長かった下積み時代
1982年に第28回小学館漫画賞を受賞しており,あだち充の出世作であり最高傑作であると思っています。もちろん,タッチで少年サンデーの看板作家となってから発表された「ラフ」,「H2」も同じような面白さをもった作品であることはまったく否定しません。
しかし,「タッチ」は10年間下積みを続けた作者が渾身の力で書き上げた勢いがあります。わずか連載2年目で小学館漫画賞を受賞していることからこの作品の完成度の高さがうかがえます。
この頃は少年サンデーの黄金期で,うる星やつら(高橋留美子),六三四の剣(村上もとか),ただいま授業中!(岡崎つぐお),ふたり鷹(新谷かおる)など,現在でも私の書棚に並ぶ名作が目白押しでした。その中で現在40代,50代になっている読者が「タッチ」の表現方法をちゃんと分かってくれたことがこの作品を名作にした原動力となりました。
タッチは野球マンガでありながら,野球はあくまでも舞台装置以上のものとはなっていません。野球の技術についてはほとんど触れられていませんし,打者との駆け引きもありません。あくまでも主役は人であり人間関係なのです。このようなことから野球をあまり知らない女の子でも十分楽しめるものに仕上がっています。このあたりも人気の秘密でしょう。
作者のあだち充は1970年に漫画家としてデビューしていますが,ヒット作に恵まれずおよそ10年の下積み時代を経験しています。その頃の主な作品をあげてみると次のようになります。
- ハートのA(1975年,週刊少女コミック,小学館,原作:才賀明)
- がむしゃら(1976年,週刊少年サンデー,原作:やまさき十三)
- 初恋甲子園(1976年,週刊少女コミック,原作:やまさき十三)
- 泣き虫甲子園(1977年,週刊少女コミック,原作:やまさき十三)
- ナイン(1978年-1980年,少年サンデー増刊,小学館)
- 夕陽よ昇れ!!(1979年,週刊少女コミック,原作:やまさき十三
- 陽あたり良好!(1980年-1981年,週刊少女コミック)
- みゆき(1980年-1984年,少年ビッグコミック,小学館)
この軌跡を見ると少年誌と少女誌の間を行き来したり,原作ものを手がけるなど,作者の苦闘の跡が透けて見えます。同時に多くの作品が野球を扱っており,それらが「タッチ」の生まれる下地になっていることも分かります。
YOMIURI ONLINE 「本よみうり堂」の中で作者は『「ナイン」の1話目は熱血志向の少年誌を意識し重い雰囲気に。が,さほど反響がない。2話目で少女マンガで貯(た)めた技を使い,思い切り軽くさわやかにすると,大いに受けた。結局、編集部のほうが頭が固かった。少年誌に戻ってきたら,僕のマンガを分かってくれる読者が育っていて調子に乗れた』と語っています。
「タッチ」の中で随所に見られるあだち充独特のコミカルな表現,余韻を残す心理描写,日常のなにげないところから話を作る技は少女誌の中で培われたものなのでしょう。しかし,ナインではまだ絵のタッチが少し劇画風で彼の持ち味の軽いウイットとかみ合っていなかったように感じられます。
あだち充の絵柄はワンパターンだとか,キャラクターの描き分けが出来ていないといった指摘がありますがそれほど気になるものではありません。まあ,作者も他の作品では編集者などの名を借りてそのように言っていますし,デフォルメの少ないすっきりとした絵で現実と近い感じで表現しようとすると,描き分けるのはけっこう大変なのではと推測します。
タッチはラブコメディか?
