西岸散策に出かける
ナイル川に向かう途中にある食堂でいつものサンドイッチをいただく。この店のホブス(アエーシの小さなもので袋状になっている)はパサパサして水に弱い。袋が破れて中のフールと野菜が出てきてしまうので食べづらい。
昨日は1枚1EPだったのに今日は2EPを要求された。このあたりがエジプトらしいところだ。交渉の結果,2枚で3EPとなった。まあ,いいか,ご愛嬌といったところだ。
今日は西岸を歩く計画なので,
水は1.5リットルのペットボトルを持っていく。普段はザックの横のポケットに入れるため,
500CCか600CCのものを使用しているが,今日はかなり歩きそうなので用心である。
渡し船は問題なく1EPで利用することができた。上下の甲板を合わせて100人くらいは乗れそうである。自転車を持ち込んでいる地元の人がけっこう多い。
川から東岸を眺めると大きなクルーズ船が河岸を占拠している。やはり大気中の水分が多いのか,砂塵が多いのか少し離れると写真にはっきり影響している。
西岸に到着するとタクシーの運転手と貸し自転車屋がわらわらと集まってくる。今日はハトシェプスト女王の葬祭殿から背後の崖を登り王家の谷を見学するコースを予定していたので自転車では無理だ。
船着場からチケット売り場までは3.5kmほどあるのでできれば歩きたくない。少し先に地元の人たちが利用する乗合トラック乗り場がある。しかし,チケット売り場に向かう車は一様に乗せられないと断られた。外国人はタクシーで移動しなさいということらしい。
乗客のいない乗合トラックが3EPでチケット売り場まで行くと言うのでお世話になる。運転手は気さくなエジプト人で,ちゃんと3EPで文句は出なかった。この対応はとても感じが良かったのでついでにハトシェプスト女王葬祭殿まで行ってもらうことにした。
チケット売り場でハトシェプスト葬祭殿(25EP),貴族の墓3ヶ所(25EP),ラメセウム(25EP)のチケットを買い求める。西岸の入場料の高いところには見向きもしないとは我ながらケチだね。まあ,観光地に来ても人それぞれに楽しみ方があるというものだ。
乗合トラックの運転手は「ハトシェプスト女王葬祭殿までなら,片道は客無しになるので5EPだ」という。この正直なところが僕のお気に入りである。葬祭殿まではおよそ2.5kmほどであり,帰りは歩いても帰れる。
葬祭殿の手前はゲートになっており,乗合トラックはそこで僕を降ろしてくれた。確かに彼は空荷で戻らなければならないようだ。ゲートの中に入りチケット・チェックのところまで歩く。
西岸の代表的な観光地らしく,土産物屋が軒を連ねている。興味本位で缶コーラの値段を聞いてみると,7EPと日本より高そうである。実は日本では缶コーラ類は一切飲まないので自動販売機の値段すら知らないので,「高そうである」という表現になってしまった。
チケットのチェックを受け,そこから電気牽引車に接続された車両に乗って葬祭殿の近くまで行く。まだ08時だというのにけっこう人出は多い。「ハトシェプスト女王葬祭殿」は非常に立地条件の良いところに建造された。
ハトシェプスト女王
背後は50mくらいの垂直の崖になっており,その手前のゆるやかな傾斜を利用して第一柱廊,第二テラス,第二柱廊,第三テラス,岩窟至聖所が少しずつ競り上がっている。
そのため,参道のずっと手前からでもその全貌が見えるように工夫されている。造形が非常に単純化されたものでありながら,数あるエジプトの建造物の中でも最も外観が美しいとする人も多い。僕もその一人である。そのデザイン性は現代建築と比較しても決して古さを感じさせない。
ハトシェプスト女王葬祭殿は,第一テラスの手前から岩山を従えた写真を撮るところがクライマックスであり,残りは付属品なのだが,第二柱廊周辺の壁画はさすがにすばらしい。しかも,写真に撮れるのでありがたい。
ハトシェプスト女王は新王国時代のファラオで在位期間はBC1479-1458年頃とされている。夫であるトトメス2世は早世し,別の妃から生まれたトトメス3世を次の王にするよう遺言した。
しかし,トトメス3世が幼かったため,その後22年間にわたり共同統治の形態をとりながら,実際には絶対的権力を保有していたとされる。そればかりではなく前例の無い女性のファラオとして即位している。彼女は男装し顎に付け髭をつけていたと伝えられる。
