亜細亜の街角
スエズ運河を航行する船舶を見ることができた
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スエズ

スエズといえばスエズ運河になってしまうがエジプトには「スエズ」という町もある。紅海に突き出たシナイ半島の両側にスエズ湾(西側)とアカバ湾(東側)があり,スエズはスエズ湾の再奥部に位置している。

ここからスエズ運河が始まる。スエズ地峡にはグレートビター湖という塩湖があり,運河はこの塩湖の北側と南側を掘削して紅海と地中海を結んでいる。運河沿いには南からスエズ,イスマイリーヤ,ポート・サイドという3つの町が等間隔で並んでいる。

グレートビター湖は今から4000年ほど前にはスエズ湾とつながっていたとされている。スエズ地峡の西側は周辺に比べて高い地形となっており,イスマイリーヤの手前でナイルデルタとほぼ同じ標高になる。

紀元前20世紀頃,中王国第12王朝の時代にナイル川の支流が流れるザガジグからイスマイリーヤを経由してグレートビター湖までの運河が造営された。これによりナイル川を仲介して地中海と紅海が結ばれた。

その後,グレートビター湖とスエズ湾の地峡は砂に埋もれ,紅海への出口は塞がれてしまう。紀元前6世紀頃の末期王朝の時代に塩湖とスエズ湾を結ぶ運河が造られ,再びナイルと紅海は結ばれるようになった。

しかし,この運河は砂との戦いの連続であった。紀元前4世紀にはエジプトを支配したアケメネス朝ペルシャのダレイオス1世がこの運河の砂を除去している。当時の運河は幅が約60m,深さ約12m程度であったとされている。しかし,砂との戦いはその後も続き,5-6世紀には使用されなくなった。

地中海と紅海を結ぶ新しい運河建設が再び脚光を浴びるようになったのは19世紀半ばのことであった。アジアやアフリカに植民地を抱え,貨物の運搬量が急増していたヨーロッパ列強にとって地中海と紅海を結ぶ運河は非常に魅力的な事業であった。

スエズ運河はフランス外交官のフェルディナン・ド・レセップスの指揮により1859年に着工し,10年の歳月をかけて完成した。工事には150万人のエジプト人が動員され,そのうち12万5000人が過酷な自然環境のため病気等で死亡したと推定されている。

運河の全長は162km,最低水面幅員は60m,水深8mであり,7万トンクラスの船舶の航行が可能であった。地中海と紅海の水面がほぼ同じ高さなので,面倒な閘門の無い水平な運河となっている。

建設に要した費用はおよそ1億ドルとされているが,いつの時代の通貨価値かは分からない。運河の開通により,例えばロンドン・シンガポール間の場合,アフリカの喜望峰を回る航路に比べるとおよそ1万kmもの短縮が可能になった。

開通後,スエズ運河はフランスとエジプトの共同所有となり,99年後にはその所有権のすべてはエジプト政府に引き渡されることになっていた。しかし,運河建設の財政的負担は当時のエジプトには大きすぎたため結局,運河管理会社の株をイギリスに売り渡すことになる。

1882年には運河を保護することを理由にイギリス軍が運河周辺に駐留をするようになり,実質的にイギリスがスエズ運河を支配することになる。

第一次世界大戦後の1922年にエジプト王国が成立し,イギリスはその独立を認めたが,その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。しかし,イスラエルとの第一次中東戦争(1948-49年)に敗北したこと,経済の悪化などにより社会不安は高まった。

1952年に王政の腐敗に反対する自由将校団がクーデターを起こし,エジプト共和国が成立した。1956年,第2代大統領に就任したナーセル(ナセル)は中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を掲げ第三世界やアラブ諸国の指導者としての地位を固めていく。

ナセルは就任の年にスエズ運河国有化を断行し,これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)ではイスラエル,イギリス,フランスと戦うことになったが,国連がスエズ運河国有化を認めたこともあり,政治的に勝利を収めた。

スエズ運河を通過する船舶は年間(2003年)およそ15,000隻でこれは世界の海運の7%に相当する。通過船舶の22%が石油タンカーで,44%がコンテナ船となっている。スエズ運河庁によると2004年の通航料収入は30億ドルと推計されており,エジプトにとって重要な外貨収入源になっている。

