Home 亜細亜の街角 | Sukho Thai / Thailand / Mar 2003

スコータイ(タイ最初の統一王朝)  (参照地図を開く)

中国雲南省あたりから南下してきたタイ族により1238年に初めてのスコータイ王朝ができた。スコータイとは「幸福の夜明け」と意味する。大王と呼ばれる3代ラム・カムヘーン王のときに領土は最大となり,独自の文化が花開いた。クメール文字を改良したタイ文字が生まれ,陶芸が起こり,仏教が導入された。

現在のタイ文化の骨格がこの時代に形作られた。成立から200年後の1438年に王位後継者が絶え,アユタヤ朝に併合される。破壊されること無く放棄された都は遺跡となり,世界遺産にも登録された。


バンコク→スコータイ 移動

カオサン(06:00)→モーチット北BT(08:00)→スコータイ(14:30)と市バスと長距離バスで移動した。ダムノン・サドゥアックからバンコクに戻り,1泊してスコータイに向かう行程は,中国のビザ申請に時間がかかるためである。

ビザ申請期間中にアユタヤとダムノン・サドゥアックを回って,バンコクでパスポートを受け取った。ラオスは国境ビザが取得可能なので,ラオス→中国と移動するのにビザの心配は無い。

05:20に起床,外は完全に闇である。ゲストハウスの中は暑かったので水のシャワーでさっぱりする。

ゲストハウスの前の道路を渡ったところにバス停がある。およそ15分待つとNo.3の市バスがやってきた。このバスはエアコンが効き過ぎて内部は寒冷地である。冷房の嫌いな僕は長袖のトレーナーを着込む。早朝なので道路もすいており,市バスは40分ほどでモーチット北BTに到着した。

モーチット北BT内にある食堂で朝食をとる。ごはんの皿を取り,並んでいるトレイからにでき合いのおかずをごはんの上に乗せるという,一種のビュッフェスタイルである。この1週間ほど僕を不愉快にさせてきた口内炎はだいぶ良くなり,ピリ辛のタイ料理にも痛い思いをしないで済むようになった。フライドライスと野菜炒めの30Bの朝食は満足のいくものであった。

モーチット北BTは巨大であり,チケットの窓口もたくさんある。窓口には行き先の地名だけが表示されており,途中の町は分からない。今日も係員に「スコータイ」と告げて,窓口を教えてもらう。係員は乗り場は金網の向こうだと教えてくれる。金網沿いに迂回しなければならないところを,人の通れるほどの隙間ができており中に入ることができた。

タイの長距離バス事情は年々良くなっている。バスが新しくなり,冷房が普通になり,快適な移動ができる。バスの前の行き先表示は英語併記になった。スコータイのバスターミナルの時刻表や行き先案内の一部も英語併記になっている。旅人にとってはありがたいことだ。

バスは満席状態で出発した。バンコクを抜けると一面の水田地帯となる。そこはタイの穀倉地帯にあたるチャオプラヤ川が育んだ中央平原である。イネを刈り取ったままの茶色の大地,雑草が生え少し緑色の大地,田植えが終わった後の緑一色の水田と風景は色分けされている。

タイは国土面積5100万haのうち41%にあたる2100万haが農地という農業国家である。コメの生産量は精米ベースでおよそ3000万トン(日本は1100万トン),そのうち900万トンが輸出される。世界のコメの生産量は4.2億万トンであるが,国際的に取引されるものは3000万トン程度である。

人口の多いアジアを中心に生産されているコメはほとんどが自国で消費され,輸出余力のある国はごく限られている。その中でもタイは国際取引量の1/3近くをまかなう最大の輸出国である。

中央平原では二期作や三期作が可能である。一方,雨期になると中央平原の相当部分は水につかる。そのため,古くからそのような地域では「浮き稲」が栽培されている。

「浮き稲」は水深1m以上のところで生育する稲と定義されており,水深6mの環境で生育するものもある。もちろん,稲が水中に浮かんで生長するわけでない。根は地面にあり,水位に合わせて茎をどんどん伸ばして先端を水面に出している。「浮き稲」はまさしく「雨期稲」である。

