竹宮恵子
竹宮恵子(1950年生)は子どもの頃から絵を描くのが好きだったようです。wikipedia には漫画家になる前のエピソードが記載されていますので引用してみます。
中学時代から本格的に描き始め,1965年石森章太郎の「マンガ家入門」と「龍神沼」を読み大きなショックを受け,石森作品を端から読むようになる。石森に「漫画を共に描く仲間が欲しい」と手紙を送ると石森から紹介された漫画を描いているグループの人達から手紙が届くようになり,グループに参加し執筆を続ける。修学旅行で上京した際にはグループの仲間に連れられて石森の自宅を訪れている。後に「永井豪が男性の一番弟子なら,私は女性の一番弟子で優等生」と語っている。
ここに記載されている石森章太郎の「龍神沼」の初出は1961年の「少女クラブ・夏休み増刊号」です。この時期の少女マンガがどのようなものであったかは知る由もありませんが,単行本の冒頭に「それまで少女マンガではタブーとされていたスリラーもの,SFラブロマンスといったマンガが誕生しました」と著者自身が綴っていることから,新しいジャンルの物語であったことは想像できます。
もちろん,石森氏以前の少年マンガでもファンタジーを前面に出した作品はありませんでした。この単行本はデビューから7年目,23歳の石森氏が日本のマンガ史において新しいジャンル,新しいマンガの表現方法を切り拓いた記念碑的作品です。
漫画好きの竹宮少女に大きな影響を与えたことは大いにうなづけるところです。竹宮さんと同時代の私ですが,小学校高学年で漫画は卒業しており,高校に入ってから「サイボーグ007」をきっかけに再び漫画とのつきあいが始まりました。
彼女の創作活動は続けられ1967年に「ここのつの友情」で「COM月例新人賞」に佳作入選し,1968年に「りんごの罪」が「週刊マーガレット」の新人賞に佳作入選しデビューしています。このときはまだ高校生であり,地元の大学に進学しますが2年で中退し上京します。
上京後は「萩尾望都」と大泉のアパートで共同生活を始めます。wikipedia ではアパートという表現になっていますが,本人談では「二軒長屋のうちの一軒」と表現しています。
彼女は連載があったので少しお金に余裕があり,もっと広いところを借りたかったのですが,彼女と萩尾望都の共通の友人である「増山法恵」が自分の住んでいた家の向かいの長屋が空いたので引っ越さないかということになったそうです。
竹宮は徳島県,萩尾は福岡県出身でどちらも単身上京でしたので友人の近くの共同生活はありがたいものでした。増山(1950年生)は漫画家ではありませんが文学,映画などに造詣が深く,革新的な少女漫画を生み出すことを目指しており,かっての「トキワ荘」のような女性漫画家の聖地を作ろうとしていたようです。
この長屋には次第に多くの女性漫画家やその予備軍が集まるようになり「大泉サロン」と呼ばれるようになりました。しかし,なんといっても長屋ですから竹宮本人は「大泉サロン」という表現はとても皮肉な言葉じゃないかなと笑いながら語っています。
このサロンに集い少女漫画の新しいジャンルを切り拓こうとした女性漫画家たちは「24年組」あるいは「花の24年組」と呼ばれています。我が家の書棚には「萩尾望都」や「大島弓子」の作品が収まっています。
竹宮の初期の著作活動は(当時の少女コミックの編集方針によるものなのか)短編が主体でした。1970年代の末に発刊された「竹宮恵子作品集」には「ファラオの墓」以外にはストーリーのつながる長編作品はありません。
竹宮恵子作品集 | サブタイトル |
---|---|
作品集1 | アストロツイン |
作品集2 | 森の子トール |
作品集3 | 魔女はホットなお年頃 1 |
作品集4 | 魔女はホットなお年頃 2 |
作品集5 | 空が好き! 1 |
作品集6 | 空が好き! 2 |
作品集7 | ここのつの友情 |
作品集8 | 集まる日 |
作品集9 | ファラオの墓 1 |
作品集10 | ファラオの墓 2 |
作品集11 | ファラオの墓 3 |
作品集12 | ファラオの墓 4 |
作品集13 | ファラオの墓 5 |
