亜細亜の街角
サトウキビ農園に思う
Home 亜細亜の街角 | San Carlos / Philippines / Mar 2009

サン・カルロス   (地域地図を開く)

ネグロス島東岸にある人口は10万人の港町である。ネグロス島はセブ島の西側に位置し,幅30kmほどの狭い海峡で隔てられている。海峡のセブ側にはトレド,ネグロス側にはサン・カルロスの町があり,日に何便かのフェリーで結ばれている。

ネグロス島には海岸沿いに島を一周する道路が走っており,バコロドとドゥマゲッティを結ぶ北周りの道路は島の幹線道路となっている。この幹線道路がサン・カルロス市の中心を走っており,道路とフェリーターミナルの間が市街地となっている。

フェリーターミナルから真っすぐの道路(Carmona St)が北に向かい幹線道路に交差するところにバスターミナルがある。距離は1.5kmほどなので,サン・カルロスに宿泊する時はフェリーターミナルで下ろしてもらう方がずっと近い。

サン・カルロスのあたりでは海岸沿いの平地の幅は2-3kmであり,すぐに山がちな地形となる。ネグロスの山には緑が少なく航空写真で見るとほとんどが茶色になっている。

それに対して,平地は400-500m四方で区画された農地となっている。ざっと一区画が20haほどの大きさである。ネグロス島は別名シュガー・アイランドとも呼ばれるようにサトウキビ栽培の盛んなところである。

これらの農地はほとんどがサトウキビ農園であり,海岸近くの土地にはエビの養殖場も見られる。道路には収穫されたサトウキビを満載したトッラクが行きかっている。

タグビララン→セブ・シティ 移動

今日はボホール島からネグロス島まで移動する計画である。乗換えが多いのでセブ・シティで事前に交通機関の情報を収集しておいた。
(1) タグビララン(07時発・高速船)→セブ・シティ
(2) セブ・シティ南バスターミナルに移動
(3) セブ・シティ南バスターミナル(10時発・バス)→トレド
(4) トレド(フェリー)→サン・カルロス

タグビラランの宿は05:30にチェックアウトする。宿のとなりにある早朝から開いている便利な食堂もこの時間はまだ準備中であった。昨日の残りのおかずは手を出したくないので,ゆで卵とごはん(14ペソ)で朝食をとる。

食堂を出るとトライシクルがすぐにやってきたので船着場まで行ってもらった。オーシャン・ジェットの建物に入り,往復の帰りのチケットを出してチェックインする。高速船はいちおう座席指定であるがそれほど意味はない。今日は天気に恵まれているのでずっと上のデッキにいることになりそうだからだ。

高速船は往復で520ペソ,これに港湾施設使用料14.25ペソが必要だ。物価の安いフィリピンでも1ペソ未満のコインはまったく使い道がない。それでもときどきこのような料金請求が残っている。

出発時間の07時を少し過ぎており,となりのウエスタン・オーシャンの高速船が先に出て行った。乗船が開始されると僕は下の寒い船室ではなく上のオープンデッキに向った。ここからは外の景色を眺め写真を撮ることができる。

船の近くには小さなバンカーボートが集まっている。この船は本当に小さい。大人二人と子ども一人が乗るともうスペースが無いくらいだ。高速船の船室は窓が開かないので彼らにコインを投げる人もいない。

船が動き出すと港湾施設の全貌が見えるようになる。おや,小さなコンテナ船が停泊している。こんな船がここまでやって来ているんだ。天気が良いので海は青く輝いており,いかにも亜熱帯の海である。

島で見かけた竹ざおを伸ばしたバンカーボートが漁に出ている。それでも竹ざおの使い道は分からない。かなり沖合いにはエンジンをもたない小舟が漁をしている。おそらく港との間はエンジン付きのボートで引いてもらっているようだ。そのため10隻ほどの小舟は固まって漁をしている。

08:40にセブ・シティの埠頭に到着する。そこで高速船の写真を撮っていないことに気が付き一枚撮る。埠頭の周辺に待機しているタクシーに南BTまでの料金をたずねると200とか150という答えが返ってくる。このようなタクシーは値段が下がっても絶対に使いたくない。