雨期のタイを訪れ,池のような一面の水面から稲が顔を出している風景も是非見てみたいものだ。もっとも水が引くと浮稲は倒伏するので収穫は難儀しそうだ。


プアルーン・ゲストハウス

僕の乗ったバスはスコータイが終点ではない。アユタヤで失敗しているので注意していると,女性の車掌が「スコータイ」と告げた。前に行って確認するとやはりスコータイであった。

バスから降りるとすぐにGHの客引きにつかまり,すぐ近くのプアルーンGHに連れて行かれた。ここはコテージ形式で1棟を2分割して客室にしている。200Bの部屋は8畳,2ベッド,T/S共同,新築でとても清潔である。

小学校を訪問

近くの小学校はすでに授業は終わっていた。しかし,まだかなりの数の子どもたちは敷地内に残っている。何人かはビー玉で遊んでいる。人差し指を反らすようにしてはじいてビー玉を飛ばす。僕の子どもの頃にもこのようにビー玉をはじく方法は(主流ではなかったが)あった。

夕方の市場を回る

夕方の市場を一回りして,屋台で夕食をいただく。鶏肉と野菜入りのフライドライスはなかなかおいしかった。この10日間ほど僕を悩ましてくれた口内炎もだいたい回復し,刺激のある食事も楽しめるようになった。

タイ式の結婚式

翌日は06時30分に起床する。夜が更けると昼間の暑さが嘘のように涼しくなる。日本の夏と違い,この点はありがたい。3月初旬のタイはまだ旅行シーズンである。朝食はGH付属の食堂でいただく。トースト,ジャム,コーヒーで40バーツ,ただしコーヒーはまずい。やはり,タイではごはんが基本だ。

朝食の時,遺跡公園への交通を確認すると,ミニバスが30分に1本あるという。橋ステーションに行くと,町に向かうソンテオに乗せられてしまった。これは困ったことになった。スコータイ遺跡公園は町の北西14kmのところにある。乗り物を探していたら,朝の街で「これから自分の結婚式なので一緒に来ないか」と盛装の男性に呼び止められた。

好奇心旺盛な僕は遺跡見学は後回しにして当然YESと答える。彼の一族の人たちと一緒にピックアップの荷台に乗って出かける。着飾った女性たちは前の座席である。

道路が良いのでピックアップは80km/hくらいの速度で走る。方角からしてもしやと思っていたら,遺跡地区を横切り,しばらくしてからリボンで飾られた家の前に停まった。ここが花嫁の実家である。新郎の一行は門の外で待機している。

通せんぼ

ほどなくして,新郎の一行が気勢の声を上げながら門に押し寄せる。門のところには2人の女性が銀色の鎖を持って通せんぼをしている。新郎側と新婦側の代表が口上を述べ合い,紙にくるまれたお金が差し出され新郎の一行は中に入ることができた。

家は高床式になっており,上り口の石の上にはバナナの葉が敷かれている。新郎は靴とくつしたを脱ぎ,新婦側の男性に足を洗われて家に入る。

花嫁が登場する

部屋に入っても新婦は別の部屋にいて出てこない。「花嫁に出てきてもらいたい」と新郎側の代表が口上を述べる。新婦側の代表がそれに答える。そのような口上が数回繰り返されてから,再び紙にくるんだお金が渡され,ピンクのドレスに身をつつんだ花嫁が部屋から出てくる。

2人は祖先の霊が宿る儀式用の祭壇に向かって何度も一緒にお辞儀をする。老人が祝詞を唱える。次に2人は両親および両家の代表にお辞儀をする。贈り物の交換があり,花婿は指輪と貴金属を花嫁につけてあげる。

手首に白い木綿のひもを巻きつけていく

2人は並んで参列者の方を向き,金色のクッションの上に左手を置く。親族から順番にご祝儀を差し出し,彼らの手首に白い木綿のひもを巻きつけていく。ラオスでいうバーシーの儀式である。この儀式はずっと続くので,僕は途中で下に降り,中庭の客席で披露宴の食事をいただく。

