私的漫画世界
和菓子の世界に弟子入りし技術とこころを深める奈津の物語
Home私的漫画世界 | あんどーなつ 江戸和菓子職人物語

原作は西ゆうじさんです

西 ゆうじ(1953年11月15日 - 2013年2月6日)の主たる職業は脚本家,放送作家ですが,漫画原作者としても30年近いキャリアで活躍されていました。出身が福井県ということもあり,漫画作品の中にはしばしば福井県が登場しています。

その代表的な作品が「蔵の宿(作画:田名俊信)」です。東京のホテルでアシスタントマネージャーをしていた主人公の女性が父親が倒れたという報せを受けて実家である福井県の造り酒屋に帰省します。

臨終の父親から実家の家業を継いで欲しいと懇願されますが,主人公には酒蔵を継ぐ気は全くありません。その代わりに蔵を改造して客を癒すぬくもりのある旅館とすることを思いつきます。この作品は10年にわたり連載され,単行本も40巻を数えます。

「あんどーなつ」の主人公も出身地も福井県という設定になっています。故郷の福井県をこよなく愛した西は2002年から福井県のふるさと大使をしていました。

2015年3月に金沢まで延伸した北陸新幹線の開通により石川県や金沢は大いに脚光を浴びましたが,その南西にある福井県はその恩恵にあずかっていないようです。

福井県の前身は朝倉氏が250年に渡り支配した越前であり,戦国時代末期には数奇な運命に翻弄されます。当時の朝倉家当主は義景であり,1970年に北陸街道(現在の国道365号線)を北上して越前攻めに向かう織田信長を浅井の離反により挟撃する絶好の機会に恵まれたにもかかわらず鈍重な行動で取り逃がし,歴史に名を残すことができませんでした。

義景は3年後の戦いで信長軍に大敗し,多くの武将が所領安堵を条件に織田軍に降ったため自刃し,越前守護としての朝倉家は滅亡します。

その後,信長の守護代に反感をもつ武将や加賀の一向一揆衆との戦いが続き,翌年には一向一揆衆が勝利し,越前は加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となりました。しかし,一揆衆の内紛もあり信長軍により一揆参加者は殲滅させられます。越前は織田軍の宿将柴田勝家の所領となります。

越前の西側に広がる若狭も現在の福井県に含まれています。若狭は現在の京都府に隣接しており,小浜は京都まで直線距離で約60kmのところにあります。

小浜から熊川を経由して滋賀県の朽木を通り京都に向かう若狭街道は主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートとなっていました。現在の国道303号線,367号線が相当します。

魚介類の中でも特に人力により運ばれる鯖が多かったことから近年になって鯖街道と呼ばれるようになり,2015年に日本遺産の最初の18件の一つとして「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 〜御食国若狭と鯖街道〜」が選ばれています。

もちろん鮮度のすぐ落ちる鯖ですから小浜で生サバを塩でしめて京都まで運ぶとちょうど良い塩加減になり,京都の庶民に重宝されたました。現在でも朽木村から京都の大原へ抜ける道沿いには多くの鯖寿司屋が店を連ね,「鯖寿司街道」とも呼ばれています。

この一文を書きながら,このように歴史と文化の香りが漂う福井県を訪問したことがないことに気が付きました。これでは自分には旅行好きを認じる資格があるのかと自問することになります。時間を作ってぜひ訪れたい所です。

脚本家,放送作家そして漫画原作者として多忙を極めた生活の中で,漫画の題材となったものに対しては徹底的に調べたり,料理などは自分で作ってしまうなどある領域を極めています。

さらに,西は「蔵の宿」のモデルとなった福井県の久保田酒造とと協力して「蔵の宿」ブランドの純米酒をプロジュースしています。多芸多才を地で行くような人であった西は残念ながら2013年に胃がんで逝去されました。享年59歳でした・・・合掌・・・。

西が手掛けた漫画の原作の主なものは次の通りです。
・蔵の宿(作画:田名俊信)
・蔵の宿 雪と花と(続編,作画:田名俊信)
・華中華(作画:ひきの真二)
・あんどーなつ-江戸和菓子職人物語(作画:テリー山本)
・ふ〜ふ生活(作画:はしもとみつお)
・希望の椅子(作画:はしもとみつお)

