星野之宣
星野之宣(1955年生)は愛知県立芸術大学美術学部日本画科を中退しています。中退の理由は性に合わなかったからとされています。1975年に「鋼鉄のクイーン」でデビューし,「はるかなる朝」で第9回手塚賞を受賞しています。
初期の作品はスケールの大きな緻密な設定のSFがメインとなっています。描画タッチは時間とともに劇画風に変わっていき,レベルの高いSFとよくマッチしており,私の好きな漫画家の一人です。
話をSFに絞ると欧米の名作と同列に論じても良いほどの優れたアイデアとストリー性があると評価しています。SFはアイディアが命ですが,それも荒唐無稽に陥らない節度が必要であり,内容のリアリティとそれを支えるだけの作画力を併せもつ星野SFには魅せられています。
しかし,ある時期からSF作家のイメージを払拭するかのように古代史を題材にした伝奇ミステリーを手がけています。この創作の方向を変更するにあたっては親交の深い「諸星大二郎」の影響が大きいとされています。
星野自身も神話世界を題材にした「ヤマトの火」を手がけるにあたって,先駆者たる諸星大二郎の「暗黒神話」を参照しており,「これ以外に頼るよすががなかった」と語っています。
「ヤマトの火」は完結することなく中断しました,それに続く「ヤマタイカ」は1700年の時空を超えて二つの民族がせめぎ合う壮大な物語となっています。その後も古代史の世界を題材にした「宗像教授シリーズ」を手がけており,2000年代に入るとSFと古代史の世界を行き来する執筆活動を続けています。
古代日本人のルーツ
古代日本人とは縄文時代(16,500-3,000年前)に狩猟・採集・小規模農業で暮らしていた縄文人と,2500年ほど前から水田稲作技術を携えて断続的に中国大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人が混血したものであるというのが定説となっています。
もちろん土地を巡る争いにより武力衝突が起こったことも確認されていますが,おおむね平和裏に二つの集団は時間をかけて混ざり合ったとされています。
縄文人もアジア大陸から移住してきた人々なのですがいつ頃,どの地域からやってきた人々かについては現在でも多くの学説が並立している状況です。そのような中でも縄文人のルーツは下記の3地域という学説が有力です。
(1) 中国大陸から朝鮮半島を経由してきた人々(古モンゴロイド)
(2) 東シベリヤからカラフトを経由してきた人々(北方系アジア人)
(3) スンダランドから琉球列島を経由してきた人々(南方系アジア人)
現生人類のアジアへの主要な移動ルートは大きく北方ルートと南方ルートに分かれ,それぞれ北方系アジア人,南方系アジア人を形成しました。3-4万年前に両者に挟まれた地域における優勢集団を古モンドロイドと呼んでいます。
彼らは南方系アジア人であると考えられてきましたが,日本人に特異な男性のY染色体(D2型)から,中央アジアから西にまっすぐ移動したD型集団の可能性が高いと考えられます。このD型集団はほとんど陸続きであった朝鮮半島を経由して日本にやってきました。
しかし,大陸の集団はその後に南下してきた北方アジア人(O型,新モンゴロイド)により追いやられたり吸収されて,現在ではD型はチベット人,雲南少数民族,日本人にだけ残されています。日本列島はその時期には孤立した島となっていたためD型が特異的に残ったと考えられます。
朝鮮半島を経由して入ってきた古モンゴロイドの人々をベースに,東シベリヤからやってきた人々(マンモスハンター)や黒潮に乗って北上してきた南方系アジア人が加わって縄文人を形成したと考えられています。
間氷期に入り日本列島や琉球列島が大陸から孤立することにより,外部から新しい人々が流入することが少なくなくなります。彼らは気候が温暖で植物性の食料や魚介類に恵まれた日本列島で共存・混血し,縄文人を形成しました。1万年以上にわたり孤立した集団となったため,縄文人は比較的,遺伝子の均一な集団となっています。
