私的漫画世界
日本酒を通して日本の農業・酒造の問題点と希望を描いた名作
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夏子の酒の時代背景

「夏子の酒」の執筆時期は1988-1991年です。日本酒(清酒)の生産量は戦後の混乱期を過ぎた1950年(昭和25年)あたりから経済成長に合わせるように急速に増大し,1973年には142万キロリットル(894万石)を記録しました。この年が日本酒生産量のピークであり,同じころに東北地方などで地酒ブームが起きています。

ところが,1955年頃に4000を超えて全国の酒蔵(酒造メーカー)数は1973年には3500を割り込むまで減少しています。つまり,日本の高度成長期に生産量を拡大していたのは広告媒体により全国に名前が知られる大きな酒造メーカーであり,その陰で地方の小さな酒蔵は急速に減少している実態が分かります。

また,日本酒の生産量も1973年にピークに達した後は一貫して下がり続け,30年後の2003年には60万キロリットルに落ち込んでいます。2003年の酒蔵数はおよそ2000です。

生産量(100kl) 酒蔵数
1950年1513692
1960年6853980
1970年12573533
1980年11932947
1990年11192435
2000年7352152
2010年


日本酒の生産量はこの30年以上,一貫して低下していますが,酒類全体の消費量は1994年頃まで増加しており,その後はほぼ横ばいとなっています。つまり,日本人のアルコール消費量が減少しているのではなく,日本酒離れが顕著に表れているということになります。

ただし,成人一人当たりのアルコール消費量は2000年代に入ってから確実に減少しています。日本人はアルコール消費量を減らし,さらに低アルコールを志向しています。

醸造酒である日本酒のアルコール度数は16度以下ですから低アルコール志向から外れるわけではありません。本格的焼酎が消費量を確実に伸ばしているのと対照的に日本酒の消費量が減少しているのは消費者の嗜好に合わなくなっている,あるいは宴会などで日本酒を飲む機会が減っているためだと分析されています。

1970年代から日本酒の地位は低落し続けており,しかも流通では大きな酒造メーカーが優先されますので中小の酒蔵は苦境に立たされています。「夏子の酒」はそのような時代を背景に描かれています。

一麹・二もと・三造り

「夏子の酒」では文字情報と絵が一緒になっているので伝統的な日本酒の造り方がよく理解できます。また,日本における酒造り,コメ造りの問題点が鋭く描かれており,お勧めの一冊です。

日本酒の原料となる米の主成分はでんぷんです。そのため,まず麹菌がでんぷんを糖化し,それを酵母菌がアルコールに変えます。日本酒造りの特徴はでんぷんの糖化とアルコール発酵がもろみの中で同時進行することです。

まず原料の玄米を精米します。玄米の胚芽や外側の部分にはミネラル,脂質,たんぱく質などが含まれており,それらを除去してでんぷんの部分だけを残す作業です。玄米に対して残った米の割合を「精米歩合」といいます。

私たちがふだん食べている白米は玄米の表面部分を削って精米します。白米の場合の精米歩合は92%程度であり,これは玄米の8%を削り92%が残った状態を表します。

酒米の場合は精米歩合が75%を越えることはありません。吟醸造りの場合は60%を切るものも少なくありません。そのため,大粒で米の中心部に心白があり,蛋白質の含有量が少ないといった特徴のある特別な米(酒造好適米)が使用されています。

精米の済んだ米は水で洗われ蒸されます。蒸し米に種麹をふりかけ麹菌を増殖させます。これが製麹(せいぎく)という工程です。およそ2日間で麹菌は蒸米の内部にまで繁殖していきます。出来上がった麹米はもと桶に入れられ水と混ぜ合わされます。さらに酵母と乳酸菌を加え,蒸米を追加します。これがもと(酒母)になります。

この中で酵母はさかんに増殖します。酵母が十分に培養された酒母は枝桶に移され,蒸米,麹米,水が加えられます。枝桶の中でも酵母は増殖を続けます。枝桶から先は大きなタンクに移され,さらに2回に分けて蒸米,麹米,水が加えられます。これがもろみです。もろみの中は25日間ほど糖化とアルコール発酵が続けられ,それを搾ると日本酒になります。残った固形物が酒かすです。