彼女の治世は戦争を起こさず,平和外交によってエジプトを繁栄させた。しかし,そのことは同時にエジプトの国威の低下を招くことになる。
彼女の退位後ファラオに即位したトトメス3世は,ハトシェプストの名前を記録から抹消させている。それは自分をないがしろにした恨みとも,女性のファラオの前例を抹消するためともいわれている。
2007年に彼女のミイラが特定されたことが報道された。ミイラ自体は1903年に発見されたもので,女王の名前が刻まれていた箱に入っていた臼歯がミイラの歯茎の抜け穴と完全に一致したという。また,すでに判明している親族とのDNA比較でも類似性が確認されたという。
ハトシェプスト女王葬祭殿
葬祭殿に向かう石畳の参道を真っすぐ行くと第一柱廊の上部に続くスロープになる。その手前でスロープを外れて第一柱廊を見に行く。ここは横一列の石柱が第二テラスの端の床面を支えるようになっている。
石柱は新しそうなものだし,向かって右端にある女王のものと考えられる石像もひどく傷んでいる。石柱の背後の壁面には磨耗したレリーフが残されているが識別できるものはそれほど多くはない。
スロープを登り広い第二テラスに出る。床面はずいぶんきれいな石畳になっており,オリジナルのものかどうかは判断できない。テラスの向こうには再びスロープがあり,第二柱廊の上部つまり中庭への門に続いている。
第二柱廊周辺には向かって左からハトホル神の礼拝所,第二柱廊,アヌビス神の礼拝所という三つの見どころがある。石柱のレリーフの具合からして,多くの破片をつなぎ合わせて修復されていることが分かる。おそらく,発見時はガレキの状態ではなかったかと推測する。
石柱の中には上部にハトホル神の彫像をもつものがいくつかある。もっとも状態の良いものは半分影になっており,ちょっと残念な写真になる。
第二柱廊の彩色レリーフ
ここの壁面には彩色レリーフというよりは彩色絵画に近いもので埋め尽くされている。往時の色彩もかなり良く残っているので見ごたえがある。
それにしても3500年前の顔料がこれほどよく残っているのはどうしてであろう。いくつかの文献を調べると,ほとんどが鉱物性のものであったことが判明している。中には20世紀になってからようやく見つかった希少な鉱物も十分にその性質を知った上で使用していたという。
現代の顔料の非破壊分析技術は非常に進歩している。測定対象にX線,紫外線,可視光線,赤外線などさまざまな波長領域の光(電磁波)を当てて,二次的に発生する光(蛍光,燐光)や吸収される光のスペクトルを分析しすることにより,元素組成や材質を調べることができる。
それにしてもエジプトという国は建築,測定,測量,暦,記録紙,顔料など多くの分野で時代に抜きんでた先進国であったことがまたしても明らかになった。
第二柱廊の上に続くスロープの基点には,ホルス神を象徴する立派な隼の飾りがある。ここは記念写真を撮る人が多く,ほとんど無人の空間になることはない。少し待ってようやく無人のものを一枚ものにする。
第二柱廊は中庭への門となっており,そこにはハトシェプスト女王と思われるファラオの石像が並んでいる。彼女は男装をして顎にはつけひげをしていたとされており,ここの石像も外観は完全に男性である。
岩山を登る
ハトシェプスト女王葬祭殿に向かって右側の斜面を登ると葬祭殿の背後に控える崖の上に出ることができる。そこから西側の小さな尾根を越えると「王家の谷」に出る。このルートはガイドブックに載っており,夏場はかなり大変と記されている。
下から見る限りではそれほどきついルートとは思えないのでトライすることにした。水も食糧も持っているのでそろそろ還暦の身でもなんとかなるだろう。斜面の少し高いところに出ると葬祭殿を斜め横から見ることができる。正面からの姿も美しいが,斜めから見ると全体の立体感がよく分かる。
岩山は葬祭殿と同じ石灰岩でできているようだ。風化が進んで小さなガレキになっているため歩きづらい。3回ほど景色を見ることを自分の口実にして休憩をとる。斜面の上部から葬祭殿の崖の上まではゆるい上りになっている。
