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史実と脚色を織り交ぜた竜馬像が魅力的です
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おーい!竜馬

「お〜い!竜馬」は幕末の激動期に大きな足跡を残し,31歳の若さで暗殺された坂本竜馬(1836-1867年)の一生を描いた作品であり,1986年から1996年かけて「ヤングサンデー」にて発表されました。原作は武田鉄矢,作画は小山ゆうです。

原作者の「武田鉄矢」は大の竜馬ファンとして知られています。武田鉄矢は福岡県出身のミュージシャンですが,バンド名は「海援隊」でした。竜馬の大ファンの考えた竜馬像ですから,自由奔放かつ非常に魅力的な人物として描かれています。

作画の「小山ゆう」は代表作の中に「おれは直角」,「あずみ」のように江戸時代を題材に,型にはまらない人物や特異な才能をもつ人物を描いている実力派の作家です。この二人の組み合わせが,竜馬漫画の最高傑作を世に送り出しました。

歴史上の人物の物語を作るときには,史実をプロットし,そこに作者独自の脚色による肉付けをすることが常道です。坂本竜馬を題材にした小説でもっともよく読まれているのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でしょう。この小説は上記のような手法で創作されたと推測します。

しかし,仮にこの「竜馬がゆく」を原作としてそのまま漫画化したら,「お〜い!竜馬」の半分の面白さも出せないかもしれません。逆にいうと「お〜い!竜馬」は最初から漫画に適した原作となっており,史実と多少の齟齬があっても竜馬の人物像を生き生きと描き出し,そして読者を退屈させないような演出が盛りだくさんとなっています。

もちろん竜馬に関する歴史上の重要なポイントは変えるわけにはいきませんが,登場人物との関わりについては多くの脚色を加えています。そのため,この作品だけから幕末の歴史や坂本竜馬の正しい人物像を学ぼうとするのは避けるべきです。

正しい歴史や人物像を知るためなら,まず「竜馬がゆく」あるいは他の著作物を先に読むべきです。そうすると,どの部分がどの程度の脚色であるかを理解した上で,この作品の面白さを味わうことができるでしょう。参考までに竜馬の時代の史実を整理すると下表のようになります。

西暦 史実として認められているできごと
1853年

18歳,修行のために江戸自費遊学,千葉道場の門人となる
ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)
佐久間象山(高名な軍学家・思想家)の私塾に入学(12月)

1854年

15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国(6月)
日根野道場の師範代を務める
河田小龍から国際情勢,海運の重要性について学ぶ

1855年

父・八平が他界,兄・権平が坂本家の家督を継ぐ

1856年

再度の修行のため江戸に遊学(9月)
同時期に武市半平太も江戸住まいであった

1857年

藩に一年の修行延長を願い出て許可される
千葉道場で塾頭を務める

1858年

「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる(1月)
井伊直弼が幕府大老に就任(4月)
日米修好通商条約の調印(6月19日)
安政の大獄(9月)
土佐に帰国(9月)

1859年

土佐藩主・山内豊信(容堂)隠居(2月26日)
山内容堂は幕府より蟄居謹慎を命じられる(10月)

1860年

勝海舟を含む使節団が米国に派遣される(1月)
井伊大老が桜田門外で暗殺される(桜田門外の変,3月3日)
土佐では尊王攘夷思想が下士の主流となる

1861年

井口村刃傷事件 (池田寅之進の仇討と切腹)
土佐藩では下士と上士の間で対立が深まる

1862年

武市は江戸で密かに少数の同志とともに土佐勤王党を結成
武市は土佐で土佐勤王党を旗上げ,同志は192人
竜馬は長州藩の尊王運動の主要人物・久坂玄瑞と面会
薩摩藩・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる
沢村惣之丞や那須信吾の助けを受けて土佐を脱藩(3月24日)
吉田東洋が暗殺される(4月8日)
武市半平太が尊王攘夷で藩論を主導する
寺田屋事件(4月23日)
江戸に到着し千葉道場に寄宿
前福井藩主・松平春嶽に拝謁
春嶽から紹介状をもらい勝海舟の屋敷を訪問して門人となる

