笠井スイ
笠井スイは長野県在住の漫画家です。実家は長野県でもかなり山奥にあるようです。本人談では標高900m以上で「限界集落」に近い地域であること,町からバスが週1便往復し,そのバスでお年寄りが通院していることが語られています。
う〜ん,その地域には小中学校あるでしょうが,高校はどうだったんでしょう。冬季の積雪を考えると町まで自転車通学は無理でしょう。ともあれ,そのような地域で育った笠井は中学時代からコマ割りをしてマンガを描き始めています。
ただし,ストーリーを作って,それをマンガの形に仕上げることができなくて,最初に作品を完成させることができたのは高校を卒業する頃でした。作品が出来上がると誰かに読んでもらいたくなるのは人情です。
笠井にとって作品の発表の場は『同人誌』でした。同人誌は笠井にとっては武者修行の場であり,ここで作品の質を磨いてから出版社に持ち込みをしようと考えていました。同人誌におけるサークル名は『鳩』あり,現在は同じ名前のブログで不定期に情報を発信しています。
同人誌活動が始まって2作目から編集部に持ち込みますが,本人談では『けちょんけちょん』の評価だったとのことです。途中で1年ほどのブランクがあり,新たな気持ちで描いたものを『コミティア(プロ・アマを問わないマンガ家が自主出版した本を発表や販売をする展示即売会)』に出しました。
これを見た(現在も笠井の担当をしている)編集担当者から「コミティアで見ました」というメールが届き,本人談では「一本釣りされてついていくことになった」そうです。この時期はマンガ以外の人生を考えられなくて,「これを逃したら私はどうやって生きていけばいいんだ」というくらいに思いつめていました。
実際の商業誌デビューまでには少し間があり,その間は同人誌活動を続けています。笠井の商業誌デビューは2008年10月の『Fellows!』創刊号です。デビュー作品である『花の森の魔女さん』は単行本『月夜のとらつぐみ』に収録されています。
『Fellows!』創刊号では森薫の『乙嫁語り』の連載も始まっており,創刊号に参加する作家の名前を見た森は「あっ!鳩の人だ!!」と驚いたそうです。
巷間には「森薫と絵柄が類似している」あるいは「森薫のアシスタントをしていたのでは」などという情報が流されていますが,『Fellows!』創刊号まで二人の接点はありません。
二人の絵柄を比較しても目の描き方がずいぶん異なっており,顔の造作だけでも容易に別人の作品であることが分かります。服装の描き方はリアルに質感を出そうとすると,やはり似たようになるのは避けられません。
デビュー後は不定期に作品を出しており,2009年6月からは「ジゼル・アラン」を連載しています。2013年2月に隔月誌であった『Fellows!』が年10回発行の『ハルタ』に変わっても隔月で連載を続けていますが,最新情報では休載中となっています。長野の田舎育ちのお嬢さんの作品がこれからも読めるように早く元気になっていただきたいと祈っています。
『ジゼル・アラン』の時代考証
私はヨーロッパの近代社会の知識を持ち合わせていませんので,『ジゼル・アラン』における時代考証がどのくらいしっかりしたものであるかは分かりません。それでも単行本の第1巻のきれいな表紙絵の胸元を見ただけでブラウスが足りないことぐらいは分かります。
この服装は第1話に出てくるものであり,さすがに第2話になると襟の高い服になっており,こちらは合格です。第1話ではこの服装でエリックに肩車してもらうというこの時代にはありえないような場面も出てきます。
でも,この物語は森薫の『エマ』ように時代考証に情熱を傾けたものではなく,女性の自由が制限されていた時代に,資産家のお嬢様が『なんでも屋』として持ち前の好奇心と冒険心で依頼された問題を解決していくものです。
読者の方もあまり時代考証にはとらわれずにストーリーの面白さと細部までていねいに描き込まれた描画を楽しんでいただきたいと思います。
物語の舞台はフランスと思われる20世紀初頭のヨーロッパとなっています。登場人物の多くはフランス風の名前です。ときには英語が出てきてもそれはご愛嬌ということで目をつぶり,先に進んでください。
各話のタイトルが面白いですね
単行本の1冊には5話が収録されています。このタイトルがなかなか工夫されています。その多くは格言や故事,ことわざを題材としており,ときにはそのパロディとなっています。そのせいか,タイトルの後には一様に『?』が付いています。
左の蘭に第4巻までの掲載作品一覧を掲載しておきます。『猫』が多いのは作者が大の猫好きであるためです。そういえば,笠井スイの商業誌でデビュー作品「花の森の魔女さん」にも二匹の猫が登場していますし,「ジゼル・アラン」の最初の仕事も猫探しです。
第1話「好奇心は猫を殺す」は日本ではなじみのないことわざです。出典は英国であり,「猫は簡単には死なないが,その猫でも持ち前の好奇心が原因で命を落とすことがある」という意味です。これが転じて「過剰な好奇心は身を滅ぼす」という戒めとしても使用されます。
第3話「恋は思惑の外」はおそらく江戸時代の浄瑠璃に出てくる「恋は思案の外」の現代語なのでしょう。意味は「恋は常識や理性では割り切れないものだ」ですが,同人誌の作品に「恋は思惑の外」というタイトルがありますのでそちらからの引用なのでしょう。
第6話「老いたる馬は道を忘れず」は韓非子に出てきます。意味は「道に迷ったとき老馬を自由にして後からついて行けば道がわかる」ということであり,これが転じて「経験を積んだ者は自分のとるべき道を誤らない」という意味で使用されます。
第7話「琴瑟相楽しむ」は詩経(中国最古の詩編)に出てくる「琴瑟(きんしつ)相和す」の変化型でしょう。琴と瑟は中国最古の弦楽器であり,「琴瑟相和す」は二つの楽器の音色がよく合っていること,転じて夫婦仲が良いことを意味します。
