単行本は一時期絶版になっていました
マスター・キートンは原作・勝鹿北星(菅伸吉),作画・浦沢直樹の作品となっています。しかし,実際の制作場面における勝鹿氏の関与は低く,連載当時の担当編集者であった長崎尚志氏と浦沢氏が主にストーリーを考え出していたようです。
そのため、浦沢氏が「作家としてクレジットが載るのはおかしいから,名前をもう少し小さくして欲しい」と申し入れ,同時に印税比率についても話し合い,今後の増刷分に関しては勝鹿氏のクレジットを小さく印刷することで両者が合意した経緯があります。
ところが,勝鹿氏とは古くから親交のあった雁屋哲氏(美味しんぼの原作者として有名です)が「勝鹿北星の名前が小さくなることは断じて許せない」と小学館に強く抗議しました。小学館としても「美味しんぼ」の原作者である雁屋氏の意向を無視できず,増刷に踏み切れないという事情があるようです。
勝鹿氏が2004年に亡くなると,雁屋氏が代理人のような形で小学館との調整しています。幸いなことに三者の話し合いがまとまったのか,2011年に「MASTERキートン 完全版」が発刊され,そこでは「脚本」として5巻までは勝鹿と長崎が,6巻以降は勝鹿と浦沢が連名でクレジットされています。
この一連の騒動はネット上でもたくさん取り上げられており,菅伸吉氏は「きむらはじめ」,「ラデック鯨井」,「勝鹿北星」,長崎尚志氏は「東周斎雅楽」「江戸川啓視」というペンネームを使っているという記事があり,ほとんど知られていないマンガ原作者の姿が少し見えてきました。
話は非常に多岐に渡っています
「MASTERキートン」は1話完結のスタイルであり,主人公が世界の各地でさまざまな事件に関与する形式となっています。このようなスタイルでもっとも成功を収めた作品は「ゴルゴ13」ですね。超一流の狙撃手,不可能なミッションを達成する男として,世界中の大きな事件に関わっていきます。その中で読者は世界情勢の内幕が垣間見られるという仕掛けになっています。
「MASTERキートン」の主人公である平賀=キートン・太一はオックスフォード大学を卒業した考古学者であると同時に元SASのサバイバル教官という二つの顔をもっており,ほとんど収入の見込めない大学講師を本業,十分な収入となるロイズ保険組合の調査員もしくは探偵事務所の依頼を受ける探偵を副業にしています。
このため世界各地でさまざまな事件に関わることになり,物語の中で読者は古代文明,ヨーロッパの社会情勢,民族問題などさまざまな話題に触れることができます。また,主人公がサバイバルの専門家としての特技を生かして危機から脱出するアクションもこの作品の見どころの一つです。
とにかく,話題が非常に多方面でありながら,それらを主人公によりつなぎとめて発散しないようにまとめていく物語の構成は秀逸です。東西冷戦末期からソビエト連邦崩壊後の社会情勢,ヨーロッパの社会事情に興味のある人や,ヨーロッパ・中東の古代文明に興味のある人にとっては最高の作品でしょう。
発行元の小学館のサイトには完全版の刊行にあたり「コミック界の至宝,完全版で再発掘」という見出しが付いていました。さすがに「コミック界の至宝」に相当するかどうかは個人的なものでしょうが,私にとっては浦沢直樹の最高傑作だと思っています。作画もパイナップル・アーミーに比べて一段と洗練されており,この作品により浦沢直樹の画風が完成したといってよいでしょう。
話題がどのくらい広範囲のものであるかを知っていただくために第1巻から第3巻の物語の舞台と内容のキーワードを整理すると次のようになります。
第1巻 第1話 :ギリシャ,海底発掘現場,元傭兵との対決
第1巻 第2話 :イタリア,人探し,テロリストとの対決
第1巻 第3話 :日本,遺跡保存のための開発反対運動,百合子初登場
第1巻 第4話 :ロンドン,「投石するダビデ像」の贋作調査
第1巻 第5話 :中国,タクラマカン,紀元2世紀の地層発掘
第1巻 第6話 :タクラマカン砂漠でのサバイバル
第1巻 第7話 :日本,太平の隠し子?,太助の嗅覚
第1巻 第8話 :日本,太平所有の古い田舎家,ペニロイヤルミント
第2巻 第1話 :西ドイツ,貴婦人との旅,貴石ザクセンブルーのいわれ
第2巻 第2話 :ロンドン,ヘロイン密輸ルート,元SASのナイフ使い
第2巻 第3話 :ロンドン,コルシカ・マフィア
第2巻 第4話 :アイルランド,東京オリンピックの金メダルの行方
第2巻 第5話 :スイス,マフィアから50億リラを搾取した男
第2巻 第6話 :英国,特殊な狂犬病ウイルスの出現
第2巻 第8話 :世界各地,特殊な狂犬病ウイルスによる連続殺人
第3巻 第1話 :パリ,シモンズ社会人学校,スコット教授と再会
第3巻 第2話 :西ドイツ,西ドイツ赤軍,プロの賞金稼ぎ集団
第3巻 第3話 :イタリア,10歳の小さな貴婦人フローラを取り戻す
第3巻 第4話 :スペイン,スペイン内戦時代の友情と裏切り
第3巻 第5話 :日本,植物特許,太助の嗅覚が活躍する
第3巻 第6話 :西ドイツ,トルコ人労働者問題,矢の無い弓
第3巻 第7話 :ロンドン,旧友との再会,ロイヤルアイスクリーム
第3巻 第8話 :西ドイツ,盗品の保険買い戻し
このような話題が18巻までずっと続いています。物語の最後で主人公は自説である「ヨーロッパ文明のドナウ起源」の証拠を発掘するため,ルーマニアの片田舎ジェコバ村で一人で作業を続けています。
娘の百合子あての手紙の中で次のように書き記しています。
父さんは今ここにいます。
