亜細亜の街角
歴史に彩られた美しい街
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アレクサンドリア

はるか南のビクトリア湖から北上してきたナイル川はカイロのあたりで多くの水路に分かれ,ナイルデルタを形成している。アレクサンドリアはナイルデルタのかなり西側,地中海に面したエジプト第二の都市である。

アレクサンドリアはアレクサンダー大王により紀元前332年に建設されたギリシャ風都市である。大王の死後は彼の部将であったプトレマイオスがエジプトを支配し,アレクサンドリアは古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝(BC306年-BC30年)の都として発展した。

プトレマイオス王朝初期の王たちはインドから地中海におよぶ貿易で得た巨万の富を都市の造営に注ぎ込んだ。アレクサンドリアは地中海世界最大の都市に発展し,最盛期の人口は100万人を越えていたとされ,ヘレニズム時代の商業と文化の中心地となった。

海岸には世界の七不思議の一つに数えられる巨大なファロス島の大灯台が夜の海を照らし,アレクサンドリア図書館には文学,歴史,地理学,数学,天文学,医学など世界中のあらゆる分野の書物70万冊が納められていた。

ムーセイオン(学術院)には地中海世界から招聘された多数の学者や文化人が集まり,国籍や学問の分野にとらわれずに自由に研究を進めていた。ムーセイオンと大図書館は相互補完の関係にあり,「学問のコスモポリス」としてのアレキサンドリアを支えていた。

古代アレクサンドリアについて興味のある方は「ビブリオテカ・アレクサンドリア・プロジェクト」を訪問していただきたい。ここにはアレキサンドリアに関する情報が多元的に収められている。

プトレマイオス朝はエジプトの伝統を取り入れて血族結婚を繰り返したので,エジプト人の血が混じらず,ギリシア人の血脈を保った。代々「プトレマイオス」という名前を持った王が姉・妹・叔母・姪などにあたる「ベレニス」「アルシノエ」「クレオパトラ」という名前を持った女王と共同統治した。

この共同統治という曖昧な形態のためプトレマイオス朝では一族内での殺し合いが頻繁に行なわれている。有名なクレオパトラ7世(在位BC51-BC30)も一族間の争い巻き込まれている。

彼女の時代はローマの英雄カエサルやアントニウスとの恋愛,ローマの権力闘争,エジプト古代王朝の滅亡の物語が重なっており,古代地中海世界史のハイライトの一つになっている。その舞台になったのがアレクサンドリアであった。

BC51年クレオパトラが18歳の時にプトレマイオス12世は死去した。父王の遺言およびプトレマイオス朝の慣例に従って兄弟で最も年長であったクレオパトラが弟のプトレマイオス13世と結婚し共同で王位(ファラオ)に就いた。

しかし,ほどなくして弟王との共同統治は側近の介入もあり権力闘争に発展していった。プトレマイオス派はアレクサンドリア住民の反乱に乗じてクーデターを実行し,クレオパトラをパレスチナへ追放した。

BC48年,ポンペイウス追討のためにエジプトへ入ったカエサル(シーザー)はアレクサンドリアで両共同統治者を招集した。このとき映画「クレオパトラ」ではクレオパトラがじゅうたんで自分を包みカエサルのもとに運ばせた場面が出てくるが真偽のほどは確かでない。

こうしてクレオパトラは首尾よくカエサルの愛人となり,彼の軍隊の力を借りてプトレマイオス派との戦闘に勝利し,プトレマイオス13世をナイル川で溺死させた。

復権したクレオパトラ7世は別の弟プトレマイオス14世と結婚して共同統治を再開したが,実質はクレオパトラの単独統治に近いものであった。カエサルとの間には息子カエサリオン(シーザリオン)をもうけた。

BC46年にカエサルはローマの独裁官に任命され,その凱旋式に出席するためクレオパトラとカエサリオンはローマを訪れている。映画ではきらびやかに着飾ったクレオパトラが余すことなく描かれている。

ローマではカエサルの庇護の下に平穏な日々を過ごすが,BC44年にカエサルが暗殺されるとクレオパトラはカエサリオンを連れてエジプトに帰国した。

クレオパトラの願いは息子のカエサリオンを嫡子のなかったカエサルの後継者にすることであったが,カエサルは遺言で遠縁の養子オクタウィウスを後継者と定めていたからである。