やはり「ファラオの墓(1974-1976年)」がヒットしたことにより「少女コミック」で描きたいものが描ける地歩を占めるようになったのでしょう。全17巻となる「風と木の詩」は1976年から執筆が開始されています。
風と木の詩のストーリー
風と木の詩は1880年代のフランスのアルルにあるラコンブラード学院(男子校)を舞台にした物語りであり,主人公は子爵家の跡取りでジプシーとの混血のセルジュ・バトゥールとマルセイユの裕福な貿易商の家庭に生まれた悪魔のように美しいジルベール・コクトーという二人の少年です。
学院では8歳から19歳までの生徒が学んでいます。物語の始まりにおけるセルジュは14歳,ジルベールもほぼ同年齢です。
セルジュは複雑な家庭の事情からラコンブラード学院に転入してきました。ジルベールもセルジュ以上に複雑な家庭の事情を抱えており,娼婦のようにレポートや頼みごとのため複数の上級生と性的関係をもつ学園の問題児です。
セルジュは学園の寮に入りジルベールと同室になり,不道徳な行為を隠そうともしないジルベールに対しても他の級友と同じように接しようとしますが,彼の善意はことごとく拒絶されます。級友たちはジルベールの危険性をセルジュに忠告しますが,セルジュはジルベールと正面から向き合おうとします。
ジルベールの後見人となっている詩人のオーギュスト・ボウは多額の寄付金により学園の有力者となっています。オーギュストは小さい頃,コクトー家に養子に入り,義理の兄から定常的に性的虐待を受けていました。結婚後も義理の兄の性癖は変わりませんでした。
義理の兄の妻はオーギュストを誘惑し,それが露見すると彼から死ぬほどの折檻を受けています。ジルベールはそのときできた子どもであり,表向きはコクトー家の長男ということになります。
ジルベールは両親から引き離され教育やしつけをほとんど受けずに「海の天使城」で野生児のように育ちます。オーギュストは白紙の状態のジルベールを純粋培養により,既成の価値観に縛られない,高貴で気位の高いシャムネコのように創り上げようとします。
しかし,ジルベールがボナールにより力ずくの性愛を経験させられたことにより,すべてが一変します。ジルベールの無垢な魂を守るため,オーギュストはジルベールと交わります。その結果,ジルベールは精神的にも肉体的にもオーギュストに依存するようになります。
ラコンブラード学院に入れられ,ジルベールはオーギュストと引き離されて満たされぬ思いを上級生との性的交渉で埋めています。ジルベールの苦悩に気が付いたセルジュは彼を泥沼から救い出そうとしますが,彼とこころを通わせるためには肉体的接触が不可欠であることを感じ取り,悩みぬいた末に彼との肉体的な交わりをもちます。
19世紀末のキリスト教社会では非生産的(非生殖的)な同性愛は禁忌でした。それを乗り越えてセルジュはジルベールと共に生きる道を選択したのです。
しかし,そのことはオーギュストの知るところとなり,彼は二人を引き離すためジルベールを退学させようとします。セルジュはジルベールを連れてパリに逃避し,貧しい屋根裏部屋で同棲生活を始めます。二人が,ベッドの中で重なり合うシーンの背景には次のような詩が流れていきます。
あのひとが・・・
あのひとがわたしを胸に抱いてくれるとき
そっと話しかけてくれるとき
すべての事が忘れられる
あのひとさえわたしを満たしてくれるなら
あなたの愛の言葉が私の薔薇色の人生
あなたゆえにわたしがいて
わたしゆえにあなたが在る
あのひとはそう言ってやさしく誓ってくれた
だからあの人の姿が見える
そのときにいつもわたしは感じる
この胸がときめくのを
それだけですべての事が忘れられる……
パリの屋根裏部屋での二人の同棲生活は長くは続きませんでした。そこでも,ジルベールの美しさが仇となり売春窟の元締めが麻薬によりジルベールを支配するようになり,ジルベールはそこから脱出するとき事故で短い生涯を終えます。ジルベールの亡骸に死に化粧をほどこしセルジュは独白します。
きみよ
永遠にこの手から去ってしまった花よ
何が幸せだったのか
何が不幸せだったのか
話してもくれずに行ってしまった
あまりに ことばが違いすぎた
あまりに 君は天使だった