申し訳ないのですが作画を担当されたテリー山本さんに関しては「あんどーなつ」で初めてお名前を知ることになり,私の漫画歴における接点はまったくありません。

山の手と下町

現在の東京でも「山の手」と「下町」という言葉は生きています。これらの言葉は地形的な意味合いが強いようです。

現在の東京23区を俯瞰してみますと東半分は武蔵野台地の西端にあたり,隅田川や荒川,江戸川の河口に位置する西半分に比べて標高が高いことが分かります。現在でも東京のゼロメートル地帯はこの3本の川に挟まれたあるいはその周辺ということになります。

征夷大将軍として徳川幕府を開いた家康は拠点を江戸に定め,江戸城の造営に着手します。江戸幕府が開かれると徳川家の家臣や諸大名の江戸藩邸やその家臣さらには職人,商人が移り住み江戸の町は発展していきます。1609年には15万人であった江戸の人口は1721年には100万人に達したと言われています。この時期に江戸は世界最大級の人口を抱える都市になっています。

家康は城下の造営にあたり,標高の高い台地に武家屋敷を造り,御府内(江戸の市域)とし,その後に東側の低湿地帯を埋め立てて職人町等を造営しました。この東側の部分とは日本橋,京橋,神田,下谷,浅草,本所,深川などです。

こうして,江戸は武家の町(山の手)と町人の町(下町)と区分されるようになりました。武士に比べて身分の低い人たちが住んでいたので「下町」と呼ばれるようになったわけではありません。

低湿地帯であった江戸の東半分を開発にあたり,江戸湾に注ぐ関東平野の大河川である利根川,渡良瀬川,荒川の治水は江戸幕府の至上課題であり,家康は関東代官頭に伊奈忠次を任じ,60年をかけて利根川を常陸川を経由して銚子から太平洋に流す「利根川東遷事業」を行っています。この大工事や付帯する埋め立て工事により江戸は山の手の東側に広がっていきます。

1991年に全線開通した「都営大江戸線」の路線は山の手と下町を囲んでいますので「大江戸線」と呼ばれるようになったのでしょう。もっとも新宿など一部の地域は江戸の範囲外なのですが,非常に分かりやすいネーミングだと感心しています。

家康が江戸に拠点を構えた最大の要因は水運の便であるとされています。銚子・関宿から浅草に通じていた利根川・常陸川水系による水運は中世を通じて東国水上交通の要衝でした。

利根川東遷事業の後も水運による交通路は維持され浅草御蔵(現在の蔵前)には全国から米が集められ,保管されるようになりました。

当時の武士の給与は米で支払われており,町民のための食用米を含め浅草御蔵で保管されていました。この膨大な米を現金化したり,小売りの米屋に販売する組織は札差(株仲間)といわれ,莫大な利益を上げるようになり,浅草は江戸文化の一つの中心地として発展しました。

浅草の賑わいを支えるもう一つの要素といえば浅草寺です。浅草寺は東京都内最古の寺院であり,伝承によると創建の由来は628年(推古天皇の時代)に遡ります。現在の隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に仏像がかかりました。これが浅草寺本尊の聖観音とされています。

観音さまのご縁日は「毎月18日」ですが,これとは別に室町時代以降に「功徳日」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると,百日分,千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。

中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く,「千日詣」と呼ばれていました。江戸時代になるとこの日は四万六千日分のご利益があるとされ,「四万六千日」と呼ばれるようになり,前日の9日から「ほおずき市」が「四万六千日」のご縁日にちなんで開かれます。

浅草御蔵と浅草寺に支えられ浅草は江戸時代より商業地,繁華街,寺町,問屋街,職人町など多様な都市活動の営まれる地域であり,典型的な下町文化を育んできました。日本が近代化した明治,大正,昭和においても東京の下町を代表する地域であり続け,新しい文化の発信地となってきました。

太平洋戦争では家屋が密集している浅草を含む東京下町は米軍の空襲により壊滅的な被害を受けました。昭和20年3月10日の空襲により現在の台東区,墨田区,江東区では死者およそ10万人,負傷者4万人,罹災者100万人という未曾有の大被害を被りました。

