることもできる。

モロ教会

モロ教会は宿から徒歩一分のところにあるので毎日朝な夕なに訪れていた。周辺の地区はモロ地区と呼ばれており,地区の名前が教会名になっているよだ。イロイロの町の北側,モロ教会と州庁舎を底辺とする二等辺三角形の頂点にあたるところにもうひとつ歴史のあるハロ教会があり,周辺の地区はハロ地区となっている。

モロ教会は1831年に建てられたとあるので170年以上の歴史を刻んでいる。ファザードは両側に鐘楼を備えた均整のとれたものである。使用されている白い石灰岩がくすんだ灰色になっており歴史を感じさせる。

ガイドブックにはゴシック・ルネッサンス様式と記載されている。ヨーロッパ中世の建築様式はロマネスク→ゴシック(12-15世紀)→ルネサンス(15-16世紀)→バロック→ロココと変遷している。

この建築物はゴシックとルネサンスの混合した様式という意味なのであろう。しかし,素人ではどの部分がゴシックでどの部分がルネサンスなのかはまったく分からない。

この教会は十字架プランとなっている。正面斜めから写真を撮るとその全体像がはっきりするのだが,近くまで民家が迫っており難しい。それでも赤い切妻屋根の建物が交差するところに置かれている銀色のドームが見てとれる。何回も見たせいか愛着のある建物である。

ミサの無い時間帯は正面の扉は閉まっており,側面の入り口を利用することになる。礼拝堂の内部はオーソドックスな十字架プランとなっている。正面入り口から中央のドームの手前までがベンチ形のイスが並んでおり,その両側はアーケードになっている。

アーケードと壁面の間は側廊になっており,そこにもベンチが並べられている。このように側廊をもった長方形の建物はローマの会堂に起源をもちバシリカ様式と呼ばれている。

中央ドームの下あたりからは聖壇となっており,その背後は方形の天井をもつ後陣の空間となっている。三面の壁には明り取りの窓があり明るい感じの空間となっている。

そこには教会のファザードと同じ形状の神の家があり聖母マリアの像が置かれており,左右の壁面には十字架のイエスと復活したイエス像が,さらに天井には昇天するイエスとそれを見送る人々の姿が描かれている。

大ドームの空間は四辺のアーチで支えられており,正面にはキリスト,その下にはキリスト12使徒で福音書を残したルカとマルコの壁画が描かれている。この教会の聖壇周辺はすぐれた宗教芸術が見られる。

ローマ法王ベネディクト16世がフィリピンを訪問したようだ

教会の入り口にはローマ法王の写真があり,そこには「私についてきなさい,教会を建設するのに協力して」と記載されていた。しかし,国民の半数が貧困ラインあるいはそれ以下で暮らしているフィリピンでは教会の建設が問題の解決になるのであろうか。

フィリピンの抱える最大の課題は社会的にとても容認できないほど広がっている貧富の格差である。確かにカソリック教会は貧しい人々の救済に一定の役割を果たしている。しかし,不平等を生み出すこの国の社会の仕組みについてはあまり言及していない。

カソリックが国民の83%を占める(キリスト教全体では93%)フィリピンでは,教会の社会的役割は大きい。カソリックが貧富の格差是正に目を向ければ,この国は大きく変わる可能性がある。

逆に教会が貧しい人々のこころの安全弁であり続けるだけでは,この国の抱える問題は将来も解決されないであろう。現在のフィリピン政治勢力は与党,野党とも中産階級を代表するもので,貧困層を救済する政策を最優先するいうわけにはいかない。

正面祭壇は聖母子像となっている

側廊の柱には聖人像が飾られている

この教会の変わったところは礼拝堂両側のアーケードを支えている柱に女性聖人像が飾られていることだ。柱に台を取り付け,その上に人物像を置き,その上には屋根を取り付けている。