国有化後のスエズ運河は1961年から何回かの改修・拡張工事を行っており,そのほとんどは日本の五洋建設(旧水野組)がかかわっている。いささかプロジェクトX風ではあるが,当時の生々しい記録が 「スエズ運河改修プロジェクト」に記されている。

スエズ運河と日本を関係づける建造物がもう一つある。2001年に完成した「日本・エジプト友好橋」あるいは「ムバラク平和橋」とも呼ばれ,イスマエレーヤの近くでスエズ運河に架かる橋である。

全長は9km,運河水面から桁下までの高さは航行船舶を考慮して70m(横浜ベイブリッジは55m)と世界最大級である。片側2車線の道路はシナイ半島とエジプト本土を結ぶ物流の大動脈になると期待されている。この橋の建設費用の6割は日本の無償資金協力(135.7億円)が使用されている。

アフリカとアジアを結ぶ「ムバラク平和橋」,アジアとヨーロッパを結ぶ「第二ボスポラス大橋」に日本のODAが使用されていることはとても興味深い。日本のODAが3つの大陸を結んでいるのだ。

ダハブ(400km)→スエズ 移動

06時少し前に起床し海岸に出ると日の出の時間に間に合った。雲がほとんど無いので茜色の冴え具合はいまいちである。アカバでは紅海に沈む夕日を見て,ここでは紅海から上る朝日を見ているのでちょっと変な感じがする。

ナムグムのレストランは07時から朝食がとれる。パン,バター,ハチミツ,ジャム,フルーツ,玉子焼き,ヨーグルトの盛りだくさんの朝食が12EP(240円)は妥当な価格であるが,エジプトの朝食としてはとても高い。

今日はもう戻らないとこころに決めてチェックアウトをする。乗合トラックバス乗り場まで行っても車は1台もいない。道路の向こう側で待っているとピックアップがやってきた。通学の子どもたちが乗っておりBTまでは5EPと今までで最安である。

すっかりなじみになった窓口の職員にセント・カトリーナ行きのバスについてたずねるとやはり答えは「ノー」である。これで3日間バスは運行していないことになり,もうバスは無いものとしてあきらめるしかない。

08:30にカイロ行きのバスがあるのでスエズに出ることにする。シナイ半島の先端にあるシャルム・イッシェーフ経由なので三角形の二辺を走る形の遠回りになる。料金も67EPと高い。

このバスはカイロ行きなのでスエズの町から10-15km離れたところで降ろされるという。後はどうにかなるだろう。このときはもうセント・カトリーナ行きはあきらめるつもりでいた。

このバスはエアコンが効いており快適であった。一時,エアコンアが止まったときはさすがに蒸し暑くなる。エジプトのバスはおよそ地域で分けられている。カイロからシナイ半島にかけてはイースト・デルタバスの圏内に入っている。

バスはときどきイースト・デルタの表示のあるドライブ・インに立ち寄る。トイレには2回行った。最初は番人が寝ていたので無料,次はしっかり1EPを要求された。

エジプトの物価水準とトイレの清潔度からすると0.25がいいところだ。しかし,0.25のお札は持っていないので0.5を支払うととくに文句は出なかった。

シナイ半島の東側は赤茶色の山並みがずっと続いている。西側に入ると平地が多くなり,一部地域では植林も行われている。しかし,スエズ運河と同様にここでも砂との戦いはあり,半分砂に埋もれたナツメヤシの木もある。

バスはスエズ運河の下を通るトンネルの手前でしばらく停車した。トンネル内は片側通行になっているようだ。僕はこのトンネルを抜けてすぐの交差点で降ろされた。少しといっても車での移動距離なので徒歩で戻ってトンネルを見学に行く元気はない。

このトンネルの正式名称は「アハメド・ハムディ・トンネル」,全長は1630m,1983年に英国により建設された。シナイ半島とエジプト本土を結ぶ唯一の車両用トンネルであるが,完成直後から塩水の漏水があり,1992-95年に日本の無償資金協力により対策工事が実施された。

運転手から「ここからミニバスが出ている」と教えられた。しかし,そこで待っているとすぐにタクシーが現れ,「スエズまで10EPで行く」という。タクシーは僕の指定した「El Madena」までちゃんと行ってくれた。