セブ・シティ→サン・カルロス 移動

埠頭から独立広場まで歩き,そこでジープニーをつかまえる。南BTの前の通りとの交差点で降ろしてもらう。バコロド行きのバスはセレス・ラーナーから10時に出る。このバスはトレドからバスごとフェリーに乗船するので,とても便利だ。

フィリピンのバスは涼しい早朝に出ることが多い。セレス・ライナーも04時台と05時台のものが多く,10時の次は最終の15時である。セブ南バスターミナルはこのとき改装中で建物は新しくなっても,まだバス会社の事務所は入っておらず,バスの前に運行表が立ててあるだけだ。

サン・カルロスまでの料金はバス代が120ペソ,フェリーが210ペソである。バスに乗り込むと(船会社の)係員がまずやってきて料金を徴収する。僕はバスの料金と勘違いして,彼が「A/C」と聞くのでもちろんA/Cだよと答えた。その結果,フェリーはエアコン船室になってしまった。

その後でバスの車掌がやってきたのでようやく勘違いに気が付くことになった。バスはターミナルに停車している間はエンジンが止まっているので内部は蒸し風呂状態である。エアコンが入ったときはさすがに天国の気分である。

トレドまでの道路状況はとても良い。トレドのフェリー・ターミナルの手前で乗客は大きな荷物を残し下車する。サン・カルロスで下車する場合はトレドがバス利用の終点となリ,あとは勝手にフェリーに乗りサン・カルロスに向うというのがルールであった。

僕はサン・カルロスのバスターミナルまで行ってくれるものと誤解し,荷物を残して乗船した。しかも,サン・カルロス到着の少し前に乗客はちゃんとバスに乗り込んでおり,のんびり下船してフェリーから出てくるバスを待っていた僕はあやうく荷物だけを持っていかれるところであった。

港湾施設使用料(15ペソ)を払い,チケットを提示してフェリーに乗り込む。船内はエアコン室があるがエコノミーで十分である。もっとも料金はそれほど違いないようである。

細長いセブ島とちょっと太目のネグロス島はほぼ平行に位置している。セブ島の最南端のリロアンとドゥマゲッティの間はわずか数kmの海峡に隔てられているだけである。

トレドとサン・カルロスの距離は約30km,フェリーは約2時間で対岸に到達する。ネグロス島の中央部には山脈が走り,サン・カルロスの南西にはカンラオン火山(2465m)がある。

フェリーがネグロス島に近づくと,少し高くなった稜線の背後に火山らしい独立峰の山容が見えてくる。左側は富士山のように滑らかなスロープを描いているが右側は高い稜線がずっと続いている。残念ながらネグロス島に近づくにつれて雲が山頂を覆い隠すようになった。

サン・カルロスの街は海岸近くの平地に細長くひろがっており,その背後には少し高い丘が連なり,さらにその背後に中部の山脈の稜線が続いている。サン・カルロスの港は小さいながらわりと最近整備されたようだ。

船着場に出てきたでバスから荷物を取り出す。ガイドブックには地図が掲載されていないので船着場から予定していたココ・グローブ・ホテルまでの距離が分からない。港のサイカー(自転車トライシクル)は10ペソ(20円)でホテルまで行くというのでお世話になる。

ココ・グローブ・ホテル

しかし,その距離はわずか500m,港の通りを左に曲がるとすぐに目的のホテルの看板が見える。トライシクルの運転手には案内料として10ペソをお渡しする。

宿は通りから少し奥まったところに入り口がある。そこまでの間には庭になっており,蛇やイグアナの檻がある。受付の建物はとても立派だ。

僕の部屋は木造の建物の2階にあり,7畳,2ベッド,トイレ・シャワーは共同で十分に清潔である。夜間は冷えるので厚手のシーツがついている。料金は250ペソであり,ここも居心地のよい宿であった。

1階にはレストランもあり,初日の夕食はごはん,魚のから揚げ,野菜スープ,コーヒーで62ペソである。宿のレストランとしては妥当な値段であろう。ここではランドリー・サービスもあり,1kgで70ペソと市価の1.5倍程度である。

