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かわぐちさんの持ち味が最もよく出ている
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かわぐちかいじ

かわぐち氏は明治大学在学中の21歳(1969年)のときに漫画家としてデビューしました。しかし,10年ほどは鳴かず飛ばずの状態であり,麻雀漫画を描き始めると次第に売れるようなったときも私の興味を引くような作品ではありませんでした。

「ハード&ルーズ」は1983年から1987年にかけて漫画アクションで発表されたものであり,この作品でようやく「かわぐちかいじ」の名前を知ることになりました。

「ハード&ルーズ(原作:狩撫麻礼,作画:かわぐちかいじ)」はハードでルーズな性格の探偵・土岐正造が依頼される調査内容を通して80年代の社会的な時流の一端を垣間見ることができます。主人公の土岐正造はボクシングと競馬をこよなく愛する普通の男性であり,ハードボイルドの探偵ものでありながら,等身大の生身の人間像が描かれています。

ところが,1988年から連載が開始された「沈黙の艦隊」の舞台は核兵器を搭載しているかもしれない米軍の指揮下にある日本の原潜が国家の統制から離脱するという荒唐無稽なものとなっています。

さらに,原潜の艦長である海江田四朗は「ハード&インテリジェント」なキャラクターとなっており,かわぐち氏がそれまで描いてきたリアルな世界からほとんど異次元に飛んでしまいました。

その後,発表された「ジパング」,「太陽の黙示録」も物語の舞台が完全な虚構の世界であり,そこで男たちの生き方が骨太に描かれていても,大仕掛けの虚構の世界ではリアルな鼓動は伝わってきません。そのような物語の設定を「壮大な世界」と感じるか「荒唐無稽な虚構の世界」と考えるかにより作品の受け止め方や評価は大きく異なることになります。

講談社あるいは小学館の漫画賞を受賞していることからストーリーテラーとしては磨きがかかってきている反面,かわぐち氏のもっとも得意としてきたリアルな世界を描くことから遠ざかってしまったことにある種の喪失感を感じます。

私の喪失感は古きよき時代を回顧する年寄りのたわごとのようです。「沈黙の艦隊」でブレークしたかわぐち氏は立て続けに下記のような漫画賞を受賞しており,青年漫画を代表する作家となっています。

年度 受賞内容 受賞作品
1987年第11回講談社漫画賞アクター
1990年第14回講談社漫画賞沈黙の艦隊
2002年第26回講談社漫画賞ジパング
2006年第51回小学館漫画賞太陽の黙示録

ハード&ルーズにおける「hard」と「loose」とは

作品のタイトルになっっている「ハード」はハードボイルド(hardboiled)からきているのでしょう。もともとは「固ゆで卵」を意味する言葉です。この「固ゆで卵」とどのような連想でつながったのか分かりませんが,文学の世界では第一次大戦後に米国に登場した反道徳的・暴力的な内容を批判を加えず簡潔な文体で記述する新しい写実主義の手法がハードボイルドとされています。

そこからさらに転じて,軟弱な生き方を拒否するタイプの男性像をハードボイルドな性格と表現するようになっています。物語の主人公である土岐正造はサラリーマンという安定した地位に背を向け,さらに探偵社に勤務することもなく,個人営業の探偵事務所でなんとか収入を得ている状態です。このような生きざまを「ハード」と表現しているようです。

第20話(春にcry)の中では主人公が臨時の助手となった女子大生に「楽しかった」,「これでお別れ?」と迫られたとき,「悪いな,こーゆー性格なんだ」,「ついでにもう一つだけ教えてやる。ハードボイルドを日本語にどう訳す?」,「やせがまん…ってんだ」と返します。確かに「やせがまん」はハードボイルドの一面を的確に表しています。

また,第25話(新装開店)では土岐のもとに4人のメンバーが集まり,会社組織としての「土岐探偵事務所」がスタートします。新しい事務所の立地条件はよく商売は繁盛します。

それを眺めながら土岐は「孤独を愛してきた。だが,確実に限界を感じていた。単純な結論は避けなければならないが,ハードでルーズな俺の心の奥底がこんな日を待望していたのかもしれない…」と独白します。

しかし,そのわずか数ページ前には「何かが音をたてて崩れていく…俺は誰とも連帯することがないだろうという確信が…」と独白しています。この間の心理の変化はよく分かりません。それでも土岐の中では意識しないものにせよ,ある種の葛藤が生まれていることは確かのようです。

第47話(我が内なる奔馬)では家族的で居心地のよい事務所の生活に慣れると自分の中の葛藤が次第に大きくなっていくことに気が付きます。酒でもケンカで自分の内なる感情は抑えられず,路地で座り込んで暗い空に向かって「教えてくれ…なにが望みだ」と自問します。