1863年

海舟は山内容堂に取り成して竜馬の脱藩の罪は赦免される
竜馬は勝海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走
福井藩に出向して松平春獄から千両を借入れする
長州藩が馬関海峡を封鎖し航行中の米仏蘭艦船を砲撃(5月10に)
山内容堂は土佐勤王党を粛清する(6月)
薩摩藩と会津藩が手を組み京都の長州勢力を追放(8月18日)
天誅組が大和国で挙兵したが壊滅(天誅組の変,8月)
土佐勤王党は壊滅,武市は入牢(9月)
神戸海軍塾塾頭に任ぜられる

1864年

藩命を無視して帰国せず
生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会う
勝海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足
新撰組が池田屋で多数の勤王の志士を殺害(6月5日)
長州軍約3,000が幕府勢力に敗北(禁門の変,7月19日)
長州藩は朝敵とされる
英米仏蘭四ヶ国艦隊による下関砲撃(下関戦争)
幕府による長州征伐(7月23日)
長州藩では三家老が切腹して降伏 (11月)
勝海舟蟄居を命じられ,塾生は薩摩藩に保護される(11月)
高杉晋作が挙兵して再び尊攘派が長州藩を掌握(12月)

1865年

神戸海軍操練所廃止(3月)
薩摩藩の出資により亀山社中発足(5月)
土佐脱藩志士中岡慎太郎,土方久元とともに薩長同盟を模索
武市半平太が切腹(5月11日)
土方と竜馬が西郷隆盛と会談するよう桂小五郎を説得(5月)
中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説得(5月)
西郷は会談に出席せず朝議対応のため京都に向かう(5月)
亀山社中は薩摩名義で近代武器を購入し長州に引き渡す(8月)
亀山社中は長州の米を薩摩に運ぶ(8月)
薩摩藩名義で英国製軍艦ユニオン号の購入に成功
長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の大久保一蔵の書簡

1866年

小松帯刀の京都屋敷において桂と西郷の会談(1月)
竜馬は西郷を説き伏せて薩長同盟が成立する(1月)
長州の要請により竜馬に盟約履行の裏書きを行う(1月)
伏見寺田屋を伏見奉行所が竜馬捕縛のため急襲(1月23日)
竜馬は手指を負傷し薩摩藩に救出される
近藤長次郎が独断で英国留学を企てて切腹(1月14日)
刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養(3-4月)
ワイル・ウエフ号が遭難沈没し池内蔵太ら12名が死亡(4月)
幕府が第二次長州征伐を開始(6月)
ユニオン号に乗って下関に寄港し長州藩の求めにより参戦
旧式装備の幕府軍は新型銃を装備した軽装の長州に惨敗する
幕府軍総司令官の徳川家茂は心労が重なり死去(7月20日)
勝海舟が長州藩と談判を行い停戦が成立(9月19日)
亀山社中には使用できる船がなくなり財政が困窮(7月)
松平春獄が政権奉還を徳川慶喜に提案し拒否される(8月14日)
政権奉還策を説き松平春獄に伝えるよう依頼(8月14日以降)
後藤象二郎が長崎で武器弾薬を盛んに購入
後藤象二郎が溝渕広之丞を介して竜馬と接触を図る(11月)

1867年

竜馬と後藤が会談 (清風亭会談,1月13日)
亀山社中を土佐藩が支援することを決定
亀山社中は「海援隊」と改称(4月)
海援隊の「いろは丸」が紀州藩船「明光丸」と衝突・沈没
土佐・薩摩藩の支援を得て約8万両の賠償をかちとる(5月)
島津久光,伊達宗城,松平春獄,山内容堂が会議(四侯会議)
藩船「夕顔丸」の船内で後藤に政治綱領を提示(船中八策)
後藤が大坂で藩重臣と協議して船中八策を土佐藩論とした(6月)
船中八策,王政復古を目標とする薩土盟約が成立(6月22日)
長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害される(7月6日)
後藤,竜馬と英国領事の談判により海援隊への嫌疑は晴れる
薩土両藩の思惑の違いから薩土盟約は解消(9月7日)
5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会(9月23日)
後藤が二条城で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出(10月3日)
徳川慶喜は二条城で諸藩重臣に大政奉還を諮問(10月13日)
明治天皇に大政奉還上奏し翌日に勅許が下される(10月14日)
上奏の直前に討幕の密勅が薩摩と長州に下される(10月14日)
戸田雅楽と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定(10月16日)
船中八策を元に「新政府綱領八策」を起草(11月)
河原町の近江屋新助宅にて竜馬暗殺される(11月15日)