フェリー埠頭の北側は漁師地区となっている

宿で一休みして足慣らしに街を歩いてみる。地図がないと街歩きはなかなか大変なものだ。街のランドマークはフェリーターミナルなのでまずそこに行ってみる。市街地はきちんと区画されているので歩きやすい。

港湾施設は海に突き出しており,その手前から左右の海岸線を眺望することが出来る。北東部は緑の多い漁師町になっており,海岸には小さなバンカーボートが停められている。

漁網を修繕する

正面は小さな海峡を挟んでレフジオ島の緑の帯が横たわっている

正面は小さな海峡を挟んでレフジオ島の緑の帯が横たわっている。高低差がほとんどないので帯の高さはきれいに揃っている。大きなフェリーの後ろを島に向うバンカーボートが通っていく。南西部の海岸はココヤシを背景に水上集落のような小さな家屋が密集している。

これは本当に家船だね

母ヤギは長いロープで固定されている

近くの空き地はヤギの放牧地になっている。母ヤギは長いロープで固定されており,その周りに1-2頭の子ヤギがまとわりついている。僕が近づくと母親の近くから不安そうな顔でこちらを伺っている。母ヤギは適当な距離を保っている間は悠然と草を食べ続けている。

遺伝的親子関係はちょっと怪しい

中には僕にまとわりついてくる茶色の子ヤギもいる。ねえ,君たちのお母さんはあっちなんだよ。僕の後を付いて来て母ヤギから離れてしまうので,母ヤギの方に追い返すことになる。

立派な壁面装飾であるがおそらく刑務所であろう

Carmona St を北に行くと高い塀に囲まれた一画がある。塀の上には有刺鉄線が何本も張られているのでおそらく刑務所であろう。その塀にはレリーフが描かれており,その一つはサトウキビの収穫風景であった。これはいかにもネグロスらしい。

ピープルズ・パーク|気軽に写真に応じてくれた

海岸の方向に「People's Park」という施設がある。入り口でいちおう5ペソ程度の入園料を払うようになっている。広い敷地内にはほとんど建物はなく,草地と散歩用の小道が整備されているだけだ。

公園の海側は海岸となっており,北側は水路を挟んで工事中の施設が見える。海岸には幅2mほどに石を積み上げた仕切りがあり,埋め立てが行われているようだ。石の仕切りの横にマングローブが一本だけ残されている。公園の風景としてはずいぶん寂しい。

ピープルズ・パーク|■植物名は調査中

ピープルズ・パーク|かってのサトウキビ運搬用車両かな

ピープルズ・パーク|■植物名は調査中

クラシックスタイルの教会

マリア信仰が強い土地柄のようだ

中国系のための小学校がある

水道菅の分岐とメーターはこのようになっている

サトウキビを満載したトラック

滞在2日目の午前中はサトウキビ畑を見学するつもりだ。島のかなりの面積はサトウキビ畑で占められているので,内陸側に行けば見つかるだろうと考えて歩き出す。

街の内陸側には西ネグロス州の州都バコロドと東ネグロス州の州都ドゥマゲッティを結ぶ海岸沿いの道路が走っている。ネグロス島の大動脈に相当する道路である。

ちょうど道路にはサトウキビを満載したトラックが停まっていた。運転手に「サトウキビのプランテーションはどこにあるの」とたずねると,「この道をまっすぐ2kmくらいのところだよ」という返事であった。それではと彼の教えてくれた方向に歩き出す。

小学校には入れなかった

道路わきに小学校がある。といっても学校の周囲は塀で囲まれており,門は施錠されている。校舎の外で子供たちが花壇の手入れをしているので金網の間から写真を撮る。

すぐに子どもたちが集まってくる。「君たち,もうちょっと離れて」と言いながら集合写真を撮る。キリスト教という社会的背景があるせいかフィリピンでは子どもたちの写真撮影は本当に楽だ。子どもたちも慣れたものでVサインが背後から伸びている。

BIG MAK の屋台

フィリピンでは「BIG MAK」というハンバーガーの屋台もある。これはハンバーガー・ショップの元祖の商品名をパクッたものだ。値段はフィリピンのマックに比べて1/3くらいである。味も値段相応のものだ。