自分の内なる感情は「それはおまえ自身が知っているハズだ。それとも,気付きたくないのか?」,「フン,おれは居心地のいい場所にいるおまえが許せないのだ」と語ります。土岐はようやく自分の内なる葛藤に気付き,探偵事務所を辞することになります。やはり,土岐はハードボイルドの一側面である孤独と不自由さを求め,居心地のよさ=軟弱な生活を捨てなければ生きていけないようです。

一方,「ルーズ」は通常の日本語的感覚ででは「だらしがない」ということになりますが,本来の英語にはこの他にも「自由な」,「束縛のない」などという意味をもっています。

この作品における意味合いは個人の探偵業という自由人であることと同時に,依頼者からの要求事項についても自分の判断で一部の情報を伏せておいたり,ときには依頼者への反発心から意識的に誤った情報を伝えることもあります。その辺りの稼業に徹しきれない性格を「ルーズ」と表現しているのかもしれません。

人は知らない方が幸せということがたくさんあります。夫や妻の浮気,友人や恋人の過去など知らなければ今まで通りの人間関係を続けることができるにもかかわらず,知ることにより人間関係に大きな亀裂が生まれることもあります。愛のある生活は知らないことにより維持されるという逆説は一面の真理です。

愛し合う恋人や夫婦はパートナーのことをすべて理解していると考えがちですが,それは幻想にすぎません。あなたがパートナーのことを愛していることは自分のことですからすべてその通りです。

しかし,パートナーがあなたのことをどの程度愛しているかは相手の言葉やしぐさにより間接的に推し量るしかないのです。そのため欧米人は日常の会話の中で「愛しているよ」,「愛しているわ」というフレーズを繰り返します。

人の頭脳は精神の小宇宙を形成しており,そこには多種多様な感情や過去が存在します。中には複数の人格が併存する場合もあります。そのような独立した小宇宙をお互いに完全に理解しあえると考えるのはまったくの幻想です。

人間関係はある種の不完全な理解(幻想や都合の良い誤解)の上に成立しているとことがあり,パートナーの良い面を知ることは相手に対する理解を深めることになりますが,知りたくないことを知ることにより愛や信頼関係が幻想あるいは誤解に基づくものであることに気付くこともあります。

探偵を生業としているとしばしば依頼者にとって知らなければ幸せという事実に触れることになります。そのとき,商売熱心の探偵は自分の調査した内容をそのまま依頼者に伝えることになりますが,土岐正造の場合は依頼者にとって知らない方がよい情報を故意に伏せておいたり,調査対象者の意気に共鳴し,そこまで徹底しているならば秘密を依頼者に伝えることはないと判断することもあります。

この辺りの探偵稼業に徹しきれない性格が「ルーズ」な部分であり,主人公の人間味がよく表れています。人間の物語を作ることにおいては原作者の「狩撫麻礼」は高い評価を受けています。

人の多様な感情や傍からみると不可解とも思われる行動をていねいに描いていくのは氏の得意とする分野です。そのような物語とかわぐち氏の絵の魅力と非常によく合っており,独自の作品世界を作っています。

上記のような受賞歴に反発するわけではありませんが,私は「ハード&ルーズ」がかわぐち氏の持ち味をもっとも的確に伝えているというわけで氏の代表作に推したいと考えます。


物語の構成

この作品は私立探偵・土岐正造が依頼されたさまざまな調査を通して,さまざまな人間と関わっていく物語です。探偵ものといっても刑事事件に発展するようなものはほとんどなく,その多くは浮気調査といったような家庭内の問題となっています。そのため,派手なアクションもなく,人間模様を題材にしただけの物語に退屈する人も多いかもしれません。

しかし,調査対象となった人々の様ような生活や人生に自分をある程度でも重ねることができれば懐かしさを感じる作品となります。また,主人公の生き方についても共感できるところは多いはずです。

この物語の主人公は酒と競馬とボクシングを愛するごく普通の男性であり,ハードボイルドにありがちな自分の才覚と身体能力で難局を切り開いていくような作品ではありません。この現実的な設定が「沈黙の艦隊」以降に発表された大いなる虚構の上に立つ物語よりもずっと身近に感じることができるのは私だけの特異な考えなのでしょうか。かわぐち氏の絵柄事態も現実の世界で起こりうるような物語に適しているように感じます。

全50話は基本的に一話完結の形となっており,主人公と調査依頼者,調査対象者の接触の中でそれぞれの人生や生活,価値観が分かるようになっています。ときには,主人公そのものの生き様が主題となっているものもあります。

1980年代の作品ですので現在の価値観からするとずいぶんズレている面もありますが,同時代を生きてきた私にとっては様ような価値観や人生観が交錯するこの作品に共感をもてるわけです。

原作者の「狩撫麻礼」は漫画・劇画製作者を養成するために小池一夫氏の主催した「劇画村塾」の第一期生として学んでおり,メジャー作品ではありませんが骨太な筋立てのヒューマンドラマ作品を世に送り出しています。