1868年

鳥羽・伏見の戦い(1月3日)
朝廷は薩摩・長州藩兵を官軍と認定し錦旗を与える
慶喜は大坂城を脱出し軍艦開陽丸で江戸へ逃走(1月6日)
新政府は徳川慶喜追討令を発する(1月7日)
新政府の要請により諸外国は局外中立を宣言(1月25日)
慶喜は隠居・恭順を朝廷に奏上することを決定(1月27日)
新政府総裁の熾仁親王が東征大総督に任命される(2月9日)
大総督府の軍議で江戸城進撃の日付が3月15日と決定(3月6日)
慶喜の意を受けた山岡鉄太郎が勝海舟に面談(3月)
勝書状を携え山岡鉄太郎が西郷隆盛と面談(3月)
西郷から江戸城総攻撃の回避条件7箇条が提示される(3月)
山岡鉄太郎が江戸へ戻り勝に報告(3月10日)
西郷が江戸薩摩藩邸に入る(3月13日)
大久保一翁,勝海舟と西郷隆盛との江戸開城交渉(3月13-14日)
勝が先般の降伏条件に対する回答が提示(3月14日)
五箇条の御誓文が発布される(3月14日)
大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達する(4月4日)
江戸城無血開城(4月4日)
東征大総督熾仁親王が江戸城に入城(4月21日)
海援隊解散(4月)
江戸は東京と改名される(7月)
年号が明治と改元される(9月8日)
明治天皇が江戸城に入り「東京城」と改名する(10月13日)


この時期の日本史では「薩長同盟」,「大政奉還」と「江戸城無血開城」が大きなポイントとなります。「お〜い!竜馬」でも説明されているように「薩長同盟」が幕末史の転換点となります。この同盟を実現させた竜馬はまさに歴史の歯車を一つ動かす重要な役割を担ったわけです。

薩摩,長州,土佐の各藩だけではなく幕府の要人からも一定の信頼を得ている竜馬が生きていれば,「大政奉還」から「江戸城無血開城」への動きもずっとスムーズに進行したと考えられます。

「江戸城無血開城」といってもその前後には多くの血が流されました。新政府軍も徳川という敵がいなくなるとまとまっていけるかどうか不透明の状態であり,そのために会津藩が犠牲になりました。

このような史実を考えると,藩という価値観から脱け出し,欧米の列強国家に伍していける新国家の成立させることを目指していた竜馬が生きていれば,内戦回避のための調停者として活躍できたのでは…とついつい歴史については禁物の「もし…」を考えてしまいます。

土佐藩の上士と郷士(下士)

物語の中では土佐藩における「上士と郷士」の身分制度について多くの記述があります。そのような身分の違いにより理不尽な扱いを受け,権力によって踏みにじられ,志半ばで葬られた多くの人々の死を見てきたことにより竜馬は日本のあるべき姿を模索するようになったと語られています。

江戸時代における上士と郷士はどこの藩にでも見られました。徳川幕府により新しい身分制度(士農工商)が形成される中で武士と農家の中間層に分類される層(地侍・土豪など)が在郷(城下でなく農村地帯に居住すること)武士として扱われたものが郷士とされています。幕藩体制では士分として登録され,苗字帯刀も許されていますが,一般的に下層の武士階級と考えられます。

ところが,土佐藩ではかなり事情が異なっていたようです。初代土佐藩主である山内一豊は掛川城主(現在の静岡県)でしたが,関ヶ原の戦いで東軍につき,ほとんど戦闘に参加しなかったにもかかわらず,その後に土佐一国に封じられました。いってみれば徳川恩顧大名ということになります。