フィリピンではファスト・フードの店は一種のステータス・シンボルになっており,冷房の効いた明るい店内と米国流の接客に人気がある。屋台のハンバーガーでは値段以外に対抗手段は無い。

後学のためちょっと作り方を観察してみた。レトルトのハンバーグをパッケージから取り出し,目の前の鉄板で焼く。パンは二つに切り同じように鉄板の上で焼く。パンの間にレタスとハンバーグを挟んで出来上がりである。

この草地はきれいに刈り取られている

幹線道路から山に向かう道が分岐しておりそちらに向う。広い草地の向こうに緑の帯が見える。あれがサトウキビ畑であろう。草地を歩いていると足元から大小のカエルが飛び出してくる。これを踏み潰すと寝覚めが悪そうなので慎重に歩くことにする。

この草地はきれいに刈り取られている。芝刈り機でもこれほど短くかつきれいに刈り込むことはできないだろう。ここの芝刈り機はそこらで草を食べている牛,ヒツジ,ヤギである。

草原は放置しておくと背の高い草が生い茂り生産的価値を減ずる。耕作放棄地なども同様である。このような草を制御する優れた芝刈り機として注目されているのが草食の家畜である。家畜の中でも牛はちょっと大きすぎるが,ヒツジやヤギは簡単に管理することが出来る。

現在,日本では条件の悪い農地がどんどん耕作放棄されている。日本の農業人口の2/3は60歳以上であり,高齢の農業従事者が引退すると,その農地を継ぐ人がいないのが現状である。

山間地の場合,耕作放棄地に草が生い茂ると里山との境界があいまいになり,シカやイノシシなどが侵入して農地が荒らされる被害も生じる。また,数年放置された土地を再度農地にするときは大変な苦労が必要になる。

このような耕作放棄地を農地として保全するためヒツジやヤギを放牧する手法が研究されている。近畿中国四国農業研究センターによれば,遊休棚田10a(1000m2)当たり7-8頭のヤギを入れると1ヶ月ほどでススキ,イタドリ,クズなどの雑草の草丈を50cm以下に抑えることができる。

さらにその後,10a当たり1-2頭のヤギの放牧を継続することで,草丈50cm以下の安定した草地になるという。こうして遊休農地をいつでも再農地化可能な状態で継続的に管理できる。

いったん草丈が低くなると牛やヒツジでも同様の管理が可能になるはずだ。というのは,ヤギは私たちの知っている草食家畜のなかでももっとも悪食・大食である。およそ緑色のものはなんでも食べてしまう。

小さな島などでは野生化したヤギが繁殖し,島の植生に壊滅的な被害を与えることもよくある。ヤギの利用は相当注意深く行わないと思わぬ二次被害が発生するかもしれない。その点,ヒツジは(気の毒なことだが)十分に人間の管理を行き届かせることができる。少なくとも日本では野生化したしたヒツジが・・・という話は聞いたことが無い。 草食動物はどんな状態の草でも食べるというものではない。唇や歯の構造あるいは草の栄養価の面から牛やヒツジは比較的短い草を好んで食べる。彼らにとっては50cmの草丈はまだ長く,最適値はヒツジで5-10cm,牛では15-50cmのようだ。

このような生きた芝刈り機には優れた特徴がある。草を制御するのに燃料は不要である。短く頻繁に刈り取られることにより草の密度が増加して,土壌の流失を防ぐことができる。

草丈が制御されることによりマメ科の植物も十分に育つことが出来る。マメ科の植物は大気中の窒素を固定し土地を肥沃にする。生きた芝刈り機自身の排泄物も草地の有機肥料となり,土中の微生物の働きも活発になる。

ここの草地(放牧地)の草丈は5cmほどである。三種混合の生きた芝刈り機は有効に機能しているようだ。ただし,牛にとってはこの草丈は少し短か過ぎるのかもしれない。ヤギに比べて牛はずいぶん痩せている。

どちらがお母さんなの

畑の周囲は草が豊富なのでヤギがたくさん集まっている。ヤギの群れの中に親子連れがいた。子ヤギが母親の乳を吸う光景は絵になるのでしばらく観察していた。

子ヤギといってももう母親に比してそう見劣りしない体格にまで成長している。子ヤギは母親の腹の下にもぐり込み,前足を折り曲げてきゅうくつな姿勢で乳を飲んでいる。子ヤギが乳を飲んでいるあいだ母親はじっとしている。

