私的漫画世界
光と闇・二人の男の信念をかけた闘い
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無謀に近い物語の設定

「男組」は1974年から1979年に渡って少年サンデーに連載されました。米国の大学紛争,中国の文化大革命に触発された日本の学園紛争はすでに終息していました。しかし,一過性の現象とはいえ,権力に対峙しようととした学生たちの行動はまだ人々のこころに共感として残っていた時代ということになります。

国家権力を背後から操り,マスコミも手が出せない「影の総理」と呼ばれる人物に高校生や少年刑務所の受刑者が戦いを挑むという荒唐無稽な物語の設定はある意味では時代が後押ししたものともいえます。

原作者の「雁屋哲」は「美味しんぼ」の原作者としてすっかり有名になりましたが,1970年代は「男組」のような骨太の物語を考え出していました。作画の「池上遼一」は「平成の絵師」の異名をもち,現在でもトップクラスの画力をもってます。

これだけの重いテーマを書き上げるには池上氏レベルの画力が必要だったのは明らかです。当時の画風は現在よりも少年誌向けのものになっていますが,劇画調の緻密な絵により自らの信ずるもののために戦う男たちを骨太に表現しています。

人間の本質,社会の本質とは

この物語では流全次郎,神竜剛次,影の総理に代表される三つの勢力の闘いが描かれています。彼らの社会に対する発言を列挙してみるとそれぞれの考え方が分かります。

● 神竜剛次
生徒たちを見ろ!やつらはブタだっ!,ブタどもには秩序を与える主人が必要だ!,汚された世界におれは新しい秩序をうちたてるのだっ!
影の総理は私欲をみたすために権力を行使する。だが,おれには理想社会を実現するために権力が必要なのだ。

● 流全次郎
豚は自分が豚であることに気がつかない! ,人間は自分が人間であることを知ることができる! ,知ろうと努力することもできる! ,だから人間は希望を抱くことができるんだ!!
人間はいつか平等で平和な社会を作ることができるという希望だ! ,だれが支配することもなく支配されることもなく争うこともない,自由な社会を作ることができるという希望だ・・・

● 影の総理
理想などというものが一番いかん。大衆はブタのままでよい。ドブ泥のような社会に放し飼いにしておいて,エサにつられてどんなことでもきくようにしておくことが権力を保つコツだ。
試験で100点をとる男は有能で役にたつ。しかし,200点以上とるような男は優れすぎていて危険だ。

三者の発言のうち人間の本質,社会の本質をついているのはどれかということに関しては議論があることでしょう。しかし,1970年代に比べると現在の日本人の精神はずっと豚に近い方に振れてしまっているように感じます。個人的にはあまり好きな政治家ではありませんが,石原都知事はインタビューの中で次のようの発言しています。

米国は自由,フランスは自由,平等,博愛という国家思想を持っていますが,今の日本人が持っているのは「我欲」だけ。金銭欲,物欲,性欲です。東日本大震災の直後,私は記者会見で「大震災は天罰だ」と言いましたが,それは東北の被災地に対して言ったのでは決してない。「日本国そのものに対する天罰だ」と言ったのです。(中略)

財政が破綻しかかっているのに,見てみぬふりを続けて来たことです。先日,米国はデフォルトしそうになりましたが,日本も他人事ではない。GDP対比で考えると,公的債務残高はギリシャやスペインより多い状況です。このままいくと,日本の国債はあと数年でデフォルトしてしまう。

しかし,そんな状況にもかかわらず,国民の多くは増税に反対する一方で,もっと社会保障を手厚くしろと自分勝手なことばかり言っています。しかし,どう考えても,今の高福祉を低負担でできるわけがない。本来なら,とっくに消費税を20%に引き上げていて然るべき状況なのです。


この発言については東日本大震災の津波発言を除くとうなづける点があります。日本も中国もかっては「礼節の国」として知られていますが,現在の両国の価値観は「お金」しかないようです。手段はともかく金を手にした人が勝者とされています。

東日本大震災により久しく使われることのなかった「絆」という言葉がマスコミでよく取り上げられています。しかし,震災ガレキの広域処理ではほとんどの自治体が住民の反対を恐れて二の足を踏んでいます。