このように日本酒造りでは製麹(せいぎく),もと(酒母)という二つの工程を経てから,タンクの中にもろみを仕込み,でんぷんの糖化とアルコール発酵を同時進行させます。そのため,日本酒造りは「一麹・二もと・三造り」といわれています。工程のどこかで不具合が生じると品質の高い酒はできませんので,杜氏にとっては気の休まる暇のない真剣勝負となります。

「夏子の酒」では酒造りは年に1回,冬ということになっています。これは酵母菌の性質によるものです。もろみの中では酵母菌が働き,発酵作用により糖がアルコールに変換されます。このとき発酵熱が発生します。それは,堆肥が発酵熱で熱くなるのと同じ現象です。

酵母菌が働くには最適温度があり,それ以上の温度になると働きはにぶります。このため,冷却装置のない時代には冬が酒造りの季節になりました。物語の中ではもろみの品温管理が行われており,温度が上がるとタンクの周囲に氷を置いて冷やす場面も出てきます。

また,杜氏と呼ばれる酒造り集団は農民であることが多く,農閑期の冬場であるからこそ酒造りができたという事情もあります。現在では冷却装置のおかげで四季醸造も可能となりましたが,昔ながらの酒造りを目指している地方の酒蔵では酒の仕込みは冬となっています。

夏子の転機

新潟の造り酒屋の家に生まれた佐伯夏子は東京の広告代理店で駆け出しのコピーライターとして働いていました。小さな仕事しか与えられなかった夏子は兵庫の大手日本酒造会社の広告を担当することになります。しかし,対象となる日本酒はアルコールが添加されたものであるにもかかわらず「アルコール添加」という表現無しで広告を作成するという条件がついていました。

夏子のコピーはクライアントには好評でしたが,商品の実体を伝えない広告に大きな疑問をもつことになります。そんなとき造り酒屋を継いでいた兄の康男がガンで亡くなります。葬儀で故郷に戻った夏子は兄が幻の酒造米「龍錦」で酒を造ることを夢見ていたことを知らされ,兄の遺志を継ぐことを決意します。

兄の形見の「龍錦」を栽培する

父の反対を押し切って上京した夏子は退職して実家に戻ります。表面上,父の対応は冷ややかですがやはり娘が戻ってきたことを喜んでいるようです。夏子の最初の難問はたった1350粒(稲穂)12本分ほどしか残されていない「龍錦」の栽培です。

コメの大きさを知る尺度として「千粒重」があります。文字通り籾1000粒の重さです。通常のコメ(飯米)では22g,酒造好適米の山田錦は27gであるのに対して「龍錦」は28gもあります。酒造りにはコメの心白部分だけを使用しますので,一粒が大きいことは酒造りには有利ということになります。ただし,酒の味に影響するたんぱく質や脂肪分少ないことも酒造米の重要なポイントです。

籾だけみると「龍錦」は酒造りには適した品種です。しかし,背の高さは1mを越えるため倒伏というリスクが高い品種でもあります。つまり,立派な茎を土台にしなければちょっとした風で倒れてしまいます。

日本のコメは1960年代に単収が大きく上昇しています。これはできるだけ茎を短くして(茎の矮小化)光合成の成果物を種子(籾)に集中させた品種改良によるものです。化学肥料で栽培した稲は柔らかいため倒伏しやすい性質をもっています。

茎の矮小化は収穫の向上とともに倒伏に強い品種という利点ももっています。ところが「龍錦」は背が高いので化学肥料に頼れないことが栽培の大きな難点となります。このため夏子は化学肥料や農薬に頼らない有機栽培を選択します。

化学肥料や農薬を使用してきた水田は生態系が変化しており,いわゆる地力が低下しているため化学肥料なしでは標準的な収穫は望めません。そのような土壌に有機物を投入しても土壌生態系は簡単には元に戻りませんので,たった1350粒しか残されていない貴重な籾をそのような地力の落ちた水田で無農薬・有機栽培するというのは大変な冒険です。

しかも,夏子はコメ作りの経験はまったく無いのですから,ほとんど無謀ともいえるチャレンジです。しかし,いくつかの幸運と協力者のおかげで最初の年は籾ベースで31.4kgほどの収穫を得ることができました。

