横山光輝
横山光輝(1934年生)は小島剛夕(1928年生),手塚治虫(1928年生),白土三平(1932年生)とほぼ同時代の漫画家であり,手塚の流れを受け継ぎ,新しいストーリー漫画の世界を開拓しました。
彼らの次の世代に属する石森章太郎(1938年生)も手塚の流れを受け継いでおり,黎明期の少年漫画において大きな足跡を残しました。メディアの露出が少ないためか知吊度は劣っていますが,横山の業績は手塚や石森に比してまったく遜色はありません。
横山光輝は兵庫県神戸市出身であり,手塚治虫の作品に感銘を受けて漫画家を志します。高校時代より『漫画少年』などに作品を投稿するようになります。高校卒業後,神戸銀行に入社しますが,漫画を描く時間がとれないため退職します。
映画会社の宣伝部員となり,その合間に貸本漫画を描いています。1954年に出版社のはからいで手塚の下で原作付きの作品を描いたり,『鉄腕アトム』のアシスタントとして活動したこともありました。
1956年に映画会社を退職し,月刊誌『少年』に発表した『鉄人28号』が人気作品となります。この年に上京し,本格的に漫画家として活動するようになります。
鉄腕アトムと鉄人28号
1956年頃の少年月刊誌には『少年』『少年画報』『冒険王』があり,私の漫画暦はこの頃から始まっています。『少年』誌上には手塚の『鉄腕アトム』と横山の『鉄人28号』は人気を二分していました。
奇しくもどちらもロボットを題材にしたものです。アトムは人間サイズであり,人工頭脳により自分の判断で行動することができ,動力源は原子力となっています。
アトムのモデルは米国のSF,例えばアイザック・アシモフのSF小説に求めることができます。当然,アトムにも下記のような『ロボット三原則』がプログラミングされているはずです。
第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。また,その危険を看過することによって,人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条:ロボットは人間にあたえられた命令に?従しなければならない。ただし,あたえられた命令が第一条に反する場合はこの限りでない。
第三条:ロボットは前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり,自己をまもらなければならない。
2058年の『ロボット工学ハンドブック』第56版『われはロボット』より
アトムのパワーは10万馬力となっていますがこれは大変なものです。2000ccクラスの車の出力が200馬力ほどですから,その500倍ということになります。電力に換算すると1馬力=746wですので7.46万kw
です。
一方,鉄人28号はその前身が巨大な破壊兵器であり,自身には判断機能はなく,人間の無線操縦装置で動きます。動力源は作品中には明示されていません。
無線操縦とはいえ,アイディアロボット・コンテストのように一挙手一投足を人間が制御するのではなく,例えば『相手を倒せ』といったマクロ命令で動くようになっているようです。ただし,敵に合わせて上手な戦いをするときなどには目視による細かい指示が必要になります。
鉄人28号が連載されていた頃は小学生でしたから,このような理屈に考えが及ぶわけもなく,アトムと鉄人の活躍を楽しみにしていました。この頃の漫画はひたすら娯楽のためにあり,親世代は『マンガばかりを読んでいると勉強がおろそかになる』と危惧していました。
中国の歴史への傾倒
横山は30代の半ばから中国の歴史や物語へ傾倒していき,その中で『水滸伝』『三国志』などの作品が生まれています。横山は新しい物語を紡ぎだすことに傾注するのではなく,安定した商品を世に送り出すことを心がけていたように感じられます。
これは一種の職人仕事のようなものです。登場人物の造形もこの時期からほとんど変化しておらず,淡々と描き進んで行く姿勢となっています。『水滸伝』も『三国志』もいわば原作があり,それを自分の解釈で絵にしていくという職人仕事となっています。
そのような作品は一定の面白さはありますが,個々の作品の個性は失われていきますので,複数の中から一つだけを選択すれば十分ということになります。昔は手元に『史記』『水滸伝』『戦国獅子伝』があり,春秋戦国の歴史がよく分かる『史記』だけを残すことになりました。
横山版『史記』の最大の特徴は絵と文のバランスがちょうど良いので読みやすいということです。歴史物語ですので絵が突出するのは内容理解の妨げになりますし,絵が上出来だと物語の面白さが損なわれます。
横山版『史記』はこのバランスが良いので退屈せずに,かつ内容を理解しながら読み進めることができます。これは作者が漫画家というよりは職人に徹して筆を進めたことによると考えています。
横山版『史記』の冒頭には,どうして司馬遷が史記を記すようになったかといういきさつが記されています。この記述は『漢書』からのものか,『史記』中の自伝によるものかは分かりませんが,だいたい歴史的事実に基づいたものになっています。
司馬遷の生誕年は紀元前145/135年の二説が並存しています。司馬家は周代の記録係である司馬氏の子孫であり,祖先には多くの文官を輩出しています。父親の司馬談は漢王朝で太史公の官職に就いていました。この役職は暦を作ったり,祭祀を取り仕切るものです。