考古学的な証拠からすると,縄文時代の中期(約5500年前)から縄文晩期(約3000年前)を平均すると縄文人の人口は15万人ほどと推定されます。当時は肉やミルクを提供してくれる家畜はいませんでしたが,海産物や堅果類に恵まれた日本列島の環境は世界的にみても豊かな食料を提供してくれたはずです。それでも狩猟・採集生活で日本列島が養うことができたのは15万人程度ということです。
江戸時代末期の北海道(面積8.3万km2)に居住していたアイヌの人たちはおよそ2万人でした。サケの遡上という安定した大きな食料源をもっていても,狩猟採集では2万人が限界であったようです。
2500年前頃になると戦乱の続く中国大陸から水田稲作技術を携えて多くの渡来人がやってきます。彼らは縄文人とあるときは争い,あるときは混血しながら新しい日本人を形成していきます。渡来人は一度にやってきたわけではなく,小さな集団で(おそらく1000年ほどの間に)断続的に移住したと考えられます。
現在の日本人は混血が進んでおり,地域的な差異は小さくなっていますが,遺伝子のレベルで調べると有意の地域差が出ています。渡来人との交雑が少ないと考えられる琉球の人々とアイヌの人々の遺伝子は近縁度が高いことも分かっています。
その結果,弥生時代の初期(2000年前)には人口流入と水田稲作により日本列島の人口は59万人ほどに急増しています。狩猟採集の人口扶養力は0.1人/km2程度ですが,農耕ははるかに多くの人口を養うことができます。
大雑把な試算では単位面積で比較した場合,粗放農業でも狩猟採集の100倍ほどの人口を扶養できるとされています。この人口急増期の優勢民族は渡来人であったことは現在の日本人の遺伝子解析からも裏付けられています。
最近の人類学の結論としては,現代の日本人は渡来系が7-8割,縄文系が2-3割の比率で混血しているそうです。この比率は渡来人が積極的に縄文人を駆逐した結果なのか,それとも初期の縄文人と渡来人の人口比が反映されたものなのか,あるいは水田稲作技術による渡来人の食糧生産性(=扶養人口)によるものなのかは興味のあるところです。
卑弥呼の時代(3世紀後半)には両者の混血は広範囲に進んでおり,「縄文人」と「渡来人」という対立軸は存在していないと考えるが妥当です。仮に渡来人が人口比率の大きな支配者階級を形成し,縄文人が隷属階級となったとするならば,その結果は日本語の形成に大きく影響したはずです。つまり,支配階級の言語が相応の影響を与えたはずです。
しかし,日本語は中国語と異なる北方モンゴロイドと共通する膠着語であり,単語には多くの南方起源のものが含まれています。世界的にも征服階級の言語はその地域の言語に大きな影響を与えるのが通例であり,日本語がおそらく縄文人の言語をベースにしていることを考えると,二つの集団は制服・被征服という関係より混合・同化の関係であったと考えるのが妥当です。
渡来人は縄文人を圧倒したということは言語学の上からも可能性は小さいと考えます。もう一つの問題,「邪馬台国」と「大和朝廷」の関係については「藤原カムイ・雷火」のところに記しておきました。
物語の基本設定
この物語のテーマの一つは古代日本人のルーツということになります。物語では古代日本人は東南アジアから渡ってきた「火の民族」である縄文人と大陸から渡来した「日の民族」である弥生人としています。
東南アジアの島嶼部であるインドネシアからフィリピン,そして日本列島は環太平洋火山地帯の一部であり,世界的にも最も火山の集中している地域です。「火の民族」とは南方系の民族であり,黒潮に乗って日本列島までやってきた人々です。
彼らの故郷であるスンダランド(氷期に海水面が低下し東南アジアはインドシナ半島とボルネオ島やスマトラ島,大スンダ列島が陸続きになり巨大な陸域となりました)には多くの火山がありました。そこに居住する人々は火山を尊崇し,火山を生命エネルギーの源泉ととするマツリの文化をもっていました。これが「火の民族」ルーツとなります。
