亜細亜の街角
ジェラシュ遺跡はとても保存状態が良い
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ジェラシュに向かう

ジェラシュはアンマンの北50kmのところにあるローマ時代の遺跡である。ローマが地中海東海岸地域に造った都市の中では最も壮大でかつ保存状態が良く,ペトラとともにヨルダン観光の最大の見どころとなっている。

この地域では石器時代から人々が集落を形成していた。ジェラシュが歴史に登場するのはヘレニズムの時代である。すでにある程度の規模をもった町になっており,ローマ時代の碑文にもこの町に関する記述がある。

アレクサンダー大王の後をついでこの地域を支配したセレウコス朝が滅亡すると,ローマがこの地域を植民地化し,ダマスカス,ペラ,ウムカイスなどの10都市からなるデカポリス(都市連合)に組み入れた。そのため現在のシリア・ヨルダンの西部地域をデカポリス地方と呼ぶこともある。

1世紀,ローマ帝国の版図が拡大していくにつれてジェラシュは交易都市として繁栄した。2世紀初頭にはトラヤヌス帝がペトラを征服し,交易都市としてのジェラシュの重要性はさらに高まった。その頃のジェラシュは人口2.5万人の都市に発展していた。

2世紀前半にはハドリアヌス帝がここを訪れて,凱旋門,アルテミス神殿,北劇場,競技場などが造営された。また列柱道路を軸にして市内の道路が整備されたという。

3世紀の初めには繁栄の絶頂期を迎えたが,海上輸送の発達,パルミラの滅亡により徐々に衰退していった。392年にキリスト教がローマ帝国の国教となり,ジェラシュでもいくつかの神殿が教会に変えられた。

その後は,ビザンツ帝国のもとで繁栄を続けるが,7世紀にはイスラム勢力により征服され,8世紀には大地震により町は遺棄され,19世紀に発見されるまでは廃墟となっていた。

ガイドブックによるとアンマンからジェラシュに行くにはアブダリBTからバスに乗るとなっている。しかし,BTまではどうやっていくのかは記載されていない。こんなときはサーメルさんに聞くのが一番だ。

サーメルさんが教えてくれたBTの名前は「タブルボレ」,北に向かうNo.1バスの終点だという。これは分かりやすい。首尾よくNo.1バスをつかまえて終点のBTで下車する。ジェラシュ行きのミニバス(0.4JD)はすぐに見つかり,僕が乗車して10分ほどで発車した。

ミニバスは道路状況を考えるとずいぶんな速度で走る。遺跡が見えたと思ったらそこで降ろされた。50kmを走るのに要したのは1時間弱である。僕が下車したところは凱旋門の南側のロータリーである。遺跡は金網で囲われており,そこを左に回りこんだところに入口がある。

入場料は8JD(1280円)と驚くほど高い。入口を入ると土産物屋があり,そこを通らないと遺跡に行けないようになっている。これは僕のような旅人にとっては迷惑な話だ。

ようやく凱旋門に出る。この門は129年にハドリアヌス帝がここを訪れた記念に造られたものである。中央に大きなアーチ,左右に小さなアーチを配置する構造はパルミラの記念門に類似している。パルミラもローマ建築の影響下にあったので,類似性は当然なのかもしれない。

この立派な凱旋門の写真を撮ろうとしたが門の前でのんびりと記念撮影をする観光客が多くてしばらく待つことになった。この凱旋門の保存状態は非常に良い。庇の下の繊細な彫刻までもがすべて残されているのは驚きである。

競馬場

凱旋門をまっすぐ北に行くと競馬場(ヒポドローム)がある。ローマ時代の競馬とは映画「ベンハー」に出てくる戦車競技である。入口のプレートに描かれているように,4頭の馬が引く軽戦車が1周245mの競技場を何周かして早さを競ったことであろう。

