原作は西ゆうじさんです
西 ゆうじ(1953年11月15日 - 2013年2月6日)の主たる職業は脚本家,放送作家ですが,漫画原作者としても30年近いキャリアで活躍されていました。出身が福井県ということもあり,漫画作品の中にはしばしば福井県が登場しています。
その代表的な作品が「蔵の宿(作画:田名俊信)」です。東京のホテルでアシスタントマネージャーをしていた主人公の女性が父親が倒れたという報せを受けて実家である福井県の造り酒屋に帰省します。
臨終の父親から実家の家業を継いで欲しいと懇願されますが,主人公には酒蔵を継ぐ気は全くありません。その代わりに蔵を改造して客を癒すぬくもりのある旅館とすることを思いつきます。この作品は10年にわたり連載され,単行本も40巻を数えます。
「あんどーなつ」の主人公も出身地も福井県という設定になっています。故郷の福井県をこよなく愛した西は2002年から福井県のふるさと大使をしていました。
2015年3月に金沢まで延伸した北陸新幹線の開通により石川県や金沢は大いに脚光を浴びましたが,その南西にある福井県はその恩恵にあずかっていないようです。
福井県の前身は朝倉氏が250年に渡り支配した越前であり,戦国時代末期には数奇な運命に翻弄されます。当時の朝倉家当主は義景であり,1970年に北陸街道(現在の国道365号線)を北上して越前攻めに向かう織田信長を浅井の離反により挟撃する絶好の機会に恵まれたにもかかわらず鈍重な行動で取り逃がし,歴史に名を残すことができませんでした。
義景は3年後の戦いで信長軍に大敗し,多くの武将が所領安堵を条件に織田軍に降ったため自刃し,越前守護としての朝倉家は滅亡します。
その後,信長の守護代に反感をもつ武将や加賀の一向一揆衆との戦いが続き,翌年には一向一揆衆が勝利し,越前は加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となりました。しかし,一揆衆の内紛もあり信長軍により一揆参加者は殲滅させられます。越前は織田軍の宿将柴田勝家の所領となります。
越前の西側に広がる若狭も現在の福井県に含まれています。若狭は現在の京都府に隣接しており,小浜は京都まで直線距離で約60kmのところにあります。
小浜から熊川を経由して滋賀県の朽木を通り京都に向かう若狭街道は主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートとなっていました。現在の国道303号線,367号線が相当します。
魚介類の中でも特に人力により運ばれる鯖が多かったことから近年になって鯖街道と呼ばれるようになり,2015年に日本遺産の最初の18件の一つとして「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 〜御食国若狭と鯖街道〜」が選ばれています。
もちろん鮮度のすぐ落ちる鯖ですから小浜で生サバを塩でしめて京都まで運ぶとちょうど良い塩加減になり,京都の庶民に重宝されたました。現在でも朽木村から京都の大原へ抜ける道沿いには多くの鯖寿司屋が店を連ね,「鯖寿司街道」とも呼ばれています。
この一文を書きながら,このように歴史と文化の香りが漂う福井県を訪問したことがないことに気が付きました。これでは自分には旅行好きを認じる資格があるのかと自問することになります。時間を作ってぜひ訪れたい所です。
脚本家,放送作家そして漫画原作者として多忙を極めた生活の中で,漫画の題材となったものに対しては徹底的に調べたり,料理などは自分で作ってしまうなどある領域を極めています。
さらに,西は「蔵の宿」のモデルとなった福井県の久保田酒造とと協力して「蔵の宿」ブランドの純米酒をプロジュースしています。多芸多才を地で行くような人であった西は残念ながら2013年に胃がんで逝去されました。享年59歳でした・・・合掌・・・。
西が手掛けた漫画の原作の主なものは次の通りです。
・蔵の宿(作画:田名俊信)
・蔵の宿 雪と花と(続編,作画:田名俊信)
・華中華(作画:ひきの真二)
・あんどーなつ-江戸和菓子職人物語(作画:テリー山本)
・ふ〜ふ生活(作画:はしもとみつお)
・希望の椅子(作画:はしもとみつお)
申し訳ないのですが作画を担当されたテリー山本さんに関しては「あんどーなつ」で初めてお名前を知ることになり,私の漫画歴における接点はまったくありません。
山の手と下町
現在の東京でも「山の手」と「下町」という言葉は生きています。これらの言葉は地形的な意味合いが強いようです。
現在の東京23区を俯瞰してみますと東半分は武蔵野台地の西端にあたり,隅田川や荒川,江戸川の河口に位置する西半分に比べて標高が高いことが分かります。現在でも東京のゼロメートル地帯はこの3本の川に挟まれたあるいはその周辺ということになります。