カエサル暗殺の混乱を経てオクタウィウスとマルクス・アントニウスの間に権力闘争が開始されるとクレオパトラはアントニウスに接近した。エジプトと同盟したアントニウスは政略結婚していたオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し,クレオパトラと再婚した。

BC39-32年の間に2人の間には3人の子どもができている。ローマを見捨てたかのように振舞うアントニウスに失望したローマ市民はアントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスを強く支持するようになった。

オクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告したとき,それはローマ人同士の権力闘争ではなく,「ローマ対エジプト」の構図になっていた。BC31年にクレオパトラ・アントニウス連合軍とオクタウィアヌスが率いるローマ軍がギリシャ沖のアクティウムで激突した。これがアクティウムの海戦である。

兵力や艦船数ではアントニウス・クレオパトラ連合軍の方が上回っていたものの,交戦の最中にクレオパトラの艦隊が戦線を離脱し,アントニウスはこれを追って撤退したため,指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなった。

アントニウスはアレキサンドリアまで潰走し,そこでクレオパトラ死去の誤報に接して自殺を図る。瀕死のアントニウスはクレオパトラのもとに送られ,そこで息を引き取る。

クレオパトラはオクタウィアヌスに屈することを拒み,コブラに身体を噛ませて自殺したと伝えられている。さすがのオクタウィアヌスも彼女の「アントニウスと共に葬られたい」と言う遺言だけは聞き入れた。

エジプトを征服したオクタウィアヌスはBC30年にカエサリオンを殺害してプトレマイオス朝を滅ぼし,エジプトを皇帝直轄地としてローマに編入した。オクタウィアヌスはローマにとっての内乱に終止符をうち,同時に地中海世界の統一も果たして帝政への道をひらいた。

ローマ支配時代においてもアレクサンドリアは地中海世界の中心地の一つであり続けた。ユダヤ王国の滅亡後にユダヤ人はこの町に最大のコミュニティーを形成している。

また,キリスト教の初期から重要な拠点となり,ローマ,コンスタンティノポリス,アンティオキア,エルサレムとともに総主教座が置かれ,キリスト教の五大本山の1つとなった。

7世紀にイスラム勢力がエジプトを征服したとき,アラブ人はカイロに軍営都市を置き,それ以降エジプトの中心地はカイロに移行したが,現在でもアレクサンドリアは人口333万を擁するエジプト第二の都市である。

聖カトリーナ(370km)→カイロ(220km)→アレクサンドリア

今日は聖カトリーナからカイロ経由でアレクサンドリアまでの大移動である。聖カトリーナ発カイロ行きのバスは06時に出る。昨日に引き続き宿の管理人に「05時に起こしてくれ」と頼んだら目覚まし時計を貸してくれた。

目覚ましの少し前にちゃんと起きてバスターミナルまで歩く。管理人には昨日のうちに宿泊費を支払っておいた。宿の前には月明かりの山が黒いシルエットになっている。この山はシナイ山から続く山塊の北の外れにあるものだ。

ザックを下ろして塀の上にカメラを固定して撮ると,ブレのないまあまあの写真が撮れた。村の中は街路灯があるので歩くのに苦労しない。バスターミナルはモスクの横にあり,エンジンのかかっていないバスが停まっている。バスターミナルの入口もまだ閉まっている。

しばらく待っているとバスのエンジンが起動され,チケット売り場が開いた。カイロまでは40EP,バスはしばらく岩山の多い地域を走る。シナイ半島の中心部は緑の全く無い荒れた岩山があるだけだ。

茶色がメインであり,鉄分の多いものは赤身が強い。早朝や日没時にはそれらの岩は一層赤く輝き絵になる。バスはいつの間にかスエズ湾岸を走るようになる。

聖カトリーナからスエズまでのルートはほぼモーセの移動ルートを逆にたどることになる。バスは2回,海岸沿いのドライブインに停車した。たぶんそこはバス会社(イーストデルタ)の直営店もしくは契約店であろう。