カソリック聖堂には珍しく女性の聖人像もある

聖人像は全部で16体あり,台座のところには名前が記されている。何人かの名前を読んでみたが知っている人はいなかった。このように女性聖人像が並んでいる教会は珍しい。

キリスト像の祭壇もある

聖母子像の壁画もある

教会の前は広い公園になっている

教会の前は広い公園になっており,午後の時間帯になると大勢の制服姿のハイスクールの生徒たちが集まる。公園内にはコンクリート床のバスケットコートがあり,若者たちがゲームに興じている。そのうち半数はビーチサンダルでコートを走り回っており,これにはちょっと驚かされる。

制服姿の女子学生がベンチに腰を下ろしていたので一枚撮らせてもらう。白いブラウスとグリーンのスカートの組み合わせはフィリピンでよく見かける制服である。

ブラウスはセーラー服のように襟が背中を覆っている。日本の女子高校生との差異は茶髪がいないこと,化粧をしていないこと,スカート丈が長いことそして首から身分証明書を下げていることである。

ジープニーに乗って街の中心部に行く

ジープニーに乗って街の中心部に行く。ところが途中で雷雨となってしまった。ジープニーの側面はオープン状態なのでこれは大変だ。運転手が屋根に取り付けられている幌を下ろして雨に備える。しかし,雨脚が強く乗客は雨の吹き込まない席に移動することになる。

幸い雨は10分くらいで上がり,目的地でジープニーから降りることができた。街の中心部でランドマークとなるのはロビンソン・プレスというショッピング・モールで,デパートとスーパーマーケットがある。薄い茶色と緑のツートンカラーがよく目立つのでとても役に立ってくれた。

大きな通りの交差点にオベリスクのような塔が立っている。「Iloilo Jaycees」と表示されているが何のことやら。この辺りは比較的古い建物が多く,英語が準公用語になっていても看板はほとんどタガログかローカル言語である。

この子は目が大きい

ナンバーズの販売所

人々で混雑している店があったので覗いてみる。テーブルに坐って人々は何かをチェックしている。ここはナンバーズくじの販売所であった。日本でもロト・シックスという数字くじがあり,フィリピンのものも似たようなものだろう。それにしても,ここがこんなに盛況なのは決して喜ばしいことではない。

湾のように見えるがイロイロ川が蛇行したところである

高速船の船着場はゆるやかに蛇行を繰り返すイロイロ川の河口に面している。川幅は300mほどである。イロイロ川はイロイロ市を南北に分断するように海岸線に沿って西から東に流れている。

対岸には古びた漁船が停泊しており,こちら側には大きなバンカーボートが係留されている。船着場が近づくと川は大きくV字に湾曲しておりまるで湾のような風景となる

燃料にはまだ薪炭が利用されている

護岸には薪の束が積まれている。フィリピンでは農村部はもちろんのことイロイロのような都市部でも燃料の一部を薪炭材に頼っているのだ。薪炭材がフィリピンの森林資源にどの程度の負荷を与えているかについてはデータがない。

20世紀後半の50年間に世界の森林は面積においても質の面でも急速に劣化した。かって南極とグリーンランドを除く陸地の半分を覆っていた森林の半分は人類の活動によりすでに失われてしまった。

森林の状態を正しく評価するためには「森林面積」だけでは不十分であり,森林の質を加味する必要がある。この質に相当する尺度が「森林密度」である。この概念は「単位面積における材積量(材木の量)」であり,バイオマスと蓄積された炭素量を考察することである。

一国あるいは地域の森林の状態を表す森林蓄積量は森林面積と森林密度をもとに産出することができる。地球温暖化防止のため,二酸化炭素を吸収・排出する森林蓄積量の変動は非常に重要な環境データとなる。