栽培に使用した「龍錦」の籾はおよそ38gですので800倍になった計算です。つまり,1粒の籾が800粒になります。1本の穂に付いている籾はおよそ150粒となっていますので,1株は5-6本に分けつしていることになります。翌年,同じ程度の収穫が見込めるとすればいよいよ「龍錦」の一部を使用した酒造りを始めることができます。

日本の農業事情

そのため夏子は次年度の栽培に合わせて「栽培会」を立ち上げます。栽培会のメンバーには宮川輝,沢口仁吉,豪田誠,吉田などが顔を揃えます。しかし,減農薬・有機栽培は地域の農家の理解は得られません。

日本のコメの単収は1960年代から80年代にかけて大きく増加しています。このめざましい増加を支えた2つの要素があります。一つは矮小化に代表される品種の改良です。穀物の丈を低くして茎に配分される光合成生産物を種子に回すようにしました。もう一つは化学肥料と各種農薬の使用です。植物が遺伝学的にもっている潜在能力をフルに引き出させるためのものです。

この2つの栽培技術が天候不順に対して比較的安定した高い生産性を支えてきました。日本のコメは化学肥料と農薬無しでは現在の生産性を維持することはできませんし,草取りなどのつらい労働も復活することになります。病害虫にどのように対応してよいのか,昔の知恵はもう失われかけています。

夏子の故郷の河島地区では農薬の散布は地域全体で行うことになっており,農協が手配したヘリコプターから空中散布されます。現在では毒性の強い農薬は使用されませんが,物語の時期にはまだ人体に相当の影響があるものが使用されていたようです。登校時の子どもたちが霧状の農薬を浴びて病院に担ぎ込まれる場面が描かれています。

このような農薬は必然的に水田の生態系に大きな影響を与えます。微生物から目に見える昆虫まで,多くの生物が密接に関連しあってできていた生態系を突き崩すのは簡単です。水田生態系は水田の生産性にとって大きな役割を果たしています。

一般的に農地の豊かさを表す「地力」という言葉はこのような無機物や有機物の循環を支える生態系そのもの健全さと言い表すことができます。小動物や微生物は植物の残渣などを無機物に分解し,植物の再利用を手助けします。

ミミズは無償で土壌を掘り返し植物の根が張りやすいふかふかの土壌を作ってくれます。水の上ではクモたちがイネの害虫のうんかなどを毎日退治してくれます。そのような大事な働き手を農薬は害虫といっしょに退治してしまうのです。そのため,さらに害虫が増殖してさらにたくさんの農薬を散布することになります。

土壌中では働き者の善玉微生物と病気の原因となる微生物のバランスも狂い,農地の豊かさが失われ,病害虫に弱くなります。化学肥料で育てられたイネは軟らかく,害虫の食害も受けやすくなります。日本の水田は世界でもっとも農薬散布量の多い農地となっています。

そのようなおろかさに気が付いて有機栽培に切り替えても,いったん痛めつけられた生態系が元に戻るには何年かの努力が必要です。夏子が1年目に栽培した水田がどのような状態であったかは記されていませんが,なんとか台風にも倒伏しない立派なイネに育ったようです。

この他にも「夏子の酒」には日本のコメ作りに関する2つの問題点が指摘されています。一つは「圃場整備」であり,もう一つは「減反政策」と呼ばれている「生産調整」です。

近代農法は機械化による省力化が欠かせませんので,小さな複数の水田を一つの大きな定形的な水田にたまとめた方が作業効率が上がります。そもそも小さな水田ごとに持ち主が異なるようでは農業機械の償却費がとても大きなものになります。複数の大きな水田で農業機械を共有したほうがずっと合理的ということになります。

新潟のような米どころではきれいに区画整理された一枚が0.5-1.0haもある水田が広がっています。このような区画整理をするためにブルドーザーが水田を整地することになります。良い(地力の高い)水田もそうでない水田もブルドーザーがかきまぜてしまうのです。

夏子の酒では有機栽培農家の豪田が自分のところは区画整理をさせないと宣言しています。圃場整備事業に対しては政府から補助金が出ますので,このような反対行為は村八分を覚悟しなければなりません。

コメの生産調整(減反政策)の本来の趣旨は国内で生産過剰のコメ栽培から他の農作作物に転換するというものでした。しかし,現実には休耕田,調整水田,転作田というようになっており,国からそれぞれに10aあたり1-4.5万円の補助金が出ます。

