夕凪の街
熱線,爆風,火災により爆心地から一定範囲の木造建築物は破壊され,焦土となります。生き残った被爆者は広島市中区基町の本川沿いに広がっていた『原爆スラム』に居住していました。この『原爆スラム』の別名が『夕凪の街』です。
こうの史代が作品のタイトルを「夕凪の街 桜の国」としたのには理由があります。原爆を扱う作品を執筆するにあたり,原爆素人であったこうの史代は多くの文献を調べたり,被爆者の話を聞いたりしています。その中でこうのが大きな影響を受けたのは広島県出身の小説家「太田洋子(1906年-1963年)」でしょう。
太田は疎開で広島市に帰郷中に被爆します。米軍統治時代の報道規制の中で「屍の街(1948年)」「人間襤褸(1951年)」を上梓し,原爆作家としての評価を確立しています。
太田が1955年に発表したのが「夕凪の街と人と 一九五三年の実態」であり,1940年に朝日新聞の懸賞小説で一等入選したのものが「桜の国」です。
残念ながら私はどちらの作品も読んだことがありませんので,こうの史代がどのような影響を受けたのかは分かりませんが,単行本の参考資料の第一番目に「夕凪の街と人と」「屍の街」が記されています。
「太田洋子」は戦後に原爆作家としてのアイデンティティを確立しています。彼女の思いとしては原爆を体験した作家としての使命感からだったことでしょう。
終戦後に太田は自分の被爆体験を書き,その中で「広島市が一瞬の間にかき消え,燃えただれて無に落ちたときから私は好戦的になった。必ずしも好きでなかった戦争を6日のあの日からどうしても続けなくてはならないと思った。やめてはならぬと思った」と記しています。
戦時中の太田はどちらかというと消極的な戦争反対の立場でした。それが,6日を境に好戦的になったというのは,非人道的な原子爆弾を投下した米国に対する激しい怒りの感情からなのでしょう。
この一文をネット上の『太田洋子論』の中で見つけ,戦争を扱ったこうののもう一つの作品である「この世界の片隅で」の疑問点が一つ解消しました。
終戦放送を聞いたとき,おとなしいすずが家族の前で「うちはこんなん 納得出来ん」と口にし,「この国から正義が飛び去っていく」というモノローグに続きます。私は決して好戦的ではなかったすずがどうしてこのような過激なことを口にするのか疑問に思っていました。
すずはこの国が巨大な暴力に屈したことに大きな怒りを感じていたのでしょう。一億総玉砕などと威勢のよいことを言っていても,いざとなったら白旗を掲げるご都合主義をして「この国から正義が飛び去っていく」と表現したのでしょう。
「夕凪の街」は原爆から10年後の昭和30年(1955年)の物語です。主人公の平野皆実は広島で被曝します。原爆により父親,姉の霞,妹の翠を亡くし,母親のフジミと一緒に「夕凪の街」と呼ばれた原爆スラムで暮らしています。弟の旭は水戸の伯母のところに疎開していたので被曝せず,物語の時点でも水戸で暮らしています。
物語は皆実が勤務先で同僚の女性に洋服の縫製を手伝うところから始まります。半袖のワンピースのデザインは勤務先の向かいの洋品店に飾ってあるものを参考にしており,出来栄えを見て二人は「そっくり」とはしゃぎます。
同僚は「平野さんはちいと細うしちゃった方がええかも」と話しますが,皆実は半袖の洋服を見て「うちはええよ・・・不器用じゃし」と寂しそうに答えます。皆実は被曝により左手にケロイドが残っています。
この作品は登場人物の会話がだけで構成されており,説明に相当するものがありません。読者は会話の内容と背景描写から物語を読み解かなければなりません。
私は戦後の歴史をリアルタイムで見てきた世代ですので,会話や背景の意味するところはおおよそ見当がつきますが,若い世代の方は読解に苦労するのではと危惧しています。そのため,単行本の末尾には当時の事情や風俗が『解説』という形で説明されています。
同僚のお弁当はおにぎりであり,「竹の皮」でくるんであります。現在ではこのような文化はほとんど見ることが無くなりました。「竹の皮」とはタケノコの外側を何重にも包んでいるものであり,竹に成長すると剥離していきます。