征夷大将軍として徳川幕府を開いた家康は拠点を江戸に定め,江戸城の造営に着手します。江戸幕府が開かれると徳川家の家臣や諸大名の江戸藩邸やその家臣さらには職人,商人が移り住み江戸の町は発展していきます。1609年には15万人であった江戸の人口は1721年には100万人に達したと言われています。この時期に江戸は世界最大級の人口を抱える都市になっています。
家康は城下の造営にあたり,標高の高い台地に武家屋敷を造り,御府内(江戸の市域)とし,その後に東側の低湿地帯を埋め立てて職人町等を造営しました。この東側の部分とは日本橋,京橋,神田,下谷,浅草,本所,深川などです。
こうして,江戸は武家の町(山の手)と町人の町(下町)と区分されるようになりました。武士に比べて身分の低い人たちが住んでいたので「下町」と呼ばれるようになったわけではありません。
低湿地帯であった江戸の東半分を開発にあたり,江戸湾に注ぐ関東平野の大河川である利根川,渡良瀬川,荒川の治水は江戸幕府の至上課題であり,家康は関東代官頭に伊奈忠次を任じ,60年をかけて利根川を常陸川を経由して銚子から太平洋に流す「利根川東遷事業」を行っています。この大工事や付帯する埋め立て工事により江戸は山の手の東側に広がっていきます。
1991年に全線開通した「都営大江戸線」の路線は山の手と下町を囲んでいますので「大江戸線」と呼ばれるようになったのでしょう。もっとも新宿など一部の地域は江戸の範囲外なのですが,非常に分かりやすいネーミングだと感心しています。
家康が江戸に拠点を構えた最大の要因は水運の便であるとされています。銚子・関宿から浅草に通じていた利根川・常陸川水系による水運は中世を通じて東国水上交通の要衝でした。
利根川東遷事業の後も水運による交通路は維持され浅草御蔵(現在の蔵前)には全国から米が集められ,保管されるようになりました。
当時の武士の給与は米で支払われており,町民のための食用米を含め浅草御蔵で保管されていました。この膨大な米を現金化したり,小売りの米屋に販売する組織は札差(株仲間)といわれ,莫大な利益を上げるようになり,浅草は江戸文化の一つの中心地として発展しました。
浅草の賑わいを支えるもう一つの要素といえば浅草寺です。浅草寺は東京都内最古の寺院であり,伝承によると創建の由来は628年(推古天皇の時代)に遡ります。現在の隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に仏像がかかりました。これが浅草寺本尊の聖観音とされています。
観音さまのご縁日は「毎月18日」ですが,これとは別に室町時代以降に「功徳日」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると,百日分,千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。
中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く,「千日詣」と呼ばれていました。江戸時代になるとこの日は四万六千日分のご利益があるとされ,「四万六千日」と呼ばれるようになり,前日の9日から「ほおずき市」が「四万六千日」のご縁日にちなんで開かれます。
浅草御蔵と浅草寺に支えられ浅草は江戸時代より商業地,繁華街,寺町,問屋街,職人町など多様な都市活動の営まれる地域であり,典型的な下町文化を育んできました。日本が近代化した明治,大正,昭和においても東京の下町を代表する地域であり続け,新しい文化の発信地となってきました。
太平洋戦争では家屋が密集している浅草を含む東京下町は米軍の空襲により壊滅的な被害を受けました。昭和20年3月10日の空襲により現在の台東区,墨田区,江東区では死者およそ10万人,負傷者4万人,罹災者100万人という未曾有の大被害を被りました。
浅草は昭和22年に下谷区と合併して台東区となりました。昭和15年当時,下谷区と浅草区を合わせた地域には約10万世帯,46万人の人が住んでいましたが,昭和20年の6月の居住人口は5年前の2割程度に激減しています。この数字から現在の台東区は東京の中でも最も戦争の被害を受けた地域の一つであることがわかります。
戦争で大きな被害を受けた台東区は戦後に急速に復興をとげ昭和25年には人口26万人,昭和30年には31万人とほぼピーク人口に達しています。文字通り焼け野原からの復興ということになりましたが,下町の風情や江戸時代から続く古い伝統を守り続ける商店や料理店は健在です。この作品の舞台となっている和菓子屋「満月堂」も江戸時代から続いている老舗です。