「私の町には放射能は1ベクレルも入れさせない」などとヒステリックにわめく人を見ると,日本人の絆はずいぶん細いものなのだなとため息が出ます。このような偏狭で身勝手な価値観しか持ち合わせていない人々を見ると石原都知事の発言は正鵠を射たものと考えさせられます。

神竜剛次の理想と現実

物語の中では神竜剛次の支配する3つの高校が単に暴力で支配されているだけのように見えます。新しい秩序をもつ社会,理想社会の建設というような言葉を口にしていますが実際にやっていることは暴力と恐怖により生徒を支配しているのにすぎません。しかも,そのような暴力支配の手足となっているのはもっとも卑しい種類の人たちです。

暴力の檻の中で理想社会が構築できるなどと考えているとすれば神竜剛次はただの妄想主義者ということになり,とてもこの物語の敵役としては力量不足です。この物語の主題は善と悪の対決ではなく,光を見つめるものの理想と闇を見続けてきたものの理想の激突であるはずです。それが,単なる暴力の衝突に終始してしまったところにこの物語の限界があります。

原作者の雁屋氏は「美味しんぼ」でも海原雄山のキャラクター設定で同じ過ちを繰り返しました。最初に出てきたときの雄山は芸術と美食の鬼であり決して人格者ではありませんでした。しかし,山岡士郎との対決に物語が進展していくと非人格者のままでは敵役にならないことに気が付き,大幅に設定を見直すことになりました。

善と悪の単純な対決は勝った,負けたであり,物語の深みにはつながりません。「美味しんぼ」が長続きしているのは海原雄山を偉大な敵役に昇格させたことによります。海原雄山が芸術と美食の世界で生涯をかけて北王路魯山人を越えようとしているように,山岡士郎は偉大な父を越えようとしているところに大人の物語が展開されています。

まあ,こんなことを1970年代の作品に注文してもしょうながないですけれど,神竜剛次のキャラクター設定をもう一工夫すればこの物語は二つの理想の対決というテーマを消化できたのではと思います。

それがあれば,流と神竜の最後の対決のあとに神竜が語った「流・・・おれとおまえは同じカードの裏表だったのかもしれんな・・・おまえは光をみつづけ,おれは闇をみつづけた。闇とは人間に対する絶望であり,光とは人間に対する希望だ。どこまでも人間に対する希望を失わぬおまえのその強さがおれを圧倒したのかもしれぬ」という言葉が生きてきます。

風は 蕭蕭として易水寒し 壮士一度去って 復た還らず

流全次郎が白い学生服(白装束)を身に付け,神竜から受けとった短刀を懐に入れ,影の総理の殺害に向かう場面でこの詩が背景に出てきます。これは「史記」に記された荊軻(けいか)が秦王(後の始皇帝)を暗殺すため出立するときに読んだ詩であり,中国語で表現すると次のようになります。

風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還

荊軻は中国戦国時代末期の衛の人です。読書と剣術を好んで修行し,若くして諸国を放浪して遊説術を学びました。諸国の旅から衛に帰国し,衛の君主である元君に謁見し,遊説術に基づいた国家議論を大いに述べましたが聞き容れられませんでした。挫折した荊軻は遊侠に身を投じることになります。燕の国に流れた荊軻はそこで田光の賓客として遇されました。

当時の中原の情勢は西の秦が強国となり韓,趙を滅ぼし燕との国境に迫っていました。燕の太子丹は秦王に対して刺客を送ることを考え,田光に相談します。田光は荊軻に太子に会うよう説得します。太子の口から秦王暗殺の依頼を受け荊軻は逡巡しますが,引き受けます。

剣を帯びては秦王に近づくことはかないませんので,降伏のしるしとして割譲する地域の地図に毒をぬった短剣を忍ばす方法を考え出します。また,秦王を安心させるため秦から太子のところに亡命していた樊於期将軍の首を持参することにします。

樊於期は荊軻の計画を聞き,復讐のためにこれを承知して自刎します。こうして道具立ては揃いました。従者として信頼できる旧友を呼び寄せますが間に合わず,秦舞陽を連れて出立します。そのときに読んだものが上の詩です。残念ながら秦王の暗殺は失敗に終わり,荊軻はなます斬りにされます。暗殺には失敗しましたものの荊軻の名は歴史に残り,辞世の詩は現代まで語り継がれることになりました。