それ以前の土佐は長宗我部氏の所領であり,こちらは関ヶ原の戦いで西軍につき,所領を没収され改易となります。新たに加増の形で土佐に封じられたよそ者の山内家に対して旧長宗我部氏ゆかりの在郷武士は反発し,多くの紛争が生じます。

それに対して山内一豊は武力で抑え込む政策をとります。さらに,長宗我部氏の遺臣を捕縛して処刑します。結果として山内一豊は掛川時代の家臣と新規に上方で徴募した新規家臣を「上士」とし,自分にたてつく旧長宗我部氏ゆかりの在郷武士を「郷士」として厳しい身分差別制度を設けます。

土佐藩では足袋や下駄,日傘の着用は上士にしか認められないというように身分だけではなく,日常の細かなことまで厳しい差別規定がありました。このような「上士」と「郷士」の関係は土佐藩における特別のものです。作品中で武市半平太は上士格の白札郷士として扱われており,少なくとも服装は上士と同等となっています。

山内容堂は暗愚の人だったのか

「お〜い!竜馬」では山内容堂(1827-1872年)は竜馬や武市瑞山,土佐勤王党の徹底的な敵役であり,暗愚の人物として描かれていますが,史実ではそうではないようです。そもそも,容堂と竜馬はまったく接点をもっておらず,竜馬が小さい頃に容堂に切りかかった事件などもすべて創作です。

容堂(豊信)は山内家の分家の出であり,本家の藩主が相次いで死亡したことにより,いわばピンチヒッターとして22歳のときに15代藩主となりました。豊信は隠居後に容堂と号し,16代藩主には14代藩主の弟の豊範が就いています。

藩主時代の容堂は門閥・旧臣による藩政を嫌い,吉田東洋を「仕置役(参政職)」に任じ,家老を押しのけて西洋軍備の採用,海防強化,財政改革,藩士の長崎遊学,身分制度改革,文武官設立などの藩政改革を断行しました。東洋の改革は旧体制を押さえた能力重視であり,その中から後に藩の参政となる後藤象二郎,福岡孝悌らを登用しています。

豊信は福井藩主・松平春嶽,宇和島藩主・伊達宗城,薩摩藩主・島津斉彬とも交流をもち「幕末の四賢侯」と称されました。幕政にも積極的に口を挟み,老中・阿部正弘に幕政改革を訴えています。

阿部正弘の後に大老に就いた井伊直弼とは将軍継嗣問題で真っ向から対立し,14代将軍・家茂の決定に憤慨し,1859年に幕府に隠居願いを出しています。しかし,その後に幕府より謹慎の命が下ります。

容堂の基本的な考え方は徳川家擁護であり,公武合体派として朝廷とも良い関係をもっていました。世の中が勤王と佐幕に二分された時代にあっては,徳川家擁護の視点から一貫して行動しています。

容堂の謹慎中に尊王攘夷が大きな流れとなり,土佐藩でも乾退助が容堂の御前において寺村左膳と時勢について対論を行い,尊皇攘夷論を唱えました。容堂としては徳川家が存続できることが第一義であり,その限りでは尊王攘夷でも大政奉還でも問題はないわけです。

土佐藩ではさらに土佐勤王党が台頭し,公武合体派の吉田東洋を暗殺するに至り,武市瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握しました。自分が取り立て藩政改革を主導した東洋暗殺は容堂にとっては耐え難いことであり,土佐勤王党の壊滅後に武市瑞山が入牢,切腹を申し付けたのは当然のことでした。しかし,新政府の樹立後に人材不足から土佐藩は薩摩藩,長州藩に主導権を奪われてしまい,武市瑞山を殺したことを悔やんだと伝えられています。

土佐藩を脱藩する

徳川幕府(幕藩体制)は同時期の中国のような皇帝を頂く中央集権国家ではなく,幕府は武家の棟梁として中央政治を支配しますが,その体制下で諸大名は自分の領地(藩)を専制支配しています。つまり,中央支配と地方支配はまったく別の二重統治形態をとっています。

このような支配体制を安定化させるためには主従関係の強化と貢租納付義務の完全履行が前提となります。そのため,武士を含め領民の居住地を固定させる必要がありました。武士であれ,町人・農民であれ人の移動は厳しく制限されており,無断で在所から脱け出すことは「欠落」という重大な罪に問われることになります。