「竹の皮」には殺菌力と通気性がありますので,食べ物を包むのに使用されます。他にも笠や草履の材料としても利用されます。
植物の葉で食べ物を包む文化は日本の各地にあります。笹の葉には殺菌・防腐作用がありますのでちまきやまんじゅうを包むのに利用されています。また,笹の葉寿司や柿の葉寿司なども風情があります。
八重山ではビロウの仲間のクバの葉でおもちを包み,クバ餅として売られていました。クバの葉も殺菌作用があり,食べ物の保存に適しています。
昔の日本では身の回りにある植物を上手に利用して生活用品として利用してきました。それが,うるし工芸,木工品,木地工芸,蔓細工,草細工,和紙,染織など日本の伝統文化の中核となっています。
現在の都市生活者にとってそのような工芸品が日用品になることはほとんどありません。自分の身の回りを見ても,日用雑貨の大半は安価で便利なプラスチック製品となっています。考えてみればこれはちょっと寂しいことですが,どうしても生活用品はコスト・パフォーマンスが選択基準となります。
皆実は草履の材料とするため,「竹の皮」を同僚からもらいます。草履を自分で編まなければならないほど一家の暮らしは困窮しています。終業後に皆実は洋品店の前で同僚が手本とした洋服をちらっと眺めます。
単行本の目次ページにはこの半袖のワンピースを着た皆実とおぼしき女性が描かれています。これは好きな人から生きる希望をもらった直後に亡くなった皆実の夢を描いたものなのでしょう。
電車通りを歩いている皆実の背景には昭和30年の広島の風景が描かれており,「みんなの手で原水爆禁止世界大会を成功させよう」という立て看板がその時代を示しています。説明文のまったくないこの作品ではこのような背景から状況を読み解かなければなりません。
皆実の職場は現在の平和記念公園の西側,天馬川沿いにあるという設定ですので,市電通りを北上し,東に折れて相生橋を渡ったところで本川の堤防沿いに北に向かいます。
「夕凪の街」は本川の東側に広がっています。皆実は堤防にさしかかったところでクツを脱ぎ裸足で歌を口ずさみながら家に向かいます。彼女の口ずさんでいる歌は昭和29年にヒットした「お富さん」です。
唐突に出てきたこの歌は銭湯でモノローグとしてなっている皆実の気持ちの伏線となっています。原爆投下から10年が経過し,広島の人々は負の遺産である原爆を忘れたがっています。
被爆者に突然現れる「原爆症」と呼ばれるいろいろな症状は人々から伝染するなどと噂されていた時期もあります。年頃となった皆実にとってはそのような人々の偏見が自分の中に浸み込んでいることを自覚しています。
皆実の住まいを訪ねて来た職場の同僚の打越が「平野さんって ええヨメさんになるな」と話すと「うるさい! ヨメなぞなるか 住ね」と強い拒否反応を示します。二つのコマの間には皆実の恥じらいの表情と原爆のシーンが入っており,皆実のこころの動きを言葉なしで表現しています。
「夕凪の街」はわずか30ページの小作品ですが,各ページにあるいは一つ一つのコマに緻密な計算で配置された作者の思いを読み解くにはけっこうな時間がかかります。
銭湯では裸になりますのでいやでもケロイドが目に入ります。それは目に見える原爆の傷跡なのですが,被爆者にとっては自分になにか落ち度があって押された烙印のようにその話題を避けています。皆実にとってはそれはとても不自然なことのように感じられます。
中には被爆者は早く死んでしまえばいいと思っている人もいます。被爆者である皆実も『そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに 自分で時々 気が付いてしまうことだ』と述懐しています。「死んだはずだよお富さん・・・」の歌詞はこの皆実の気持ちに結び付いています。
皆実は同僚の打越に「平野さんって ええヨメさんになるな」と云われたとき言下に否定しましたが,やはり年頃の娘として気になります。