食事はできそうにないので小さなビスケットを買おうとしたら5EP,チャイも5EPと言われ,あまりのひどい値段にあきれ返る。もちろん,そのように不当な値段のものを買うはずはない。概して言うとシナイ半島の物価はひどい。

スエズに着いたら何か食べれるだろうと非常食のビスケットとチーズで朝食をとる。スエズ運河の少し手前で荷物検査があった。荷物室からザックを取り出し他の乗客の荷物と一緒に並べる。

検査官は金属探知機のような器具を荷物に近づけて何かを検査している。特に乗客全員の荷物に異常はなく,再びバスは動き出す。このバスはスエズには立ち寄らず,そのままカイロに向かった。

岩山の風景が途切れると一面の砂漠の景色になる。ナイル水系から外れると緑にはまったく縁のない世界が広がっている。バスはカイロのどこかの陸橋の下に止まり,ここが終点だという。

場所は良く分からないが,なぜかそこにはタクシーが集まっており,運転手はトルゴマーン・バスターミナルまでは30EPなどとのたまう。バス会社とタクシーがつるんでいるとしか考えられない。乗客たちも抗議し,バスの運転手はしぶしぶラムセス駅まで行くことになった。

ラムセス駅でアレクサンドリア行きの列車のチケットを買おうとするが,窓口がよく分からない。初めての駅であり,ガイドブックに載っている窓口もないし,英語もほとんど通じないので苦労する。

構内を2周してここはと思われる窓口で聞いてみると「今日はもうフル」とあっさり断られた。窓口をまちがえていたのか,係員が僕の言うことが理解できなかったのかは分からない。ともかく列車はあきらめて1kmほど離れたトルゴマーンBTまでタクシーで行く。

運転手はちゃんとターミナルの入口まで行ってくれた。中に入るとすぐ窓口があり,「Alexandria,today」と伝えるとすぐにチケットが出てきた。列車に比べるとずいぶん窓口も分かりやすいし,手続きも簡単だ。

後日,ルクソールから戻るときも窓口が機能していなくて2回も3回も出向くことになり,エジプトの鉄道にはあまりいい思い出はない。さて,バスは5分後に発車だと言われ,あわてて地下の待合室を通りバスに向かう。

しかし,そこにいたバスは一便前のものであり,しばらく待合室で待つことになった。あの5分後に発車はいったい何だったのだ。バスがいつ出るかは分からないので食料を買いに行く暇もない。昼食もビスケットとチーズの組み合わせになった。結局,バスは20分後の14時に発車した。

カイロはナイルデルタの入口にあたり,そこを出ると広大な農地が広がっており,ナツメヤシのシルエットがとても美しい。これが砂漠地帯の風景とはとても信じられない豊かな緑である。また,塩田,石油ガスの炎,葦原が目に入った。まさに,エジプトはナイルの賜物である。

バスは17:30にアレキサンドリアに到着した。地中海に面し東西に細長いアレキサンドリアでは複数のBTがある。スィーディ・ガベル長距離BTならば近くに鉄道駅があるはずなのにどこにも見当たらない。やれやれ,ここも困ったものだ。

ノルマンディ・ホテル

バスターミナルの近くにはたくさんのミニバスが発着している。運転手が集まっているところに行き,鉄道の「マルス駅」に行きたいとで告げると,一人が案内してくれた。このミニバスは0.5EPでマスル駅まで行ってくれた。

さすがにここまで来ると宿までは歩いていける。駅から西側の大通りを海岸近くまでまっすぐ北に行き,その西側に安宿が4軒入っているビルがある。最後の角を曲がろうとすると,老人が道案内をしてくれるという。どうやら,宿の客引きのアルバイトをしているようだ。

彼の案内で4階か5階にあるノルマンディーに泊まることになった。受付には二人の老人が詰めており雰囲気は悪くない。部屋は8畳,3ベッド,T/HS共同で清潔である。料金は25EP,窓もちゃんと開くので環境は良い。

難点は洗濯物が乾かないこと。ビル街にあるので日照が少ないうえに,地中海から湿った風が吹いてくるので,朝の洗濯物が夕方でも乾ききっていない。これでは臭いがついてしまう。

