亜細亜の街角
早朝の果物露店のにぎわいに驚く
Home 亜細亜の街角 | Quba / Azerbaijan / Aug 2007

クバ (地域地図を開く)

クバは人口27,000人,18世紀から19世紀始めにかけてこの地域一帯を支配していたクバ・ハーン国の都とした発展した町である。特にこの町が見たいわけではなく,ここから大カフカス山脈に少し分け入ったところにある「フナルッグ村」に行くためここにやってきた。

バクー(166km)→クバ 移動

チェックアウトしたJ さんに代わり我々の三人部屋にはアゼルバイジャン人の男性が入ってきた。彼はわがままいっぱいに行動した。夜は12時過ぎまで明かりをつけてただ起きている。結局,僕が明かりを消すことになった。

夜中にも蚊がいるということで明かりをつけてタオルを振り回して蚊を退治する。05時からは明かりをつけ,エアコンを入れっ放しにする。これはとても寒い。病人がいることなどは(知らなかったのかもしれないけれど)まったく気にも留めない。

朝食後はH さんの食料としてパン,水,リンゴを差し入れる。彼の症状は熱は下がったものの腹痛は続いており,さっぱり回復しない。僕は自分の日程があるので今日はクバに移動しなければならない。再会を約してお別れする。

確かに再会は果たせた。それは2ヶ月半後,場所はカイロであった。彼の話では翌日にようやく回復して速攻でグルジア,トルコ,中東を抜けて,すでにカイロに1月近く滞在しているとのことであった。

クバ行きのバスはシャマヒンカBTから出ている。バクー駅横から地下鉄に乗り,地下鉄駅から1kmほど歩くという選択肢もあったが,イチェリ・シャハリ(旧市街)の西に隣接している地下鉄のバキュ・ソベティ駅から5番のマルシュルートカが出ているという。こちらは歩かなくて済む。

宿の前の道路の反対側で4番のマルシュルートカを待つ。2台が通り過ぎて行ってしまった。乗客が多いこともあるが,待っている場所が悪いようだ。200mほど歩いて交差点の手前でようやくつかまえることができた。

荷物があるとマルシュルートカに乗るのは本当に大変だ。外に注意して,旧市街の南で下車する。これは不正解であった。旧市街中を抜けてメトロの駅に着いてみると4番の車がちゃんと裏手に停まっている。ちょっとがっかりである。

5番の車はどこと周囲の人にたずねると,西側の道路を指差して教えてくれた。5番はこの空き地には停まらないのだ。しかも,旧市街の西側は停車禁止なので,その先で曲がるところまで移動してようやく5番に乗ることができた。

車は40分ほどで終点に着く。大きな交差点の周辺にマルシュルートカが列を作っている。どうやらここがシャマヒンカBTもしくはその近くのマルシュルートカ乗り場のようだ。

クバ行きの乗り場に行くと1台目はすでに満席で,次のものになる。料金は3マナト(400円)とまあ妥当なところだ。マルシュルートカは定時ではなく,乗客が集まれば出発する仕組みになっている。

出発してしばらくはカスピ海が見えていたがすぐに隠れてしまう。道中は退屈な風景が続く。車は70km/Hの速度で走り通し,2時間強でクバに到着した。そこはバスターミナルの前の路上であった。とりあえず喉が渇いていたので近くのスーパーに入り,ペットボトルのスプライト(0.3ソム)をいただく。

フナルッグ・ホテル

このスーパーでフナルッグ・ホテルの場所をたずねると「分からない」とのことであった。スーパーの裏手にバザールがあり,南端にあるとのことだったのでバザールをまっすぐ南に行くとそれらしいものは全然見つからない。

結局,東側の道路沿いにフナルッグを発見した。歩いて3分のところを15分ほども歩かされてしまった。フナルッグ・ホテルは1階がチャーイ屋になっており,そこではいつも男性たちがお茶と世間話を楽しんでいる。