残業を終えようとした皆実は向いの洋品店を覗いている打越の姿が目に入り,躊躇しつつも声をかけます。打越は「好きな人にあげたいので見立ててくれるか」と言われ複雑な表情を見せます。
皆実は刺しゅう入りのハンカチを選び,「ふられて つっ返されても これで泣きゃええが」と言いながら手渡します。打越はハンカチを買い,店の外で皆実を呼び止め,祖母が編んでくれたと言いながら草履を差出します。
皆実は「ありがとう」と言いつつも,視線は打越の胸ポケットにあるハンカチに引き寄せられます。打越は「あとこれも」とハンカチを差し出し,皆実は素直に受け取ります。打越のプロポーズを皆実は受け入れたようです。
相生橋の手前で打越は皆実に口づけしようと抱き寄せます。その瞬間に橋の風景はあの日のものとなり,大勢の人々が橋の上にも川面にも横たわっています。これは皆実の心象の風景であり,皆実は「ごめんなさい」と言いながら家の方に走り出します。
「お前の住む世界ではそっちではない」と誰かの声が聞こえます。あの日に何人見殺しにしたのか分からない・・・ 皆実の脳裏にはあの日の光景がまざまざと甦り,自分は生きていてはいけない人間なのではという思いに駆られます。
この作品では原爆の悲惨な光景はほとんど出てきませんが,生き残った皆実の心象とモノローグを通して間接的にその悲惨さが伝わってきます。
漫画は絵と文字で表わされる媒体ですので,地獄のような光景でも描くことができます。しかし,この作品では間接的な表現にとどめており,それでも死線を越えてきた被爆者の体験がちゃんと伝わってきます。
この作品のテーマは被爆者とその家族の連綿と続く苦悩ですから,あの日の悲惨さは必要最小限にとどめて正解です。「夕凪の街」が支持されているのはそのためでしょう。
家に戻った皆実は体のだるさを感じ横になります。翌日,皆実は勤務先で打越に「教えて下さい うちはこの世におってもええじゃと教えて下さい」と問いかけます。打越も叔母を原爆で亡くしていますので皆実の苦悩はよく理解できます。皆実から10年前の話を聞いた打越は「生きとってくれてありがとう」と皆実の手を握ります。
皆実は体に力が入らないようになり,勤め先を休んで床につきます。見舞いに来た打越から「おまえ」と言われ,ひと時の幸せな気分に浸ります。
しかし,家を出た打越が「月がとっても青いから」と口ずさみます。皆実は自分の病状の行く末を予感したのか,その歌の最後の歌詞である「もう今日かぎり 逢えぬとも 想い出は捨てずに 君と誓った 並木道 二人っきりで サ,帰ろう」と続けます。
皆実の容態は急速に悪化し,意識が遠のいていきます。モノローグは「ひどいなあ てっきりわたしは 死なずにすんだ人かと思っていたのに ああ 風・・・ 夕凪が終わったんかねえ」と続きます。
打越から「生きとってくれてありがとう」と告げられ,将来の希望が見えた皆実はあの日から10年後に原爆症で他界します。布団から出た彼女の手はあのハンカチを握りしめています。広島市にある平野家の墓石には『昭和三十年九月八日 皆実 二十三才』と記されています。
桜の国
「桜の国」は二部構成となっており,第一部は「夕凪の街」から32年後の1987年,第二部はその17年後の2004年の物語です。主人公は「石川七波」であり,第一部では小学生でした。七波は「夕凪の街」の平野皆実の姪にあたります。
皆実の弟の旭は水戸の叔母のところに疎開しており,被爆者というわけではありません。しかし,フジミは旭が被爆者の息子であることが将来に差し障りが出ることを危惧し,石川の家に養子に出します。
1955年に皆実が亡くなって母親のフジミが一人暮らしとなったため,広島の大学に入り,「夕凪の街」の母親と同居することになります。成人後に旭は広島で就職し,東京への転勤を機に「夕凪の街」で親しくしていた被爆者の「京花」と結婚し,母親を引き取ります。旭と京花の間には七波と凪生が生まれます。
「桜の国(第一部)」の開始時には京花は(原爆症で)亡くなっており,一家は西武新宿線新井薬師前駅の近くにフジミ,旭,七波,凪生の4人暮らしとなっています。ただし,凪生は喘息がひどく入院しており,フジミは付添として病院に詰めています。
