たがみよしひさ
本名は「田上喜久」であり,そのひらがな読みをペンネームにしています。「ざしきわらし」が昭和53年(1978年)上期小学館新人コミック大賞で佳作となり,翌年のビッグコミックにこの作品が掲載され漫画家としてデビューしています。漫画家の「小山田いく」は2歳違いの実兄であり,小山田の初期作品にはアシスタントをしていました。
「軽井沢シンドローム」は代表作であり,登場人物をシリアスな劇画タッチと3頭身のギャグ調タッチと場面ごとにかき分けるという独特の表現方法をとっています。
また,産婦人科(いしゃ),誕生日(あのひ),撮影(しごと),物的証拠(ガキ)など会話の中で本来の読み方をルビを使用して代名詞的に読ませる独特の手法も多用しています。まったく背景説明なしに会話だけで物語が進行していく展開も特異なものです。
さらに,連載1回の中が7-13のシーンに分割されており,ストーリーが時系列的にあるいは同時進行の形で展開されるという新しい試みも採用されています。まさに,それまでの漫画作品の枠からはみだしたチャレンジ精神溢れるユニークな作品ということができます。
最初にこの漫画(さくひん)を見たときはちょっと面喰いました。人物の顔がコマごとに変わり,しかも登場人物が多いのですからストーリーを追うのが大変です。しかし,それがとても新鮮に思えたことを記憶しています。
我が家の本棚にはもう30年間も居場所をもっており,ビッグコミック系の旧い作品とともにもっとも古顔のものです。久美子的に表現するならばこの頃20歳の人は現在では20歳と360カ月ということになります。
しかし,あまり読み通すことは少なかったのか,ほとんど汚れはありません。この感想を書くため久しぶりに読んでみると,十分に魅力的であり古いという感じはまったくありません。
「軽井沢シンドローム」の世界
「軽井沢シンドローム」は1982-1985年にかけて「ビッグコミックスピリッツ」に掲載されました。wikipedia で関連するデータを調べているときにオリジナルの単本が「全9巻」となっていることが分かり愕然としました。我が家には7巻までしか揃っておらず,30年間もそこで終了したと思い込んでいたのです。
30年前は「シンドローム(syndrome)」という言葉は目新しいものでした。現在では英語の辞書にも掲載されていますが,60年ほどの歴史しかもたない新しい言葉です。語源はギリシャ語の「syn-(一緒),dromos(走る)」であり,根本となる一つの原因から生じる一連の身体症状,精神症状を指す医学用語です。
日本語では「症候群」と訳されることが多いようです。この言葉は応用範囲が広がり「ある社会的原因から生じる病的な傾向を示す一連の人々,および社会現象」を意味するようになります。
「軽井沢シンドローム」をイメージ的に翻訳すれば「軽井沢に病的な偏向を示す人々」ということになります。実際の作品は軽井沢に浮遊する若者たちの恋愛物語であり,それをシンドロームという言葉でイメージ化したタイトルは新鮮ですね。
この物語は軽井沢という狭い地域かつ狭い人間関係を描いており,登場人物の恋愛関係がさざ波のように延々と繰り返されます。また,連載一回分の中でも舞台劇のように背景(場所)が変わるごとに複数のシーンに分割されており,同時並列的あるいは時系列的に話が進行していきます。
それぞれのシーンの内容は場所以外の背景説明はなく登場人物の会話だけで構成されており,内容も舞台劇に近いものとなっています。当然のことですがこのような形式の作品では各シーンで交わされるボケやギャグの入った軽快なテンポのコミカルな会話が命となっています。シーンを分割することにより主要な登場人物の大半を連載一回の中に登場させることができるようになっています。
これがどのくらい狭い範囲の人間関係であるかを確認するため,連載一回ごとに登場する人物をチェックしてみました。単行本の1巻と4巻について調べた結果は下表の通りです。作者は登場人物を使い捨てにはせず,繰り返して登場してもらうようにストーリーを組み立てていることがよく分かります。
それでも16人の登場人物でほとんどのストーリを作るのですから大変だったことでしょう。しかも,単行本の第5巻までは耕平のLA行きの話を除くとほとんどが恋愛関係ですからストーリ作りはさらに大変なことです。
Scene | 耕平 | 薫 | 純生 | 紀子 | 絵里 | 貴成 | みるく | 久美子 | 縁 | 二郎 | 田口 | まなみ | 弥子 | 匡一 | 舞 | 阿川 |
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第1巻 Part1 | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||||||
第1巻 Part2 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||||
第1巻 Part3 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||
第1巻 Part4 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||||
第1巻 Part5 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||||
第1巻 Part6 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||||
第1巻 Part7 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||||
第1巻 Part8 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||||||
第1巻 Part9 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||
第4巻 Part1 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||
第4巻 Part2 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||