全国でどれだけの水田が転作田になったかは分かりませんが,「減反政策」が始まってから40年も経過し,この間におよそ7兆円の税金が投入されたにもかかわらず,減反対象の水田は減少していません。現在でも国内消費量だけを考えるならば1/3の水田は過剰なのです。減反政策は単に農家の所得補償制度に過ぎなかったのです。

日本の農家は他の先進国のように自立した農場経営とは程遠いものであり,発展途上国の農家の形態をそのまま現在に引き継いでいます。日本の農家数は196万戸もあり,フランス(57万農場),ドイツ(39万農場),英国(29万農場)に比して突出しています。農家戸数だけを比較するなら世界最大の農業国である米国(220万農場)に匹敵します。

当然,農家一戸あたりの耕地面積は1.8haとヨーロッパ諸国の1割にも満たない状況です。これでは農業だけで十分な収入を得ることはできませんので専業農家は2割程度しかありません。残りは兼業農家といわれ,家計の主たる収入は農業以外のものとなっています。

実際,耕地面積1.5haほどの平均的なコメ生産農家の収入438万円のうち農業所得は35万円しかありません。このような農家の農業粗収益(売上)は209万円,農業経営費は175万円となっており,その差額が農業所得となっています。

この農業経営費の中には農業機械の減価償却費,化学肥料,農薬,水利費などが含まれています。これに家族労働費と地代などを加算したものが「全算入生産費」といい,コメ作だけで生計を立てるには全算入生産費<生産者売り渡し価格(生産者価格)という関係が成立しなければなりません。

ところが平均的な農家の場合,1980年代から一貫して全算入生産費>生産者価格という関係となっています。日本の農家の大部分は家族労働費を算入しないことによりかろうじて農業収入>農業支出の関係が成立しているのにすぎないのです。このような事情のため「減反政策」という生産調整により生産者価格を維持しようとしてきたのです。

大多数の農家にとっては農業は副業的な位置づけであり,できるだけ手間をかけずに土日だけの農作業で済ませたいという事情があり,化学肥料と農薬に頼る高コスト農法となっています。

農薬の散布にしても各農家が個別に散布するのは大変なことなのです。そのため,農協主体で空中散布ということになったのでしょう。平均的な農家にとってはできるだけ省力化した稲作が至上課題であり,その限りでは河島地区の空中散布は農家の要求に基づいたものだったのです。

2年目は栽培会を立ち上げます

2年目の「龍錦」は栽培会を立ち上げて生産することになりますが,最大の問題点は河島地区で年に数回行われる農薬の空中散布です。病害虫の発生にかかわらず決められた時期に農薬を散布するのがこの地区の慣例になっています。省力化した稲作でないとやっていけないという多くの農家が空中散布を支持しています。

空中散布は地区全体に一様に散布するものですから,栽培会の水田だけを避けるというわけにはいきません。当然,農協の会合は紛糾することになります。この席上で夏子は(発言権はないのですが)「この手で土を耕し,苗を育て…田に植え…暑い夏,汗を流しながらその成長を確かめ…秋,黄金色に実る稲を見る喜び…そして,その稲を刈る興奮,それは感情じゃないんですか…作る者だけが知る喜びじゃないんですか…それがあるから米を作るんじゃないんですか…農家は」と発言します。

これは,食料を生産する者のあるべき姿ですが現実には安いコメ,安い食料を求める消費者のニーズからすると容易には成立しない論理です。消費者にとっては価格が最大の選択基準となっているのです。消費者のニーズが価格にある以上,農家もコメ作りのコストを下げざるを得ないのです。

農薬の空中散布停止は有機栽培米の高価格に支えられてようやく実現します。「龍錦」は栽培会の6人が育てることになります。有機栽培のためには1反(10アール)につき2トンの完熟堆肥が必要になります。2年目の栽培面積は1町歩(1ha)ですので必要な20トンの堆肥は豪田の農場から供給されることになります。