「夕凪の街」の続編ともいえる「桜の国」をこの土地から始めたのは,当時,作者が中野通りの近くに住んでいたことと,中野通りの桜並木,旧野方配水塔という舞台装置が揃っていたからです。
友達の利根東子と別れて帰宅しても家には誰もいません。七波はユニフォームに着替えて近所の少年野球団の練習に出かけます。ボールが当たって鼻血を出し,桜の木の下で休んでいる七波は地面に落ちている花びらを拾い集めて練習を脱け出します。
駅までやってきてピアノ帰りの東子と出会い,お金を借りて一緒に凪生の病院に出かけます。フジミはおらず検査を受けて帰宅したようです。病室で七波は凪生のために桜の花びらを散らします。調子に乗った二人は紙ふぶきまでやって,まだ帰っていなかったフジミにゲンコツをもらいます。
学校の宿題として出された「将来の夢」について二人は話し合う機会を失してしまいます。怖かった祖母のフジミはその夏に亡くなります。原爆投下から42年後ですのでもう誰も原爆のせいと言う人はいません。その年の秋に凪生は通院治療となり,一家は病院の近くの田無に引っ越します。
桜の国(第二部)の開始時には七波は28歳になっており働いています。父親の旭は定年退職し,弟の凪生は研修医をしています。利根東子は看護師になっており,凪生は病院で彼女と再会しています。
七波は最近の父親の不審な行動を凪生に話します。電話代は先月の5倍にもなっていますし,散歩と称して2日も留守にすることがあります。七波は夕方外出する父親の後をつけます。七波を送り出す凪生は暗い表情をしています。
田無駅で父親は公衆電話をかけており,そこで東子と出会います。二人は父親と同じ電車に乗ります。新井薬師前で東子は電車を降りません。父親は東京駅から夜行の高速バスで広島に向かいます。
東子に腕を取られて七波はバスに乗り込み,東子から服と帽子を借りて変装します。東子はまだ服をもっておりちょっと様子がおかしいようです。
七波は久しぶりに会った東子から新井薬師前駅近くの家の最後の夏を思い出します。祖母のフジミは病の床についており,七波のことを原爆で亡くなった娘の翠の友だちと勘違いし,当時の記憶で話をしています。小学生の七波にとってはつらい経験です。
七波と東子は17年ぶりの再会ですが東子は凪生と会っていますので七波をすぐに分かったようです。広島に到着すると父親は七波の知らないいくつかの家を訪ねます。
東子は広島は初めてだと言います。広島にルーツをもつ七波にとっては広島は修学旅行で必ず訪れるべきところと思っていますから,修学旅行に広島が含まれないところがあると知ってちょっと驚きます。
1990年代の終わりころから修学旅行先として海外を選択する高校が増えています。目的は『国際感覚』を養うこととなっています。しかし,ここでいう『国際感覚』とはいったい何なのでしょうか。英語が出来ることなののでしょうか,海外を自在に旅行できるような能力なのでしょうか。
残念ながら違います。世界には多くの国や地域があり,それぞれ独自の文化や価値観をもっています。自分の国の価値観を絶対的なものとはしないでお互いの違いを認識し,それを尊重する姿勢が『国際感覚』です。
米国はグローバリゼーションを錦の御旗として米国流の価値観や経済活動を世界標準にしようとしています。これは正しい意味での国際感覚ではありません。
日本も巻き込まれている事例では『TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)』があります。太平洋を取り巻く11か国が参加しています。それぞれの国の経済事情,社会制度,文化的背景は異なりますので,それらを無視して米国流の世界標準を押し付けようとしても交渉が難航するのは明らかです。相手の譲れない一線をお互いが尊重する姿勢こそが国際感覚というものです。