そこからやって来て,1万年以上にわたって日本列島に居住した縄文人は噴煙を上げ,ときには噴火する火山を神の力の象徴あるいは神そのものと崇める「火の民族」となりました。
一方,中国大陸には(一部を除き)ほとんど火山は存在しません。そこから新たに日本列島にやってきた渡来人は火山の存在を知らないあるいは火山を恐れる民族であり,彼らは平地で稲作を行い,そのため太陽を崇める「日の民族」となりました。
両者は卑弥呼が亡くなった後の3世紀末期に対立し,九州・阿蘇を中心としていた「火の民族」の「邪馬台国」は「日の民族」に制圧され,「火の民族」は南方と東方に追いやられます。「日の民族」は阿蘇山の噴火により破壊された邪馬台国を出て,近畿地域に東遷し,大和朝廷の祖になったとしています。
これにより「火の民族」はさらに東方に追いやられたり,「日の民族」に同化されていきます。物語の基本設定は「火の民族」の遺伝子は従順で,勤勉で,おとなしい「日の民族」となった現代の日本人の中にも息づいており,両者の潜在的な対立は現在まで続いているということになっています。
日本列島の東側はフィリピン海プレートや太平洋レートが陸側のプレートの下に沈み込んでいるにもかかわらず四国から紀伊半島にかけての地域には活動中の火山がありません。この事実も物語の中では火山を恐れる「日の民族」が支配地域である中国・四国から近畿にかけての火山活動を押さえこんでいるという設定につながっています。その要となるのが西の宇佐と東の伊勢です。
物語は沖縄本島の東に位置する久高島から始まります。沖縄には「ノロ」と呼ばれる「祝女」あるいは「神女」が存在しており,物語では彼らの祖先は卑弥呼の亡き後に「日の民族」により征服された邪馬台国から虐殺を逃れて舟で脱出したあるいは追放された「巫女(まつりめ)」であるとされています。
彼女たちの舟には卑弥呼の亡骸が乗せられており,それは沖縄に流れ着き,本島最高の聖域である斎場御獄(せーふぁうたき)に舟とともに葬らました。斎場御獄の沖合にある久高島は古くは神の島と呼ばれ,最も霊威高き神女の島とされてきました。
この島で生まれた「伊那輪神子」は大霊力をもつ存在となり,古代から時空を超えて語りかけ,エネルギーを送ってくる卑弥呼により「火の巫女(まつりめ)」として行動することになります。そのための「依代」が「火山噴火」であり「戦艦大和」です。この二つの依代によりヤマタイカ(火の民族のマツリ)が始まろうとしています。
この物語におけるもう一つの重要な要素は「オモイカネ」と呼ばれる高さ10mもの巨大銅鐸です。この銅鐸は思念の増幅器として働き,「火の巫女」である卑弥呼の時代に鋳造され,卑弥呼ひいては邪馬台国にとってはもっとも重要な祭器でした。
邪馬台国を追われた「巫女(まつりめ)」たちは「オモイカネ」のミニチュア銅鐸である「オモイマツカネ」を携えてきており,斎場御獄には古代船と一緒に葬られています。このオモイマツカネを通して死を1年後に控えた「卑弥呼(ヒミコ,フィミカ)」が現代の「伊那輪神子(いざわみわこ)」に大いなる「火の神のマツリ」についてメッセージを送ってきます。
第1場|沖縄久高島
久高島を望む沖縄本島の斎場御獄(せーふぁうたき)を訪れた熱雷草作と息子の岳彦は神子の一行と出会います。御獄とは沖縄の聖地であり,巨石や森といった自然崇拝の一形式であり,そこは神女たちが神事を行う場所であり,男子禁制の神域です。
特に久高島のエネルギーを集める場所にある斎場御獄は沖縄本島でもっとも霊威のある聖地とされています。この場所で洞窟を見つけた熱雷は岩の間に置かれた古代船を発見します。その舟には古代の冠を付けた頭骨と銅鐸(オモイマツカネ)が置かれていました。
神子が海側から岩の割れ目に足を踏み入れると,古代からのメッセージが伝えられます。銅鐸はオモイカネのミニチュアであり,冠とともに古代からの思念波を受け取るための道具であり,人々の思念を増幅するものです。