Hotel El Madena

スエズの町は東西方向にゲーシュ通りが走っており,東端は船着場に通じているが,船着場はスエズ運河とは反対側に面している。銀行,ミクロBTなどの旅に必要なものはだいたいこの通りにあるので分かりやすい。

「Hotel El Madena」はこの通りから少し北に入ったところにあり,交差点さえ覚えておけば宿に戻るのは難しくない。回りは下町といった感じで,歩いているといろんな人から声がかかる。

僕の部屋は3畳,1ベッド,T/HS共同,ファンとテレビが付いており清潔である。シャワールームは僕の部屋よりずっと広いが,なぜか脱いだ服をかけておくところが少ないので苦労する。お湯のシャワーで頭を洗い久しぶりにすっきりする。ついでに洗濯も済ませあとは街を歩くだけだ。

料金が22EPの僕の部屋はペンキの塗りたてという感じで,廊下や手すりはペンキ塗りの作業が続いている。そのため少しペンキの臭いが漂ってくる。

お茶をごちそうになる

宿の前にはカフェがあり,外のテーブルでお茶を飲むことができる。先客の男性と同じテーブルでチャイを注文する。小さなコップに入ったチャイが出てきて角砂糖を2つ入れていただく。イランと同じ文化なので硬い砂糖ならそのままかじって,それからお茶を飲んでもよい。

主人に代金を渡そうとすると同席のおじいさんが「客人の代金はワシが払うよ」とばかりに主人に払ってしまい,僕はおじいさんにお礼を言うしかなくなった。

この町のお茶代は0.5EPのようだ。ヌエバアの町の高いお茶代は何だったのだろう。ともあれ,この界隈は居心地がよい。エジプトのいい面がここにはある。

ザクロをいただく

宿の隣には果物屋があり,大きなザクロが2個で2EPとこれまた安い。しかし,この大きなザクロは1日に1個で十分だ。ザクロの難点,それは食べづらいことだ。

外側の皮にナイフで切れ目を入れ,半分そしてまた半分に割る。失敗すると汁が飛んでくる。ザクロの実は小さなものがたくさん集まっており,しかもそれぞれに種が入っている。1ブロックを口に入れ,種を吐き出す。これを何回か繰り返すとようやく1/4が終了する。

宿の周辺を歩いてみる

日のあるうちに大通りを歩いてみる。ここはゴミの多い町だ。風が吹いたら埃もひどそうなので,そうならないことを祈るばかりだ。西の方に500mほど歩くとアルバイーンのBTがある。だいたいそのようなところには安い食堂がある。

大通りには高層アパートが多い。10階以上の建物の1-2階は商店や事務所になっており,その上がアパートという形が多い。現在建築中のものもたくさんあり,全体的に街並みはきれいだ。

通りにはキリスト教の教会が二つある。エジプトのキリスト教といえばすぐに「コプト教」ということになるが,実際には他のキリスト教宗派も含まれている。

在東京エジプト大使館のHPには「人口の約90%がイスラム教徒であり,現行憲法第2条はイスラム教を国教と規定している。イスラム教徒の大半はスンニー派に属している。

残りの約10%をキリスト教徒が占め,その大半は古代エジプト・キリスト教であるコプト教徒である。その他のキリスト教諸派としては,ギリシャ正教,ローマン・カトリック,アルメニア,プロテスタントがある。」と記載されている。

ということは,やはりキリスト教徒=コプト教徒ということにはならない。僕が通りで見かけた教会がどのような宗派のものかは分からないが,ともすればイスラム一色と見られるエジプトでも複数の宗教が並存していることは喜ばしい。

しかし,2000年以降はイスラム教徒とキリスト教徒の衝突が表面化しており,死傷者の出る事件も発生している。エジプト政府は「コプト教徒は少数民族ではない」という声明を出し,民族問題に発展することを警戒している。

エジプトにキリスト教が伝わってきたのはイエスが磔にされてまだ日の浅い紀元40年くらいとされている。まだ宗教としてはしっかりとした教義を確立していない,いわば黎明期あるいは原始のキリスト教であった。

このキリスト教はエジプト固有の多神教と交じり合い独特のコプト教が誕生した。コプト教は2000年の年月を生き延び,現在でもエジプト人の数%がコプト教徒であるとされている。