武士の場合は「欠落」ではなく「脱藩」あるいは「出奔」と表現されることが多いようです。当時の政治体制では藩=国であり,脱藩とは入出国管理を受けずに国を出ることに相当します。脱藩者を出した場合は家名断絶,闕所(財産没収)などの処分が科せられたり,脱藩者本人が捕縛された場合は死罪が言い渡されることもあります。

とはいうものの,江戸時代末期になると武士については改易により主君を失った場合,あるいは諸藩の財政難のため家臣が禄を離れる場合は(法的な手続きをとることにより)比較的自由に藩から出ることができるようになっています。

また,幕末には「尊王攘夷」論が盛んになり,藩内にいると行動が制限されるため,脱藩して江戸や京都など政治的中心地のおいて他藩の同士と交流し政体を変革しようとする志士が続出しています。

物語の中では竜馬はジョン・エリックの商船に乗るために脱藩したということになっており,郷士の脱藩ということであれば坂本家は断絶,闕所となる公算が大です。しかし,物語の中では竜馬の姉の栄が一身に責任を背負い自害したこと,兄の権平が奔走したこともあり,たいした処罰も受けずに済んだようです。史実では竜馬が勝海舟の弟子となり,海舟が山内容堂にとりなして脱藩の罪は赦免されました。

脱藩に先立ち竜馬は二度,修業のため江戸に行っています。このような場合は土佐藩の許可を受けることにより,合法的に出藩することができますし,江戸の土佐藩邸の庇護も受けられます。

史実では竜馬が海外に出たことはありません。脱藩の動機は薩摩藩主の島津久光が精兵を率いて上洛するという知らせが土佐に伝えられことにあります。土佐勤王党の一部では討幕の挙兵と勘違いし,これに参加するため吉村虎太郎,沢村惣之丞が相次いで脱藩します。

彼らの誘いを受けて竜馬も脱藩を決意したようです。竜馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことであり,同年の4月8日に土佐では吉田東洋が暗殺されています。日付が近かったことにより,竜馬には東洋暗殺の嫌疑がかけられたようです。

勝海舟に弟子入りする

脱藩後に竜馬は下関を経由して江戸に向かい,千葉道場に寄宿します。本作品では脱藩の動機をエリックからの招待としており,長崎に出て彼の商船に乗り込み,寄港地の上海で中国人の置かれている状況を見ることになります。

幕府が差し向けた交易調査船の千歳丸で上海に来ていた高杉晋作と再会し,二人で租界の外の貧しい世界を見ながら「今のままでは日本もいずれこうなる。日本がこんな目にされてたまるかよ」と話します。

世界における日本の状況を竜馬が認識した瞬間という設定になっています。どうすれば日本が独立国家でいられるかという命題がインプットされた竜馬は日本に戻ることを決意します。

実際には竜馬は海外渡航したことはありませんので,上記のような考えはペリー艦隊の浦賀寄港(1953年)および土佐に帰国後の河田小龍から国際情勢,海運の重要性について学ぶ機会を得た(1954年)ことによるものと推察します。

物語の中では千葉道場にたどりついた竜馬は千葉重吉とともに勝海舟(当時は幕府軍艦奉行)の暗殺に向かいます。しかし,竜馬は咸臨丸で太平洋を渡り新興国の米国を見てきて海舟の海軍の強化という考えに共鳴し,弟子入りを願い出て「軍艦操練所」で訓練を受けることになります。

実際には松平春獄の紹介状を携えて訪問しているのですから暗殺目的ではないのは明らかです。いずれにせよ,竜馬は生涯の師と仰ぐ人物に巡り合うことができました。竜馬にとって幸いだったのは海舟が当時の日本人,特に幕府の要人としては稀有な日本国という尺度で物事を考えることができる人物であったことです。

この考えは竜馬にも伝わり,徳川幕府後の新政府という構想に結び付いていきます。海舟は幕府海軍ではなく日本国海軍を志向していましたので土佐藩の脱藩者や尊王派の人物なども受け入れていました。しかし,池田屋事件や禁門の変で神戸海軍塾の者がいることが幕閣の要人の知るところとなり,海舟は蟄居を命じられ,神戸海軍塾は閉鎖されます。