この競馬場の収容人数は1万5000人とされている。競技場の南側に連続したアーチ門があり,おそらくここから競技に参加する戦車がさっそうと出てきたにちがいない。競馬場の入口の建物の上は北に広がる遺跡の全容を見ることができるビューポイントになっている。

それにしても競馬場は巨大で全景を撮るのは難しかった。北の端にある建造物の上からようやく撮ることができたが,画像を見るとただの赤い砂地の競技場になってしまい遺跡の迫力を伝えることはできない。この場所からは東側に広がるジェラシュの街並みも眺めることができる。

南門

競馬場から北に行くと南門がある。ここが町を囲む城壁につながる正規の入口ということになる。この南門も大きなアーチと両側の小アーチの組み合わせになっている。おそらくアーチの上には凱旋門と同じように飾り屋根が置かれていたことであろう。

大アーチを支える柱の最上部にはガイドブックに記載されているアカンサス(葉薊)の葉が刻まれている。アカンサスはギリシャ・ローマの建築物によく使用されるモチーフで,コリント式の柱頭の装飾が有名である。現在でもアカンサスはギリシャの国花となっている。

博物館

南門の右前方には博物館がある。ここには遺跡から出土した石材や柱頭が展示されている。興味を引いたのはゼウス神殿もしくはアルテミス神殿と思われるものの復元模型である。往時はこんなすごい建造物であったのだ。

神殿本体はギリシャの周柱式神殿の形式をそのまま採用している。石造りの壁で囲まれた神室(セラ)が中央にあり,その周囲に石柱を並べた様式である。

ゼウス神殿

南門の左側にはゼウス神殿と南劇場がある。ゼウス神殿は丘の上にあり,フォーラムの横から回り込んで登らなければならない。オリジナルはヘレニズム時代であり,2世紀に改修されたとあるが様式は変更されなかったようだ。現在はガレキの中央に神室の壁と周囲の円柱の一部が残っている。

坂道を登っていくと周囲には彫刻の施された石材が所狭しと並べられている。神殿の正面を飾っていたと飾り屋根の一部と思われる石材もあった。神殿本体は丘に登ると近すぎて写真にならないので,下から撮るしかない。

この丘の上からは遺跡の全体がよく見える。ゼウス神殿の一部となっていた建造物の遺構の向こうには列柱に囲まれたフォーラムがあり,基壇があったとされる中央部には石柱がぽつんと立っている。

フォーラムから北にまっすぐ列柱道路が伸びており,北門に通じている。これが古代都市ジェラシュの基軸となっており,その両側には方形の街並みがあったとされている。

僕が訪れた10月の中旬にはフォーラムの左後方は赤褐色の大地となっているが,ガイドブックの写真では緑に変わっている。冬期の降雨が地域の景観を一変させるのがよく理解できる。

南劇場

ゼウス神殿の隣には南劇場がある。これはローマ式の円形劇場で3000人を収容できるという。観客席に上ってみると今までのローマ劇場より傾斜が急な感じを受けた。それほど大きくないことが幸いして全体の写真は撮りやすい。太陽の影響を避けるため,舞台は北側に造られている。

舞台の背後には役者の声を反響させるためのスケナエ・フロンスと呼ばれる壁面がある。そこには3ヶ所の出入り口があり,例えばボスラのものとほぼ同じスタイルである。

時間が来るとステージの下では民族服の三人の男性がにぎやかな音楽を演奏してくれる。ノリの良い欧米人の観光客の中にはこの音楽に合わせて踊る人も出てくる。

この劇場の最上部からも遺跡の全貌を俯瞰することができる。フォーラムはとても大きいのでゼウス神殿や南劇場からではないと全体写真は撮れない。

フォーラム,アゴラ

フォーラムは列柱に囲まれた半円形の広場になっているが,往時は80×90mの楕円形の広場であったと考えられている。当時は市民生活の中心的な施設であり,広場全体が加工された石材で舗装されている。