3世紀に邪馬台国を統治していた偉大なる巫女である卑弥呼のメッセージにより神子は自分が何をなすべきかを理解します。そのとき火山性の地震が起こり岩が崩れ,神子は二つの祭器とともに古代船に乗せられて久高島に戻ります。
この事柄の意味を察した久高島の最高位の神女は伊那輪祝女(のろ)の名で沖縄中の神女を集め60年に1度というヤマトゥ・祭(マテイ)の準備を進めます。熱雷たちが久高島に到着すると伊那輪の家を訪ねます。
熱雷は沖縄人ではなく沖縄戦のため北海道から派遣された兵士であり,戦後も沖縄に留まり,伊那輪の娘と恋仲となり神子をもうけます。しかし,熱雷が久高島の「アマミク神話」について調査しようとしたため,20年前に久高島から追放されました。
招かれざる客に対して神子の母親は家に入ることを拒絶しますが,玄関まで出てきた神子は自分と熱雷,そして岳彦との関係を理解します。ヤマトゥ・祭に臨む前に神子は岳彦に勾玉のついた首飾りを送ります。この首飾りにより神子の意識の一部は岳彦とつながり,岳彦も超常の力をもつようになります。
ヤマトゥ・祭において卑弥呼の冠を被せられた神子は卑弥呼からのメッセージを強く感じ,邪馬台国の時代に阿蘇山に向かって人々の祈りを集める火の巫女(まつりめ)のイメージを受け取ります。
卑弥呼はさらに邪馬台国の最重要な祭器である巨大な銅鐸・オモイカネが卑弥呼の死後に持ち出されたので,この時代のどこかにあるオモイカネを探すことを命じます。現代に大いなる火の祭りを現出させるためにはどうしてもオモイカネの力が必要なのです。
第2場|阿蘇山
熱雷の一行は島伊都子と合流して阿蘇山を目指します。島が助手を務める西南大学では阿蘇山の近くで古代の遺跡を発掘しており,そこで巨大な銅鐸の鋳型を発見します。銅鐸の紋様や曲率から推定するとこの鋳型で製造された銅鐸は高さ10mにもなる巨大なものです。
一方,熊本県のチブサン古墳を訪れた神子一行は四天王と出会います。彼らは鎮護国家(ちんごこっけ)の目的で建立された奈良・東大寺の大空阿闍梨に命により動いており,世の中の安寧を乱す勢力と戦う存在です。
チブサン古墳では車の中にある銅鐸により増幅された神子の力が勝り四天王は引き上げます。東大寺の阿闍梨は理由を説明せず四天王に九州北部の宇佐神宮に行くように命じます。
神子の一行が阿蘇山の古代遺跡の発掘現場を訪れると不思議なことにどこからか力が流れ込んでくるようなような感覚を受けます。神子は4人の娘と手をつなぎ合い,力を集中すると岩が動き巨大な鋳型が姿を現します。神子はオモイカネが実在していたことを知ります。
その場所で神子は阿蘇山の噴火をまったく恐れない菊池鉄吉とその仲間と出会います。彼らは阿蘇の噴火を畏敬の念をもって眺め,魂を揺さぶられるような思いを感じている集団です。
古代からの声に導かれ神子たちは阿蘇の噴火でできた地割れに入っていきます。そこは卑弥呼に仕えていた1000人ともいわれる巫女が「日の民族」により虐殺された場所であり,伊那輪神女の故郷であることが神子にははっきり理解できました。
生き延びた巫女の一部は卑弥呼の亡骸とともに古代船で海に逃れ,久高島までやってきたものでした。卑弥呼の声は復讐ではなく「大いなるマツリ」であると応えます。
阿蘇の噴火を大きな怒りと悲しみのこころで見ていた神子は病院を抜け出した四天王の増長と対決し,卑弥呼や自分の力だけではなく人々の思いを銅鐸により結集させることができることを学びます。
阿蘇の噴火と呼応するように神子と娘たちの身体は灼熱のオーラとなり,その果てに彼女たちは火の民族のマツリを執り行う卑弥呼の姿を認めます。卑弥呼は「イザワはわが神女一族の名なり…イザワの血をひく娘たちよ,われらは火の民とともに滅びず…われらとともにマツリを…」と語りかけます。
第3場|高千穂