フロントにはテーブルがあり,日記を書くのに重宝した。このビルのエレベーターは旧式の手動扉方式で外側の扉がちゃんと閉まっていないと動かない。出るときに扉を完全に閉めないと後の人に迷惑がかかる。

エレベーターが動かない時は,その回りの螺旋階段を上ることになる。各階の天井が高いので,これはけっこうな運動になる。僕は旅先ではよく歩く。日本で暮らしている時とは比べ物にならないほどの運動量である。

また,中央アジアと西アジアの食事は粉食が主体なので,一度にそれほどたくさん食べることができない。この地域を回り僕は「ごはん」のありがたさを再認識した。ということで,体重はどんどん減っていく。

エジプトに入った頃は出発時に比べて5kgくらいは減っていたと思う。特にウエストの脂肪は顕著に落ちている。それはジーンズが緩くなることで実感できる。僕にとって旅は意識しないけれど有効なダイエット(栄養不足?)にもなっている。

今日最初の食事はコフタ(ミンチ羊肉の串焼き),サラダ,アエーシ(薄いパン)の組み合わせである。普通の食堂かと思って中で食事をしたら,食事代13EPに加えてテーブル・チャージ3EPを要求された。なるほど,ちゃんとしたテーブルで食事をするときは要注意なのだ。

朝食がてらに周辺を散歩する

アレキサンドリアの朝はとてもすがすがしい。地中海の沿岸は陽光に溢れているものの,10月末の気候は暑すぎることもない。早朝の海岸を軽く散歩してから朝食を探しに行く。

しかし,まだ食堂が開く時間ではない。ようやく裏通りで屋台のサンドイッチ屋を見つける。衛生状態はかなり疑問であるが,この際目をつぶることにしよう。豆の煮込みとアエーシ(薄いパン)で1EPである。

地元の人たちはアエーシでつまむようにして器用に食べるのだが,僕はそううまくはいかない。見かねた屋台の手伝いをしている少年がスプーンを出してくれた。スプーンで豆をすくってアエーシに乗せ一緒にいただく。アエーシはおそらく全粒粉の小麦粉を使用しており,単独では食べやすいものではない。

表通りに出てカフェでチャイ(エジプトの発音はシャーイとなる)をいただく。1EPの幸せである。エジプトの紅茶はさほどおいしくはないので,砂糖をたくさん入れて大甘の状態でいただく。疲れているときなどはとても良い飲み物になる。

チャイはティーバッグの場合と茶葉を直接グラスに入れる場合がある。茶葉を使用するときはしばらく茶葉がグラスの中で踊っているので,それが沈んだら飲み頃になる。もっともグラスはとても熱くなっているので,不用意に持ち上げたりすると事件になる。

このカフェは床にカンナ屑が散らばっている。何か目的があってまいているようだ。このカンナ屑はいくつかのカフェで見かけたけれど,よく分からない。日本では少し湿り気の残る茶葉をまいて掃除をする習慣があったが,まさか埃防止のためなのかな…。

市街地にはトラム(路面電車)が走っており,この路線を利用すると移動は楽なのだが,「歩き方」にはしっかりとは記載されていない。その割には市内中心部はかえって見づらいくらいの見開きの大きな地図になっている。どうも,「歩き方」の地図とは相性が悪いようだ。

うまい具合に電車が通りかかる。黄色とくすんだ赤色の電車は2両連結である。まだ時間が早すぎるのか,営業前なのか乗客は乗っていない。

海岸を歩く

光の具合が良くなってきたので海岸の写真を撮りに行く。宿の辺りの海岸線は軽く弧を描いており,その西側には海岸から突き出すように小さな半島がある。

その先端はプトレマイオス朝の時代にはファロス島の大灯台があったところで,現在はカーイ・トゥベーイ要塞となっている。おそらく取り付け道路ができたためだろう,今はその間が砂州になっており陸続きになっている。

この半円を描くような海岸線に白もしくは薄い茶色の建物が並んでおりとてもよい絵になる。海岸の微妙なカーブが入るとさらに良い構図になるのだがなかなかそのようなポイントは見当たらない。