浅草は昭和22年に下谷区と合併して台東区となりました。昭和15年当時,下谷区と浅草区を合わせた地域には約10万世帯,46万人の人が住んでいましたが,昭和20年の6月の居住人口は5年前の2割程度に激減しています。この数字から現在の台東区は東京の中でも最も戦争の被害を受けた地域の一つであることがわかります。

戦争で大きな被害を受けた台東区は戦後に急速に復興をとげ昭和25年には人口26万人,昭和30年には31万人とほぼピーク人口に達しています。文字通り焼け野原からの復興ということになりましたが,下町の風情や江戸時代から続く古い伝統を守り続ける商店や料理店は健在です。この作品の舞台となっている和菓子屋「満月堂」も江戸時代から続いている老舗です。


和菓子とは

和菓子とは一般的に江戸末期までに日本で作られた日本独自のお菓子の総称と定義されます。その中にはお菓子の定義がはっきりしない古代から伝わる日本独自のもの,中国から伝来したもの,南蛮貿易によりもたらされたものが含まれます。

それに対して明治以降に西洋文化とともに伝えられたものは洋菓子ということになります。カステラはちょうどその境界に位置しており,和菓子に含まれる場合もあれば洋菓子になることもあります。

和菓子と洋菓子の分類は日本のお菓子の歴史的な位置づけに基づいていますが,保存性による分類もあります。一般には水分を30%以上含むものは生菓子,水分が10-30%のものは半生菓子,水分が10%以下のものが干菓子とされます。

水分含有量と保存性は相反関係にあります。第9巻で一橋流の家元あるあやめの家元継承40周年の記念茶事に用いる菓子のコンペの様子が描かれています。

その中で金沢の加州梅鉢は干菓子を出しています。これは,生菓子にすると金沢から東京まで運ぶとどうしても乾いてしまうことと湿度の高い金沢で食べなければ本当の良さは分からないからと説明されています。

茶道において茶会は一期一会とされています。その意味するところは「その機会は二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いであるということを心得て,亭主,客ともに互いに誠意を尽くす心構え」とされています。

亭主の最高の「おもてなし」に対して客も持てる限りの誠意で応える,(私は茶道に関してはまったく知識も経験もありませんが)おそらくこれが茶道の作法に通じるのではと考えます。季節あるいは地域を意識し,そのときにできる最高の「おもてなし」を供することは茶菓子にも求められます。

茶道において茶事は薄茶(うすちゃ,おうす)と濃茶(こいちゃ,おこい)の二種類があり,一つの茶事でその両方があるのが正式とされています。茶道で使用される和菓子は薄茶や濃茶に合わせたものとなり,一般的には薄茶席では干菓子を,濃茶席では生菓子(主菓子)が供されることが多いようです。

お茶菓子として主流になっているものは生菓子であり,それだけに風味の変化が早いので,拵えてから食べるまでの時間を考慮する必要があります。同時に季節を意識したものでなければなりません。夏であれば涼を感じさせるために葛などを用いて透明感あるものに仕上げるという工夫もその一つです。

和菓子の主要な素材は砂糖,水飴,米,小麦,小豆などであり,洋菓子と比較するとすっと種類は少ないのですが,そこから創意と工夫により非常に多くの種類の和菓子が生み出されます。和菓子の主要素材のうち砂糖が使用できるようになったのは近世のことです。

もちろん世界的にはサトウキビの作物化は10,000年の歴史があり,2000年前にはインドで砂糖が製造されるようになりました。それまでのサトウキビは甘味をもつ搾り汁(ジュース)として利用されていましたが,古代のインドで初めて砂糖が誕生しました。インドの砂糖とサトウキビはアラビア人によってペルシャ,エジプト,中国などへと伝えられました。

日本にも古くは奈良時代の文献に砂糖が登場していますが,それは中国伝来の貴重な薬種でした。室町時代になると,中国から輸入された砂糖が菓子の甘味料として用いられるようになったされていますが,高価な貴重品であることには変わりありません。戦国時代になると南蛮貿易により砂糖が安定的に供給されるようになりました。それでも,年間150kg程度と推定されています。

江戸時代に入る中国から琉球・奄美にサトウキビと黒砂糖の製法が伝えられ生産が開始されます。しかし,黒砂糖から黒い糖蜜成分を除去して上白糖を作る精糖技術は難しく,国産の上白糖が登場するのは18世紀末になります。