崖の上に出てもその端まで行かないと葬祭殿は見えない。足元は崩れやすそうな岩になっており,ほとんど垂直の崖に身を乗り出すのはちょっと恐怖を感じる。
第二テラスから続くスロープと第二柱廊,第三テラスをほとんど真上から見下ろすことができる。しかし,足がすくむ。カメラのファインダーを覗くときは自分の周囲は見えなくなるので,恐怖感が増大する。あ〜,怖かった。
この崖の上からの景色はすばらしかった。葬祭殿に向かう道路により西岸は農耕地と遺跡の保存エリアに区分されており,それは緑と茶色の差になっている。この緑の谷はナイルが削り,毎年の洪水により肥沃な土壌を積み上げたものである。
新王国時代の権力者はナイルの洪水に水没しない台地に多くの遺跡を残した。ファラオの栄光が失われて久しいが,彼らの残した遺構はエジプト観光の核心部分を形成している。「死せる孔明,生ける仲達を走らす」ではないけれど,「死せるファラオは現代に観光客を集める」ということになっている。
遠くにはナイルが白い筋になっており,その背後の岩山を隠すようにもやがたなびいている。もやの正体は水面から立ち上る水蒸気であろう。極端に乾燥した地域でありながら,ナイルのごく周辺だけは湿潤な大気となっているようだ。
王妃の谷に通じる道
崖の上の道はずっと先まで続いている。いつものように僕はその道をずっと歩いてしまった。荒地の風景といっても,その表情はけっこういろいろあるので退屈することはなかった。崖の上空の上昇気流を利用して,大きなワシがゆっくり旋回しながら高度を上げている。
下界の風景も少しずつ変わっており,相対的な位置関係は葬祭殿の駐車場と参道の角度で知ることができる。前方に舗装道路の通っている谷が見えてきた。しかし,どこか様子がおかしい。
下から上がってきた女性に谷についてたずねると,「王妃の谷よ」と教えてくれた。ガイドブックの地図と照合すると,西に行くべきところを南に来てしまったようだ。まあ,一つ余分なものを見られたのだからよしとしよう。
それにしても,このヨーロピアンの女性はずいぶん軽装で王妃の谷からハトシェプスト女王葬祭殿まで歩こうとしているようだ。たくましいねえ!先に行った彼女は垂直方向に削られた岩の上に立って下界を眺めている。
しばらく元の道を歩いて西側の尾根を登りきると「王家の谷」が下に見える。アフリカ北部が今よりもずっと湿潤だった時代に水の流れが削った谷のようだ。見渡す限り緑のものは目に入らない。これが西岸の原風景である。
この無の世界に新王国時代のファラオは死後の住処を求めた。この谷には彼らの岩窟墳墓が集中している。しかし,彼らがそこで安楽に暮らすことはできなかった。どこの世界でも高貴な身分の人の墓は盗掘からは免れなかった。
多くの副葬品は盗掘者により持ち出され,唯一,荒らされなかったのがあの有名なツタンカーメンのものである。彼の墓から見つかった財宝はカイロの「エジプト考古学博物館」の二階に展示されている。
王家の谷の岩窟墳墓に残されているものは,壁面を飾る壁画だけである。それらは写真でみると保存状態もよく大変素晴らしいものであるが,写真は不可なのでここから見るだけにとどめよう。
貴族の墓
葬祭殿の駐車場まで下りて1kmほど離れた「貴族の墓」に向かって歩き出すと,乗合トラックが拾ってくれた。運転手にガイドブックの貴族の墓を示すとアラビア語が併記されているのですぐ分かってくれた。
車から降りると目の前には小さな集落があるだけである。案内板も見つからない。他の観光客もおらずこれは困った。ガイドブックには墓の位置は記されているが自分がどこにいるかが分からない。
実は適当に村の中を歩いているとすぐお目当てのものは見つかるようになっているのだが,それは結果論というものだ。10才くらいの男の子が案内してくれると言う。
彼はガイド料として5EPを要求してきた。「それは高すぎるでしょう」と言うと2EPに下がった。それでは案内してもらおうかなと彼の後をついていくと,目の前の家の背後がそれであった。距離にして20mとない。
おいおい,この案内で5EPを取ろうとしたのかと腹が立つ。「はい,この案内では1EPで十分でしょう」と差し出すと彼は2EPとゆずらない。近所のガキどもが集まって2EPとはやしたてるので1EPを岩の上に置いて中に入ることにした。