遺跡公園中心部・その1

結婚式の家から遺跡公園まではさして距離がない。公園の入口で自転車を借り,広い公園内を回る。アユタヤのように破壊されてはいないので,仏像,建造物とも保存状態はよい。遺跡公園からずいぶん離れたところにも見どころがあり,自転車は大活躍する。

ワット・マハタートは遺跡公園のほぼ中央に位置し,かっては王室寺院であった。仏像の両側に並んだ柱は大きな建造物を支えていたものであろう。現在のタイ式寺院の原型はここにあるのかもしれない。

古のタイでは石ではなくレンガの文化が花ひらいた。柱も仏像も焼きレンガを漆くいで固め,その上に白い化粧漆くいを施したものだ。白い漆喰は黒ずみ,むき出しになったレンガは時の流れを実感させる。

遺跡公園中心部・その2

遊行仏

珍しい姿の仏像である。これから説法に出かけるブッダを形にしたもので,遊行仏と呼ばれるスコータイ独特のものだ。薄い衣をまとい,まさしく歩き出そうとするブッダの姿が美しい造形になっている。炎天下の芝生に腰を下ろし,しばらくお姿を眺める。

ちょっと寄り道

ワット・スィー・チュム

ワット・スィー・チュムは高い壁に囲まれていた。正面から見ると,石柱の列の向こうに狭い入口があり,仏像が覗いて見える。中に入ると狭い空間を大きな仏像が占拠している。

坐像でありながら見上げるばかりの大きさである。手の大きさがちょうど人の背丈くらいある。その指先は金色に輝いていた。タイでは黄金は最高の宝であり,人々は仏像に金箔を貼り付け功徳を積む習慣がある。

ちょっとこころ惹かれたお土産屋

遺跡公園は多くの人々が訪れる観光地である。当然,おみやげ屋も多い。ある店にはバッタの飾りがつるしてあった。材料はヤシの葉,風に揺れてなかなかの風情である。一匹欲しかったが,さすがに持ち運べないので断念する

バイクの高校生

夕方の散歩のとき小さな駄菓子屋のテーブルで彼女たちは話し込んでいた。僕は7UPを頼み,氷入りのグラスに注ぐ。冷えた炭酸の刺激がたまらない。

駄菓子屋の小さな女の子が音楽に合わせてなかなかの踊りを披露してくれた。拍手をきっかけに彼女たちと打ち解けることができた。どうやら地元の高校生らしい。バイクに乗ろうとしたところを記念写真にする。

僕の泊まったゲストハウスはコテージ形式で,一つの建物が2部屋に分かれている。3日目の夜,となりにペアの日本人旅行者が泊まり,夜中に「葉っぱ」をやり,意味不明の大声で会話をしている。こんな健全な環境で,バカなことをする人たちもいるようだ。早寝・早起きの僕としては大いに迷惑だ。

小学校は授業が始まってしまった

遺跡公園行きの乗り合いソンテオに乗って西に行く。朝礼で生徒たちが整列している小学校があったので,そこで降ろしてもらう。しかし,すぐに授業が始まってしまったので,近くを散策する。

道路の両脇に家が並び,その向こうは広大な農地になっている。乾期の今は刈入れが終わったままの状態で放置されている。粘土質の土地はひび割れ,日干しレンガのようになっている。トラクターのわだちの跡もそのまま固まっている。遠くに目をやると,農道脇にカンボジアでおなじみのサトウヤシが並んでいる。

小学校の未就学児童クラス

昼休みの時間帯に小学校を再訪する。生徒たちは外に出ていたので,中に入ることができた。タイの小学校には日本でいう幼稚園が併設されている。このクラスはちょうど昼食の時間であった。

家から持参したお弁当と水はプラスチックの容器に入っている。机があるのに,なぜかみんな床に座って食事となる。この子たちは写真が大好きだ,カメラの方にみんな集まってきて僕のそばを離れない。

校庭で遊んでいる子どもたち

ちょっと田舎の風景

果物に出会う

中国寺院


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