江戸時代の精糖技術で有名なものは香川県や徳島県などの四国東部で生産されている「和三盆」です。「和三盆」は日本独自の精糖技術です。独特の風味を持ち,淡い黄色をしており,細やかな粒子と口溶けの良さが特徴です。現在でいう原料糖(粗糖)と上白糖の中間に位置するものです。

「和三盆」の名前は「盆の上で砂糖を三度研ぐ」という日本で工夫された独自の精糖工程から来たものであり,現在では高級砂糖を意味しています。原料はサトウキビのしぼり汁を石灰で中和し,ある程度まで精製濾過したのち結晶化させたものであり,白下糖と呼ばれる現在の原料糖に近い「含蜜糖」です。

白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後に,麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し,糖蜜を除去します。この作業を数度繰り返し,最後に1週間ほどかけて乾燥させ完成となります。

日本独自の精糖技術で作り出された「和三盆」は高級砂糖の代名詞となっており,現在でも和菓子によく使用されています。

砂糖が無かったあるいは容易に口にすることのできなかった時代に,日本人が甘さを享受したのは果物であり,その中でも干し柿はもっとも甘いものでした。そのため,砂糖がふんだんに使用することができる現在においても,和菓子の甘みの上限は干し柿に置かれています。

大戦後は人々の「甘み」に対する強い飢餓感・願望があり,和菓子も甘い方向に向かいましたが,社会が豊かになると,次第に甘み一辺倒ではなく素材そのものの美味しさを味わう形のお菓子を求めるようになっていきました。和菓子の甘さは「干し柿の甘さ」を上限とする日本人の味覚は現在にも受け継がれているようです。


職人と徒弟制度

職人とは「自ら身につけた熟練した技術により手作業で物を作り出すことを職業とする人」と定義されます。産業革命以前のモノ作りは職人の技能により大きく左右され,優れた技能は徒弟制度により次の世代に継承されます。

とはいっても,職人の技能の伝承には5年,10年,20年という長い期間がかかるものも多く,その世界で優れた職人として認められるには先人の技を盗み,自ら研鑽して自分のものにする努力が必要です。この修業時代を支えていたのが徒弟制度であり,この制度なしには職人技の伝承はありませんでした。

しかし,産業革命を起点に職人に頼っていたモノ作りは次第に機械にとって代わられるようになります。現代の安価で高品質の工業製品を作り出しているのは機械とそれを動かす労働者です。

さらに,IT技術の急速な進歩は生産現場を一変させており,コストを度外視すれば熟練した職人の手仕事はすべて機械に置き換えることのできる時代となっています。工業における職人は多品種少量生産あるいは超精密加工などごく一部の領域を担っているだけです。

それでも,建設業,伝統工芸,建具など機械化の困難な分野では職人技が生産を支えています。食品の世界でも調理や和菓子の分野では技能の伝承が生きており,職人技が優れた商品を生み出しています。

安藤奈津が就職した和菓子の世界は全てではないものの職人,徒弟制度,のれん分けという言葉が生きています。しかし,和菓子の世界で一流の職人になることは決して容易ではありません。

そもそもこの世界の仕事は体力的にかなりハードです。「あんどーなつ」の中でも何回か菓子作りのため早朝から遅くまで立ちっぱなしで働く姿が描かれています。

また,手先の器用さ,素材と加工に関する知識,一段上のおいしさを追及する鋭敏な味覚と嗅覚,努力と工夫も必要です。さらに,茶道のように和菓子を取り巻く伝統文化を学び,知識を深めること,日本あるいは地域の自然や季節感を美しい形として表現する芸術的なセンスも欠かせません。

こうして考えると一流の和菓子職人への道は長く険しいものだということが分かります。作品の中でも竹蔵は梅吉に厳しく叱られ,餡が涙でしょっぱくなったという逸話も紹介されています。

徒弟制度のもとで厳しい修業と研鑽を重ねていく期間は長く,給料も見習い程度のものしか受け取れません。現在の若者たちがあこがれる世界とは相当の隔たりがあり,和菓子の世界を極めたい,自分の作ったものをおいしいと喜んでもらいたという強い信念がなければとても勤まりません。