「江口寿史の正直日記」によると狩撫のマンションの冷蔵庫の中はすべてビールであること,サンドバッグがあることなどが記されており,まるで土岐正造の部屋と同じようなものだったようです。

ある意味ではこの作品は狩撫氏の人生観がそのまま投影されているものなのかもしれません。彼の創作する特異な人間ドラマとかわぐち氏の絵柄が良くマッチングしており,マイナーながらハードボイルドな男の生き方を描いた異色の作品に仕上がっています。

私のお気に入りの話を紹介してみましょう。第2話(愛の使者)では婚期を逸しかけた女性から通勤電車で顔を合わせるハンサムな男性の調査を依頼されます。外観から得られる第一印象通り彼は軽薄で女癖は最悪というものです。

土岐は自分の身分を明かし,調査対象の男性の話を聞きます。依頼者が不器量であることを知ると彼は「このごろ時々思うんだよな…金持ちの女を見つけたら結婚してもいいなって…」とつぶやきます。この一言が土岐の癇に障ります。

男を締め上げながら「おまえには一生分かんねえだろうがナッ…男には死んでも口に出しちゃいけねえセリフが二つも三つもあるもんだ」と叱りつけます。このセリフはとてもいいですね。ハードボイルドな生き方にはぴったりです。

しかし,この話の落ちは依頼者の女性が土岐の報告に対して「あたし,もちろんそのつもりだったのよ。彼の目的がたとえあたしの貯金でもいいの。あんなハンサムな男と結婚できたらそれだけでいいの」と答え,一転して二人の出会いをセッティングすることになります。

その席上で土岐は「なんか俺,アタマ痛くなってきちゃった」,「これ以上,あんたが方を見ていると,今日まで築き上げてきた価値観が音を立ててくずれちまいそうだ」と言って席を立ちます。さらに追い討ちをかけるように,土岐は結婚式で二人の共通の友人としてスピーチをさせられます。いやはや,探偵という職業はつらいですね。

第8話(河のあちら側)では中年のイラストレーターの女性から5年前に捨てた雄ネコを探し出すことを依頼されます。このネコの粗暴なふるまいのためアパートの家主や隣近所から強い苦情が寄せられたことにより,泣く泣く捨てたと説明されています。

マタタビで猫を集めることを教えられた土岐はネコ語を話す女子学生に注意されます。彼女の情報収集により目的のネコが見つかります。しかし,くだんの雄ネコは「ヒステリーで気まぐれで,どうしようもない女,捨てられた時は最高に嬉しかった」,「自分はこの土地柄が気に入っているし,今の飼い主はとても大事にしてくれる」,「あの爺さんと一緒にくたばることができたら本望である…」と語ります。

土岐は依頼主に三味線を見せて,その皮になったのではと説明して,彼女の希望を断ち切ります。最後の締めの言葉は「あの枯淡ともいうべき猫の発言の数々…立派だ…,オレも老いたその日はあの猫を想い起そうではないか」となっています。

第16話(バビロン・システム)では最後に狩撫氏の考えるバビロン・システムの説明が記されています。もともとのバビロン・システムは1930年頃にジャマイカの反体制思想であり,レゲエ音楽を媒介して広がりました。

バビロンとは紀元前597年新バビロニアの王ネブカドネザル2世によりユダヤ王国の民が虜囚としてバビロンに連行された「バビロン捕囚」に由来しています。ジャマイカではアフリカから奴隷として連れてこられた先祖たちと「バビロン捕囚」を重ね合わせ,当時の社会の仕組みは多数の黒人が一部の白人支配者によって抑圧され,搾取され続けられているという地獄(=バビロン)のシステムになっているととらえました。

現在では一部の(影の)支配者により社会の富が独占されることを意味するようになっています。それに対して狩撫氏は青年期に大きな影響を受けたレゲエミュージシャンの「ボブ・マーリー(狩撫麻礼の”麻礼”は彼の名前に由来します)」の言葉を引用し,土岐をして次のように語らせています。

先進国はもはや人間生活に不要な物,サービスを売るしかない第三次産業的様相に突入した。イメージで欲望を煽り立て,売り,窮し,さらに苦肉の商品を増殖し続ける…。ボブ・マーレイはその無意味にして必然的な悪循環をバビロン・システムと名付けた。この時代を肯定する明るい囚人たち。受験戦争の勝者は単なるバビロン・システムの看守に過ぎない。バビロン・システムの最大の敵は”感動”である。感動してしまったら人は容易に道を踏み外す。そして真の自由を目指しかねないから。


このちょっと難解な文章の意味するところは現在の先進国は欲望経済の奴隷状態であり,そこから自由になるには自分なりの感動(価値観)を見つけることだということになるのでしょう。

この哲学は現代社会の一面の真理を語っており,2000年代の日本のように金がすべての世相に対するアンチテーゼとなっています。欲望経済の奴隷にならない生き方はある意味では現代人の理想ですが,そのためには世間の常識と対決する大きなエネルギーが必要ということになります。