夜になるとこの海岸線は光の帯になり別の美しさに変わる。この二つの美しさが「地中海の真珠」と呼ばれている所以であろう。

遠く沖合いには港を守るための防波堤が水面からわずかに顔を出し,茶色の帯になっている。防波堤の内側にいるので深い青色の地中海はとても穏やかだ。海岸に沿って片側3車線の立派な道路が走っており,ここを横断するのは命がけになる。

エジプトでは人が道路にいると車が減速してくれるなどという幻想を抱いてはいけない。ひたすら車の流れに逆らわないように空間を見つけて渡るしかない。車の方も心得たもので,人の動きをかなり予測して運転している。とはいっても,その予測が外れたらいったいどうなるの・・・。

道路の陸側は高さとデザインの揃った建物が並んでおり,きれいな街並みを作っている。それに対して海岸には大量のゴミが漂着しており,美しい風景の減点材料となっている。

ガーマ・アブル・アッバース

半島に近づくとカーイ・トゥベーイ要塞のあたりには漁船がたくさん係留されており,近くには漁師と船乗りの守護聖人に捧げられた「ガーマ・アブル・アッバース」がある。

「ガーマ」はイスラムの礼拝所を意味する言葉でモスクに相当する。アラビア語では「マスジド」,トルコやシリアでは「ジャーミイ,ジャミア」なのでエジプト固有の用語であろう。

このモスクは半島の中ほどにある。通りから見るとひょろっとした棕櫚の木の向こう側にドームの多い建物が目に入った。正門から中に入るとこの敷地内には2つの似たような建物があることが分かった。

ガイドブックの写真と照合すると正面の建物が目的のもののようだ。通りから見たときは横から見たことになりずいぶん感じが異なる。正面から見ると2つのドームがあり,その装飾は石を削りレリーフのように紋様を浮かび上がらせている。今まで見たことのない装飾形態である。

異教徒の僕でも建物の中に入ることは問題がない。中央に大ドームがあり8本の巨大な柱とアーチがそれを支える構造になっている。この構造は巨大なドームをもつイスラム建築やキリスト教建築ではよく見られる。

柱の上部は二本の柱をつなぐアーチ構造になっており,そのまドームにつながっている。そのため内部から見るとドームは8角形となっている。アーチの構造は建造物により異なるが基本的には切石やレンガでドームを支えるにはアーチと柱の組み合わせしかない。

ドームの最上部は半球形ではなく平面であり,この構造はちょっと珍しい。8角形の各壁面に3個の明り取りの窓があり,内部照明無しでも明るく輝いている。天井が黄色っぽいオレンジ色のイスラム模様が描かれているため,ドームの上部全体が明るい黄色に染まっている。

ミフラーブ(メッカの方角を示す壁の窪み)はこのモスクでは特に窪んではおらず,大きなアーチのような装飾になっている。上下方向に置かれた緑色の蛍光灯でその場所が分かるようになっている。上にはシャンデリアのような電灯が点けられており,その一画だけが明るくなっている。

床は一面のじゅうたんになっており,そのアーチ形の模様はすべてメッカの方角を向いている。この模様の一つ一つが集団礼拝時の一人分のスペースとなる。

近くの読書台の上には巨大なコーランが広げられている。そこには流麗なアラビア文字が記されており,章と節の番号も記されている。こうして見るとその形式は聖書と非常に似ている。

外に出て隣の建物に行こうとするが床面が4mほど高いところにあり,登る階段が見当たらない。周辺をうろうろしていると,おじさんが階段の場所を教えてくれた。

しかし,そこに入るのは有料だと言う。「ちょっと入って写真を撮るだけだよ」と断って,速攻で写真を撮って戻ってくる。このモスクはミナレットの形状が素晴らしい。少し赤みを帯びた石造りの建造物は真っ青な空によく映える。

不思議な路地の空間

モスクの近くの路地には両側の建物から布かプラスチックの幅のあるテープが張られている。上から下へと何本も張られており,この路地はずっとバツ・マークが並んでいる。意味も目的も分からないが何だかおもしろいので写真にする。