ケーキ好きの父親に喜んでもらいたいという動機から洋菓子職人を目指していた安藤奈津は観音様のご縁により江戸時代から続く老舗の和菓子屋・浅草満月堂で働くことになります。


観音様のお引き合わせ

ロイヤル西洋菓子専門学校を優秀な成績で卒業した安藤奈津は洋菓子業界で就職活動をしますが,ことごとく不採用となります。この業界ではコネがないと就職は厳しいようです。

しかし,いまどき職人を採用するのにコネだけが幅を利かせる業界はありません。そんなことをすれば優秀な人材を自らか失うことになり,店や会社にとって大きな損失になります。

奈津のような優秀な人材の代わりに,少し叱ると辞めてしまうような人を採用するようなところにはとても将来性は望めません。

とはいうものの,作品中では不採用が続き奈津は観音様のご利益に姿い気持ちにもなったのかもしれません。ここでいう観音様とは「浅草寺」の本尊である観音菩薩のことです。

正式名称はには「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」ですが,「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と呼ばれています。舞台が浅草のこの作品中では単に観音様と称されることが多いようです。

奈津が手を合わせているのは「雷門」の前です。雷門は浅草のシンボルとして余りにも有名ですが,これは浅草寺の山門の一つであり,正式には「風神雷神門」です。名前の由来は門に向かって右側に風神像,左側に雷神像が配されていることによります。

山門の中央には重さ700kgもの巨大な提灯が下げられており,山門に向かって外側には「雷門」と記されていますが,内側には「風雷神門」と記されています。提灯の上には「金龍山」の扁額が掲げられています。この「金龍山」は浅草寺の山号です。

雷門からご本尊の安置されている浅草寺までは400mほどの参道が伸びています。奈津は400m先の観音様に向かって「どうか私をお菓子職人にして下さい」と祈ります。

その横では満月堂の職人である安田梅吉(梅さん)と丸岡竹蔵(竹さん)が「どうか満月堂に俺たちの後を継げる若い職人が来ますように」と願懸けをしています。

梅さんと竹さんは奈津の希望が菓子職人であることを知り,甘いものを食べたいという奈津を満月堂に連れていきます。満月堂の酒饅頭の味に感動した奈津は梅さんのアルバイトでもいいからという誘いと,若くして夫に先立たれ悲嘆に暮れている女将の姿を見てアルバイトで働くことにします。

奈津は住み込みで働くことになり,満月堂に引っ越してきます。最初の仕事は常連客へのお菓子を届けることであり,そこで呉服屋「越前屋」の大女将と面識をもつようになり,帰り道では道に迷い,万月堂のお得意様の大住喜八郎の案内で戻ることができました。

この日は梅さんの誕生日であり,奈津はあんを使ったケーキを作り,ケーキが好きな父・達彦のために洋菓子職人を目指したことを話します。しかし,その父は奈津のケーキを口にすることなく米国勤務中に亡くなってしまいます。

この話を店で聞いていたご隠居さんと呼ばれている大住(実は実は日本最大の商社・大住物産の会長)は驚きます。安藤達彦は将来を嘱望されていた彼の部下だったのです。大住は奈津の影の後見人となることを決めます。

奈津が満月堂でアルバイトを初めて1月ほど経った頃に,かって不採用となった会社から採用通知が届きます。しかし,奈津はそれを断り,和菓子職人としての道を選択します。大住の助言で叱られることの重要さを知った奈津は梅さんに大いに叱って下さいと頼み,梅さんはそのまま実行します。

大住は影の後見人として浅草界隈の古い伝統を守り続ける食べ物の店に誘い,その一つ一つが和菓子職人としての奈津の成長の糧となります。同時に奈津の成長に手を貸すことは大住にとっても生き甲斐に近い大事なものになります。

一ツ橋あやめとの出会い

満月堂の和菓子は茶道・一ツ橋流家元の御用達となっており,これは和菓子屋にとっては大変な金看板となっています。奈津は茶会用のお菓子を届けに行き,そこで,内弟子である冬実たちから亭主にいない茶室で待つように言われ中に入ります。

