米ソの宇宙開発競争の歴史
- 1957年:人類初の人工衛星スプートニク打ち上げ成功(旧ソ連)
- 1958年:米国初の人工衛星エクスプローラ1号打ち上げ成功
- 1959年:月の裏側の写真撮影に成功(旧ソ連)
- 1960年:初の気象衛星「タイロス1号」打ち上げ(米国)
- 1960年:人工衛星2号,犬2匹の回収に成功(旧ソ連)
- 1961年:ガガーリン世界初の宇宙飛行士となる(旧ソ連)
- 1962年:米国初の有人飛行,グレン宇宙飛行士が地球を3周(米国)
- 1962年:ボストーク3号,4号の編隊飛行(旧ソ連)
- 1963年:テレシコワが世界初の女性宇宙飛行士となる
- 1965年:レオーノフが世界初の宇宙遊泳を行う(旧ソ連)
- 1965年:2人乗りの「ジェミニ4号」,ホワイト飛行士宇宙遊泳(米国)
- 1966年:ルナ9号が月面に軟着陸(旧ソ連)
- 1967年:サーベイヤー3号が月面に軟着陸(米国)
- 1968年:アポロ8号,有人宇宙船として初めて月を周回(米国)
- 1968年:サターンVロケットによる初のアポロ宇宙船のテスト(米国)
- 1969年:アポロ11号,人類が初めて月面に立つ(米国)
- 1969年:スペースシャトル計画スタート
- 1973年:米国初の宇宙ステーション,スカイラブ1号打ち上げ
- 1975年:ソユーズ19号とアポロ18号がドッキングに成功
- 1979年:ボイジャー1号が木星の衛星イオの火山噴火を発見(米国)
- 1980年:ボイジャー1号が土星と衛星の写真撮影に成功(米国)
- 1981年:スペースシャトル・コロンビア号が初飛行に成功(米国)
- 1986年:スペースシャトル・チャレンジャー号事故
- 1998年:国際宇宙ステーション協定に各国が署名
- 1998年:国際宇宙ステーション建設開始
- 2003年:スペースシャトル・コロンビア号事故
- 2009年:国際宇宙ステーションの滞在人数が6人となる
- 2011年:スペースシャトル最終ミッション(STS-134)
第二次世界大戦の末期に使用された弾道ロケット兵器(ミサイル兵器)であるV-2は米国,ソ連,英国などから注目された新技術でした。弾頭を超音速で適地に運搬する技術は核兵器と組み合わせることにより迎撃不可能な大量破壊兵器となりえます。
そのため,各国は戦争の最終段階でV-2の機体,設計書類,開発責任者のフォン・ブラウンと技術者を確保しようとしのぎを削りました。結果としてフォン・ブラウンは米軍に投降することになり,米軍はフォン・ブラウンを始めとして126人の主要な設計技術者,貨車300両分のV-2とその部品を米国に送りました。米国のロケット計画はV2をベースに進められることになります。
一方,ソ連もV-2と250人の技術者を確保し本国に送りました。彼らはV-2をベースに多くのミサイル開発を行いましたが,1950年代にソ連の技術者が十分な経験を積むと東ドイツに帰国させられました。
このようにV-2の基礎技術を元に米ソでミサイル開発と宇宙開発競争が始まりました。それを主導したのは米国に亡命したフォン・ブラウンとソ連のセルゲイ・コロリョフという二人の天才でした。
大陸間弾道ミサイル(ICBM)と人工衛星の打ち上げに使用するロケットは基本的に同じ技術であり,米ソのロケット競争の初期はICBMの開発と密接に結びついていました。世界初のICBMに使用されたロケットはコリョリョフの開発したR-7であり,同じロケットで世界初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられています。
地球の重力に対抗して軌道上に物体を投入するためにはロケットエンジンの推力を大きくしなければなりません。そのためR-7を開発したコロリョフは小さなエンジンを束ねたメインエンジンと同じように小さなエンジンを束ねた補助エンジンを組み合わせました。
メインエンジンの周囲に補助エンジンを円周上に配置したR-7のエンジン数は合計で20にもなります。負荷を小さくするため補助エンジンは燃焼後に切り離されるという構造になっていました。このR-7は当時の米国のロケット技術を凌駕しており,世界初の人工衛星,有人宇宙飛行を実現させました。
対抗する米国のヴァンガードロケットは発射台を離れることなく打ち上げに失敗し,急きょフォン・ブラウンのチームに人工衛星打ち上げの命令が出されました。彼らはそれまでICBMの開発に従事しており,その技術をもとに1年を待たずに衛星打ち上げを成功させます。
それでも立て続けにソ連に世界初を奪われた米国のケネディ大統領は威信をかけて「1960年代の終わりまでに人類を月に送り込む」という国家目標を掲げました。
同じころソ連も極秘に有人月面着陸を計画しており,米ソの次の目標は月ということになりました。しかし,月まで宇宙船を運ぶためには地球の周回軌道に宇宙船を運ぶロケットエンジンではまったく推力が不足しており,より推力の大きなエンジンの開発がカギとなっていました。
フォン・ブラウンのチームはエンジンそのものの巨大化に取り組みF-1エンジンを開発します。一方,コロリョフはエンジンの巨大化ではなく小さなエンジンを並列的により多く使用する道を選択しN-1エンジンを開発しました。ソ連ではエンジン開発部門とロケット開発部門が分かれていたのでコロリョフは既存のエンジンの並列化で巨大推進ロケットを開発せざるを得なかったという事情もあります。
どちらの選択もイバラの道ですが結果はF-1エンジンが勝利し,F-1を搭載した史上最大のサターンロケットにより,ケネディの宣言した期限に数カ月を残す1969年に人類は月面に降り立つことができました。
コロリョフはこの結果を見届けることなく1965年にガン手術後に心臓が停止して死去しています。ソ連では彼の名前は最高機密であり生前は新聞等で報じられることはありませんでした。彼の死後2日目に「プラウダ」は彼の写真入りの特集記事を2ページにわたって記載しました。