少年サンデーという当時のメジャーの舞台で発表された「タッチ」は,絵柄と表現力が「ナイン」に比べてもう一段洗練されており,ようやく作者本来の持ち味が完成したようです。ストーリーは野球を縦軸,恋愛・人間関係を横軸に織りなす青春ものです。
「タッチ」は少年マガジンの「巨人の星」,「あしたのジョー」に代表される1970年代の熱血スポーツマンガとは一味も二味も異なっています。また,人間関係においても1978年から同じ少年マガジンに掲載されて人気のあった「翔んだカップル」のシリアスな恋愛とも距離をおく作品となっています。
甲子園を目指す野球マンガでありながら,「タッチ」では熱血スポーツマンガのもつ重苦しい雰囲気が爽やかな軽妙さに昇華されています。
少年マンガのジャンルではラブコメディに分類されています。しかし,それは半分当たっているものの半分は外れています。その理由は,同じようにラブコメディに分類されており,1980年代前半の少年サンデー誌上で「タッチ」と人気を二分した「うる星やつら(高橋留美子)」と対比するとよく分かると思います。
「うる星やつら」は異星人のラムと地球人の諸星あたるの恋愛関係に対して奇想天外なキャラクターが絡んでくるコメディに仕上がっています。まさしく,SF仕立てのラブ・コメディということができます。
それに対して「タッチ」は高校野球という舞台における様ような人間関係をていねいに描いており,恋愛関係はその一つととらえられます。私はしっとりとした上質の笑いをもった野球・青春マンガと位置づけています。
衝撃的な和也の死
物語は明青学園中等部3年に在籍する上杉達也・和也の一卵性双生児と上杉家のおとなりさんの朝倉南を中心に展開していきます。三人は同い年で幼なじみとして育ってきました。しかし,中学生になると三人の中で微妙な人間関係が生まれてきます。
和也は南の小さい頃からの夢である甲子園で母校の応援をする夢をかなえるために野球に打ち込んでおり,明青学園高等部から熱望されている存在となっています。
それに対してそのような努力をしてこなかった達也は南との関係において精神的に一歩退いている状態です。達也と和也はとても仲の良い兄弟として描かれており,南もそのような三人の微妙な関係を壊さないように配慮しています。
高等部に進学し和也は野球部に入り,投手として周囲の期待にたがわない活躍を見せます。一方,達也は野球部に入りたい気持ちはあったのですが,南がマネジャーになるということで,入部を断念します。
達也の友人の原田は三人の関係を洞察し,達也が将来,和也とたたかうことになることを見通して彼をボクシング部に入部させます。闘争心の少ない達也はどうしても殴りあいにおいて遠慮することになり,少なくともボクサーとしては大成する状況にありません。
物語が劇的な変化を迎えるのは単行本の第7巻です。夏の地区予選の決勝戦に出かける途中,子どもを助けようと和也が交通事故死してしまいます。
作品名の「タッチ」は双子の弟から兄へのバトンタッチの意味が込められていることから,和也の死は作者にとっては連載が始まったときから想定されていたようです。当然,編集部には抗議の電話が多数寄せられて対応に往生したと当時の編集者は語っています。
和也の死に接した達也と南は人前では涙を見せませんが,達也は部屋でステレオの音量を最大にして,南は鉄橋の下の騒音の中で慟哭します。このような場面でも二人の声は聞こえず,背景の音だけが二人の悲しみの大きさを物語っています。私の読んだ少年誌の範囲ではこのような間接的な方法で感情や考えを表現する高等な手法は「タッチ」が初めてだったと思います。
また,それに続くお葬式の場面では2ページにわたってネームのまったくないコマが続きます。このようにネームの無いこまを多用し,そこに描かれている場面を通して読者に物語の展開を想像させる手法も随所に見られます。このような高い次元の表現方法が多用されているので,当時の子どもたちが大人になってから読み直しても十分におもしろく,かつ,子どもの頃には分からなかった表現の妙が伝わってくると思います。
小さな話を作るのがとても上手です
和也の死をきっかけに達也やボクシングブ部から野球部に金銭トレードされます。ボクシングブ部のキャプテンも達也の性格がボクシングに向かいないことは重々承知しています。このトレードの対価が「うる星やつら」の色紙であったことは笑えます。
こうして野球部に入った達也ですが生来の飽きっぽい性格は簡単には直りません。和也の球を受けることを生きがいとしてきた捕手の松平も達也を投手としては認めない態度をとります。
南が和也のために作った地区予選初勝利のお祝いの花束をめぐって松平と達也は殴りあいになります。ロッカールームでボクシング部仕込のパンチを受けた松平に対して,事情を知った達也はさらに挑発するふりをしてきつい一発をもらいます。
また,松平が排水升に落ちた500円玉を雨の中で拾おうとしてカゼを引いた時,無愛想な少年が肉まんを届けてくれ,その中には500円玉が入っていました。そのような達也の思いやりは次第に松平のこころをほぐしていきます。あだち充はこのような小さな話を作るのがとても上手であり,熱血抜きで人間関係を前進させる力としています。