冬実は銀座の名店「獅子屋」の社長の娘であり,一ツ橋流のお茶菓子の御用達となっている満月堂に敵意をもっています。満月堂の従業員である奈津が大きな失敗をすれば茶菓子の御用達が獅子屋に回ってくると計算したためです。

家元の一ツ橋あやめは厳格さで弟子たちから恐れられており,奈津はその逆鱗に触れるかもしれないところでした。茶道についてまったく知識のない奈津ですが,祖母に躾けられた日常のもてなしの心の延長線上に茶道の作法を実践し,あやめはそのもてなしの心を感じ取ります。

あやめはお使いのごほうびとして一服お茶を奈津に点て,内弟子とします。また,礼儀正しい奈津が茶室に入った訳を理解します。

かかりつけのクリニックで人間ドックの検査を受けた梅さんは先生から再検査をしたいという電話を受け取ります。梅さんはてっきり自分の健康状態が良くないための再検査と勘違いし,できるだけ早く奈津に満月堂の和菓子作りを伝授しようと決心します。

実際には梅さんの健康状態にはまったく問題がないことが分かりましたが,梅さんは自分の決心通り奈津に和菓子の基本である「こし餡」作りを教えます。「こし餡」作りはとても繊細な作業であり,梅さんは厳しく奈津を仕込みます。

奈津は梅さんに喜んでもらおうと自ら徹夜で「こし餡」を作りますが,梅さんは呉の搾り過ぎにより固くなり,満月堂の菓子には使えないので捨てようとします。

奈津は「悪いのは自分であって,あんには罪はないので捨てるのは勘弁してください」とすがります。材料を大事にすることは職人に必要な資質の一つであり,梅さんはバットと奈津に手渡します。奈津は「ごめんなさい」とあんに謝りながら,それを口にします。


江戸和菓子老舗展

「江戸和菓子老舗展」とは丸屋GINZAが開催する人気の高い催事であり,ここに出店できるということは一流店の証となります。しかし,期間中に売り上げ最下位の店,お客の評判の悪かった店は二度と出店できない決まりとなっています。

この設定はさすがに難がありますね。デパートにとって催事は集客が目的ですから,売り上げの順位をつけたり,最下位の店の再出店を禁止するようなことはあり得ません。そんなことをしたら多くの老舗がリスクを避けるため出店辞退ということになりかねません。デパート側にとっても老舗のブランド力が集客につながるという目論見が外れてしまいます。

ともあれ,そのような人気の催事に満月堂が商品を「ぼたもち」に限定される形で出店することになりました。これは,すべて江戸和菓子老舗展において売り上げ最下位にして駄目な店の烙印を押し満月堂から一ツ橋流のご用達を奪い取ろうとする「獅子屋」の社長・外崎の企みだったのです。

「あんどーなつ」は全体として和菓子職人を目指す奈津の成長と浅草をはじめ善意の人々との交流を描いた作品になっていますが,それでは話のネタが不足するためか,複数の優劣を競うイベントを間に入れています。この優劣を競うイベントはこの作品の難点となっています。

特に「江戸和菓子老舗展」のように競争相手を貶めるような話は「江戸和菓子職人物語」には好ましくありません。「ぼたもち」の細かい由来などは知識として知っていた方がよいという程度で,その知識の有無と「ぼたもち」のおいしさは無関係なのです。

そのような知識を相手を貶めるために使うようでは超一流とされている獅子屋の秋山さんも職人としての誇りが薄れてきているように感じます。和菓子職人が競うのは和菓子の美しさ,季節感,おいしさであり,商品を「ぼたもち」に限定され,苦戦することが目に見えている小さな店に恥をかかせることではありません。

一流の職人はお互いに尊敬しあう関係であり,相手の足を引っぱって自分を優位にするようなことはしません。それが厳しい修行と日々の研鑽により自分を高めてきた職人としての矜持というものです。


祖母との別れと母からの形見

浅草の5月を彩る三社祭の最中に奈津の祖母のたみの容体が良くないという連絡が福井の叔母からありました。しかし,奈津は一人前の和菓子職人になるまでは福井には戻らないと祖母と約束しており,頑として帰ろうとはしません。

一計を案じた梅さんは奈津に「江戸和菓子老舗展」に出したぼたもちを作らせます。奈津は密かにその後も餡のくるみかたを研究していましたが,ぼたもちを半分に切ると餡の厚さが不均等であり梅さんのOKは出ません。