思い出すのは ただ…
肌ふれあう一瞬の 呼吸の優しさ
耳に残るささやき
置きさられ とまどうばかり
あまりにも暖かく あまりにも甘い
君の抱擁…
どうして…
どうして…
せめて ひとこと欲しい
きみよ…
責めることばでもいい
別れのひとことを……
ほとんど純文学に近いテイストなのです。絵による描写を除き,テキストだけでこの物語を最構築すると,いくつかの愛の形をテーマにした文学作品となることでしょう。
性的な描写はテーマを掘り下げていくために必要な手段であり,性的描写自体がこの作品の目的ではないのです。このような作品を表層に見える表現だけで評価するのは誤りであり,ましてや青少年に対する有害図書として規制しようなどということははなはだ見当違いといわざるを得ません。
「風と木の詩」が発表されてから30年近い歳月が経過し,子どもたちが読む漫画にも多くの性的表現が含まれるようになりました。また,性的表現だけが目的の作品も数多く出されています。
映画やビデオでは「成人向け指定」があり,子どもたちの目に触れないようにするための一定の配慮がなされています。漫画の世界でも「有害図書」で規制されるのではなく,そろそろ自主的な「成人向け指定」が必要な時期になっているように感じます。
二極化する評価
物語はこのように進行していきます。「少年愛」や「同性愛」といった社会的なタブーを少女漫画ではおそらく初めて正面から描いた作品ですからその衝撃の大きさは想像に難くありません。wikipedia には次のように記載されています。
19世紀末のフランス,アルルのラコンブラード学院の寄宿舎で繰り広げられる,思春期の多感な少年達を中心とする物語。愛欲,嫉妬,友情など,さまざまな人々の想いが交錯するなか,運命に翻弄される2人の主人公,華麗なジルベールと誠実なセルジュの切ない愛が描かれる。
「少年愛」のテーマを本格的に扱った漫画作品であり,少年同士の性交渉,レイプ,父と息子の近親相姦といった過激な描写は当時センセーショナルな衝撃を読者に与えたが,知識人からは高い評価を得ている。
寺山修司は「これからの少女漫画は,風と木の詩以降という言い方で語られることとなるだろう」と語り,河合隼雄は「少女の内界を見事に描いている」と評し,上野千鶴子は「少年愛漫画の金字塔」とした。(引用了)
簡単にいうと本来の読者層である少女たちには少年同士の同性愛という禁断の世界を知らしめた衝撃的な作品であり,おそらく親世代の非難の対象となったことでしょう。その一方で知識人には高く評価されることになり,第25回(昭和54年度)小学館漫画賞少年少女部門を受賞しています。
この作品は表層に表れている少年愛や同性愛を評価の基準にするか,二人の少年の魂の交流を評価の基準にするかにより大きく判断が異なることになります。私などは人間の愛欲のすさまじさと二人の少年の苦悩とこころを描いた名作と考えています。
しかし,それはあくまでも大人としての評価であり,当時の子どもたちがどのように作品をとらえていたかは次元が異なる問題です。このような作品を人生経験の浅い子どもたちに読ませて良いものかと親世代が考えるのは当然のことです。
青少年にとっての有害図書
子どもたちを社会に適応できるように育てることは親,学校,社会の責任です。とくに,しつけの権限をもつ親の責任は重いはずです。子どもが読んではいけないものはできるだけ子どもの目に触れないようにするのは第一に家庭の責任です。ところが,個々の親がそれぞれの判断で行うべきことを社会運動あるいは法律や条例として規制することは決して望ましいことではありません。
一つの事例は青少年を有害図書から守るため,1955年頃をピークに展開された「悪書追放運動」です。この運動は「日本子どもを守る会」,「母の会連合会」,「PTA」により進められ,手塚治虫の「鉄腕アトム」を含む漫画を校庭に集めて「焚書」にするといった「魔女狩り」が行われました。
当時は漫画そのものが勉学から青少年を遠ざけるという社会的風潮があり,いったんこのような運動に火がつくと歯止めがかかなくなる事例としてあげられます。当時の情報を調べてみると「赤胴鈴之助は親孝行を題材にしているので良書,鉄腕アトムは荒唐無稽な話なので悪書」などという笑えない話も出てきます。