子ヤギは乳を吸う前に口で母親の乳房を突き上げる。この刺激で母親は授乳の姿勢を保つようになるようだ。それにしてもこの親子,どちらがお母さんかという体格だね。

大型機械で土を起こす

ようやくサトウキビ畑に出た。僕の立っている地点から山裾近くまではずっとサトウキビ畑が広がっている。農地改革が進み,サトウキビ労働者から自作農民に変わっても,サトウキビのモノカルチャーが100年近く続いていてきたこの地域では,食料を栽培する農業技術がまったく失われている。

仕方がないので農民たちはかっての労働者の時代のようにサトウキビを栽培することになる。そのような場合でも旧農園主の妨害もあり,シュガーアイランドが普通の島になるまでにはまだまだ時間が必要である。

遠くの山には樹木はほとんど見られず,山裾の集落の近くにわずかに見られるだけだ。山の緩斜面は農地になっており,人工的な形状の茶色の面となっている。傾斜地での農業技術が伴っていないので,このような農地はそう長続きはしないだろう。

平地ではトラクターを使用して荒起こしをしている。乾季になると土が固くなり,荒起こし作業は大変だ。サトウキビの残渣はそれほど多くはない。それらは鋤き込まれて栄養分となるが不足分は化学肥料で補うことになるだろう。

現在,この島に求められているのは食料と商品作物のバランスの取れた生産体制と里山の復活である。砂糖一辺倒では国際市況の変化により再び飢餓の島になる危険性がたぶんにある。

里山で樹木が育つようになれば,薪炭材として利用することもできるので残存する森林に対する圧力も軽減されるであろう。残念ながら100年もの間続いた大土地所有とモノカルチャー農業による負の遺産から脱却するには多くの課題をクリアしなければならない。

サトウキビの刈り取り

サトウキビの刈り取りも行われていた。高さ3mくらいに成長したサトウキビを大振りの山刀を使って刈り取るのはかなりの重労働だ。砂糖生産に必要なものは本体だけで,葉や先端部分は切り落とされる。ここで働いている人々は農民なのか農業労働者なのかは分からない。彼らの後ろには揃えられた本体と切り落とされた残渣が散らばっている。

作業者の一人がサトウキビを30cmほどの長さに切り,表面の固い皮を削って僕に差し出してくれた。繊維質の芯を噛むと甘みが口中に広がる。砂糖のくどい甘味ではなく後口もさわやかであり,暑気払いにはもってこいの飲み物である。

口の中で甘味を吸い取ったあとは繊維質の部分が残るのでその辺りに吐き出す。これはちょっと行儀が悪い。インドや中国南部,東南アジアではサトウキビが子どもたちのおやつになっている。

刈り取りが一段落した集団はお弁当を広げている。緑の葉の部分を束ねて日陰を作っている。この葉も家畜の飼料になる。カメラを向けると彼らは陽気にポーズをとってくれた。サトウキビと写真のお礼に子どものいる人にヨーヨーを作ってあげる。「おじさん,子どもは何人?」,「5人だよ」,「う〜ん,そんなには作れないな,2個でがまんしてね」といった会話が続く。

名歌「さとうきび畑」のイメージ

この集落の周辺にもサトウキビ畑はあり,高さ3mに伸びた一面のサトウキビを写真にしようとした。しかし,どこにも高いところがなく端の部分の写真しかとれない。数十cmの若いものではさっぱり迫力がない。

幹線道路沿いには刈り取り寸前のサトウキビ畑が広がっていた。道路わきの電柱に上って高いところから一面に広がるサトウキビ畑の写真を撮ることができた。

僕の中ではそのイメージは沖縄戦で父をうしなった女性の心情を美しい詩に託した名歌「さとうきび畑」のそれと重なっている。森山良子さんの澄んだ歌声が悲惨な戦争と父を失った少女の悲しみを切々と歌い上げている。

僕にとっては忘れられない歌の一つだ。この歌には反戦を示唆する直接的な言葉はないが,現実の戦争の悲惨さを通して二度と戦争を起こしてはならないと強く訴える力をもっている。

※ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ※
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
むかし海の向こうから
いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
風の音にとぎれて消える
母の子守の歌 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
知らないはずの父の手に
だかれた夢を見た 夏の陽ざしの中で

※繰り返し
父の声をさがしながら
たどる畑の道 夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
お父さんと呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このまま緑の波に
おぼれてしまいそう 夏の陽ざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ けれどさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
今日もみわたすすかぎりに
緑の波がうねる 夏の陽ざしの中で(後略)

成長したサトウキビは2m-3mにも達し,十分人が隠れることができる。沖縄戦に巻き込まれた人々はサトウキビ畑に逃げ込み,サトウキビをしゃぶって飢えをしのいだという。現在でも沖縄のサトウキビ畑には収集されていない人骨が埋まっているという。

ネグロスのサトウキビ畑でも風が吹くたびに緑の波がうねっていく。山裾まで続く緑の海は平和そのものである。しかし,そのような風景を悲しみとともに見なければならなら人たちがいることを忘れてはならない。

このネグロスでもサトウキビ農園にまつわる悲しい物語がある。1985年に砂糖の国際価格が暴落した。ネグロス島の砂糖産業も大きな打撃を受け,砂糖農園の破産や放棄により農園労働者が大量に解雇された。

砂糖のモノカルチャーのこの島では他に賃仕事がなくネグロス島全土に飢餓が広がった。ユニセフは十数万人の子どもたちが餓死の危機にあるとアピールし,世界から支援が寄せられた。それでも多くの子どもたちが飢餓で亡くなった。

牛はサトウキビの葉を食べるようだ

成長途中のサトウキビ

サトウキビを運搬するトラックが停まっている

さきほど刈り取りの写真をとった畑の横の道にはトラックが停まっており,積み込みが始まろうとしている。収穫されたサトウキビはすぐに切断面から酸化が始まるので,収穫後はすみやかに精糖工場に運ばなければならない。

村にはバナナの木もあった

一軒の家で高校生くらいの女の子の写真を撮る

近くには小さな集落がある。集落の家の壁は竹を編んだもの,屋根はトタンになっている。一軒の家で高校生くらいの女の子の写真を撮る。

そのうち一人がタバコを吸っているので年齢をたずねると17だという。「将来,子どもを産みたかったらタバコは止めなさい」と忠告したが,彼女はどうしてという顔をしていた。この国ではタバコの有害性はまだまだ知られていないようだ。

エビの養殖場

幹線道路に出ると海側にエビの養殖場があった。一面が1haほどの池が道路沿いに並んでいる。ところどころに酸素を供給する水車が水しぶきを上げている。東南アジアでは1970代からエビの養殖が盛んに行われるようになった。エビの主要な行き先は経済成長が一段落した日本であった。

昔からエビは富裕国に集まる傾向が強い。1950年代は米国がエビの最大の消費国であった。日本の年間エビ消費量は1955年には0.5kgであったものが1992年には2.5kgに増加しており世界でもっともエビが好きな民族となっている。

この頃,日本は世界最大のエビ消費国であった。その後の10年間で世界のエビ消費地図は大きく変動していく。日本の消費量はほぼ横ばいにもかかわらず,北米,中国,ヨーロッパの消費量は増大し,日本は相対的にエビ消費大国の地位を下げている。

特に中国は1992年の29万トンが65万トンに増加しており,世界一のエビ消費大国になっている。中国の統計は川エビを含んでいるとはいうものの現在では確実に世界一になっていることだろう。もっとも一人あたりの消費量でみると日本は依然として世界一の座を維持している。

世界のエビ消費量(単位:万トン)

地域 1992年消費量 2002年消費量
北米
ヨーロッパ
中国
日本
アジアその他
世界合計
35
37
28
30

60
45
64
29
37
246

出所: FAO 貿易統計


日本のエビ消費量は約30万トンでそのうち90%は輸入に頼っている。北米,ヨーロッパも大量のエビを輸入している。このような需要に対して天然ものの海生エビ資源には限りがあるため,現在,世界で供給されるエビのおよそ1/4は養殖ものとなっている。