話を元に戻して海外訪問の修学旅行では先生に引率され集団で短期間の移動を繰り返し,現地の人と触れ合うことなどほとんどありません。仮に触れ合えたとしても意思疎通はまずできません。これで国際感覚が身に付くなどとはとても考えられません。
2011年のデータでは公立高校の約8%,私立高校の約33%が海外を選択しており,海外修学旅行が高校のブランド力を高めるなどという本末転倒の考えが広く浸透していることが分かります。
修学旅行本来の目的に沿って,自然体験,歴史体験,文化体験,太平洋戦争の史跡を巡るなど日本でも見たり,体験できることはとても多いのです。そもそも外国人に日本のことをちゃんと説明できる程度の教養を身に付けることが国際感覚を養う第一歩なのです。
父親が見知らぬ家を訪問するので東子は別行動で平和公園を見に行くことにします。彼女は七波に「一段落したらここに電話して」とメモを差出します。父親は平野家の菩提寺に足を運びます。
墓石には祖父母と三人の叔母の名前が記されています。祖母のフジミがこのお墓に入っていますので,おそらく七波はここを訪れたことがあるはずです。
父親はさらに平和公園に行き,その北側にあり緑地帯となっているかって「夕凪の街」があった場所に向かいます。父親は本川の土手に座り,地元の人とのんびり話をしています。
父親が一人になって土手に座り直すと背景は「夕凪の街」に変わります。それは父親が思い描くことのできる心象風景なのです。父親が広島にやってきたのは自分のアイデンティティを再確認するためのものだったようです。
七波は東子に連絡するため渡されたメモを取り出そうと上着のポケットを探ると手紙が見つかります。それは凪生からのものであり,東子と凪生が付き合っていたこと,東子の両親からもう会わないでもらいたいと告げられたことが記されています。東子の両親を悲しませたりしたくないと,凪生は手紙をさようならで結んでいます。
母親の京花は七波が小学生の時に原爆症で亡くなっており,東子の両親は凪生に遺伝していることを怖れたのです。原爆投下から60年近くが経過しても被爆二世はまだ偏見の対象となっているのです。このように時系列を追って一つの被爆者家族を描くことにより,作者は原爆の罪深さを読者に伝えたかったのでしょう。
本川の土手に座っている父親はいつの間にか学生時代の旭になり,初めて広島にやってきて京花と出会ったシーンを回想します。京花は中学を卒業したばかりの兄との二人暮らしをしており,フジミの家に頻繁に出入りしています。京花は被爆者であり自分がトロいのは原爆のせいだと思い込んでいますが,旭はそれはおかしいと否定し,勉強を手伝ってあげます。
七波の連絡により東子が戻ってきて旭の追憶シーンはここで途切れます。東子は平和資料館を見学してきており,そのあまりのむごさに言葉を失い,吐き気を催します。その間に父親は宮島口行きの電車に乗ります。
気分のすぐれない東子を休ませるため七波はちょっと怪しげなホテルに入ります。部屋のドアを開けようとカギを差し込んだとき,七波は唐突に中野時代の家を思い出します。
七波が学校から帰ると母親の京花が血を吐いて倒れていました。母親の血のついた手が七波の服に触れたことは七波の小さなトラウマになっています。東子が腕に触れられたとき,七波は追憶から現実に引き戻されちょっと驚いた声を上げます。
ベッドに横になった東子は平和資料館を見て気分が悪くなった自分に対して「わたし看護師失格かなあ・・・ あれが家族や友達だったらと思っただけでもう・・・」とつぶやきます。看護師は病人の苦しみや死に立ち会う機会の多い職業ですが,原爆のむごさは次元の異なるものですから無理もありません。
ホテルを出た二人はフタバ洋品店の前を通ります。ここはかって京花が兄の結婚を機に独立し,お針子として働こうとしていたところです。旭は京花に平野の家に来るように言いますが,母親のフジミは被爆者である京花との結婚には反対のようです。旭には『被爆者』とは縁のない人生を歩んでもらいたいという親心から,フジミは旭を石川の家に養子に出したのです。
フジミは「なんでうちは死ねんのかね うちはもう知った人が原爆で死ぬのは見とうないよ・・・」と独り言のようにつぶやくフジミの気持ちをを旭には痛いほど分かります。