漁船と魚の壁画の風景

モスクから海岸に出るとカーイ・トゥベーイ要塞が目の前に見える。光の具合か目の前の地中海は異様に青い。要塞の手前にたくさんの漁船が集まっており,その多くは手漕ぎのボートを一回り大きくした程度のもだ。今日の漁はすでに終了しているのか,船に人影は少ない。

ミナレットをもったモスクのよう建物のところで小さな魚市があった。魚を覗いてみると見たこともないものだ。近くには魚を描いた半分立体的な壁画があった。魚が壁の上に飛び出しており,背景の青い空とミナレットが壁画の一部に見える。

要塞の手前で女子中学生の写真を撮る

狭い水路を挟んで要塞の建物が見られる海に突き出た突堤は観光客の溜まり場になっており,家族連れが石のベンチに腰を下ろしている。中学生くらいの子どもたちがこんなところでサッカーに興じている。

彼らと一緒の女の子の集団もおり,ふとしたことがきっかけで写真をとることができた。もちろん,男女別に分けて撮ることにしたが,男の子のジャマが入る。いい構図で写真が撮れたと思ったら男の子の顔がアップで入ってしまい,これにはがっかりする。

もっともこの画像を彼女たちに見せてあげると大笑いとなり,それから「私たちを撮って」と忙しいことになる。要塞の写真も撮れたし,この国ではちょっと撮りづらい中学生の女の子の写真も撮れたので満足をしながら要塞に向かう。

カーイ・トゥベーイ要塞

この先にカーイ・トゥベーイ要塞が威容を見せている。要塞は15世紀にマムルーク朝のスルタンにより建設された。城壁,内城ともに少し赤味がかった石造りの建造物で要塞と呼ぶには美しすぎる。外壁のところどころには守備塔が配置されており,この時代の要塞建築の特徴がよく出ている。

マムルーク朝(1250年 - 1517年)はエジプトを中心にシリア,ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝である。日本では奴隷王朝と訳されることもあるが,その用語は王朝の特質を正確に伝えるものではない。

この王朝ではマムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人の中から有力者がスルターン位に就いた。いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず,次のスルターンはアミールと呼ばれるマムルーク軍人の有力者から互選で選ばれるようになっていた。

奴隷商人によりエジプトに運ばれてきたマムルークはテュルク系遊牧民やモンゴル人,クルド人が主体で,王朝の中期以降はチェルケス人など北カフカス出身の者も多くなった。

彼らはスルタンや有力アミールによって購入されると兵営で軍事教練を受け,その後は奴隷身分から解放されてマムルーク軍団に編入された。特に能力を認められた者はアミールへと昇進することができた。

彼らは奴隷としての購入者である主人と強い主従関係を持ち続け,同じ主人をもつマムルーク同士とは固い同門意識で結ばれていた。

プトレマイオス王朝の時代,カーイ・トゥベーイ要塞がある場所はファロス灯台があったとされている。灯台の高さは古代世界の建築物としては群を抜く120mもあり,大理石造りの三層構造になっていた。

第一層は36mの方形プランになっており高さは71m,第二層は窓のある八角形の塔で高さは34m,第三層は円柱形の塔で高さ9m,塔の上には円錐型の屋根があり,高さ7mのポセイドンの青銅像が据え付けられていたとされている。

第三層には火桶と反射鏡が備えられ,その灯りは50km先からでも確認できたとされている。この灯台は8世紀の地震で半壊し,14世紀の地震で完全に崩壊してしまった。

現在のカーイ・トゥベーイ要塞の周辺にはファロス灯台を思い出されるものは何も存在していない。周辺は観光名所になっており,たくさんの土産物屋が並び,エジプト人の観光客も多い。

僕は要塞には入る気はなく,その横から伸びる突堤に行こうとしていたのだが,チケット(おそらく要塞のチケットであろう)を買えと言われ,突堤歩きは断念した。

半島の周辺を歩いていると建物の壁面にみごとなモザイクがあった。エジプトに縁のある物語やイスラム化された以後の街の様子を題材にしているようだが内容はよく分からない。街角でこのような芸術を見られるのも往年の文化都市アレクサンドリアならではのことだろう。


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