「Forest Identity News Release」のレポートによると 21世紀に入ると森林のバイオマスを増加させている国と20世紀に引きつ続き減少させている国に分かれるようになった。それよると世界で最も森林の多い50カ国の1990年から2005年の森林蓄積量を算定すると22カ国は森林蓄積量は増加したことがわかった。先進国はほとんど森林蓄積量を増加させ,新興国の中国,インドも増加グループに含まれている。

一方,ブラジル,インドネシア,フィリピン,ナイジェリアは急速に森林蓄積量を減少させている。インドネシアは森林面積が-2%/年,森林密度が-4.5%/年と50カ国の中では最悪の数値となっている。フィリピンは密度は変わらず面積が-2.5%/年となっている。急激な人口増加や貧困と森林の減少は密接に結びついている。その一方で,政府の適切な政策により,森林の状態を改善することもできるのだ。

ダイブのパフォーマンスを見せてくれる

近くでは子どもたちが水遊びに興じている。子どもたちは護岸から飛び込み,船を接岸させるために吊るしているタイヤをつたって上がってくる。子どもたちは停泊している貨物船を停めておくロープに上り出した。これはおもしろい写真になる。子どもたちのサービス精神に感謝である。

カメラに気が付いて陽気に手を振る

こんなパフォーマンスも見せてくれる

イロイロ市の公設市場

カスタムの建物の南西側には公設市場がある。かなりの床面積をもつ大きな市場だ。すでに15時を回ろうとしており市場の魚屋はすでに終了していたのでここの見学は明日に回すことにした。

電力計の集合板

幼稚園にドラッグにノーをという看板がある

市場から南に少し行くと海岸に出る。その手前に「Say no to Drugs」という看板の出ている建物があった。建物の入り口付近は金網で囲われており,そこに女性たちの姿が見える。

彼女たちのいる場所から窓越しに中を覗いて見るとそこは幼稚園であった。どうして,幼稚園の建物にドラッグ拒否の看板があるのだろうかと疑問をもちながら子どもたちの写真を撮る。

ちょうど,拳を突き上げる動作をしており,よもやこれは「ドラッグはやらないぞ」と声を上げているのではないよね。

幼稚園の外で遊んでいる子ども

幼稚園の中で遊んでいる子どもたち

海岸は対岸の島が見えるだけで特に面白いものはなかった。幼稚園に引き返すと今度は先生が室内に入れてくれた。子どもたちはおやつの時間であった。子どもたちは写真慣れしておりちゃんとカメラ目線になっている。

市場の西側に中国寺院がある

市場から西側に向う通りには近代的な建物の二階に「龍山寺」という中国寺院があった。入り口の扉は開いており中を覗きこんでいると管理人の男性が現れ,「どこからきたのか」とたずねられた。「日本です」と答えると,あっさり二階に案内してくれた。

二階の一部はテラスになっており,そこにコンクリート製の中国寺院があった。入り口を支える左右の柱には次のように記されている。
右柱:龍伏魔降救出観音除衆害
左柱:山明水秀行仁菩薩護群集

漢文の素養の無い僕でもこれくらいなら意味が分かる。内部にはブッダの像が祀られており,その両側には「観世音菩薩」,「観音大士」と記されている。中国では観音信仰が盛んであり,ほとんどの中国寺院には観音の文字が見られる。このあたりから中国仏教は分からなくなる。

この二階には道教の寺院もあり,こちらには(実在したあるいは伝説の)聖人が祀られている。大ざっぱに言ってしまうと仏陀も観世音菩薩も中国の聖人もほぼ同列の神として扱われているようだ。

この新スタイルの教会はいくつもの町で見かけた

サイカーで遊ぶ

昔の日本の路地とはちょっと趣が違う

ところ変われば野菜も変わる

ここの子どもたちは写真好きであった

彼女を含め個別の写真を撮ることになった

竹細工のカゴも日用品として使用されている

ロビンソンデパートの近くにジープニー乗り場がある

食事事情

イロイロでの朝食は宿の前の食堂でとっていた。料理は出来合いのものがケースの中に並べられているので,それを指差して値段を確認して注文する。

ごはん,野菜の煮物,コーヒーで32ペソである。昨日の昼食はごはん,魚の煮付け,マウンテンデューで30ペソであった。安くておいしい食堂を見つけるとついつい通ってしまう。