するとガキどもは僕の行く手を塞ぐではないか。さすがに頭にきて,手に持ったガイドブックで一人の頭をごつんとやってしまった。ガキどもはいなくなったが後味は悪い。
それにしても観光地のエジプト人は,大人も子どもも性質が悪すぎる。まあ,ガイド付きで来る人たちは,このような嫌な思いをすることはないだろう。
何回かこのような経験をすると,「今まで訪れて一番良かった国は」という質問には,即座に「一番良かったのは難しいけれど,一番嫌な思いが多かったのはエジプトだよ」と素直に答えられるようになる。
貴族の墓はセット券になっており,僕は確かラモーゼ,ウセルヘト,カーエムヘトの組み合わせだったと記憶している。この三つの墓はすぐ近くにあり,続けて見学したのでどれがどれやら識別できない。
貴族の墓も一応岩窟墳墓の形式をとっており,広い区間と小部屋の組み合わせとなっている。いずれも写真は禁止されているようだが管理人にバクシーシを渡すと(向こうから持ちかけてくる)撮らせてくれる。
もちろんフラッシュは止めた方がいいのは言うまでもない。また,団体客がいるときは写真不可である。僕の場合,4回のバクシーシは6EPについた。管理人はちょっと不満顔であったが特に文句は出なかった。
すばらしかったのは「ラモーゼの墓」である。きれいなレリーフが残っている。神殿のレリーフよりずっと写実的に,かつきれいに仕上がっているのはどうしてだろう。
写実的な表現なので当時の男性と女性の髪形のちがいが分かる。歴史的な価値はともかくとして,ここのレリーフはエジプトの中では一番僕の感性に合っている。
貴族の墓では家族が描かれていることが多いとされている。ここのものは現代にも通じるような美しさで描かれており,まるで少女漫画の世界である。「あっ,かわいい」と思ったものが男だったらちょっと悲劇だね。それくらいきれいに描かれている。
ここには壁画も描かれている。鉱物性の顔料を使用しているのでまったく色あせていない。横長の葬送の行列の一部に有名な泣き女も描かれている。しかし,かなり高いところにあり僕のカメラではそれほどきれいには撮れない。
さきほどのレリーフもそうであったが,エジプトでは切れ長の目がとても印象的に描かれている。この時代のエジプトでは日常的にアイラインとアイシャドーで化粧する習慣があったのでそのような表現方法となったようだ。
この化粧は目を大きく美しく見せることに加えて,宗教的な意味合いもあったようだ。また,野球選手が目の下を黒く塗るように,砂漠の強烈な太陽から目を守るという目的もあったようだ。
外に出て改めて周囲を眺めると,けっこうたくさんの墓があることが分かる。丘の斜面にもたくさんの穴が穿たれており,それらもきっと墓であったのだろう。
そのような岩窟墳墓を保護するため入口部分は石の堤防のようなもので守られている。墓の上部も崩落防止のため削り取られ,代わりにコンクリートの天井に変えられている。
中には公開されていないものもあり,そのようなところは半分ゴミ捨て場のような状態になっている。やはり,集落と遺跡を分離する政策が必要であろう。
ラムセウム(ラメセス2世葬祭殿)
「貴族の墓」から少し歩くと「ラムセウム」に到着する。地図では1km弱なのにずいぶん歩いたような気がする。その間もいくつかの遺構を目にしている。
古代エジプトの遺構はみんな石でできていると思っていたらそうではなかった。道路の近くには日干しレンガ造りの遺構がたくさん顔を出している。しかし,古い日干しレンガにしては形がしっかりし過ぎている。ほとんど風化していないので砂に埋もれていたのかな。
そういえば映画「十戒」の中でも,ユダヤ人の奴隷が麦わらをつなぎにして日干しレンガを造っていた。でも,あのレンガは遺跡のどの部分に使われていたんだろう。
道路の東側は豊かな農地になっており,トウモロコシやサトウキビが目に付く。ラメセウムもすぐ近くまで農地が迫っている。遺跡を見たらちょっと農地の様子も見に行くことにしよう。
メインの道路からチケットをチェックするテントの手前には茶店がある。暑い中を歩いてきたのでかなり魅かれたがどうせ観光地値段だろうと持参の水でがまんすることにした。
