大友克洋
wikipedia や他のウェブサイトを開くと大友克洋に関するいくつかの賛辞が見つかります。その一つは描画の特異性です。「ペンタッチに頼らない均一な線による緻密な描き込み,複雑なパースを持つ画面構成などそれまでの日本の漫画にはなかった作風」と記されています。
言われてみると「さよならニッポン」の描画にも背景の中に人物が描かれる場面が多いのに気が付きます。背景は一点透視図法や二点透視図法を使用した遠近法で描かれていますのでこのような評価につながったのでしょう。しかも,その中に描かれている人物がありのままなのです。
美しい方向であれ醜い方向であれマンガの登場人物の顔はある種の誇張が必然と考えられてきました。そのような操作を「記号化」と呼んでいるマンガ評論家もいます。ところが,大友氏の作品では背景と同様にそのままの描画なのです。このような表現方法は劇画に近いものなのですが,劇画のような重さや暗さはなく,まるで映画をそのまま描画したような雰囲気です。
確かに独特の描画であり,日本のマンガ界に大きな影響を与えたようです。そういえば,「さよならニッポン」に収録されている「聖者が街にやってくる」に出てくる新人歌手の井ノ上京子の顔が既視感というかなんとなくなつかしく思われました。
調べてみると「バナナフィッシュ(吉田秋生)」の3巻までの雰囲気と似ているのです。「バナナフィッシュ」では3巻くらいまでの顔の描画とそれ以降のもので段差があり,初期部の描写が井ノ上京子の雰囲気と類似しているので「なつかしい」と感じたのでしょう。wikipedia には影響を受けたマンガ家として吉田秋生の名前も上がっていましたので,なるほどと納得しています。
大友氏はマンガ「AKIRA」の作者およびアニメ「AKIRA」の監督して国際的な評価を受けています。残念ながら私個人としては「AKIRA」に傾倒することはなく,我が家にある大友氏の作品は「さよならニッポン」だけです。以前は「気分はもう戦争」ももっていたのですが,探してみても見つかりませんでした。
さよならにっぽん
さよならにっぽんには下記の作品が収録されています。
- East of The Sun, West of The Moon(1979年)
- さよならにっぽんT(1977年)
- さよならにっぽんU(1977年)
- さよならにっぽんV(1977年)
- さよならにっぽんW(1978年)
- さよならにっぽんX(1979年)
- 聖者が街にやってくる(1980年)
- A荘殺人事件
「East of The Sun, West of The Moon」をそのまま検索してみると世界中で1870万件がヒットしました。個人的には初めて触れる言葉ですが,世界的には多くの人々に知られているもののようです。英文版のwikipedia には「ノルウェーの民話あるいはおとぎ話」となっています。日本語のwikipedia では「太陽の東 月の西」に物語の概要が記されています。
この物語はギリシャ神話にある「エロスとプシューケーの物語」が原型になっていると思われます。ギリシャ神話では「美女と魔神」の取り合わせですが,中世のフランスでは「美女と野獣」,北欧では「少女とホッキョクグマ」という組み合わせになります。
「East of The Sun, West of The Moon」というタイトルと物語の内容は大友氏の作品としては異色だと思っていたら,原案は「狩撫麻礼」となっていました。確かにこのような雰囲気は「ハード&ルーズ(原作:狩撫麻礼,作画:かわぐちかいじ)」に類似しています。
物語の登場人物はひとりで小さな飲み屋をやっているおばちゃんとその店の常連客である売れないロックバンドのメンバー,くたびれた小柄の老人などです。この取り合わせからはたいしたドラマは期待できないのですが,おばあちゃんは往年のジャズ歌手でした。自分の老境を考え,最後にもう一度ステージに立ってみようと考えます。
彼女はロックバンドのメンバーに溜まっているつけと引き換えにバックの演奏と個人コンサートの会場を手配させます。彼女の招待状を受け取った人たちはすでに社会的地位のある人たちであり,コンサートでは昔を偲ぶ一夜の夢を共有します。
このような物語を淡々と描いていくのが大友流のようです。この素材を使うことにより,作家によっては感動物語や昔日の回顧物語を作ることができるかもしれません。しかし,大友氏はそのようなドラマ性を完全に抑えた物語に仕上げています。
残念ながらこのような表現方法はマンガフリークの注目を集めることはあっても,一般の人々受けはしません。非常に才能のあるマンガ家として評価されている反面,メジャーのマンガ家にはなれなかったのはそのような理由からでしょう。
マンガにしても小説にしても質の高い作品が人気のある作品ということにはなりません。大衆文化とはそのような性格をもつものであり,その中で生き延びるためには読者の欲求や興味に迎合しなければなりません。特にマンガのように作品展開と読者評価がリアルタイムで同時進行していくものではその必要性がずっと高くなります。
「さよならにっぽん」は親の遺産(保険金)でニューヨークに空手道場を開く男の物語りです。ときどきアクションは入るものの,スーパーマンからは程遠い強さです。1970年代の日本人と米国人の体格差を考えたらそれはしかたがないことです。
そのような当たり前のことを当たり前に描いていくのですから読者には読んだあとに残るものはそれほど多くはないでしょう。その意味では商業マンガをほとんど意識していなような作品です。
同人誌に掲載されている作品のように自分の描きたいものを自分のスタイルで描くというスタンスです。このような作家としてのスタンスの是非は一概には決められません。結果として名作ができれば(多数派からではないしても)一定の評価が得られ,駄作になれば独りよがりの作品となります。
「さよならにっぽん」は前者に属すると評価できます。私の評価は異国の地で根を張ろうと懸命に生きていく人々の姿を,等身大に記録した良質の作品となります。
「聖者が街にやってくる」はディキシーランド・ジャズのスタンダードナンバーの一つです。原題は「When The Saints Go Marchin' In」であり,通常は「聖者の行進」として知られています。1960年に時のジャズ界の大御所ルイ・アームストロングとダニー・ケイが映画の中で歌ったことにより一躍有名になりました。
原曲は黒人霊歌の一つであり,にぎやかな曲調にもかかわらず葬儀のときの歌です。ニューオリンズにおける黒人の葬儀では埋葬に行くときは静かな調子で,埋葬の時は悲しげに,埋葬が終わるとこの曲でパレードをして帰るという説明がwikipedia にありました。
「聖者が街にやってくる」はタイトルのようにジャズがらみの話です。レコード会社の斉藤部長は若い頃,ペットを吹いていたことから米国の有名ジャズバンドを訪ねます。彼らに会えて感激した斉藤は「今に僕が偉くなったらきっとあなたたちのレコードをつくってあげます」と約束しました。
その彼らから日本に行くという手紙を受け取ります。あのときの約束をなんとか果たしたいと斉藤は画策しますがその企画は通りません。その代わり新人歌手のレコーディングのバックをひょんなことから彼らが代行することになります。帰国する彼らに約束の話を言い出しかける斉藤の口を押えながら彼らは「また遊びにこいよ」と言ってくれます。
この物語に「East of The Sun, West of The Moon」のロックバンド・メンバーが,売れずに食べるのにも窮しているという役どころで出ています。
この作品もたいした盛り上がりも,ひねりや落ちもありません。最後のコマは斉藤部長の「随分昔のことだけど…まるでつい昨日のような…」というつぶやきで終わります。このとき空港で見送っていたはずの彼の背景はテネシー州の風景に変わっています。
この作品も好き,嫌いにはっきり分かれるものになるでしょう。読者サービスなどさっぱり考えないこのような作品もいいですね。