モロ教会の北側には小ぎれいなカフェがあり,60ペソくらいで食事ができそうだが,個人的にはこのような食堂でローカル色の強い料理をいただく方が性に合っている。ここのコーヒーは値段からするとずいぶんおいしい。客の中にはコーヒーだけを注文する人も少なくない。

テーブルの反対側には4歳くらいの女の子が坐ってパンを食べていた。写真を撮ってヨーヨーを作ってあげると,お友だちがやってきて二人分を作ることになった。

イロイロは(フィリピンとしては)きれいな町である。この辺りは中心部からかなり離れているが,それでもゴミ処理が適切に行われており,路上に散乱するゴミは見当たらない。また,貧富の格差も他の町ほど感じさせない。

経済成長の続くフィリピンではファストフードが人気を集めている。モロ教会の北側にはテントスタイルンのファストフード店があり,さすがにそこの物価は食堂よりかなり高くつく。

世界遺産のミアガオ教会

イロイロ市から西に40kmほど離れた海岸近くにミアガオという町がある。そこには世界遺産に登録されている「ミアガオ教会」がある。正式な名前はサント・トーマス・デ・ヴィリャヌエバ教会というらしいけれど,長すぎるせいか町の名前のミアガオの方が通りがよい。

ミアガオまではジープニーもしくはミニバスで行くことができる。西に向うジープニーの乗り場が分からなかったので近くのバスターミナルに向う。セレス・ライナーの大型バスに混じって年代物の小型バスが見つかった。料金は40ペソ,これは帰りに乗ったジープニーと同じ料金である。

バスは片側一車線の海岸道路を恐ろしい速度で走る。帰りのジープニーはさらに早かった。ここでの交通ルールは「道路状況に合わせ可能な限りの速度で走る」ということらしい。

さすがに学校に近くには「速度落とせ」の標識があり,そこだけは減速している。乗客の恐怖心をよそにバスは1時間ほどで教会の近くに到着した。そこがミアガオの中心部になっている。

ミアガオは1787年に建設が始まり1797年に完成したバロック様式の教会である。1993年に他の3つの教会とともに「フィリピンのバロック様式教会群」として世界遺産に登録されている。

頑丈な造りであったので1898年のイスラム教徒の襲撃の際には砦として使用された。教会の建物は大きく損傷を受け,その後,再建された。

1910年には火災により損傷を受け,1948年の地震によりひどく破壊された。再建作業は1960年に始まり1962年に完成した。ファザードの石材の一部が新しい感じを受けたのはこのためであろう。

ミアガオ教会のファザードは不思議なものであった。教会本体の両側に鐘楼をもっているのだが,最上部の形状が左右で異なるのだ。右側は三段構成,最上部に鐘が取り付けられており,その上に急勾配のとんがり屋根が乗っている。

左側は四段構成,最上部に鐘が取り付けられており,その上は緩い傾斜の屋根になっている。三段目までの形状はほぼ同じなので,右側のものは途中で建築プランを変更したような印象を受ける。

全体的に白っぽい色をしているので,材料は石灰岩であろう。堂々としたファザードで印象深いものは礼拝堂本体の上部に刻まれたヤシの木のレリーフである。注意深く見るとパパイヤやこの地域の植物のレリーフもある。教会のファザードにこのような造形が見られるのは珍しいことだ。

パナイ島の教会はどこかユニークなところがある。ヤシの木の下には窪みが設けられ,そこにはローマ法王とおぼしき人物の像が置かれている。教会の側面も同じような石造りであり,一定の間隔で壁面を支える控え壁(支持壁)が設けられている。