遺跡に下りる階段のところに地面を這うような幹をもった大きな木があった。この木はエジプトでよく見かけたにもかかわらず名前が分からない。マツかスギの仲間のように見えるがどうにも分からない。ちょっと悔しい。
この遺跡はあのラメセス2世の葬祭殿なので造営時はきっと大きなものであったにちがいない。しかし,現在はその一部が残っているだけだ。見るべきものは第一中庭から見るオシリス柱なのだが4体とも頭部は破損している。
足元にはラメセス2世の像の頭部が置かれている。これは花崗岩でできており,この建造物の主要建材となっている石灰岩とは異なる。
塔門の裏側には軽戦車に乗り,強弓を引くラメセス2世のレリーフがある。これはアブシンベル神殿で撮れなかったレリーフと同じ構図である。ラメセス2世にとってはヒッタイトと戦ったカデッシュの戦いは在位中で最大のイベントだったようだ。
巨大な建造物の一部と思われる屋根を支えている柱にはまだ色がわずかに残っている。この石柱の柱頭を見るとそこにも絵が残っており,それがパピルスを模ったものだということが良く分かる。
敷地の外れにはオシリス柱があり,その横には巨大な石像が倒れている。この像は上半身しかないように見える。エジプトでは胸像は見たことがないので,建造時はどんなものだったのか興味は尽きない。
これでラメセウムは卒業して近くの農地を見に行く。ちょうど農民の家族が灌漑作業をしていた。農地は褐色土であり肥えているように見える。この土壌はナイル川がはるばるエチオピアから運んできたものだ。
現在はアスワアン・ハイダムのため洪水は発生しないので,土地の養分は使い尽くされ,化学肥料が必要な状況になっているという。農地は日本の田んぼのように畦で分割されており,その一部は水が張られている。農民は畦の一部を切って次の農地に水を入れている。
水の入った農地には何を求めているのか白さぎが何羽も入ってきている。この一家は平気で水の張られた農地に入っていく。しかし,旅行者は止めた方がよい。ナイルの川沿いには皮膚から侵入する複数種類の住血吸虫が生息しているので,裸足で水に入ると感染の危険がある。
日本にも日本住血吸虫がおり,こちらは重篤の症状となり死亡することもある。あの日本マンガの金字塔ともいうべきカムイ伝の作者である白土三平の「忍法秘話」シリーズの中に「スガル」という作品がある。
スガルは抜け忍であり,追っ手を振り切れないと観念したとき彼女が戦いに選んだ場所がこの寄生虫の多い池であった。彼女はここで殺されるが,追っ手の忍者たちも寄生虫に感染し,死んだり廃人になるという話であった。
現在の日本では寄生虫に感染することは非常に少ないけれど,海外では普通にあることと考えて,しかるべき注意をした方がよい。
ラメセウムからチケット売り場までは意外と距離があった。ガイドブックの地図では1km程度なのに,やはり暑さがこたえたのかもかもしれない。思わず冷えたスプライトに手を出してしまった。まあ,5EPならよしとしよう。
メムノンの巨像
ここから東に少し歩いたら「メムノンの巨像」がある。この像はアメンヘテプ3世の葬祭殿の前にあったものである。べつにそこから動かされてここに置かれたものではない。
像の背後が空き地になっており,葬祭殿はそこにあった。しかし,後代のファラオが石材として使用し,完全に無くなってしまった。
もちろん,この像はアメンヘテプ3世のものであるが,プトレマイオス王朝時代に「メムノン」像であると間違えられ,それがそのままこの像の名前になってしまったという笑えるいきさつがある。
メムノンはトロイ戦争を題材にしたホロメスの叙事詩「イーリアス」と「オデッセイア」に出てくるエチオピアの王子である。あの遠いエチオピアからなぜ地中海の東で起きた戦争に参加しなければならなかったのかは不明である。
ともあれ,メムノンがアキレスに討たれたので母親のエオスはゼウスに「一日一回でもよいから息子を生き返らせてください」と願い出て,メムノンは朝日が昇ると悲しい声を上げるようになった。
ギリシャ系のプトレマイオス王朝ではこの物語は良く知られていたはずだ。たまたま,この像には多数のひびが入っており,朝日が射すと部分的な温度差が生じてキーンという音を発したので,これはメムノンの像であるとされたという。現在は像が修復されてしまったので,この音を発することはなくなった。