ワルシャワ労働歌

流全次郎が神竜から受けとった短刀を握り締めながら影の総理邸に突入する最後の場面で背景に出ているのは「ワルシャワ労働歌」です。「インターナショナル」と並んで労働歌を代表するものであり,日本でもよく歌われました。

巨大な敵に立ち向かう労働者を鼓舞する詩は「Swiecicki」というポーランドの革命詩人によるものです。日本語訳はいくつかあり,「男組」の訳詩は鹿地亘によるものです。

暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は 吹きすさぶ
怯まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖をうち砕け
自由の火柱輝かしく 頭上高く燃え立ちぬ
今や最後の闘いに 勝利の旗はひらめかん
起て同胞(よ ゆけ闘いに 聖なる血にまみれよ
砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく


もともとはポーランド民謡の作業歌でしたが,「Swiecicki」の歌詞により労働歌,革命歌としてロシア革命時に愛唱されました。レーニンが好んだ歌としてロシア経由で世界中に広まっています。

「Swiecicki」の歌詞にある「敵」とはロシア皇帝であり,それに立ち向かったのが共産主義勢力です。しかし,共産党一党独裁下のロシア,あるいはソ連邦では赤い皇帝が権力を握り,国民は一定の生活保障と引き換えに「自由」を失いました。ワルシャワ労働歌にある「自由の火柱」は革命勢力が権力を掌握する過程で抹殺されてしまったのです。

第二次世界単線後のヨーロッパは東西に分割され,ポーランドは東側陣営に組み込まれました。ポーランド支配していた「統一労働者党」は名称とは裏腹に自由な労働組合運動すら認めませんでした。それは当時のすべての社会主義国家についても同様でした。社会主義国家とは社会主義を標榜する独裁政権が国民を支配下に置く牢獄国家にすぎなかったのです。

この社会主義の幻影は皇帝も社会主義政党も同じ性格をもっていることに気付かされます。ポーランドではグダニスクのレーニン造船所を中心に独立自主管理労働組合「連帯」が結成され,「統一労働者党」と対峙することになります。このときに「ワルシャワ労働歌」は歌われませんでしたが,東欧の民主化に大きな足跡を残すことになります。


信長

ビッグコミック・スペリオールで1986年から1990年に掲載された作品です。日本史において巨大な足跡を残した織田信長の一代記であり,「うつけもの」と呼ばれていた時期から本能寺の変までを史実にかなり忠実に描いています。

新兵器としての鉄砲重用,家臣の能力主義,寺社の既得権を破壊する楽市楽座,叡山焼き討ち,一揆勢力の根切りなどそれ以前の日本では考えられないような政策を次々と手がけていきます。おそらく最終目標は中国のような中央集権国家の建設であり,その中では天皇の地位も相対化されることになるでしょう。

このような野望は旧勢力にとっては許しがたい暴挙であり,明智光秀の謀反は旧勢力との取引によるものと考えるのが妥当でしょう。この時期の池上遼一の絵柄は完成しており,信長の実像がある程度分かる読み応えのある作品となっています。残念なことに,単行本の最終巻(第8巻)は安土城のカットが資料の無断使用に当たるとして問題となり,ビッグコミックスからは刊行されないままになっています。

サンクチュアリ

ポル・ポトの支配するカンボジアで生きのび,タイの難民キャンプへの脱出に成功した北条彰と浅見千秋は,帰国後に人を作れなくなった日本を変革しようと政治(表)と暴力団(裏)の世界に役割を分担して変革に乗り出します。二人が役割分担を決定したときの方法はカンボジアで生き延びるために仲間内でしていたシンプルなジャンケンでした。

結果として浅見は表,北条は裏の世界に進むことになりました。物語は浅見が政治家秘書,北条が北彰会の会長となったところから始まります。二人は表と裏の世界で力を蓄え,北条が暴力団の全国制覇と表の世界への進出,浅見は政界の再編と首相公選制を目指します。