司馬談が太史公の職にあったのは司馬遷が3歳の頃から30年ほどとされています。司馬談は官職にあったまま死亡していますので,彼が遺言を伝えたのは司馬遷が33歳頃のことです。
司馬談は祖先が取り組んだ歴史書編纂事業に対する熱意をもっており,死の床において司馬遷にその事業の完成と孔子が周代の祭祀を記した書の再集録を命じます。
この父の遺命により,太史公の官職に就いた司馬遷は宮刑の汚辱の中でも生き延び,紀元前90年に『史記』を完成させます。史記は130篇,536,500字の大作です。
内容は本紀12巻,表10巻,書8巻,世家30巻,列傳70巻からなります。本紀は王朝史であり,秦王朝以降は個人吊のものとなります。表は別紙のようなもので各時代の諸侯吊や年表となっています。書は礼や楽,暦などの個別事項を記したものです。世家は家系図のようなものであり,列傳は個人について記しており司馬遷の自伝を含みます。
当時は紙がありませんでしたので,高さ30cm,横幅は2-3cmの竹簡(竹製の板)あるいは木簡(木製の板)に一行分の文字を記し,それを順番に紐でまとめて編んでいくと書になります。
竹簡あるいは木簡の書は(幅は違いますが)小さな簾のようなものですから内側に巻いて保管し,読むときは紐をほどいて広げます。史記は130篇とされており,篇は書物の部分けを意味しているので,このような巻いた書が130本あったと考えられます。
亡失を防ぐため,正本を吊山に収蔵し,副本を京師に置いたとされています。父親の遺命を果たすことができた司馬遷がその後をどのように過ごしたのかははっきりしません。彼が亡くなったのはおそらく,武帝の崩御(前87年)前後ではないかとされています。史記の編纂に先立ち,司馬遷は太初暦(太陰暦)を制定しており,この業績も史記の編纂と並ぶ重要な業績です。
司馬遷より350年ほど前にギリシャでは『ヘロドトス』が『ヒストリア(全9巻)』を記しています。現在ではヒストリア=歴史となっていますが,古代ギリシア語では『探究』を意味しており,記述内容はペルシャ戦争の原因が主要テーマとなっています。
その探求のため周辺各地で話を聞き,それをまとめ上げ,自分なりのコメントを入れています。この分析により『ヒストリア』は世界最古の歴史書とされ,『ヘロドトス』自身は歴史の父と呼ばれるようになります。
しかし,古代ギリシャ世界では学問の対象は普遍的・恒常的なもののから真実を見つけ出そうとする姿勢であり,人間社会のように変化が必然のものは学問の対象にはなりませんでした。そのため,ヘロドトスの後を継ぐ歴史学者は現れていません。
歴史を世に残す行為は同じでも,司馬遷の歴史観とヘロドトスの歴史観はまったく異なっている点に注目しなければなりません。司馬遷は漢王朝の官僚であり,歴史とは自分の属している漢王朝の正統性を前提としなければならなかったという点です。
そのため,漢王朝にとって都合の悪いことは書けませんでした。この制限は司馬遷以後に書かれている王朝の正史すべてに共通するものであり,少なくとも王朝の問題点は当たり障りのないように,王朝の威光に関することはより大げさに記されていると考えるのが妥当です。
一方,ヘロドトスは自由人の立場で記したものですから,(ギリシャびいきのところはあるにしても)中立的な視点から記されていることが期待できます。同じ歴史書を読むにしてもそれらが記された背景を考察しないと,正しい歴史は学べないことになります。
近代になっても歴史の記述には学問の中立性が担保されているわけではありません。個人あるいは団体の意図がその中に含まれていることは日本の近代史における論争を見ても明らかです。司馬遷が2000年前に受けた制約は形を変えて現代にも受け継がれています。これもまた歴史の皮肉なのでしょうか。
史記の世界
史記は伝説の五帝の時代から漢王朝における呂后の専横が終了するまでの歴史が記されていますが,横山『史記』が取り上げているのは春秋時代以降のものです。司馬遷の立場としては少なくとも秦王朝の滅亡あたりまでは,中立的な視点で書くことができたのではと推測します。
私は『史記』の日本語訳を読んだことがありませんが,横山『史記』では漢の高祖・劉邦について市井の無頼漢のように記されていますから,司馬遷はこれを門外上出の書として記したようにも見えます。
実際,司馬遷は完成した『史記』を娘に託し,それは武帝の逆鱗に触れるような記述があるため隠されることになり,宣帝(在位BC73-49年)の代になり,司馬遷の孫の楊ツが世に広めたとされています。
BC1711 |
殷王朝始まる |
日本人は中学や高校で日本史を学びますが,ほとんどが退屈なイベントの暗記科目となっています。そのため,卒業すると速やかに記憶から消去されていきます。
それに対して史記はイベントを動かした人物を中心に書いており,血沸き肉躍るとはいかないまでも日本の教科書よりもずっと読みやすい物語となっています。
それが,横山版『史記』になると,絵が加わることによりさらに面白く,分かりやすいものになっています。横山自身も司馬遷の自身の話を締めくくるにあたり,次のように記しています。
史記は単なる記録ではなく,登場する人物に血を通わせ,短評まで加えている。それがために大河小説であるとさえ言われているのである。しかし,後世にまでその書を残したということは立派に親に『孝』を果たしたことになる。司馬遷の死んだ年代は武帝の死の前後であろうといわれているが定かではない。