2階が客室になっており一部は改修工事中である。ドミトリーは無くなっており,僕の部屋は8畳,2ベッド,トイレと机があり清潔である。料金は8マナト(約10$)と高い。とはいうもののアゼルバイジャンではなかなか安くて居心地のよい宿は無い。

石油景気で物価が上がっているのに加えて,マナトがドルに対して上昇しており,旅行者にとっては二重苦になっている。下のチャーイ屋ではフナルッグ行きの乗り合いジープの情報を仕入れることができる。

ジープは1台50-60マナト(7000-8400円)でそれを人数で頭割りすることになる。行きも帰りも人数が揃うという保証はなく,往復で50マナトくらいは覚悟しなければならない。

フナルッグは大カフカス山脈の奥にある極小民族の村なのでとても行きたいところであったが,アゼルバイジャンは物価が高く宿の状況も悪いため,あまり滞在したくない気持ちが強くなり,さっさとシェキを見てグルジアに向かおうと考えるようになった。

結論としてフナルッグはスキップし,翌日はバクー経由でシェキに向かうことにした。ということでクバの町を歩くことにする。宿の前はオープンのチャイハネになっており,いつも複数の男性がお茶をしている。

チュルク系の人たちは概して旅人にはやさしく,そのようなところで写真を断られたことはない。彼らの飲んでいるのは砂糖入りの紅茶であり,小さなグラスに入っているところもトルコと同じである。僕もここでチャイをいただき,それから街を歩くことにする。

果物が溢れている

町は東西方向の大通りに沿って広がっており,ここは東の外れに相当する。大通りの沿いには新しい建物が多くスーパーマーケットもある。バザールではなぜか果物だけが大きな面積を占めている。

今がいろいろな果物の旬なのかもしれない。梨,すもも,スイカ,メロン,ぶどう,リンゴ,ネクタリンと果物屋の店先は百花繚乱である。

市場で商いをしている男性から写真の注文が多い

市場で商いをしているのはほとんどが男性で写真の注文が多い。巨大なスイカの山を前に記念写真を撮らされる。男たちは売り物のメロンを切ってご馳走してくれた。僕は自分からアプローチした場合は出されるものは拒まずなのでありがたくいただく。

旅先でこのように地元の普通の人々と触れ合うのはとても楽しい。しかし,向こうから近づいて来た場合は一定の用心が必要だ。睡眠薬入りの食べ物や飲み物を飲食し,金品を奪われるという「睡眠薬強盗」の被害は旅行者の間では広く知れ渡っているにもかかわらず,被害は後を絶たない。

僕も二組の被害者に会ったことがある。やはり,地元の人と仲良くなる場合も,二人きりのところで飲食物を勧められた場合は断る勇気も必要である。それ以前に必要以上に親しくなることは避けた方がよい。

魚は干したものしかない

大きなロータリー

バザールの少し西には大きなロータリーがあり,中央に前足を高く上げた馬の像がある。馬とこの街の関係は?である。ロータリーの南側には立派なバスターミナル(アフトバグザール)がある。

アゼルバイジャンでは古くはアラビア語表記であったが,1929年にラテン文字表記が導入された。ソ連時代にはキリル文字(ロシア語文字)に変えられ,1991年の独立を機にラテン語表記に再変更された。

おかげで,意味は分からなくても発音はできる。フナルッグ・ホテルの1階のチャーイ屋の壁には「CAY」と表示されていた。もちろんラテン文字表記とはいうものの,微妙な発音をカバーするために,文字の上下にある種の記号が付くものもある。そのあたりは,トルコ語と類似している。

今までキリル文字で苦労していたので,いろいろな面で助かる。例えばこの町のマルシュルートカの行き先表示のプレートは文字を見れば分かる。キリル文字は本当に読めそうで読めず,確認するためには文字の照合が必要になる。