現在のメムノンの巨像は,背後に西岸の岩山を借景にして静かな佇まいをみせている。道路のすぐ脇にあり,入場料もないので観光客の人気のスポットになっている。
ナイルが洪水を起こしていたときはこの像のところまで水がきていたとされ,その跡が像に残っているという報告もあるが,僕は近くによって観察はしていない。「デーヴィッド・ロバーツ」は1838年にこの地を訪れ,水に浸かった石像のスケッチに残している。
コプト教会
チェックアウトして荷物をフロントに預け,いつもの店で朝食をとる。今日のフール・サンドイッチは1個1EPに戻った。もしかしてチケットが手に入るかもしれないと思い駅に向かう。
入って左側は3等,右側は1等の窓口になっている。「2等はどこ」とたずねると1等の窓口でいいらしい。窓口で今日の夜,カイロ,2等と伝えるとすんなり発券してくれた。55EPは妥当な値段だ。出発は23時なのでこれはどこで時間を過ごすにしてもちょっとつらい。
とりあえずカルナック神殿を目指して歩き出す。駅前通りは再開発が終わったようできれいに整備されている。正面にはルクソール神殿のガーマが見える。観光都市だけあってここのスークは土産物屋が多い。僕自身のお土産は「デーヴィッド・ロバーツ」のスケッチ集を買ったのでそれで十分だ。
カルナック神殿通りを歩いていくと,コプト教会と小学校が向かい合っている。まず,教会に入れてもらう。礼拝堂はバシリカ様式のように奥に細長い長方形であり,両側には石柱を台にしたアーチが連なっている。入口からイコノスタス近くまで礼拝用のベンチが並んでいる。
至聖所の入口の両側は聖母子とキリストのイコンが飾られている。イコノスタスの上部の中央には最後の晩餐の絵があり,その両側に聖人のイコンが飾られている。十字架のキリスト像も至聖所の上部に飾られており,イコンと像が同居する空間になっている。
至聖所の入口を仕切っている布には天使に祝福されている聖母子が描かれている。また,礼拝堂の一角が一段高くなっており,その床がそのまま灯明台になっている。
灯明台のローソクの灯りに照らされた壁には聖母子のイコンというよりはヨーロッパ的な絵画が飾られており,コプト教における聖母信仰の強さを知ることができる。ほとんど東方正教会と類似しているけれど少し違うなという印象を受けた。
教会の向かいに学校があることは気が付かなかった。たまたま,教会の全景を撮るため道の反対側に行くと,そこに学校があったというわけである。さすがに正門からは入れない。
しかし,横の窓から中を覗くことができる。教室の中は机がL字型に並べられており,なぜか中央部分がスペースになっている。先生に断って鉄格子の間から一枚撮らせてもらう。
カルナック神殿に向かう
カルナック神殿が近づくと何となく田舎の雰囲気が出てくる。草を積んだロバに乗った男性がゆっくりとやってくる。カルナック神殿の入り口は西側,つまりナイル川に面している。
しかし,僕は陸側の道からアクセスしたため,外壁に沿ってだいぶ回らなければならなかった。入り口付近は大規模な工事が行われており,鉄柵が行く手を塞いでいる。工事用車両の道を通ってようやく入り口にたどりついた。
入り口の周辺には大型バスがやってきて,そこからたくさんの観光客が吐き出され,神殿の中に消えていく。
カルナック神殿
カルナック神殿とは,アムン大神殿群を中心に北側にモンツ神殿群,南側にムート神殿群からなる広大な神殿群の総称である。もっとも公開されているのはアムン大神殿だけのようだ。
それぞれの神殿群は日干しレンガの周壁で囲われている。ルクソールではナイル川は南西から北東に流れており,これらの神殿群もナイル川と平行な長方形もしくは台形状の敷地(神域)となっている。
ガイドブックの地図ではこれら三つの神殿群を囲むように運河が記されており,往時はナイル川ともつながっていたという。また,アムン大神殿と南北の二つの神殿の間は牡羊頭のスフィンクス,2.5kmほど離れたルクソールとの間は人頭のスフィンクス参道で結ばれていた。
入り口から第一塔門までの参道の両側には牡羊頭のスフィンクス像が等間隔に並んでいる。ルクソール神殿のスフィンクスの頭部はファラオだったので,どこかで意匠の変更があったようだ。個人的には牡羊頭はちょっと間が抜けた感じがする。