卑弥呼の死により連合国家である邪馬台国は崩壊せざるを得ません。そんな時に阿蘇の噴火により邪馬台国の中核部は破壊され,連合国家の一部勢力は邪馬台国の象徴である巨大銅鐸・オモイカネを携えて日向に向かいます。彼らは苦労に苦労を重ねて峠を越え,高千穂峡を利用して海に出ます。
日本創世神話ではイザナギは黄泉の国に妻・イザナミを訪ね,腐乱した姿を見て逃げ出します。イザナギに見捨てられたイザナミは黄泉の国の主となります。日向の河口で黄泉の穢れを落とすためにイザナギが沐浴したときにアマテラスが生まれます。
ここから新しい神々の世界が始まり,その一部は高天原から地上の人間世界を統治するため降臨(天孫降臨)します。ここから日本創世神話は人間の物語になっていきます。日向で力を蓄えた一族はオモイカネを筏に乗せ宇佐に向かいます。これが神武天皇(邪馬台国分派)の東遷神話の始まりです。
第4場|宇佐
宇佐は現在の宇佐市であり,その中心に宇佐神宮があります。ここは神武天皇が(東遷の途中で)立ち寄ったという場所であり,それを示す聖蹟の碑があります。宇佐神宮の秘中の秘とされる禁域に入った四天王は神宮創建前に隠されたものを見出そうと,その封印を探します。
梵字が記された不動明王像を見つけ出した四天王は「ヤマト大君東遷せん時に宇佐を筑紫の鎮護の要とし,ここに象徴たるオモイカネカミを埋めき…」と判読します。
邪馬台国分派は東遷の人数を船を集めるために宇佐にやって来て,オモイマツカネを王権の象徴として地域の勢力を服従させます。これでオモイカネの役割は終わり,山中に埋められます。そこが宇佐神宮の禁域となっているわけです。
そこに高野山からやってきた金剛阿,金剛吽が国東の修験者とともに合流します。彼らは禁域の周辺を人間結界で囲み,鉄壁の守りを固めます。宇佐神宮に到着した神子は周辺のただならぬ様子を感じ取り,一人で敵地に向かいます。しかし,金剛阿,金剛吽からオモイカネはもうここには無いと知らされます。神子の力は結界の内部ではほとんど働かず窮地に陥ります。
倒された神子に手を当てて広目が情報を引き出そうとすると封印となっていた不動明王像が崩れ,内部の空間が現れます。そこは,オモイカネが埋められていた空間でした。そこからは「火の民族」のエネルギーが放出され,それに呼応するように国東半島の両子山が噴火します。
気が付いた神子はその空間の意味することを理解します。遅れて到着した岳彦は卑弥呼の冠を神子に被せます。オモイカネの空間から火の民族のエネルギーが神子に注がれ,四天王と修験者たちは弾き飛ばされます。
火の民族のエネルギーとは現代に生きる多くの人々の集団的意識によるものと説明されます。宇佐神宮の近くには沖縄神女の一行がおり,さらに阿蘇からやってきた菊池鉄吉たちの集団もいました。オモイカネはそのような人々の無意識のパワーを集合し,増幅する力をもっているのです。
日の民族の西の要となっている宇佐神宮の禁域は現在に生きる火の民族の末裔たちからのエネルギーにより崩れ去ります。熱雷と岳彦は神子の戦いについて理解し,岳彦は自分も戦うことを決意します。
オモイカネが長い間,宇佐の山中に埋められていたのは確かですが,その後の行き先は神子の能力をしても分かりません。オモイカネの埋められていた空間が残っていたことから,巨大な銅鐸は内部から砕かれて運び出されたことが分かります。銅鐸は銅材としてあるものの製造に使用されたのです。
第5場|出雲
日向から旅立ち,宇佐で軍勢を整えた邪馬台国分派勢力は(おそらく4世紀の初頭に)瀬戸内海を横断して新天地を目指します。彼らは近畿で先住勢力を打ち破り,新天地を制覇し,中心部をヤマトとと呼び,周辺地域に邪馬台国と日向ゆかりの地名をつけます。
ヤマトの勢力は一枚岩ではなく内紛を繰り返し,7世紀に統一国家の体裁を整えるようになります。彼らは近畿周辺のまつろわぬ(服従しない)民を武力で制圧し,ヤマトの神話を征服地に植え付けていきます。