ここを掘っても何もでないかもしれないけど,今はとにかくここに…
百合子,君のお母さんにこう伝えて下さい
ジェコバ村は美しいところです。
ドナウ河が近くを流れ,緑の美しい土地です。
君にこの風景を見せたい。
来て下さい。
私はここにいます。
この最後の言葉は分かれた元妻に再び人生を一緒に歩みたいという意志表示(告白)なのでしょうか。二人の人生の軌跡はオックスフォード時代の一時期に一つに重なり,その後はそれぞれの軌跡をたどっています。百合子という求心力があることにより,二人の軌跡が再び接近することも大いにありうることです。
二人とも40歳になるかならないかの年齢であり,新しい人生を始めるには十分です。物語の中ではキートンに好意を寄せる何人かの女性が現れますが,本人はまったくその気がないように感じられたのは元妻への想いがずっと途切れていなかったのだと最終ページで理解できることになりました。
世界の古代文明
第3巻の第3話で百合子が代表的な世界の古代文明について先生と対立する話があります。私の子どもの頃には「四大文明」があったと教科書にありました。それから四半世紀が経過した1980年代末の中学校の教科書にも同じことが記述されているとはちょっと驚きです。さすがにこの時期には研究が進み,主人公のいうように「現在では少なくともこの時期に20の文明はあった…これが今の考古学の定説です」という説明になります。
文明とはなにかを定義するのはとても難しいことです。とりあえず初期の人類文明の定義を「都市を中心に,単一の定住に比べてより広い範囲で社会としてのまとまりがあり,文字等の記録手段が開発された」状態としておきましょう。ただし,文字については必ずにも必要条件とはできません。
四大文明と同じ頃,規模の大小はあるものの,上記のような文明の定義を満たす社会は数多く存在していたことは確かです。四大文明はたまたま規模が大きいことと,発見時期が早かったことで四大という形容詞が付いたにすぎません。
考古学の研究が進んでもどこに,どれだけの初期文明があったかとなるとまだはっきりとは分かっていません。主人公の学問的テーマであるドナウ文明が明日にでも発見される可能性はあります。また,考古学の定説は現在でもどんどん塗り替えられているのです。とりあえず私が調べた範囲では下記のような初期文明があります。
文明の名称 | 年代 | 地域 |
---|---|---|
エジプト | 6000年前 | ナイル川流域 |
シュメール | 5500年前 | メソポタミア南部 |
バビロン | 5000年前 | メソポタミア中部 |
アッシリア | 2700年前 | メソポタミア北部 |
ヒッタイト | 3600年前 | 中央アナトリア |
カナン | 3800年前 | パレスチナ |
エラム | 4700年前 | イラン高原 |
クレタ(ミノア) | 4000年前 | エーゲ海・クレタ島 |
ミケーネ | 3500年前 | ペロポネソス半島 |
アテナイ | 4000年前 | ギリシャ |
ドナウ | 4000年前? | ドナウ川下流域 |
インダス | 4600年前 | インダス川流域 |
長江 | 7000年前 | 長江中・下流流域 |
黄河 | 4000年前 | 黄河流域 |
四川 | 4500年前 | 長江上流域 |
アーリア | 3000年前 | アラル海北部 |
コトシュ | 4500年前 | ペルー・アンデス |
チェビン | 3000年前 | ペルー・アンデス |
オルメカ | 3200年前 | メソアメリカ |
ティオティワカン | 2200年前 | メキシコ中部 |
マヤ | 1700年前 | ユカタン半島 |
ドナウ河中流・下流域はヨーロッパ文明発祥の地である可能性は否定できません。アナトリア,ギリシャ,バルカン半島の3地域を比較するとドナウ河中・下流域は他地域に比べて農耕に適しており,地理的条件からここに初期文明があった可能性は高いのです。しかし,考古学は可能性ではなく,発掘による証拠が必要です。近い将来,文明といえる遺跡が見つかることを期待しましょう。
人間はどんな所でも学ぶことができる
主人公キートン・太一の卒業論文の指導教授である「ユーリー・スコット教授」は卒論の採点後にオックスフォードを去ります。その時の手紙には「どんな状況に置かれても研究を続け,立派な学者になりなさい。そして,そのときは必ず会おう」と記されていました。この手紙は太一の学究の徒としての原点となります。
パリにあるシモンズ社会人学校における最後の授業で主人公は生徒たちに次のように語りかけます。
最後に皆さんに聞いていただきたいことがあります。
たとえ学校が無くなっても,皆さんに学び続けて欲しいということです。
実は私も学問を追及する者として,自信を失いかけていました。
しかし,ここで皆さんと過ごすうちに,気が付いたのです。
たとえ,学校の職を失っても,勉強を続けていきたい。学ぶ情熱がある限り…。
人間はなぜ学ばなければならないのでしょう?
人間は一生学び続けるべきです。
人間には好奇心,知る喜びがある。
肩書や,出世して大臣になるために学ぶのでないのです…。
ではなぜ学び続けるのでしょう?
それが人間の使命だからです。
これがこの作品の中でもっとも感銘を受けた言葉です。年齢からするとこの作品を最初に目にした時の私の年齢は太一・キートンと同じくらいでした。まるで彼から直接,語りかけられているような感じを受けたものです。「人間は学び続けるから人間でありうる」というのは私の座右の銘の一つです。