この前庭の一画には,数十体の修復中のスフィンクスが隙間なく並べられており,ちょっと異様な光景である。第一塔門を抜けると中庭に出る。ここは前後の塔門と両側の列柱に囲まれた方形の空間になっている。
第二塔門に向かって巨大な二列の石柱が並んでいるが,完全なものは1本だけである。第二塔門は入り口部分を除きほとんどガレキの状態だ。塔門の入り口には一対の向かい合った神官の石像が置かれている。
中庭にある大きな像はアムン神とされている。腕を交差して胸に当てる立像の膝のあたりに一体化した小さな女性神の像がある。この様式は珍しい。
大列柱室はさすがにすごい
第二塔門の背後にはこの神殿のハイライトというべき「大列柱室」がある。およそ100X50mの空間に直径2mの石柱が134本並んでいる。石柱の高さは中央導線の両側のものが23m,その他が15mである。
この建造物はセティ1世が造営を開始し,息子のラメセス2世が完成させた。本当にラメセス2世はあらゆるところに名前が出てくる。
石柱はほぼ6mほどの等間隔で並んでいる。6m間隔で直径2mの石柱が森のように並ぶ空間に入ると,形容しがたい不思議な感じを受ける。エジプトの遺跡の中でもかなり強く印象に残るところだ。
石柱はパピルスの茎と葉を模しており,葉が開いていない状態のものと開いた状態のものが混在している。一部の石柱には往時の彩色がわずかに残っている。
石柱の円周面は隙間なくレリーフやヒエログリフが刻まれている。もちろん一部の石柱は修復されたものであり,その部分だけ摩滅した石材に替わられている。石柱の上部には梁のように石材が渡されており,そこのヒエログリフはまだ色彩を失っていない。
第三,第四塔門の間にはトトメス1世のオベリスク(高さ23m,143トン,赤花崗岩製)が青空に向かって立ち上がっている。周囲に建造物がないのできれいな構図が得られる。第四,第五塔門の間にあるハトシェプスト女王のオベリスク(高さ27.5m,320トン,赤花崗岩製)も状態は良い。
アムン神の至聖所
第四,第五塔門の先はアムン神の至聖所につながる最も神聖な領域である。ここは,かなり復元されてはいるものの,ごちゃごちゃした建造物が集まっているため原型がよく分からない。
至聖所の背後には保存状態の良い第18王朝の「トトメス3世祝祭殿」がある。トトメス1世から始まる第18王朝の時代にアムン大神殿の基本構造ができあがっている。
この時代,アムン神殿に対する王家からの莫大な寄付により,テーベ神官団の勢力は急速に増大し,政治的な権力までもつようになる。
この祝祭殿は洗練さの程度は低いものの外観はハトシェプスト女王葬祭殿と類似しており,巨大な方形列柱と円柱列柱が屋根を支える構造となっている。
往時は柱,壁,天井はエジプトの植物の彩色レリーフで飾られていたとされている。現在でもその色彩は残されているが植物のレリーフを探すのは難しい。それでも壁面の神々のレリーフなどはきれいに残されている。
トトメス3世祝祭殿の後ろ側はまだ修復の手が入っていない。そこには砂の小山があり,上まで登るとアムン神殿を背後から眺めることができる。第四塔門から先は全体像がつかみにくいので,ここから眺めるとある程度理解することができる。
カルナック神殿を出て近くでミクロバス(0.25EP)をつかまえて駅の近くに戻る。マンシェーヤ通りのサトウキビ・ジュース屋で氷無しのジュース(0.5EP)をいただく。
昨日のマンゴー・ネクターの味も忘れられなかったので1個買って宿に戻る。さすがに列車の時間まで9時間もある。受付のスタッフにお願いして22時までという条件でもう半泊(10EP)することにした。
シャワーを浴びて,マンゴー・ネクターを飲みながらひたすら読書である。しかし,今回の旅行でも「ジュラシックパーク」のペーパーバックスは,読み終えることはできなかった。きっと,次の旅行でも最初から読み直すことになるだろう。1リットルのマンゴーは夜までには無くなっていた。
22時に駅に向かって出発する,宿の前の道は人通りも少なく,ちょっとどきどきする。マンシェーヤ通りに出ると,街路灯で十分明るいので一安心である。