木から豆がぶら下がっている

まるで木から豆がぶら下がっているような写真であるが,よく見ると実際には豆のつるが木にからみついて成長し,その状態で豆をつけたことが分かる。

住宅街を歩く

ロータリーの西の道沿いは住宅街になっている。ほとんどの住宅はレンガ造りである。「おやっ」と思う建物がある。背後に広い敷地をもち赤茶色のレンガで造られた建物はおそらくモスクであろう。

くすんだ銀色のトタン屋根の上にはロシア正教の教会によくある小さなドームがあり,その上には三日月の飾りが付いている。これはイスラムのシンボルである。それ以外はモスクを感じさせるものはない。

ここでも出窓をもつ家が多い

通りの北側に伸びる細長い公園がある。公園の周辺には二つの目立つ建物がある。一つは普通の民家であるが,立派な張り出し窓をもっている。建物の壁はレンガ造り,そこから木造の窓が1mほども張り出している。

窓の形状もおもしろいので良い絵になる。写真を撮っていると車から降りてきた人が「ここは私の家なんだよ」と教えてくれる。「とっても,感じのいい家ですね」と僕が応える。

もう一つのモスクはきほどのものとは異なり,トルコ風の細長いミナレットが立っている。建物は六角形の形状をしており,その上に銀色に輝くドームが乗っている。公園側から写真を撮ると手前の電柱が建物に付属する十字架のように見える。

作業中の男性たち

公園では10人ほどの男性が公園の整備をしている。彼らは休憩時間なのか,木陰に腰を下ろしてお茶をしている。服装が洋風化しているせいか同じチュルク系民族でも東トルキスタンやウズベキスタンの人々とは顔立ちは異なって見える。

チュルク系の民族といっても大移動の中で各地域の民族と混血していったので顔立ちには地域差がある。それにしても,チュルク系の民族の故郷であるバイカル湖周辺からトルコまでは直線距離でも6000kmもある。民族の移動とはなんと壮大なスケールをもつものかと感慨にふける。

男の子は写真を撮れとうるさい

通りを歩いていると男の子が遊んでいる。どこの国に行っても男の子は外国人に過大の興味をもつし,写真が大好きだ。僕は彼らに取り囲まれ一枚撮らなければ離してくれそうも無い気配だ。「しょうがないなあ」とぼやきながら写真を撮り,画像を見せてあげる。

1階も2階も出窓構造になっている

2階から声をかけられ民家の中庭に入る

通りに面した家の張り出し窓から女性が顔を出している。「ハロー」と挨拶すると同じように応えてくれる。この家の中庭に通じる入口には扉が無いので中を覗くことができる。女の子の姿が見えるので中に入れてもらう。

もちろん,見知らぬ外国人が入ってきたので彼女らの警戒心は強い。これではとても写真にならないのでまずヨーヨーでも作ってあげよう。

水をもらってヨーヨーをふくらませると,彼女たちの警戒心が薄らぎ,要求通り白い壁を背景に個別写真を撮ってあげる。窓から顔を出していた女性たちも降りてきて写真の要求は続く。

キイチゴ

バザールに戻り,その南側を歩いてみる。こちらはすぐ丘になっており,斜面には樹木が多い。なんだか日本の里山のような風景である。一部は果樹園になっており,金網で囲われている。キイチゴの大きな藪もあり,黒く色付いた食べごろのものもある。

家畜と家禽

石造りの家

周辺の家は高い塀を巡らしており,レンガ造りの立派なものが多い。その前をガチョウの群れが歩き回っているのはご愛嬌である。バザールに戻り夕食と次の朝食の食材を買い求める。

ソ連時代から走り続けている年代物のバス

先店にはいろいろな形と大きさのパンが飾られている

夕食の食材を買い求めるといっても,蜂蜜はすでにあるのでパンとトマト,それにリンゴくらいなものだけど・・・。パン屋の店先にはいろいろな形と大きさのパンが飾られている。ここでは商品見本は現物である。

