森雅之
森雅之(1957年生)は北海道浦河町出身で現在は札幌市に在住しています。北海道デザイナー専門学校(現・北海道芸術デザイン専門学校)を卒業後,1976年に「写真物語」で漫画家デビューを果たしています。デビューから31歳までは東京で過ごし,その後,北海道にUターンしています。一時期は浦河で仕事をしていたようですが,現在の仕事場は札幌です。
浦河町と聞いてすぐ場所が分かる方は少ないでしょう。北海道の屋根と言われる大雪山系が中央部にあり,そこから南東方向に日高山脈が走り,その先端が襟裳岬です。
浦河町は日高山脈の西側の海岸沿いにある小さな町で苫小牧から海岸沿いを走る日高本線が通っています。日高山脈が海岸近くまで迫っており,平地の少ない地形です。浦河町の面積は694km2,人口は13,400人となっています。1970年頃は2万人を超えていましたので過疎化が進んでいることが分かります。
それに対して日高山脈の東側には十勝平野が広がっており,日本とは思えない広い農地となっています。そこは私の原風景です。高校時代までは帯広に暮らしていましたので,教室から日高の山脈を眺めていたものです。
漫画家の鈴木翁二(1949年生)は義兄となっていますので,奥様は鈴木翁二の妹さんということになります。鈴木翁二は愛知県出身で現在は浦河町で暮らしているということですので接点は浦河町なのでしょうか,それとも,「銀河画報社」のつながりなのでしょうか。
私は鈴木翁二と同じ「団塊世代」ですが,彼についてはまったく知りませんでした。雑誌ガロが主要な活躍の場であったため,私の目に触れなかったようです。
森雅之についてもメジャーの漫画誌に掲載されることは少なく,単行本の「ペッパーミント物語」を2005年頃に古本屋で見つけたときは,不思議な物語を描く人だなあとという素朴な感想でした。
毎回登場人物は変わり,思春期の少女の周りで日常的に起こるなにげない出来事から生まれる心のさざ波をていねいに描いています。しかも1ページが9コマに均等割りされており,2ページで1話が構成されています。
こんな形式の漫画は見たことがありませんでした。1996年に第25回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞しています。う〜ん,私が知らなかっただけで漫画の世界では高い評価を受けているんですね。
私的漫画世界を書こうとしたところあまりにも作者について知らないので,森雅之自選作品集から「夜と薔薇」,「散歩しながらうたう唄」をアマゾンから取り寄せました。
この2冊が揃ったことで作者について理解が深まるかと思ったら,逆にちょっと混乱してしまいました。でも,この2冊と「ペッパーミント物語」をじっくり読むと作者の創作の原点と方向性が分かるのではと期待しています。
ペッパーミント物語の表現形式
月刊「Duet」で99回に渡り連載され,単行本化するときに1話が追加され100話からできています。1ページは同じ大きさの9コマからできており,2ページで1話ができてります。つまり,見開きの2ページで1話ということになります。
注意して見ると枠線が少し波打っています。もしかしてこれは手書きの線なのでしょうか。そういえば作品中のカレンダーも同じような線になっています。墨入れのときには定規を使わないというのは作者のこだわりなのかもしれません。
絵柄や表現方法はデビュー以来ほとんど変わっていないようです。このような作品を漫画の範疇に入れてよいものかは迷うところです。特に「ペッパーミント物語」では漫画にはつきものの吹き出しによるせりふは一切ありません。絵の背景に説明文あるいは登場人物のせりふが埋め込まれています。
このテキストの部分を抜き出してくると一篇の詩のようになります。見方によっては思春期の少女の日常や揺れ動く心をそのまま表現した文章が先にあり,その説明のため18コマに絵を配置したようになってます。
このような表現形式は絵本に見られるものであり,文章による物語を絵から得られる副次的な情報が補足する性質をもっています。こうして考えると,「ペッパーミント物語」の表現形式は絵による視覚効果を付加した詩文という位置づけになります。
このようなものは漫画の世界でも類例がなく,作者独自の世界は漫画という媒体による表現の可能性を広げるものとなっています。上下二巻で再刊されたものの帯には次のように記されています。
「Duet」で8年にわたり連載された森雅之の代表作!
胸の奥にそっとしまった宝物!
それは,何気ない日常がキラキラしていた学生時代の想い出
そっとこの本をめくれば,あの頃のあなたに出合えるはずです
何年経っても,何十年経っても
あなたの事大好きな今日の私がここにいます
生まれて初めて書いたラブレターは
今でも机の奥に大切にしまってあります!
学生時代の思い出はなんだか懐かしく,でもちょっぴり切ない!
幸せになるなんて簡単なこと
だれかを好きになればいい!
う〜ん,さすがにプロのコピーライターはこの作品のツボを的確に表現していますね。当たり前のことですが,表現形式だけが良い作品の評価に結び付くものではありません。この作品は青春の思い出の一コマを切り取ったアルバムや日記のようなものとなっています。
1話ごとに描かれている学生時代の思い出の一コマに読者は自分の記憶をオーバーラップさせることにより,暖かい共感を呼び起こすものとなっています。
第5話|ヤア!