良書と悪書の判断基準は人により大きく異なるものであり,それを一つの基準として「魔女狩り」を行うのはとても健全な社会,寛容な社会とはいえません。
とはいうものの,やはり社会的な認識として青少年の目に触れさせることは好ましくない図書があるのも事実です。そのようなものは「有害図書」として法律や条例で規制されます。
有害図書とは性や暴力に関して露骨もしくは興味本位の取り上げ方をし,青少年の人格形成に有害である可能性があるとして政府や地方自治体等によって指定される出版物である。ただし国内でも一般的な出版物だけでなくゲームソフト等も対象となる場合がある。(wikipedia より引用)
政府や地方自治体は有害図書を指定することはできますが,それは最小限に限定すべきものです。「青少年の人格形成に有害である可能性がある」というような抽象的な基準では,恣意的に対象を拡大することが可能だからです。
「風と木の詩」には(その気になれば)上記の基準に抵触するといえる描写がありますので,政府や地方自自治体の裁量一つで「有害図書」に指定することができるのです。
「週刊少年マガジン」の1970年32号に連載されたジョージ秋山の「アシュラ」には飢餓における極限状態で人肉を食べる場面が描かれているため,神奈川県から「有害図書」に指定され,未成年への販売が禁止されました。各自治体もそれに追随し社会問題に発展しました。
このように有害図書の線引きは非常に難しいうえに,社会的な要請基準自体が変化しています。永井豪の「ハレンチ学園」は小学生女子生徒の裸の描写と教師批判をテーマとしており,当時の大人の心証をひどく害する作品でした。
三重県では四日市市の中学校長会が問題視し,四日市市少年センターが三重県議会に有害図書指定を働きかけました。PTA等からも激しい批判の標的となり,永井個人の人格攻撃にまで発展しました。未成年女子の裸体描写はともかく,現在ではあの程度の表現が批判されるとすれば,巷の漫画やライトノベルの半分くらいは「有害図書」に分類されそうです。
そのくらい流動的な基準で運用されるものですから細心の注意を払って最小限に限定すべきなのです。同時に青少年を対象とする作家と出版社は社会的な許容限度を理解し,一定の自主規制が求められます。「表現の自由」と「青少年の健全育成」は微妙なバランスで成り立っていることを当事者は認識しなけれなりません。
児童ポルノから非実在青少年の表現規制へ
「有害図書」は未成年者への販売が禁止されるものの「犯罪図書」ではありません。しかし,「児童ポルノ」は販売・譲渡などが禁止されている「犯罪図書」です。
「児童ポルノ」は国際連合が採択した児童の売買,児童買春及び児童ポルノに関する児童の権利に関する条約の選択議定書」で次のように定義されています。
現実の若しくは疑似の(real or simulated)あからさまな性的な行為を行う児童のあらゆる表現(手段のいかんを問わない)または主として性的な目的のための児童の身体の性的な部位のあらゆる表現(児童の売買等に関する児童の権利条約選択議定書より)
日本国内では児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律(略称:児童買春・児童ポルノ処罰法)(平成11年法律第52号)の2条3項に定義があり,それらの提供・製造・頒布・公然な陳列・輸入・輸出は同法第7条で禁止されています。
特に次のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものである。
1.児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
2.他人が児童の性器等(性器,肛門又は乳首)を触る行為又は児童が他人の性器等(性器,肛門又は乳首)を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
3.衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