フジミは夫と三女をあの日に,長女を1週間後に,次女を10年後に亡くしており,その度に先立たれるつらさを味わってきました。「うちはもう知った人が原爆で死ぬのは見とうないよ・・・」とは原爆により理不尽な形で次々と家族を奪われていったフジミの偽らざる気持ちでしょう。
広島から帰りのバスの中で東子は「広島に来られてよかった 今度は両親と来るわ 来れば両親もきっと広島を好きになると思うから」と話します。東子の気持ちは凪生を広島に置き換えているのでしょう。彼女は凪生との結婚を両親に伝え説得する勇気を広島の平和資料館からもらったようです。
七波は寝入った東子に半分語りかけるようにつぶやきます。
母さんが三十八で死んだのが
原爆のせいかどうか誰も教えてはくれなかったよ
おばあちゃんが八十で死んだ時は
原爆のせいなんて言う人はもういなかったよ
なのに,凪生も私もいつ原爆のせいで死んでもおかしくない人間とか
決めつけられたりしてんだろうか
わたしが 東子ちゃんの町で出会ったすべてを
忘れたいものと決めつけているように
七波も今回の広島行きで被爆者二世であっても強く生きて行かなければならないと思うようになったようです。七波は凪生に電話して早朝の新井薬師前駅に呼び出します。近くの公園で凪生と再会した東子はより強い気持ちで凪生と接することができることでしょう。
七波は二人と別れて忘れたいと思っていた桜並木の街を歩いてみます。公園はドーム屋根をもった「旧野方配水塔」に隣接しており,ここの描写は原爆ドームを思わせます。
中野通りにある立体交差のような橋の上から七波は東子の上着のポケットに入っていた凪生の手紙を引き裂き,風に飛ばしながら「見てるんでしょう 母さん」と口にします。
七波の手を離れた紙ふぶきは桜の花びらに変わり,想いは桜の時期の広島に変わります。桜の下には旭と京花がいます。旭が東京に転勤することになり,母親と一緒に京花をヨメさんとして連れて行こうとします。
このプロポーズの場面は七波がいつか母親から聞いていたのでしょう。七波の美しい心象の場面が描かれています。七波は今の自分と同じ橋の上に並んでいる両親をイメージし,「こんな風景を私は知っている 生まれる前 そう,あのときわたしはふたりを見ていた そして確かにこの二人を選んで生まれてこようと決めたのだ」と言えるようになっています。
七波と一緒の電車に乗った父親の旭は28歳にもなって週末の予定もない娘に涙しますが,七波もこれからは被曝二世であることの負い目を払拭することができたようですので,人生を前向きに生きていけることでしょう。
父親は「(広島に行ったのは)今年は父さんのいちばんあとまで生きてた姉ちゃんの五十回忌でな それで姉ちゃんの知り合いにあって 昔話を聞かせて貰ってたんだよ 七波はその姉ちゃんに似ている気がするよ お前が幸せになんなきゃ姉ちゃんが泣くよ」と娘を励まします。
この作品は被爆者という重い十字架を背負い,あの日からの60年を生きてきた平野家,石川家の人々を描くことにより,凄惨を極めたあの日の情景をほとんど見せることなく,原爆の惨さや罪深さを極めて抒情的に描き出しています。
私などは理系の人間ですから原爆の本質を語るにはどうしても叙事的(具体的)な表現が必要だと考えてしまいます。
このような表現方法で原爆を描けるとはとても信じられない思いですが,読後感は悪くありません。それどころか,2回,3回と読み直す度に作者の緻密な計算が理解できるようになり,原爆の本質の一つの側面がみごとに語られていると思うようになります。
この作品はわずか100ページ足らずの小品でありながら,読者に訴えるメッセージ性はとても高く,かつ読者の気持ちにすんなり入っていける心地よさをもっています。
「夕凪の街」の皆実は幸せの入り口で,「桜の国」の京花は幸せの途中で原爆症で亡くなりました。しかし,次の世代の七波,凪生,東子はきっと幸せな人生を全うしてくれるでしょう。そんな気にさせられる作品です。