森秀樹
森秀樹は鳥取県出身で1982年に「チェイサー」でデビューしています。初期の代表作となる「青空しょって」の前半まではあだち充に近いすっきりした絵柄でしたが,次第に劇画タッチとなり,次作の「墨攻」では完全な劇画作家に変身しています。
森秀樹は「小島剛夕」にあこがれて漫画の世界に入りましたので,「墨攻」から彼への傾倒が始まったようです。小島剛夕(1928-2000年)に対して33歳若い森は敬愛する小島剛夕の後を継ぐように新・子連れ狼(原作:小池一夫)を2003年から執筆しています。
春秋戦国時代
春秋戦国時代とは中国古代の動乱期の呼称であり,紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから,紀元前221年に秦が中国を統一するまでの約550年間の時期をいいます。この時期に周王朝は力を失ったとはいえ存続していますので東周時代ともいわれます。春秋戦国時代は二つに区分され紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代,それ以降を戦国時代とすることが多いようです。
周の時代,黄河周辺の中原と呼ばれていた地域には都市国家が点在していました。王と呼ばれる支配者は周の王一人であり,都市国家の長は諸侯と呼ばれています。周王は都市国家群を直接支配していたわけではなく,諸侯に一定の領地と結びついた爵位を授与し,その見返りが貢納や軍事奉仕などとなっていました。
このように君主が貴族に領域支配を認める制度を「分封建国」といい,封建制度の由来となっています。いってみれば周代の中原は周を盟主とする大小の都市国家連合ということができます。
西周代(紀元前1046年頃-紀元前770年)初期の都市国家は邑(ゆう)と呼ばれ,支配者(諸侯)の住まいや宗廟など邑の中核となる施設を小高い丘陵地に設け,その周囲を堅牢な城壁で囲っていました。城壁の周辺は一般居住区となており,その周囲を簡単な土壁で囲うという構造となっていました。戦争時に住民は城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦していました。
しかし,都市国家はしだいに統合されていき,規模が大きくなると邑の外壁が強化されていきます。これは,住民の生命・財産を守ることが邑の最重要の機能となったことを表しています。従来の内壁は「城」,新たに強化された外壁を「郭」といい,城郭という言葉はここから派生しています。
邑の外壁は黄土と黄土から製造された焼成煉瓦からできています。今から2500年も前に邑を完全に囲む巨大な外壁を建造できたのは無尽蔵にある黄土のお陰です。黄土はゴビ沙漠から飛来してきた微粒子であり,突き固めると強固になり,水が加わると簡単に流れ出す性質をもっています。この性質を利用し,版築という工法が中国文明の初期から利用されていました。版築の工法についてwikipedia は次のように記されています。
版築を作る部分を決め,両側を板などで囲み枠を作る。板の大きさは長さが1.5m程度,高さは高くても10cmぐらいである。一回の高さは薄いほうが頑丈である。枠は横に支えになる柱を立てるなど,強い構造にする必要がある。
板で挟まれた間に土を入れる。より頑丈にするために土に小石や砂利,藁や粘土を混ぜることもある。たたき棒や"たこ"と呼ばれる道具で,入れた土を硬く突き固める。板の高さいっぱいまで突き固めたら,板の上に新しく板を継ぎ足すか,それまでの板を外し次の枠を作る。
この工法は現代のコンクリートで家の土台などを造るときのものと類似しています。異なるのはその大きさです。外敵から住民を守るためのものですから厚みと高さが要求されます。
山西省で現存する最も古く,規模の大きな城壁である平遥古城壁は西周の時代に建造され,明代に拡張されています。城壁は四角形をしており,長さは6157m,壁の高さは約10mであり,城壁の上部には石が敷き詰められており,上部は馬二頭が並んで通れる幅があります。
おそらく基部の厚さは少なくとも5mはあるでしょう。現存する西安の城壁の基部の厚さは8-13mとなっています。計算を簡単にするため総延長6000m,厚さ5m,高さ10mとすると必要な土砂の量は30万m3となります。これは東京ドームの4分の1の容積です。
版築で突き固めた黄土も雨にあたるともろくなりますので,城壁の表面は防水用の焼成煉瓦で覆われました。この城壁は堅牢であり,人為的な破壊がなければ長期の利用に耐えられます。
邑の周囲には農耕地が広がっており,そこまでは邑の土地ということになります。その外側には「夷」と呼ばれる非定住の部族が生活しており,彼らはしばしば邑を襲って略奪を働いていました。「夷」とは周王室にまつろわぬ未開の蛮族という意味が込められています。
「夷」に対抗できない規模の小さな邑は大きな邑に吸収されていきます。さらに,春秋以降の動乱は邑の統合を加速することになりました。邑の規模は大きくなり,点であった都市国家から一定の面積を有する領土国家へと発展していきます。