京都での政変

京都には各地から尊王攘夷派志士が集結し,「天誅」と称して反対派に対する暗殺が繰り返されていました。その流れが大きく後退し,公武合体派が主導権を奪取する事件が1962年の「八月十八日の政変」と翌年の「禁門の変」です。

その頃の長州藩は朝廷内にも大きな影響をもつようになり,尊王攘夷の急先鋒となっていました。しかし,孝明天皇は攘夷主義者ではありましたが,尊王攘夷の急進派が実権を握ることに対しては不快感をもっており,薩摩藩,会津藩などの公武合体派は孝明天皇に働きかけ,朝廷から親長州勢力を一掃する計画を進めます。天皇の密命により親長州の公卿は追放され,長州藩も京都政界から同様に追放されました(八月十八日の政変)。

そのほぼ1年後に長州藩は失地回復のため挙兵し,会津藩,桑名藩を中心とする勢力と大規模な戦闘となります。これが「禁門の変」であり,結果として長州藩は敗退し,朝敵として追討令が出されます。この事件を境に尊王攘夷派は守勢に立たされます。

さらに,幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督,薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ,36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させました。これが「第一次長州征伐」です。長州では西郷隆盛は禁門の変の責任者である三家老の切腹,三条実美ら五卿の他藩への移転を要求し,保守派が実権を握った長州藩はこれに従い恭順を決定します。

1865年に長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒し,倒幕派政権を成立させます(元治の内乱)。高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成して来たるべき時に備えます。

長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけ,踏みつけにして歩いたとされ,薩摩や会津への深い遺恨がうかがわれます。その長州と薩摩を結び付けようとする「薩長同盟」がいかに難しいかは容易に想像がつきます。

薩長同盟

神戸海軍塾を追われた塾生は薩摩藩の庇護を受けます。薩摩藩の蒸気船に同乗して薩摩に到着した一行のうち,竜馬だけが上陸を許されます。竜馬は西郷隆盛および大久保一蔵(利通)と面談します。

一蔵の説得により島津久光は竜馬たちの目指してるカンパニーのための船と資金を拠出することを認めます。これにより竜馬は長崎を本拠地として「亀山社中」を立ち上げます。物語の中では「亀山社中」と竜馬の両藩に対する人脈が薩長同盟締結に大きな役割を果たしていることが描かれています。

史実としては長州藩と薩摩藩の置かれている状況が両藩を結びつけたようです。禁門の変(1963年)の結果,朝敵となった長州藩は幕府から第一次長州征討を受けるなど孤立無援の状況であり,公武合体を通して幕政改革をもくろんでいた薩摩藩はその展望が開けず,藩内では大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていきます。

このような状況下で英国駐日公使のハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり,薩摩藩,土佐藩を訪問するなどして西の雄藩を結びつけさせたことに始まります。

彼の行動の裏には英国とフランスの国益がからんでいます。フランスの駐日公使・ロッシュ(パークスとは犬猿の仲であったとされています)は本国の意向を無視して将軍権力の絶対主義路線を支援し,自国の政治的有利を確立しようとしていました。

これに対抗する形で(国益の観点から)パークスは中立を装いながらも西の雄藩連合を模索しています。彼が尊王攘夷を標榜する長州藩,薩摩藩に接近した理由は,両藩とも外国との通商を強く望んでいることを知ったからです。

こうして,外国の二大勢力が幕末の日本政治に大きな影響を与えることになりました。もっとも,パークスは徳川慶喜については日本で傑出した人物と高く評価しています。

長崎で「亀山社中」という貿易商を営んでいた龍馬や中岡慎太郎の斡旋も大きな影響を与えたのは事実ですが,「お〜い!竜馬」に描かれているように,竜馬と薩摩藩の西郷隆盛,大久保利通,長州藩の桂小五郎,高杉晋作の人脈がすべてというわけではありません。