第4巻 Part3 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||
第4巻 Part4 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||
第4巻 Part5 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||||
第4巻 Part6 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||||
第4巻 Part7 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||||
第4巻 Part8 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||||
第4巻 Part9 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ||||||||
第4巻 Part10 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||
第4巻 Part11 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |||||
第4巻 Part11 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● |
軽井沢に浮遊する登場人物
物語の舞台は(少なくとも第7巻までは)軽井沢です。この狭い地域で「相沢耕平」を中心に物語が展開されます。幼いころに両親を亡くし遠縁の松沼家で育てられた耕平は中学を卒業とともに大宮の家を出ます。米国人のクオター(母方の祖父が米国人)であったことも自立への道を歩ませたのかもしれません。
物語が始まったとき耕平は22歳,弟分の「松沼純生」とともに広告代理店に3年ほど勤め,その後,フリーのカメラマンとなっています。イラストレーターの純生も耕平と一緒に広告代理店を退職しています。二人の夢は年功序列型の日本を離れ,自由競争社会の米国西海岸で一旗上げることです。
とはいうものの先立つ資金がありませんので,軽井沢にある松沼家の別荘に転がり込んできます。そこには,軽井沢にあるT美大軽井沢研修所に勤めている「松沼薫」が暮らしています。
別荘にたどり着く前に場所が分からず,喫茶店「ら・くか」で「津野田絵里」に道をたずねます。この喫茶店のマスターが「箕輪貴成」です。絵里は薫の友人でしたので耕平は絵里を脅して喫茶店の支払いをしてもらい別荘に向かいます。耕平にとっては7年ぶりの再会ということになります。
耕平より2歳年上の薫は7年ぶりの再会の瞬間から耕平に「ほの字」であり,出会って1時間も経っていない絵里も同様の反応を示しています。同時に純生は絵里に惹かれます。このあたりの恋愛感情の軽さがこの作品の持ち味というか不可思議な特徴です。
その翌日の「ら・くか」では純生が早くも絵里への好意に終止符を打たれます。その純生も数日後には「ら・くか」にやってきた「木下久美子」に惚れることになります。同じころ耕平はコンクリートの壁に「DEEP」と記された落書きをじっと眺めている「久遠寺紀子」に声をかけ一緒にラーメンを食べながらなんとなくいい雰囲気になります。
その足で「ら・くか」にやってきた耕平を見て久美子は一目ぼれしたようです。さらに「ら・くか」のマスターの貴成は店にやってきた薫を見て一目ぼれしますし,絵里と薫は耕平を挟んで恋のさや当てとなります。その夜,酔って帰ってきた耕平は夢うつつの中で薫と結ばれます。
薫は春爛漫の状態であり,その後は積極的に耕平に迫るようになり,二人の関係を純生に知られることになります。そのことを純生から知らされた絵里と貴成はショックを受けてすぐには立ち直れません。
その頃,耕平は青木が原で撮影のお仕事をしており,モデルから横浜の暴走族「蟻(あんと)」と群馬の暴走族「DEEP」の抗争により木下美和子(久美子の姉)が自殺したことを知り,紀子が壁の落書きをじっと見ていたことを思い出します。
案の定,紀子は久美子を純生にまかせて「DEEP」の二代目総長「恩田二郎」に会いにいきます。二郎は仲間を連れてきており,紀子は危機に瀕します。そのときライトの逆光の中から耕平が現れ,紀子を連れ戻します。耕平は「DEEP」の初代総長であり,二郎からは今でも総長と呼ばれる仲です。
この一件で耕平と紀子の仲は急接近し,薫と紀子のふたまた生活が始まります。「ら・くか」では失恋同士の貴成と絵里がくだをまき,そこにやってきた久美子は紀子が夜中になってもいないと泣きついてきます。
ここまでが第1巻Part4 までのあらすじです。それぞれの登場人物から一目ぼれがあぶくのように湧いてきて,水面に出ると簡単に消えてしまいます。恋愛基準でこの作品を見ると,登場人物はまさしくあぶくのように軽井沢で浮遊しているようです。
物語が進むと貴成の妹の「みるく」,事故死した恋人の後を追おうとした「吉崎まなみ」,貴成の見合い相手の「片岡弥子」,喫茶店「オルコ・タイタ」の雇われ店長「川村舞」など登場人物が増えてもこの浮遊状態は続きます。
女性の主要登場人物の中で耕平になびかなかったのは弥子だけであり,残りは物語を通して,もしくはある時期は耕平に惹かれます。この状態は「耕平シンドローム」というべきものです。もちろん耕平も自分に秋波を送ってくるすべての女性たちと深い関係となるわけではなく,絵里の想いは耕平→二郎→純生と移っていきます。
紀子も一時は田口といい感じのところまで行きましたが,最終的には舞が田口と結ばれます。久美子も物語の後半に登場する「吉崎匡一」とくっつきます。弥子も紆余曲折の末,貴成と結婚します。このように恋愛模様が一段落すると話のネタが切れてしまいます。個人的にはその時点で連載は終了すべきであったと考えます。
話を続けるために第6巻からは衣舞のしかけてきた抗争,その後の「吉崎探偵事務所」の話とつながっていきますが,それまでの雰囲気とは異なり殺伐としたものになっています。もしかすると,(記憶には残っていませんが)30年前にもそのように感じたのかもしれません。5巻までの独特の浮遊感がこの作品のテイストでしたから,シリアスな暴走族の抗争はそぐわないと感じ,単行本の収集を7巻で打ち止めにしたのかもしれません。