礼拝堂は単純な長方形プランであり,側廊は付加されていない。内部はゆるいアーチ天井となっており,正面には聖壇,その背後には十字架のキリストの左右に聖母マリアとローマ法王の像が納められている。

礼拝堂の両側はそのまま建物の頑丈な側壁になっており,そこにはいくつものステンドグラスの窓があり,内部は明るい空間となっている。フィリピンでは地震が多いので,ヨーロッパ様式ではなく中米のがっしりとした様式も移入されている。

内部では葬儀のミサが行われていた

礼拝堂ではお葬式のミサが行われていた。聖壇の前に白い棺が置かれ司祭が話をしている。説教が終わると聖体拝領の儀式となり,その後は棺が回転され長手方向が参列者のほうに向けられた。

参列者は家族の単位で棺に向かい最後のお別れをする。親族をはじめ親しい知人が棺の後ろに並んで写真を撮ってもらう。集合写真のとき悲しみをこらえきれないで両手で顔を覆っている少女が印象的であった。

三人の子どもを先頭に墓地に向かう

色物の服を着ている人もいるが,白い服の人が多数を占めており,この国の葬儀の色は白のようだ。葬儀が終了すると十字架とハートの紙細工をもった三人の少女を先頭に棺を乗せた自動車,参列者が後に続いた。一行は町の商店街を通り500mほど離れた共同墓地に到着した。

墓地に埋葬する

墓地は広さが約1haほどのあり,大小の墓や墓碑が並んでいる。この墓地はすでに満杯になっており,新しいものは立体墓室になっている。それは四段重ねで横方向にずらりと並んでいる。いってみれば,敷地が不足しているため一戸建てから集合住宅に切り替えられている。

そのため墓地の内側から見ると四段重ねの集合墓室の前面が壁のようになっている。各墓室には番号が付けられており,個人もしくは家族の名前が記されている。それは集合住宅を玄関側から見ているのに似ている。

ここまでやってきた一部の参列者と司祭が最後の祈りを捧げた後,棺は集合墓室の一つに納められた。これで埋葬の儀式はすべて終了し参列者は町に戻る。

周辺の土地は黄色や赤の花が咲き乱れる花壇のようになっているが,その下にはお墓であることを示す倒れたままの小さな墓碑がある。参列者が立っていた場所も誰かが眠っているところなのかもしれない。

このように墓自体が植物に覆われた状態のもののあれば,立派な墓は5m四方もの面積をもち,コンクリート製の立派な構造物の中に棺が納めれている。さらに大きなものはちょっとした小屋くらいの大きさになっており,これでは墓地が手狭になるのは当然である。

ニトベカズラ(アサヒカズラ)

墓地の地面を這うようにニトベカズラ(アサヒカズラ)がつるを伸ばしていた。正式な和名はニトベカズラなのかアサヒカズラなのかははっきりしない。google の検索ヒット数ではアサヒカズラに軍配が上がったで,こちらの名前の方がよく知られているようだ。

アサヒカズラ(Antigonon leptopus,タデ科・アンティゴノン属)はメキシコ原産のつる性の低木である。温度条件が合うと急速に成長する。花は一つの花序に十数輪付き,その先端の巻きひげを絡み付けて石垣でも体を支えることができる。

ピンク色に見える花は萼(がく)であり,長い期間を楽しむことができる。開花時期は夏となっているが,熱帯・亜熱帯地域では通年開花するようだ。

■調査中

ミアガオ教会に戻ると子どもたちが見学に来ていた

子どもたちが多いのでしばらく外で待機する

ユネスコ世界遺産の案内板

町中のの交通はバイク・サイカーが主流だ

ニッパヤシあるいはヤシの葉を編んだ屋根材

墓地からミアガオの商店街を眺めながらのんびり歩く。屋根を葺くのに使用するニッパヤシあるいはヤシの葉の葉を組み込んだものが店先に積み上げられている。

芯に相当するものはニッパヤシなどの葉柄であり,それに葉を二つ折りにして取り付け,縫うか縛るかして葉を固定している。このブロックを20-30cmずらして下から積み上げていくと屋根を葺くことができる。