進級して沢山の友達とはなれ離れ
それから 廊下で会うと変な感じ
一人同士の時なら
(ヤア!) っていうのに
だれかといると
わざとみたいに 知らぬ顔してすれ違う
寂しいな
その時なんだかすごく遠くなったように思ったけど
また会った時,
(ヤア!) っていってくれた
だから私はドキドキする
池田君の教室の前を通る時
遠くにいるのを見かけたとき
廊下の角を曲がる時
あ〜も〜疲れるなあ!
何やってんだ
私 バカみたい
ホント バカみたいだけど
私 その「ドキドキ」
ホントはちょっと イヤじゃないみたい
第5話のコマ背景に書き込まれているテキストを並べると上のようになり,きれいな詩文になっています。おそらく作者はまずテキストを創り,それを18コマの中に分けて入れ,そのテキストに合わせて絵を描いているのでしょう。
第17話|タイム・レター
もうじき卒業
見てるだけで よかったのに
もう毎日会えない
ひょっとしたら
もう二度と会えないかもしれないと思うと
本当に 悲しかった
それで ついに決心して書いた
ラブレターだったけど
どうしても 渡すことができず
ずっとカバンの底
(集合写真とりますから 中庭に集合して下さい!!)
(はーい 一生で一番いい顔してねー)
胸のポケットからのぞく 封筒の白い端
何年たっても 何十年たっても
千葉君の事 大好きな今日の私が
ここに います
この話は渡せなかったラブレターと卒業写真を結びつけたところが秀逸な発想となっています。制服の胸ポケットからわずかに覗く封筒がその時の自分の気持ちを思い出させてくれます。
第32話|キャンドルナイト
クリスマス 一緒に町に行こうと約束していたのに
ごめん!
急に塾の「入試特訓コース」 行くことにやったんだ
これ・・・・・・
早いけれどクリスマスプレゼント!
・・・・・・うん わかった!
しっかり勉強してね
もらった プレゼントは
クリスマスの夜に開けた
あー!
前「いいなあ」って言ったのおぼえておいてくれたんだ!
あきら君は「クリスマスは毎年あるよね」と言ったけど
でも 100才まで生きたって
たった100回しかクリスマスないんだよ
私 平気だと思っていたけど
やっぱり ちょっと 淋しいな
あきら君のプレゼントはキャンドルでした。キャンドルに火を付け,電気を消した部屋の中で灯る小さな明かり見ながら「ちょっと淋しいな」とつぶやく少女が印象的です。また,100歳まで生きてもクリスマスは100回しかないという表現もうなづけます。
人生は長いようでも短いものです。青春時代も駆け足で通り過ぎて行きますので毎日を精一杯誠実に生きたいものです。それは還暦を過ぎて毎日が自由時間となった我々世代も同じことです。
第40話|帽子
卒業式
泉ちゃん! 先輩のサインもらわないの!?
うん!
サインはいいの!
去年の夏休み クラブ練習のあと
あこがれの 吉野先輩と
初めて会話を交わした
(ポン)
少しはサーブ入るようになったかい?
私はその帽子を見ると
いまでも いつでも
先輩の声や ポンと叩かれたときの感じや
空や 木や 汗や
あの日の全部を思い出せる
だから 私 サインはいらないの
あこがれの先輩と交わした会話をキーにそのときの情景をしっかり記憶した泉ちゃんにとっては卒業式のサインは不要です。私たちは毎日のようにたくさんのことを経験し,その大半を忘れていきます。
でも,友達一人について一つの場面を思い出として記憶しておくことができれば素敵ですね。卒業アルバムを見ながら一人ひとりの場面を思い出せることができたら,それはサイン帳よりずっと価値のあるものです。
第45話|アルバイト
反対するお母さんを説き伏せて
夏休み 念願のアルバイト
(スーパーの在庫係)
「思っていたよりきついよォ! 働くのって大変だ!」
バイト代出たら
一番に誕生日のプレゼントするね!
いや・・・ オレ 三番目でいいよ!
!?
お父さんとお母さんの次でいいよ
そして バイト終了
ヒトシ君に言われた通り
お父さんには養毛剤
お母さんにはエプロンのプレゼント
ところが!
お母さんの眼がうるうるになったので
あわてた!!
(あ,いやいや スゴイ安いの それ)
いやあ
今年の夏休みの事 いつまでも忘れないだろう
と 思った
ヒトシ君に何プレゼントしようかな?
ヒトシ君の「いや・・・ オレ 三番目でいいよ」という言葉がこの話のキーです。う〜ん,ヒトシ君はよくそこに気が付きましたね。儒教における「孝」の概念は戦後の家父長制度の消滅とともにほとんど顧みられることがなくなりました。
昭和47年(1971年)にヒットした「瀬戸の花嫁」の歌詞に「男だったら 泣いたりせずに 父さん母さん 大事にしてね」という一節があり,当時でもよくこんな言葉がさらっと出てきたものだねと話題になったことを覚えています。「ペッパーミント物語」はそれからさらに15年後の作品であり,よく「三番目でいいよ」を思い付いたものだと感心します。
「ペッパーミント物語」にはこのようななにげない話の中に,宝石のようなきらめきが一つずつ収められています。この単行本の中には100個のキラキラした宝石が収められており,その輝きは読者の青春時代の残照であるとともに,私たちの忘れてしまっていた瑞々しいそして暖かい感情を思い出させてくれるものです。