それに対して現在エジプトの国教となっているイスラム教はアラブ人によってもたらされ,エジプト人も自分たちはアラブ人だと自認するようになっている。エジプト政府が警戒しているのはイスラム教徒=アラブ人,コプト教徒=ジャーヒリーヤ時代のエジプト人という民族問題に発展することであろう。

注)ジャーヒリーヤとは無知,無明,愚かさを意味する言葉で,イスラーム以前の文化・時代全般を指して使われる言葉である。

もちろん,イスラムの国なので街の至るところにモスクがあり,時間になると独特の調子で礼拝を呼びかけるアザーンが響きわたる。今日も2つのモスクが見つかったので時間を見計らってのぞいてみよう。

アルバイーンのミクロBT

スエズの町における庶民の足はなんといっても「セルビス」である。ここのものは少し大きめのワンボックスカーを改造したもので7-10人くらいが乗れる。

町のほとんどの場所をカバーしており,路上でつかまえることができるのでこれが使えるとたいへん便利だ。しかし,行き先表示はアラビア文字なので地元の人に聞かないと利用は難しい。

アルバイーンのミクロBTはセルビスや郊外へのミニバスの発着所になっており,車も人も多い。当然,僕の探していた食堂も何軒か並んでいる。その中で店先のオーブンでチキンがローストされているところがあったので中に入る。

決して衛生的とはいえない環境であるが,ハーフチキン,サラダ,アエーシ(大きなホブス)で8EPという値段は魅力的だ。シナイ半島を出てようやくエジプトの標準的な物価水準が理解できるようになった。この店ではケバブをアエーシで巻いて食べるものも人気であった。

近くの茶屋でチャイをいただく。この店では固まっていない砂糖が出てきた。スプーンで2杯入れ,ゆっくりすする。店には水タバコのセットがたくさん用意されており,いくつかのテーブルでは喫煙している人もいる。チャイと水タバコはエジプトでもセットになっている。

二つのモスクを見学する

さきほどの大通りのモスクに入ると,イマーム(地元の宗教指導者)が説教をしている。おそらくコーランの解釈およびイスラム世界のできごとなどが話されているにちがいない。でも聞いているのは数人だけなので寂しい。

宿の近くのモスクに入るとミフラーブの前で男性がマイクに向かってアザーンを唱えていた。ミナレットのスピーカーから流れてくるアザーンは何度も耳にしたことがあるが,実際に見るのは初めてである。

映像で見ると自分の声を聞くため両手を耳にあてる姿が多いが,マイクに向かって語る場合にはその必要はないようだ。じきに多くの人々が後ろに並ぶようになり,僕は彼らの後ろに下がる。

早朝の通学風景

06時に起床,04時過ぎのアザーンは三方,四方から一斉に聞こえてくるのでさすがに目を覚ましてしまった。まあ,これはイスラム世界を旅行するときの定めだから受け入れるしかない。アザーンが終わると元の静けさに戻る。

07:30頃に朝の散歩に出かけると子どもたちの通学時間であった。小学生女子の服装は青色がかった灰色のブラウスに灰色のスカートであるが,かなりの割合でズボンを着用している。

イスラム圏では女性が足を出すのはご法度である。中高校生になると足首までの長いスカートが主流になり,成人女性の長衣と似てくる。中学生以上のスカーフの着用率は8割と高い。

もちろんこの年齢の女生徒を写真にするのは難しい。それに対して小学生の子どもたちならそれほど写真は問題にならない。小学校の校庭に入り,いつものように男女別の写真を撮る。

名前の分からない朝食

アルバイーンに出て朝食にする。近くの食堂でホブスの間にフールと野菜を詰めたもの,これが2個で1EPである。朝食としてはちょうどよい量だ。店の前で主人がチケットを売っており,ここでお金を払いチケットを受け取る。

それをカウンターに出すと料理がもらえる仕組みであるが,ホブスの中に詰める具の名前が分からないので注文のしようがない。ちょうど自分たちのグループのものを運んできた少年がいたので,彼にお願いして上記のものを注文してもらった。

エジプト通貨が少なくなってきたので銀行に行って両替をする。T/Cは使用不可,ドルのキャッシュだけは受け取ってもらえる。もっとも,ATMでエジプト・ポンドを引き出すこともできる。レートは1$=5.51EPとヌエバアと同じだ。