夕立のような雨に会ってこのような屋根の下で雨宿りしたことがある。そのような雨でも雨漏りはしなかった。もっともこの屋根の寿命は5年くらいらしい。

調理用バナナをカルメラで揚げる,これはおいしい

調理用バナナをカルメラで揚げた甘いバナナが売られていた。これは僕の大好きな食べ物の一つだ。調理をしている女性は盛大に鍋の中に砂糖を入れる。この甘いおやつは2個で10ペソだったかな。

大小のジャックフルーツが置かれている

マメ科の樹木にはこのような豆ができる

市場ではおもしろい豆を見つけた。ちょっと変わった豆だなと見るとそれは木になる豆であった。東南アジアにはマメ科の樹木が多い。きれいな花を楽しめるだけではなく,大きな莢をたくさん枝に付けているのも写真の良い題材になっている。そして今回は種も食用になることが分かった。

あれだけたくさんの花を咲かせるのであるから,豆もさぞかしやたくさん採れることであろう。ただし,豆を莢から取り出すのはそれなりに手間ひまをかけなければならない。市場ではおばさんがこの作業をしており,それを見る限りでは一つ一つ莢を外していかなければならない。

サポジラ

サポジラ(学名:Manilkara zapota )の原産地はメキシコであり,スペインが植民地にしたことにより世界各地に移入された。東南アジアではフィリピンが起点となっているようだ。

樹高は30-40mまで達し,樹皮にはチクルと呼ばれるチューインガムの原料となる白く粘り気のある物質が含まれているので,和名はチューインガムノキとなっている。

葉は厚い照葉樹であり,季節に関係なく開花し果実をつける。果実の外観はジャガイモに似ており,とても地味である。おそらく,果物の屋台などで見かけたことがあるはずであるが,記憶には残っていない。

ということでまだ食べたことはない。食べた方の感想は非常に甘くキャラメルか綿菓子のような風味,あるいは甘柿を更に甘くした感じと記されている。

■調査中

冷えた「トロピカーナ」

教会の前には小さな商店がある。小さいとはいえこのくらいの大きさになるとフィリピン名物の「サリサリ・ストア」とは呼べない。ここには冷えた「トロピカーナ」が置いてあった。

このオレンジジュース系の飲み物はフィリピンで一番お気に入りのものである。残念ながらコーラのようにどこにでもあるという代物ではない。今日は墓地に向う前と,墓地から帰って1本ずついただく。炭酸は入っていないので一気に飲むことができる。乾季の暑さの中では極上の甘露である。

海岸には大小の漁船が係留されている

サンボアンガやタグビラランで見かけた

ここで一緒にごはんをいただくことになる

街の中心部から南に向かうとじきに海岸に出る。この町もゴミが少なく海岸もきれいだ。海岸には引き上げられた小さなバンカーボートが並んでいる。セブ島で見かけたものと同型の大きな漁船は海岸近くに浮いている。

昼間の時間帯なので働く人の姿は見えない。海辺で見かけたのは発泡スチロールの板を浮きにして遊んでいる子どもたちだけである。彼らが遊んでいる近くの小屋に中学生の女の子が食事をしていた。

そこに別の3人の女子中学生が現れ,僕に一緒に食べないかと誘ってくれた。「え〜っ,いくらなの」とたずねると,どうやら無料らしい。学校帰りの子どもたちのための共同食堂のようなものらしい。

メニューはごはんと焼き魚,子どもたちの昼食を食べるのには気が引けて少しだけいただくことにする。海岸で水遊びをしていた子どもたちが戻ってきたので,お礼にヨーヨーを作ってあげる。


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