比較的小額の投資で利益率の高い集約的なエビ養殖は短期間で増大した。沿岸部の水田やマングローブの森がそのための犠牲となり,発展途上国は環境・食料と引き換えに輸出量を増やしていった。日本で技術を開発し東南アジア全域に拡大した大規模生産方式によるエビ養殖は投資効率,生産効率を優先させ持続性についてはほとんど評価してこなかった。

一定の閉鎖環境で高密度の養殖を行うことにより環境の劣化が避けられず,それは病気の蔓延を招き,多くの養殖場が閉鎖に追い込まれた。世界の巨大資本は食料の分野でも利益最優先の大規模養殖・飼育を行っており,地域の環境をひどく劣化させている。

その分かりやすい例が豚肉である。豚の飼育は大量のふん尿を発生させる。豚一頭は人間10人分の排泄物を出す。農家による小規模経営の場合はこのような排泄物を有機肥料として利用することができる。

しかし,大規模経営の場合は貯水池(汚水池)にいったん貯めて,周辺の草地にスプリンクラーで散布するという非常に乱暴な方法が取られ,ガスと汚水が周辺の環境を汚染している。大雨などで貯水池が溢れると,周辺の地下水が汚染され,ほとんど取り返しのつかない結果を招く。

さすがに米国ではこのような方法は州法で禁止されたが,新規にEUに加盟したポーランドでは競争力を優先させ,そのようなとんでもない会社にEU補助金が出されているという。

巨大な養豚・豚肉販売会社が環境コストを支払わずに,肥育促進剤を使用して作り出した安い豚肉は同じ会社の流通ルートに乗せられ,小規模農家の経営を圧迫し続ける。消費者はそのような生産現場のことを知らないままに安い豚肉を食べることになるのだ。

自然の仕組みや循環を無視した養殖や飼育事情は決して持続可能なものにはならず,そのツケは多くの場合,環境の悪化を招くことになる。科学や人知を過信することなく,自然と共存できる食料生産が求められている。それは人間も自然の一部であるというアジア的な発想から生まれることだろう。

エビ養殖についてもベンガル湾では伝統的に天然種苗を使った魚類,エビ,カニの混合養殖が行われてきた。彼らは自然に逆らうことなく,ほぼ粗放的な方法により,1haあたり200kg程度の低生産性であるが,いや,それゆえに長い間生産を持続できたのである。

サトウキビ畑からの帰りはサイカー(自転車のトライシクル)のお世話になる。2km弱の距離に対して運転手は5ペソでいいと言う。それではあまりにも気の毒なので10ペソを支払う。

フェリー埠頭の南西側も漁師の集落となっている

まあ,かわいい

これは懐かしい炭火を利用したアイロン

南西の漁師町|薪炭が主要な燃料となっている

南西の漁師町|自然の砂州の上にも住居がある

サン・カルロスの東側にレフジオ島という長さが6km,幅が1kmという本当に小さな島がある。海岸を歩いているとき島に向うバンカーボートを見かけた。この島に渡る船が町のどこからか出ているはずだ。ということで海岸近くの道を歩きながら船着場を探してみた。

埠頭の南側は漁村地区になっており,小さな家が密集している。この地区の中に足を踏み入れるとほとんど迷路状態で,簡単には海岸には出られない。親切なおじさんが海岸への道を教えてくれた。

川のように伸びる入り江にかかる竹で組んだ不安定な橋を渡ると確かに海岸にたどりついたが,島に渡る船はこの辺りでは見つけられなかった。子どもたちも遊んでおらず,風景の写真を撮って引き返すことにした。

手前は砂州でせき止められた湖沼となっている

レフジオ島に渡るバンカー・ボートを見かける

何人かの人に聞いてようやく船着場が分かった。なんのことはない,埠頭の横から大き目のバンカーボートが出ているのだ。定員は28名であり,そのくらいの人数になると出発する。通常は10ペソで島に行くことができる。

僕が乗ろうとしたときは乗客が10人ほどしかおらず,お金をもっている男性が「私は100ペソ払うのであなたも100ペソ払いなさい,そうすればこの船はすぐに出港できるんだ」と話しかけてきた。