アイン・ムーサで降ろしてもらったはずが…

当座のEPが手に入ったので今日はアイン・ムーサに出かけることにする。アイン・ムーサはスエズから50km,イスラエルの民を引き連れてエジプトを出たモーセが苦くて飲めなかった井戸の水に杖を投げ入れることにより飲める水に変えたという逸話が旧約聖書に残されている。

アルバイーンからミニバスでイースト・デルタのバスターミナルに行き,そこで大型バス(おそらくシャルム・イッシェーフ行き)に乗り換える。バスの運転手は砂漠の路上で僕を降ろしてくれた。しかし,そこはなぜか軍のキャンプ地であった。

野戦砲が展示してあるのでなんだかおかしいなと思いながら緑のある建物の方に歩いていく。入口に普通の服装の男性がおり「アイン・ムーサは3kmほど向こうだよ」とあっさり言われた。この砂漠を3km歩くのはさすがに大変すぎる。

ガイドブックを読むとどうやら彼はアイン・ムーサの検問所のことを言っており,井戸はその2km手前にあるので,1km歩けば到着する計算だ。それならば歩いても大したことではない。

アイン・ムーサ

しばらくの間,道路の両側は完全な砂漠である。強い日差しの下を歩いても汗はかかない。水分がそのまま蒸発してしまうからだ。背中だけはザックを背負っているので濡れている。このためザックと接触しているところだけはポロシャツが汗で変色してしまう。

そのうちナツメヤシの木が見えてくる。枝の手入れをされていない若いナツメヤシの木は円形に葉を繁らせており絵になる。道路の右側に数十本のナツメヤシが固まっているところがあり,これで水があれが完全なオアシスのイメージである。

林の中には山羊と羊が放し飼いにされている。しかし,僕の見たところでは地面には草は見当たらない。その先には石で円形に囲われた井戸が2つある。片方は砂に埋まっており,もう片方は汚れた水がたまっており,ペットボトルがたくさん浮かんでいる。

土産物の売り込みに精を出す前に,観光資源をもう少し何とかしなければ肝心なお客さんが来なくなるのではと老婆心ながら心配してしまう。井戸の周辺のナツメヤシは枯れたものが多いので,若木を植えて風景を再生することも必要であろう。

このようなものでも欧米の観光客は団体で見学に来ている(僕もそうだけれど)。彼らを目当てに粗末な小屋が並び土産物屋が商売をしている。子どもたちは観光客に「ギブミー・ボンボン」とねだっている。

実態はこのようにひどいものではあるが,さすがにガイドブックの写真はそれなりに撮られており,なるほどと感心させされる。ぼくも井戸の内部が見えないような角度から写真を撮る。

欧米人の団体はツアーバスに乗り込み次の場所に移動する。僕は道路に出て路線バスがやってくるのをひたすら待つ。幸い地元の学校の通学バスがやってきてスエズのアルバイーンに戻ることができた。このあたりの町の学校の先生はスエズから通勤しているという。

スエズ運河を見に行く

宿で一休みをして15時からスエズ運河を見に行く。散歩かたがたのんびり歩いていくことにする。通りで水を入れた素焼きの壺を見つける。ふたがしてあり,その上にはカップが置かれている。ご自由にお飲みくださいということだ。

素焼きの壺からは水が染み出てきて下の部分は濡れている。この水分が蒸発する時に気化熱をうばうので壺の中の水はけっこう冷たく感じる。この文化はアジアの熱い地域ではよく見られる。

通常は平底で自立型の壺が使用されるが,ここのものは下部が円錐状になっている。おそらくこの形状の方が冷却効率が良いのだろうと推測する。

ちょうど高校生の帰宅時間になっており,スカーフを被った長いスカートの一団が歩いている。ちょっと横から一枚撮らせてもらう。

東に歩いていくといくつかの建物が目に入る。白い建物,周辺の棕櫚やナツメヤシの木が背景の青空に映えている。このあたりはイギリス支配時代の建物が多くなる。右側にはスエズ湾が見えるようになる。

スエズ湾を望む

浅い海面の向こうにボート・タウフィークの施設が遠望できる。しかし,スエズ運河はここではなく突堤のように突き出ているボート・タウフィークの向こう側になる。

スエズ運河の岸辺は遊歩道になっており,そこには「近くから運河の写真を撮ってはならない,水泳,魚釣りも禁止」という看板がある。もっとも写真については今の時代にそのような注意を「はい,そうですか」と守る人はいない。