「児童の権利条約」に基づく規制は「児童ポルノ」が児童売買と同様に児童の人権を損ない,児童の性を売買の対象とするものなので禁止するものです。
外国の法律においては芸術性のあるもの等について児童ポルノ規制の対象外とする規定が少なくありません。例えば米国では「文学的・芸術的・政治的・科学的な価値が一切ないもの」だけが児童ポルノに該当するとされています。
日本ではこのような除外規定はありません。その代わり,日本の法律では「性欲を興奮させ又は刺激するもの」とあいまいに範囲を限定しています。
範囲が限定されないと,年齢を問わず子どもの性器等が写った写真や動画がすべて規制対象になってしまい,例えば最小限の衣服しか身に着けない生活習慣をもつ地域のドキュメンタリー映像に子どもが入っていると放映禁止ということにもなりかねません。
その反面,「性欲を興奮させ又は刺激するもの」の範囲は定義があいまいであり,(現在は容認されていますが)児童の水着あるいはブルマー等の体操着を着用した写真集なども規制の対象になる可能性もあります。
このように社会的コンセンサスができていると思われる「児童ポルノ」についても恣意的に解釈できるグレーゾーンがあります。
さらに問題を複雑化しているのは「創作物」に対する規制です。現在の法務省の見解では「児童ポルノ」は「実在の児童を描写したものに限定される」との見解を示しており,架空の児童を扱ったポルノ作品(絵画・イラスト・漫画・ゲーム等)は規制の対象になっていません。
ただし,2008年児童買春・児童ポルノ処罰法改正案の附則では「漫画,アニメーション,コンピュータを利用して作成された映像,外見上児童の姿態であると認められる児童以外の者の姿態を描写した写真等」について,法施行3年後を目処に検討を加え「必要な措置」を取ることとしています。
上記の法規制は「創作物」についても「児童ポルノ」として販売や譲渡を禁止しようとするものであり,法律ができると,子どもの性を扱った漫画やアニメは発禁処分となる可能性があります。
しかし,創作物の「児童ポルノ」には実在の被害者はおらず,そのような法規制は憲法で保障された「表現の自由」に抵触しますので慎重な扱いが必要です。
創作物の法規制が難しいのであれば青少年育成条例により規制しようとするアイディアが東京都から出され,社会的な関心を集めています。この条例改正案はアニメや漫画の未成年キャラクターを「非実在青少年」とし,彼らの創作物内における性行為についても規制しようとするものです。
ただし,児童ポルノのような「犯罪図書」ではなく,該当する創作物を「有害図書(東京都では不健全図書と呼んでいます)」にしようとするものです。「有害図書」はすでに定義されていますが,東京都の条例改正案では要件に下記のように一項目を追加しています。
@漫画やアニメーションなど『画像により』A『刑罰法規に触れる』又は『婚姻を禁止されている近親者間の』B『性交又は性交類似行為』をC『不当に賛美し又は不当に誇張するように描写又は表現したもの』のうち、D『著しく社会規範に反する性交・性交類似行為を著しく不当に賛美し、又は著しく不当に誇張するように描写又は表現しているもの』(wikipedia より引用)
つまり,漫画,画像,動画において未成年者のレイプ(犯罪行為),近親相姦,性行為を賛美したり,助長したりするような表現があれば有害図書に指定するというものです。これは非常に適用範囲の広い表現であり,「表現の自由」にも抵触しそうです。
このような条例が制定されると「風と木の詩」などは相当危ういことになるでしょう。この条例案に対して里中真智子,永井豪,ちばてつや,竹宮惠子,高橋留美子,萩尾望都,安彦良和といった,漫画・アニメ界の蒼々たるメンバーが反対を表明しているのは当然のことだと考えます。
「風と木の詩」が規制されるようなことがあれば,それは憲法の保障する「表現の自由」の侵害に他なりません。現実の日本ではビデオと同様に「成人向け指定」が妥当な漫画やアニメはたくさんあります。そのような作品は条例が規制するのではなく,業界において自主的に「成人向け指定」をするのが筋でしょう。