この時期,野球部のマネジャーをしていた南にも転機が訪れます。ケガをした新体操部のキャプテンの代わりに出場した初めての地区競技会で三位に入賞してしまいます。さらに,都大会で準優勝となり,学校側の期待もあり,南は新体操部から離れるわけにいかなくなります。
勢南高校に敗れて二年生の夏が終わります
第二部は二年生に進級したところから開始されます。達也はなんとか投手としてやっていけるだけの体力とコントロールを身に付けてきました。当然,勢南高校の西村,須見工業の新田という地区大会で甲子園を争うライバルが登場してきます。西村は三枚目,新田は最大のライバルとして描かれています。
特に新田は練習試合で和也から1試合で3連続三振を喫しており,和也の死により再戦はかなわないと思っていたところに達也が現れ,再び野球に対する情熱を燃やすことになります。同時に彼らは南に想いを寄せており,野球を離れても人間関係の小話のネタを提供してくれます。
夏の地区大会では勢南高校に敗れて終わります。この試合の夜,達也は初めて悔しさを口にします。地区大会を制したのは新田昭男の須見工業高校でした。新田は甲子園でも大活躍し一躍,高校球界のスーパー・スターとなります。一方,南はインターハイで4位に入り,高校新体操界の新しいアイドルとなります。
ニ年生も終わり近くなり,松平が新チームのキャプテンとなります。西村と達也が南風でゲームをしているとき,新田のバイクで送ってもらった南が現れ,4人が顔をそろえることになります。甲子園を目指す達也の最大のライバルとなる新田は紳士的にお礼のスパゲティを食べると帰ります。しかし,三枚目の役柄となっている西村は達也の前で南を映画に誘います。
その夜,南は達也に困っている南を助けるような発言がなかったと責めます。達也は「南とは距離が近すぎて,まだどのような関係なのかはっきりさせることができない」と告げます。ネームの少ないこの作品の中では珍しく長々と達也の現在の気持ちが語られており,南もその回答に満足することになります。
甲子園を目指す最後の年が始まります
高校生最後の年が始まります。新一年生に新田の妹の由加が入ってきて,しかも野球部のマネジャーになったので物語はさらに複雑になります。高校野球のスターである兄を基準に男性を見ている由加は,南の彼氏で兄を本気にさせている達也に興味を抱いており,南に対しては強い敵対心をもっています。
春の選抜大会で須見工は再び準優勝に留まります。ということは明青高校が甲子園に行くためには甲子園で優勝する力が必要ということになります。それは4月時点の明星野球部の実力ではとても望めないことです。そんなときに平凡を絵に描いたような西尾監督が(都合よく)体調を崩し,彼の推薦により代理監督として明青学園OBの柏葉英二郎が登場します。
実は西尾監督は柏葉英一郎を推薦したのですが手違いで弟の方になってしまいました。できの良い兄とできの悪い弟という設定ですが,才能があるにもかかわらず明青野球部時代の弟は先輩に追い出されるという不遇をかこっています。表の設定では明青野球部に深い恨みを抱いているということになっており,完全な悪役となります。
しごきともいえる過酷な練習が毎日続きます。地獄の合宿では由加のとんでもない料理に胃が(口が)受け付けず南風に夜食を食べに行くエピソードも描かれています。その中でレギュラー選手は一回りも二回りも成長し須見工業と渡り合える力をつけていきます。
一方,南は新体操の関東大会で南は個人総合優勝を飾ります。このとき南のレオタードには達也の写真が貼り付けてあったというエピソードも笑えますね。少年誌のスポーツ漫画のように勝負の場面を事細かに描いていく単純な手法ではなく,そこに人間関係をうかがわせる小さな,そしてほっとさせられる小話を挿入する「技」は一級品ですね。こうして南は一足先にインターハイの出場を決めます。
明星学園は地区大会の決勝で須見工業と対戦します。明青学園が1点リードの延長10回裏,ツーアウト2塁,バッターは新田という最高の場面を迎えます。その前に4番の松平が敬遠されているので当然敬遠の場面です。しかし,ベンチからは敬遠の指示はありませんし,松平は外野をバックさせます。達也は「どうなっても知らないぞ」とうそぶきながら全力投球となります。
試合後,須見工業の監督が「甲子園なんてものはただの副賞だったんだよな。その副賞に目がくらんで相手のスキをついたり,だましたり,勝負を逃げたり・・・,そんなことばかりエスカレートされたんじゃ教育者のはしくれとして心が痛い」とつぶやいていたのが印象的です。
人生においても勝負を逃げることは決して本人の成長にはつながりません。自分のもてる力を出し切って敗れてもそこには悔いは残らないはずです。眼を患っていた柏葉代理監督はインタビューもなしに病院に向かいます。手術の日に明青野球部はロードワークの途中で病院の敷地内で代理監督にエールを送ります。タッチはどこまでもさわやかな青春物語に徹しています。
甲子園の開会式をさぼった達也の励ましを受けて南はインターハイで優勝し,明青野球部は甲子園で優勝します。しかし,甲子園での優勝は物語の付け足しにすぎません。開会式を除き甲子園の場面は出てこず,最終ページに達也の部屋に飾られた優勝盾が出てくるだけです。