「餡の包みさえできればぼたもちに関しては一人前なんだが」と言いながら梅さんが店の方に引っ込むと,女将の指示で竹さんが要領を教えます。そのやりとりを梅さんはうなづきながら聞いています。

一方,いつものように満月堂にやってきてこのいきさつを聞いてしまった大住は会長の車で奈津を福井に送らせるよう手配します。竹さんの助言により,ようやく奈津はぼたもちに関しては一人前と認められ,急きょ福井に向かいます。

奈津は早朝に病院に到着し,ぼたもちだけは一人前と認められたという奈津の話を嬉しそうに聞き,さっそく奈津の拵えたぼたもちをいただくことになります。

奈津は祖母のため抹茶を入れるため茶碗を借りようとすると,たみは茶碗の入った風呂敷き包みを開けさせ,奈津の母親が亡くなる前に奈津が大人になったら渡してもらいたいと言い残した茶碗を見せます。その茶碗が奈津の母親の小夜子が里子に出されるときに実の両親が持たせてくれたものだと由来を話します。

たみは奈津のぼたもちをおいしそうにほおばり,そのまま息を引き取ります。これで奈津の親戚は福井の叔母だけになってしまいます。

浅草に戻った奈津は母の形見の茶碗を女将さんたちに見せます。それはなんとなく気品があるものですが茶道具の造詣がそれほど深くないためその価値は分かりません。女将は一橋流の家元のお茶の稽古の時に見てもらったらと提案します。

家元のあやめは奈津の筋の通ったふるまいと,もてなしの心に好意をもっており,稽古の前に茶碗を見ることにします。風呂敷が解かれ,茶碗の入った木箱(桐箱)を見てあやめはかすかに驚いた表情を見せます。

袱紗から出されて目の前に置かれた茶碗を見てあやめは激しく動揺しますが,表には出しません。その井戸茶碗は一ツ橋家の家宝であり,訳あって里子に出したあやめの実子に持たせたものだったのです。

井戸茶碗は高麗茶碗の最高峰とされるもので高い高台が特徴です。芸術性を目的とはせず日常雑器に類するものですが,いかにも侘び茶にふさわしい素朴で力強い味わいがあります。戦国武将の垂涎の的となった茶器であり,いくつかのものは国宝となっています。

奈津が母親から遺贈された井戸茶碗は一ツ橋家の家宝とされてきたものですから国宝級のものなのでしょう。そのような逸品をあやめが見間違うはずがありません。

奈津から母親・小夜子の話を聞いたあやめは,小夜子は自分の娘であり,奈津が自分の孫であることを確信します。あやめは「その茶碗は井戸茶碗と呼ばれるとても良いものです」と伝え,その日お稽古をとりやめます。

47年前に生き別れた娘の消息を知ったあやめは雨の中を傘もささずに佇み,何かを決心したようです。あやめは料亭に大住を呼び出し,墓場まで持っていくはずだった秘密を打ち明けます。小夜子は大住とあやめの間にできた子どもであり,奈津は二人にとって孫になります。

奈津にとっては身近な二人が祖母と祖父にあたるという話の展開はさすがにそれは出来すぎでしょうという気にさせられます。ともあれ,あやめと大住は奈津が自分たちの孫だということは秘して,和菓子職人の道を進む彼女を陰ながら見守り,必要な助力をすることにします。

和菓子職人見習いとしての自覚

商品があらかた売り切れたので満月堂の人たちは仕事を早めに切り上げて「浅草の温泉」に出かけます。といってもそこは江戸時代から続くお風呂屋さんです。40年ほど前に建替えて井戸を掘ったら温泉が出たということです。

一行が向かったのは「蛇の目湯」ですが,このモデルは黒湯として知られる浅草名物の「蛇骨湯」でしょう。浅草寺から5分のところにあり,江戸時代から続いている湯屋です。

現在は露天風呂やサウナを備えたスーパー銭湯になっています。黒湯とは古生代に埋もれた草や木の葉の成分が地下水に溶け込むことによりできた冷鉱泉です。

最近では自宅やアパートに内風呂を備えたところが普通になり,銭湯はどんどん減少しています。それでも,500円ほどでゆったりと湯につかれるスーパー銭湯はけっこう繁盛しています。