半年の苦労の成果は秋の実りとなります。天候にも恵まれ良い収穫となりました。一部は手刈り,ハザによる天日干しです。仁吉の2反の田んぼはコンバインで収穫されてそのまま袋詰めになり,収穫は(籾ベースで)16俵です。宮川は2人で2反の手刈りはまかせておけと言いますが,実際に1人で1反の手刈りは大変な労働です。収穫の全量は75俵,4500kgプラス来年の種もみ60kgでした。

山田杜氏の最後の冬が始まります

4500kgの酒米はタンク3本分に相当します。いよいよ山田杜氏の最後の冬が始まります。造りの中では3本のタンクにそれぞれ新しい工夫をしており,「龍錦」の吟醸の可能性を試しています。

しかし,山田杜氏は「龍錦」の2本目のタンクに酒母が仕込まれたあたりで体調を崩し,これ以外の造りは草壁が中心になって進めることになります。「龍錦」の3本目のタンクの仕込みも草壁が担当することになります。草壁は数字と自分の感覚を信じて新しい工夫を続けます。

年が明けて最初に仕込んだ1号タンクは上槽を迎えます。夏子の24歳の誕生日に1号タンクから搾られた生酒の利き酒が行われます。佐伯社長,山田杜氏,草壁,夏子の口から感嘆の声が漏れます。佐伯社長は「これはひょっとしてとんでもない酒ではあるまいか」とつぶやき,山田杜氏は「おっしゃる通りです」と答えます。

すばらしい吟醸のできにみんなは喜び,舞い上がっていますが,夏子だけは「これは本当に夏子の酒ですか」と自問します。2号タンクの出来も1号になんらそん色のない出来でした。しかし,夏子は「じっちゃん,ありがとう」と言う傍らで「兄さん,私はこの吟醸に満足してはいません」と心の中でつぶやきます。

3号タンクの初呑み切りの日に美泉の内海と上田が佐伯酒造を訪れます。1号と2号タンクの吟醸を利いた二人は「この酒には欠点はない」,「うちの美泉も及びません」と最大限の評価をします。そこに草壁が3号タンクの吟醸を持ち込み,これを利いた関係者は一様に驚きの声を上げます。

夏子は言葉もなく涙を流しています。机に倒れ込むようにした夏子は「これです…じっちゃん…これです」と口にします。結果として最高の出来の3号タンクのものは「純米大吟醸・康龍」の名前で販売されることになり,1,2号タンクのものは長期熟成酒とするこにしました。

3号タンクで「夏子の酒」を造った自信からでしょうか,草壁は結婚をかけて夏子に飲み比べを挑みます。最終段階でリードされた草壁ですが,夏子がひっくり返って勝負がつきました。「勝った」と雄たけびをあげる草壁をよそに夏子の寝顔からはは「これでいいのよ」というように微笑みがこぼれています。本当は兄との夢を見ているようですが私はそのように解釈しています。

「龍錦」栽培会のメンバーもこのすばらしい吟醸に河島地区の未来をそして有機農業の未来を確信できるようになります。3年目の栽培においては吉田は合鴨農法に挑戦することになりました。この地区の農家も少しずつ変わっていくことでしょう。彼の水田の立札は「龍錦栽培予定地」の表示から「龍錦復活の地」に変えられました。その年の冬に山田杜氏の訃報が届きます。

お酒の評価の難しさ

第12巻は「純米大吟醸・康龍」の成功物語りであり,最終話もきれいに決まっています。しかし,個人的には「吟醸N」を味わったあとの夏子の不思議な利き酒の感覚および1,2号タンクと3号タンクのできが大きく違うという点,3号タンクのものだけがなぜか夏子の感性と一致したのかたくさんの疑問が残る展開です。

佐伯社長,山田杜氏,草壁が口をそろえて「とんでもない酒」と評した1,2号タンクの吟醸が,3号タンクと飲み比べて「あれほど違いのあるもの」とされるのはいったどうしてなのかという大きな疑問が湧きます。

コミックスの「美味しんぼ」でもほんのわずかな差異が天と地ほどに評価を分けるという評価法が使用されており,読者にとってはいったいどうなっているんだという気になります。

そもそも消費者にそのような針小棒大の差異点を見分けなさいというのは無理な相談であり,そのあたりが食べ物や飲み物のおいしさを競う物語の限界があります。とはいうものの,「夏子の酒」は衰退する日本酒と日本農業の抱える問題点をみごとにあぶりだした名作と評価しています。