フォーラムという語感から市民の集会用の広場かと思っていたら,中央の基壇は宗教的な儀式あるいは演壇として使用されていたという。それにしてもフォーラムを囲む列柱の保存状態は信じられないくらい良い。

フォーラムの北側には列柱道路がまっすぐ伸びており,その左側には円柱に囲まれたアゴラがある。アゴラは市場もしくは集会所として使用されていたらしいが,都市の規模からすると市場にしてはいかにも小さい。

柱頭に装飾を施された円柱がきれいに残っており,壁の上から全景が撮れた。欧米人の団体がやってきて,ガイドが石をとり円柱のところに積んである(写真左側の)直方体の石材をたたいた。

すると澄んだ金属的な音が響き,団体のメンバーも同じように音を出していた。さすが地元のガイドはいろんなことを知っている。団体客がいなくなってから僕もたたいてみた。キーン,コーンと鐘の音のような音が2秒くらい聞こえた。

ニンファエウム

列柱道路はアゴラの先も続き,そこは列柱がよく保存されているし,石畳の程度も良い。列柱は車道と歩道を分離する働きもあったという。列柱の間は車道で,その外側は歩道になっていたという。

ここをしばらく歩くと大聖堂の入口とニンファエウムが隣り合っている。もっとも大聖堂の方は入口と階段と案内板があるだけでどこが教会の本体か分からない。

ニンファエウムはその名の通りニンフ(妖精)に捧げられたものであるが,神殿ではないようだ。一段低いところに大きな水盤のようなものがあり,その背後には半円形の二階建ての建造物がある。文献によるとこの建造物は祭壇ということであるが,そうすると何がニンフに捧げられたのかが分からなくなる。

ニンファエウムの少し先に西の丘に続く階段があり,巨大な門が置かれている。現在は飾り屋根に相当する部分は失われているが,往時は入口のアーチ門があり,その上に飾り屋根が乗っていたと推測される。右側には屋根の傾斜を示す石積みが残されている。

アルテミス神殿

門から先はひたすら階段を登り,ようやく正面にアルテミス神殿が見えるようになる。石段の上に腰を下ろし休憩をとる。アルテミスはギリシャ神話に登場するいわゆる「オリンポスの12神」の一人で弓術・狩猟・清浄の女神である。

よく月の女神セレネーと混同されるが,アルテミスが月の女神を兼ねるようになったのはギリシャ神話後期のことである。それは太陽神ヘリオスがいつのまにかアポロンと混同されてしまったことに類似している。

アルテミスはジェラシュの守り神とされており,2世紀に神殿が捧げられた。神殿の基壇は40×23m,神殿は2重の列柱に囲まれていたという。現在はそのうちの12本が残されており,近づいてみるとその巨大さとコリント式柱頭の精緻な装飾に圧倒される。

神室は切石が積み上げられているだけでそれほど興味をひくものではない。やはり,ギリシャ・ローマ建築の華は石柱だということを再認識させられた。

石柱の底は少し丸く削られており,地震のエネルギーを吸収する構造になっていた。神殿には小遣い稼ぎの自称ガイドがおり,巨大な柱を押して見せてくれた。柱の底部のすきまがわずかに変化しており,柱が揺れていることが分かる。

僕は気が付かなかったが,柱の中で場所を選んで上を見上げると,4本もしくは6本の石柱が天空の一点に向かって伸びているような構図の写真が撮れる。

西側の道を通り南門に戻る

アルテミス神殿の西側にはビザンツ時代の教会の遺構がいくつもあるが,わずかに石が積まれているだけであり写真に撮る気もしなかった。3時間ほど遺跡を堪能して列柱道路に戻ると,父親に連れられたよく似た姉妹が通りかかった。父親に頼んで一枚撮らせてもらう。イスラム圏では子どもの写真を撮れときでも(周囲に家族がいる場合は)ちゃんと了解をもらうことが肝要だ。


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