そこで梅さんは昔から懇意にしている浅草の提灯屋の職人・松宮と出会い,周りの人たちにも新しく入った奈津のことを「なっちゃんは・・・」と自慢します。

それを松宮は仏頂面で聞いており,「梅吉,お前は馬鹿だぜ」と言い残して湯から上がります。梅さんが血相を変えてその訳を問いただすと,「その女の子が一生懸命なのはわかる,いいことに違いねぇ・・・,だがな・・・弟子をなっちゃんなどと呼んだんでは弟子ではない,仲間・・・対等の関係になってしまう」と指摘されます。

この顛末を女湯で聞いた奈津は濡れた髪と浴衣姿で男湯の脱衣所に入り,「奈津と呼び捨てにして下さい」と懇願します。梅さんは「俺が悪かったんだよ・・・奈津」と呼び方を変えます。松宮の親方は奈津の対応がすっかり気に入り,フルーツ牛乳をおごってくれます。


町内巡回のお餅つき

町内会長である提灯屋の松宮は一升瓶を包んで満月堂にやってきました。梅さんが「宝くじにでも当たったのかい」と話を向けると「実はそうなんだ」ということになります。

もっとも当選したのは1年前のことであり,奥さんはそれを黙っていました。それは泡銭を手に入れると,仕事にも身が入らず,町内会もおろそかになることを心配してのことです。

この設定は落語の「芝浜」をなぞっているように見えますが,そんなことで家業をおろそかにするような松宮でありません。

ともあれ正月を前に予定のない100万円が手に入ったので,松宮は町内会87軒すべての家に鏡餅と切り餅を配ること思いついて,満月堂に相談に来たわけです。下町の町内会長らしいアイディアですね。

昔の江戸っ子は宵越しの銭は持たないという金銭に執着しない気性をもっており,松宮の場合は年越しの銭は持たないといったところでしょう。

しかし,満月堂は大忙しで予約を断らなければならない状況であり,とても87軒分の餅には手が回りません。この気前のいい振る舞いも肝心の餅がなければ,まさしく絵に描いた餅ということになります。

奈津は満月堂にある臼と杵を使って,町内会のみなさんに餅をついてもらい,その場で食べていただくことを提案します。これならば満月堂の職人の負荷は小さくて済みます。現在の若い世代や子どもたちは餅つきをしたことも,見たこともない人が大勢います。

松宮は必要な材お調達や人集めに奔走します。これで準備万端と思ったところで再び松宮がしょげながらやってきました。

嬉しさのあまり自分の町内の餅つきを他の町内に自慢したところ,他の6つの町内会からも餅つきをしたいという申し入れがあり,慌てて善後策を相談に来ました。しかも,餅つきの経験者が少ないためその指導という付録までついています。

女将さんは乗り気であり,梅さんも奈津が道具を持ち回りして町内会の餅つきを指導することを提案します。材料と蒸し器などはそれぞれの町内で揃えることはできますが,奈津は7つの町内会を巡ることになります。

この話は江戸時代に年の瀬になると菓子屋は臼と杵を大八車に積んでお得意さんの家々を餅つきに回ったことから生まれたものでしょう。現代はさしずめ小型トラックを使用することになりますが,それでは江戸の風情が損なわれます。

竹さんの提案で,浅草名物の人力車を貸切り,それに奈津と臼と杵を乗せて町内を回ることにします。奈津は餅つきの疲れとあとらこちらでいただいた振る舞い酒のため寝ながら帰還します。この餅つきは大成功となり,浅草の町内はいい正月を迎えることができました。

ここまでは単行本の第4巻までのあらすじということになります。何事につけても一生懸命の奈津は梅さんという厳しい親方のもとで和菓子職人として成長していきます。

もちろん,女将さんや竹さん,ご隠居の大住,一橋流家元のあやめの暖かい思いやりも見過ごすことはできません。また,服屋「越前屋」の大女将,人力車の車夫,提灯屋の職人・松宮など浅草の人々との交流は心温まるものであり,奈津の職人としての成長に結びついていきます。このような形で物語は進んでいきますが,原作者の西さんが病に倒れ20巻で未完のまま終わっています。