やはり冷静に両藩の利害が一致したことが同盟成立の最大要因であり,それを英国公使が国益のため後押ししたという構図になります。また,同盟の主眼は当時の京都政局を主導していた一橋慶喜,松平容保(会津藩),松平定敬(桑名藩)に対抗するためのものとなっています。

ともあれ,竜馬たちの仲介により1866年1月に薩長同盟は成立し,歴史の歯車が大きく動いたことは事実です。六か条からなる同盟内容は物語の中で現代語訳されています。ただし,第五条は「これらの薩摩の尽力を一ツ橋,会津,桑名らが妨げようとした場合,薩摩は幕府と決戦に及ぶ」となっていますが,原文の流れからするとやはり一ツ橋,会津,桑名と決戦すると読むべきでしょう。

この少し前に幕府は第二次長州征伐の出兵を薩摩藩に命じますが,同盟が進行中であり,薩摩藩は出兵を拒否します。6月に戦闘は始まり,長州藩はからくも優勢な幕府軍と対抗することができました。幕府軍は多勢とはいえ,多くの部隊は鎧兜の重装備であり,家康の時代の戦闘からたいして進歩していない状態です。

一方,長州では士分以外の人々にも訓練を受けさせ,銃隊や砲隊などを体系的に組織した西洋式の兵法を取り入れており,実際に戦闘になると,軽装で軽火器の歩兵を中心とする長州の雑兵は幕府軍を敗北させます。

幕府軍に有能な指揮官がいなかったことも敗北の大きな要因とされています。7月に幕府軍総司令官の徳川家茂は心労が重なり死去し,9月には勝海舟が長州藩と談判を行い停戦が成立します。ともあれ,長州藩は幕府軍を退け,歴史の歯車をもう一つ大きく動かすことになります。

長州軍の主力武器であるミニエー銃(1849年フランスで発明される)は前装式のマスコット銃の銃身にライフリングを刻んだもので,弾丸の回転により命中精度は格段に向上しています。また,弾丸周囲から燃焼ガスが漏れづらい構造となっており飛距離も向上しています。発明されたのは1849年であり,当時では最強の軽火器ということができます。

ミニエー銃から4年後の1853年には英国でエンフィールド銃が発明され,第二次長州征伐時の長州軍でも使用しています。この銃は米国の南北戦争(1861-1865年)で大量に使用され,戦争終了後は60万丁が払い下げられました。日本にも多くが流入しており,これ以降はエンフィールド銃が戊辰戦争における討幕軍の主力武器となっていきます。

この年の10月13日に徳川慶喜は二条城で諸藩重臣に大政奉還を諮問し,翌日には明治天皇に大政奉還上奏し勅許が下されます。しかし,その直前に薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が出されており,以降の内戦で多くの血が流されることになります。

薩長同盟という歴史の大きな流れを作った竜馬は1967年11月15日,近江屋新助宅にて中岡新太郎とともに暗殺されています。すでに大政奉還の勅許が下されおり,歴史は新政府の樹立に向かって進んでいるときの暗殺は無意味なことです。

竜馬が思い描いていた外国交易のカンパニーの夢はそこで潰えました。しかし,31歳で散った幕末の英雄(風雲児?)はその後も日本人の中では伝説となり,多くの人々に知られるようになりました。ネットで「坂本龍馬」を検索すると655万件がヒットし,彼の人気の高さがうかがえます。


愛が行く

主人公の北条愛(男性)は誕生まもなく30世紀の未来から20世紀にテレポーションで転送され,北条松五郎に育てられます。一緒に転送された帽子を被ることにより,30世紀の母親とテレパシーで会話できるという設定になっています。

未来世界ではマザーコンピュータが愛を「世界を滅亡させる悪魔」と予言しており,母親の超能力で過去に逃がされた愛の周辺には未来からの追っ手が迫り,愛は自らの超能力でそれを撃退します。

自分の超能力を隠したまま松五郎との生活を続けていた愛ですが,未来から超能力で転送され歴史を変えようとする改革者グループ,それを追う未来からの追っ手,さらには時間摩擦を技術的に解決して未来都市が未来人類とともにそのまま南極大陸に転送されてきたことにより,新たな展開を迎えることになります。