戦国時代になるといくつかの都市国家を支配する大きな勢力が生まれ,領土の拡大を巡って大規模な戦争を行うようになります。戦争に敗れた方は勝者の支配下に入るのではなく,国が滅亡することになり,春秋時代には200を超えていた邑は最終的に秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国に収斂され,「戦国七雄」と呼ばれるようにます。
それらの国はそれぞれ王を戴き国家の存亡をかけて争います。戦乱の時期は富国強兵が国の最重要課題となり,多くの思想家やすぐれた人材が活躍した時代となります。
そのような人々を歴史の一部として記録したものが前漢時代に司馬遷が記した「史記」です。当時はまだ紙がありませんので「史記」は竹簡に記されました。このような記録が残されたことにより,春秋戦国時代の多くの故事が現代にまで伝わることになります。
余談になりますが,竹簡は高さ30cm,横幅は2-3cmの竹を加工した板であり,一つが一行に相当します。それを順番に紐でまとめて編んでいくと書になります。ここから書を編む=編集という言葉ができています。竹簡の書は(幅は違いますが)小さな簾のようなものですから内側に巻いて保管し,読むときは紐をほどいて広げます。紐解く(書を読むこと)の語源もここにあります。
「墨攻」の題材となった趙軍による梁城攻略戦がどのような史料に基づくものかは分かりませんが,おそらく史記に記されていると推測します。
孫子と墨子の思想(避戦と非攻)
「墨家」は戦国時代に墨子を祖とする思想家集団であり,諸子百家の一つです。春秋時代に始まる諸子百家の思想は大きく区分すると下記のようになります。
(1)人はどう生きればよいか
(2)国や君主はどうあるべきか
(3)富国強兵を実現するためにはどうすればよいか
国と国とが存亡をかけて戦う戦国時代になると「富国強兵」が国是となり,それを実現するための思想が力をもつようになります。
その中で「墨家」は異彩な思想であり,その基本思想は墨家十論としてまとめられています。特に兼愛,非攻は世界の古代社会を見渡しても類例のない平和・博愛思想です。「兼愛」とは全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教えであり,イエス・キリストの言葉に通じるものです。
墨子は儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であると批判しています。それ以外にも節葬(葬礼を簡素にし祭礼にかかる浪費を防ぐ)の教えは儒家の祭礼重視の考えとは正面から対立するものです。
「非攻」は戦争による殺戮や社会の荒廃を非難し,他国への侵略を否定しています。このような平和思想が2000年以上前に生まれたことは中国の懐の深さを示すものとして感嘆します。
ただし,「非攻」とはいっても防衛のための戦争は否定しておらず,優れた人材を育成し,城郭防衛技術・用具を発展させた軍事集団でもありました。多くの史料から墨家は要請により,城郭の防御のため軍事集団を派遣しています。ここから「墨守」という言葉が生まれています。派遣集団は鉅子(きょし)というリーダーのもとで,城郭防衛のため身を粉にして働いたといいます。
そのような思想集団は秦の天下統一とともに完全に姿を消してしまいます。「焚書坑儒」に代表されるように,秦帝国は皇帝を頂点とする中央集権統治の邪魔になる思想は徹底的に排除していった考えられます。
墨家は真っ先に排除され,秦帝国滅亡後もその特異な思想から他家と鋭く対立したことから抹殺されたと考えるのが妥当です。あの司馬遷をもってしても墨子についてはほとんど記しておらず,なんらかの意図が働いていたと考えられます。時代に超越した思想が再び注目されるようになったのは,列強の侵略と内乱に脅かされる清朝末期のことです。
世に「孫子の兵法」と言われている「孫子」は古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つであり,その原典は春秋から戦国にかけての時期に「孫武」により記されています。その後も後継者たちにより注釈や解説が付加されていったと考えられています。
孫武の子孫とされ,斉に仕えた「孫びん」も兵法書を著しており,かっては孫子の著者と考えられたこともありますが,考古学的発見により孫武の著作であることが確認されています。
「孫子」の最大の特徴は戦争=戦闘という固定概念にまったく捕らわれていないことです。戦争とは巨大な浪費であり,国家経済の基盤を揺るがすほど金のかかるものとしており,できる限り回避するのが最上の策としています。そして,いざ開戦となった場合はできるだけ短期に終結させ,国家経済への影響を最小限に止めることを目指しています。
「孫子」以前は戦争の勝敗は天運によるという考え方が支配的でしたが,孫武は戦争には勝った理由,負けた理由があることを分析しています。そのような分析から戦闘で勝つための論理が導き出され,13編の兵法書にまとまっています。
兵法の部分は確実に勝つための手段ですが,「孫子」の価値は戦争=最大の浪費なので可能な限り戦略的に回避するようにしていることです。日本でも古くから「孫氏の兵法」は読まれていますが,残念ながらこの「避戦」,あるいは勝算の無い戦争はしないという考え方はまったく理解されず破滅的な戦争への道を突き進むことになります。