運河の写真は撮りづらい。運河の感じを出すため両岸を入れようとすると手前の岸が大きく入りすぎるのでバランスが良くない。一番良いのは船の上から撮るものであるが,さすがに忙しい運河には遊覧船は出ていない。

それにしても運河を航行する大きな船舶は一隻も見かけない。これはさすがに困った。とりあえず周辺を歩いてみることにする。対岸では何か工事が行われている。そこには砂の流入を防ぐためのコンクリートの柱が並んでいる。

ペリカン発見

冷たい飲み物を買いに近くのスタンドに行く。紙パックのマンゴ・ジュースが1.5EP,喉が渇いているのであっという間に飲んでしまう。このスタンドの後ろには巨大なペリカンが飼育されていた。

全体的な体色は灰白色で腰や脇が赤いという特徴から東アフリカに生息する「コシベニペリカン」であろう。この大きさでペリカンの中では小型種だというからちょっと驚きである。

ペリカンを特徴付けているのは大きなくちばしと下のくちばしから喉にかけて袋状になっている喉袋である。魚を食べるときには喉袋に一時保管するのかと思っていたら,カイロの動物園のペリカンは首を立て,するするとそのまま飲み込んでいた。

夕日の時間帯の終わりころに船が現れる

ポート・タウフィークの海岸に出て夕日の写真を撮っていると運河から巨大なコンテナ船が出てきた。あわてて運河に戻ると,次々と巨大船がやってくる。どうやら一定数の船舶が集まったところで順次通行させているようだ。

日が沈みかけた時間帯ではあるがなんとか写真になる。最初の船舶が通過してから6分後には次のものがやってきた。水平運河とはいえ,かなりの時間密度で巨大船舶が通過していく。ようやく運河を通行する船舶の写真が撮れたのでこれでスエズではもう思い残すことはない。

朝の散歩

朝の散歩で通学途中の子どもたちの写真に再びトライする。しかし,あまり大っぴらにすると近所の人たちのひんしゅくを買うので控えめが肝要である。学校の近くで食べ物を買っている子どもたちなどは問題なく撮れる。

近くのモスクは大き過ぎて正面からの構図では入りきらない。この二本のミナレットをもつモスクを斜めから撮るとミナレットのバランスが狂うので写真は難しい。ミナレットを一本に絞るときれいなものになる。

それにしてもこの街はゴミが多い。いちおう大きなゴミ箱も用意されているのだが回収が追いついていない。ゴミ箱の周囲を含め,いたるところにゴミがある。

また空き地は例外なくゴミ捨て場になっており,そのせいかハエが異常に多い。ゴミをきちんと処理できるようになるまではまだ相当の時間が必要のようだ。

珍しい果物

果物屋には珍しいものがある。形は洋ナシかカリン,匂いは柑橘系,味は洋ナシ風で中心部には小さな種が固まっている。おそらく種から推定するとグアバの一種であろう。東南アジアのものとはかなり違った印象を受ける。

音楽に誘われて学校に入る

楽器の音に混じって子どもたちの声が聞こえてくる。近くに学校があり,校門から覗くと朝礼の最中であった。正面が校舎で,子どもたちは中庭にコの字形に並んでいる。

歌が終わると先生のお話が始まる。校門のところには父母が集まっており,僕が混じっていても咎められることはない。ずっと背中を見せていた女生徒の一団が横を向いたところを一枚撮る。

再び同じ朝食

朝食のためアルバイーンに向かう。昨日は夕方のためきれいな写真を撮れなかった教会や街の様子をもう一度撮る。昨日の食堂で同じものを注文する。今日は注文の方法が分かったので自分でできる。

エジプト風水タバコ

昨日の茶屋に入りチャイをいただく。ついでに撮り忘れた店の主人の上に並べられている水タバコの器具と実際にそれを吸っている男性の写真を撮らせてもらう。

テヘランの文章から引用すると,水の半分くらい入ったガラスの容器の上に炭火とタバコ,香料を乗せる。そこから金属のパイプが水の中まで伸びている。容器の上から伸びているチューブの先端を吸うと,タバコの煙が水中を通って出てくる仕掛けである。


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