「う〜ん,100ペソはちょっと高いね」と渋っていると船頭から「50ペソでもいいよ」と言われ払うことにした。レフジオ島はサンゴ礁が隆起したした島で,大きさは南北が7km,東西は1kmほどしかない。きれいな海に恵まれており,サン・カルロスから遊びに来る若者も多い。

レフジオ島の船着き場

L字形の埠頭があり,バンカーボートはそこに到着する。埠頭の一部に屋根付きの待合場所があり,ギターをもった若者グループが坐っている。みんな髪が濡れているのでひと泳ぎしてくつろいでいるようだ。

レフジオ島はココヤシの島であった

僕はこの島を横断して東側に出でてみようと歩き出す。この島はほとんどがココヤシの木に覆われている。これほどココヤシが多いところは初めて見た。

島の中央部にはヤシの実が山になっていた。すでにコプラ(白い胚乳の部分)は取られており,ここでは殻の部分を4分割している。この量なのでおそらく燃料にするのであろう。

島の東側はきれいなビーチとなっている

この島はサンゴ礁が隆起したもので礁池をともなっている

地元の学生たち

島の東側には小さいけれどきれいなビーチがある。両側を囲まれた湾のようになっており,ゴミはほとんど落ちていない。この環境なら海水浴を楽しむことができる。地元の学生たちは気軽に写真に応じてくれたが,小さな子どもたちは僕を見ると家に逃げ込んでしまう。

マングローブの風景を見ることができる

近くにはマングロ-ブも生えている。きれいな海とマングローブの組み合わせはとても絵になる。ここのマングローブは二種類ある。一つは地中から上の方に気根を伸ばすタイプで,もう一つはタコの足のようにたくさんの支持根を広げるものである。きれいなものをたくさん見ることができて,いい気分で街に戻ることにする。

海水の入る石灰岩の礁池でたくましく成長している

これはヤエヤマヒルギに似ている

これらの若木は大潮の日には水没してしまう

島を形成しているサンゴ礁石灰岩,ノウサンゴの仲間であろう

ココヤシの殻を割って燃料にする

全島がココヤシで埋め尽くされている

地面から生えている着生植物のオオタニワタリの仲間

沖縄でいうイノーの風景である

レフジオ島に向かうバンカー・ボートとすれ違う

埠頭に着いたとき動き出しそうな船に乗ろうとすると制止された。それは学生の送迎専用の船であった。少し待ってから乗り込んだ帰りの船は乗客が多かったので10ペソで済んだ。

ひよこ豆に似ているがちょっと形がちがう

学校帰りの子どもたち

埠頭に続く道で下校途中の子どもたちを見かけた。後をついていくと埠頭の北側の集落に向う。この辺りにも家が密集しており,その地区の子どもたちであった。とりあえず集合写真を撮り,周辺を歩いてみた。

車道で堂々とサイカーの修理をする

北側の漁師町|バスケットボールは国民的スポーツだ

北側の漁師町|軍鶏の小屋がいくつも並んでいる

集落の北東側には板を二枚合わせた三角形の小さな小屋がたくさん並んでいる。これらはトリ小屋である。トリといっても闘鶏用のオンドリであり,彼らはこのような縄張りを構えるようにして飼育されている。

自分の縄張りに入り込んだ他のオンドリを攻撃するように育てられており,それが闘鶏で本番の戦いとなる。闘鶏はフィリピン男性の最大の娯楽であり,よく自分のオンドリを大事そうに抱えている姿を目にする。そのように抱えられたオンドリ同士が顔を突合せると首の周りの羽毛を逆立てて相手を威嚇する。

北側の漁師町|かわいい二人連れに出合う

北側の漁師町|子どもたちにせがまれて海を背景に撮る

オンドリ小屋を見ているとザックを自宅に置いた子どもたちが集まってきた。子どもたちはお気に入りの場所で写真をせがむ。そのため今日も子どもたちの写真の枚数が増えていく。人数が多すぎてここでヨーヨーを作ってあげられなかったのは心残りである。

夕日は山側に沈むのできれいなものにはならない

この町では内陸側に日が沈むのであまり良い写真にはならない。幹線道路のサトウキビ畑のあたりなら山の向こうに沈む夕日の構図が撮れそうだが,さすがに遠すぎる。


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