第8話「虎を千里の野に放つ」は「危険なものを野放しにする」ことを意味しています。ネットで検索すると「猫辞典」にこのことわざが掲載されており,ページを開くと「子猫を狭い家に放つ」という言葉が一緒に載っていました。これは「狭くても工夫して猫たちは活発に遊んでくれる」ことを意味しており,愛猫家の間で通じるもののようです。
第10話「猫は虎の心を知らず」は「つまらない人間は大人物の心の中はわからない」ことを意味します。類似の表現は他にもありそうですが,作者は猫好きですので,ひたすら『猫』が入ったことわざにこだわっています。
第12話「花の園よりオレンジの庭」は類似語があったような気がしますが,思い出せません。「花より団子」では風情がありません。
第13話「花発けば風雨多し」は唐代の詩人「于武陵」の「勧酒」と題した五言絶句の一節にあります。全体は次のようになっています。
勧君金屈巵 君に勧む金屈巵(きんくっし)
満酌不須辞 満酌辞するを須(もち)いず
花發多風雨 花發(ひら)いて風雨多し
人生足別離 人生別離足る
出典は分かりませんが,日本語訳はこのようになります。
あなたにお勧めしましょう この金の杯を
なみなみとついだ酒を どうぞ遠慮しないでくれたまえ
花が咲くととかく風雨に吹き散らされるもの
人生には別れがつきものだ
最後の2行を作家の井伏鱒二は「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」と訳しており,この一文は私の記憶の片隅に残っています。
第14話「栴檀は双葉より芳し」は「大成する者は幼いときからすぐれている」ことを意味しています。ここでいう栴檀とは別種の香木である白檀のことです。双葉とは種子から最初の芽が出た状態であり,双葉のものを双子葉,一葉のものを単子葉といい,植物の大きな分類要件になっています。このことわざとは反対の意味をもつことわざも多く,「大器晩成」あるいは「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」というものもあります。
第15話「水を得た魚の如し」は「魚の水を得たるが如し」あるいは「水魚の交わり」ともいいます。原典は三国志にあり,「水魚の交わり」は「魚と水のように離れることのできない親密な関係」を意味します。それに対して「水を得た魚の如し」は「その人の能力が発揮できる場所を得て大いに活躍する」という意味になります。
第16話「鳴かぬ蛍が身を焦がす」は省略形でこれだけでは意味が通じません。本来は「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」であり,「口に出してあれこれ言う者より,口に出して言わない者のほうが心の中では深く思っている」ことを意味します。
第17話「待てば海路の日和あり」の直接的な意味は「海が荒れても待っていれば出航にふさわしい日が必ず訪れる」であり,転じて「今は状況が悪くとも,あせらずに待っていればそのうち状況が変わる」という意味になります。
第18話「水は方円の器に随う」は「人は交友・環境しだいで善悪のいずれにもなる」ことを意味します。原典は韓非子であり,君主と人民の関係について「人民は君主次第で善くも悪くもなる」と説いています。
第19話「闘う雀人を恐れず」の直接的な意味は「スズメのような小鳥でも争いに夢中になると人が近づいても逃げようとしない」であり,転じて「物事に熱中している者は怖い物なしで,身の危険も顧みず大きな力を発揮する」という意味になります。
第23話「花咲く春に会う」は「今まで不遇でいた人が認められて世に出る」ことを意味します。作品中では小説家への道を進もうとしていたエリックが人気作家の影武者として執筆しており,ジゼルに会わす顔がないと苦悩しています。そんなエリックをジゼルが部屋の前で待ち伏せして懐かしさのあまり,抱きつきます。
第24話「鳥なき里の蝙蝠」は「鳥がいないところではただ飛べるというだけでコウモリが偉そうにする,あるいは偉そうに見えることから,本当に優れた人がいないところではちょっとその分野に知識等があるだけでその道の権威然とすること」の例えとなっています。さすがに現在ではほとんど目にしたり耳にすることのない言葉となっています。
第25話「鷹は飢えても穂をつまず」は「気位の高い鷹はどんなに腹をすかせているときでも,人間の作った稲穂をついばんだりしないという意味から,節義を守る人はいかなるときでも不正な金品を受け取ったりしない」という意味になります。
25話,26話のタイトルは対になっており,ジゼルの視点から考えると「蝙蝠」とされているのはサミュユル・ユレ,「鷹」とされているのはエリックなのでしょう。「蝙蝠」が威張っている世界でも「鷹」は「蝙蝠」の代筆などはしないものだと言いたいのでしょう。
第26話「歩く姿は百合の花」は「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」の省略形であり,「美しい女性の容姿や立ち居振る舞いを花にたとえて形容する言葉」とされています。
百合に例えられたのはコレットです。
第27話「鶯鳴かせたこともある」は「咲き匂う梅が鶯を留まらせて鳴かせるように,かつては美しく色香もあって男たちにちやほやされた時代もあった 」という意味になります。しかし,話の内容は祖父の残したガラクタにしか見えない遺産の売却をジゼルが依頼されるものであり,内容とタイトルをどう結び付けたらよいか悩みます。
おそらく,このガラクタに見える数々の品物はそれぞれ祖父の人生において輝いていたことがあるのでしょう。しかし,本人が亡くなると品物にまつわる輝きも思い出も一緒に消え去ってしまうのです。
第28話「あってもなくても猫のしっぽ」は「あってもなくても,どっちにしても大したことはないと」いうたとえとして使用されます。第28話のジゼルのお仕事はどちらにころんでも大したことではないという意味なのでしょう。