出雲は各地の先住民族の神々を封じ込めるための土地でした。神子の一行が出雲に入ると,車内の銅鐸が振動し,死火山の大山が噴火します。阿蘇,両子山,大山と続く噴火は神子の東遷に歩調を合わせているようです。
ここにきて熱雷の「火の民族仮説」における最後の謎が明らかにされます。火の民族の女王・卑弥呼をイザナミとして黄泉の世界に閉じ込め,確立した勢力となった大和朝廷が日本書紀や古事記の編纂にかかろうとした7世紀末に自然災害(684年・白鳳地震,685年・浅間山大噴火)が頻発します。
この自然災害を卑弥呼の祟りと恐れた大和朝廷は神話の中に卑弥呼を最高神アマテラスとして甦らせ,彼女を祀るために伊勢神宮を創設したといういうものです。日の民族は卑弥呼を最高神として祀ることにより,その怨念をはるかな天空に昇華させようとしたのです。西の宇佐は阿蘇山の鎮護の要であり,東の伊勢は二つの浅間山(富士山と浅間山)に対する呪術的な結界であったと熱雷は考えます。
第5場|伊勢神宮
神子が伊勢神宮に到着すると金剛阿,金剛吽に率いられた高野山の僧兵が結界を張っています。この結界の中で神子は久高島の娘たちと綾門たちの想念を受けたオモイマツカネで戦います。僧兵に打ち倒され死を迎えた綾門の生命の爆発により,僧兵は弾き飛ばされ金剛阿,金剛吽は死亡します。この戦いの中で神子は宇佐から掘り出されたオモイカネがどこに行ったかを知ります。
第6場|奈良・東大寺
オモイマツカネは砕かれ,その破片は盧舎那仏(東大寺の大仏)の材料として鋳つぶされたことを知った神子は広目の守る東大寺に乗り込みます。堂内では大空阿闍梨に率いられた全ての僧侶が広目に加持祈祷の力を注ぎこみます。
自分の力を出し尽くした神子は倒れますが,岳彦はオモイマツカネを操り,台風のエネルギーを注入します。このエネルギーにより神子は立ち上がり,大仏はそれに合わせて鳴動します。久高島の娘たちと沖縄神女の一団も到着し,阿闍梨の発する加持祈祷のパワーと対峙します。
神子と岳彦が支えられた小さなオモイマツカネは大仏の額に張り付きます。大仏殿は火災に包まれ,そこに風が吹き込んでくるため大仏は灼熱します。しかし,大空阿闍梨側も不動明王呪をとなえ大仏はオモイマツカネの震動を吸収します。
大仏は火災を背景に不動明王となり神子たちを襲います。火災で退路も断たれ絶体絶命ののところを菊池鉄吉の集団がやってきて,人々の想念が小さなオモイマツカネに集中し,不動明王呪は敗れ,小さなオモイマツカネを鋳型として本来の大きさのオモイカネが姿を現します。
こうして邪馬台国の超巨大祭器のオモイカネが復活します。古代から卑弥呼が「おお…オモイカネよ…神子よ…大いなるマツリの時はきたれり! 火の民の血は異ならず! 時の隔たりを越えて大いなるヤマタイカのマツリが始まるのじゃ!」と語りかけます。
ここまでは単行本第4巻の初めまでの進行です。物語はその1年後に九州と沖縄の間の海に沈んだ戦艦大和がオモイカネの力で台風のエネルギーを吸収して幽霊船として復活し,沖縄を目指すところから再開されます。
戦艦大和はオモイカネだけでは力不足の現代人を動かすための依代なのですが,この展開は避けてもらいたかったですね。火の民族仮説は東大寺までの物語で十分に語られており,戦艦大和を復活させ,沖縄の米軍基地を砲撃し,米軍の反撃により傷つく大和を見て,人々が感情的になるという新しい展開は沖縄の人々のデリケートな心情を逆なでするものであり容認できません。
沖縄は本土決戦のための時間稼ぎの捨て石として犠牲になったのは史実であり,その戦争の記憶を再現するストーリーはこの作品の汚点となっています。戦艦大和という依代なしでも,火山噴火を巡る神子と広目との対決,さらにはヤマタイカのマツリが東京を席巻する物語は可能であったはずです。
古代日本の謎を解き,卑弥呼のメッセージを現代に実現する話の後半が戦争物語になってしまったのはとても残念です。ともあれ,「ヤマトの火」を途中で打ち切らざるを得なかった作者が「火の民族仮説」を物語の中で実証した資料読破と論理的な解析は大変な労作といえます。