左端のものはイラン風,その隣は中央アジア風,その横はヨーロッパ風である。丸いパンが2個単位で袋に入っておりこれが0.4ソム,店番の少年が「パンだけじゃなくて僕も一緒に撮って」と注文をつける。

先代の大統領

道路は中央分離帯付き,片側2車線の立派な道路だ。両側には歩道も整備されており,その横には並木が大きく枝を茂らせている。空き地のところには大きな看板がある。

ヘイダル・アリエフはアゼルバイジャンの独立後,ナゴルノ・カラバフ紛争の敗戦で混乱する国をまがりなりにも統治し,アルメニアとの停戦,地方軍閥の解体,カスピ海油田への欧米石油メジャーの資本誘致に辣腕をふるった。

2003年に亡くなり,後を継いだのは長男のイルハム・アリエフである。二人が並んで対話しているような看板はバスターミナルの近くで見かけた。父親ほどの政治的力量のない現大統領にとっては,父親の権威にすがるのが必要ということだろう。

マーケット,文字が読める

大通り沿いの古い工場の写真を撮っていたら,警官にパスポートの提示を求められた。パスポートをチラッと見てから警官は「あの建物の画像を消去しなさい」と告げる。

「あの工場の写真を撮っただけですよ」と画像を見せながら説明してもダメであった。旧ソ連の国々では警察には逆らわない方がいい。

おとなしく画像を消去する。いったいどうしたというのだ。この町では写真はご法度なのかな。ちょっと危なさそうなのでバザールの方に戻ることにする。

暗いうちから果物屋が大集結している

07時に起床し,パンとトマト,リンゴで朝食をとり,宿の外に出ると前の通りは果物の露店で埋まっていた。大変な量の果物が商われている。プルーン,リンゴ,梨,ネクタリンなど質の高い果物が並んでいる。

ネクタリンなどは日本のものと比べても(少なくとも外観は)遜色はない。昨日買ったりんごも日本ほどではないにせよ,なかなかのものだった。それにしてもこの物量が人口2.7万人の町ではけるとはとても思えない。

商品は車に積んで運んでくる

露店にいるのはほとんどが男性である。ロシア製と思われる古い車で自宅から箱詰めにして運んできており,道路は車,空き箱,商品,そして人でごった返している。バザールの中も果物屋が所狭しと並んでいる。

ここには女性たちの露店もあり,自家製のヨーグルトや自宅の庭で取れたようなトウモロコシやひまわりの花も売られている。時間が無いのでのん

果物の種類も多く品質も良い

プラムの仲間は種類が多くかつ形状が類似しているので品種を特定するのは難しい。これは果皮の色からプルーンと判定できる。びりというわけにはいかない。足早に早朝の風景を撮る。

果皮の色から判断しておそらくネクタリンであろう。桃の変種といってよいほどの近縁種であり,桃との相違点は果皮には毛がない。

バザールの中庭には女性も商売をしている

男性からの写真の注文も多い

パン屋では焼きたてのものが売られている

バザールの東側

表通りにはじゅうたん屋がある。展示されているものはけっこう立派なものであるが,どうも機械織りのようだ。

宿の前でチャイを勧められる

宿の前では今朝も男たちがお茶を楽しんでいる。ここではポットで出てきて,それを小さなグラスでいただくスタイルだ。

男たちから声がかかり僕がテーブルに着くと,一人がグラスを差し出しお茶をついでくれる。陽気なアゼルバイジャン人は外国人にも親切だ。砂糖の固まりを2つ入れ,甘いお茶を一緒にいただく。

旅行をしているとこのような親切が宝石のようにキラキラと輝く思い出になる。このおじさんたちが運転するジープならフナルッグ村に行けばよかったなあと今はとても悔やんでいる。

調査中

石造りの家が多い

バザールの西側では家造りが行われていた。最近の流行はレンガではなく切り石のようだ。男たちがかなり大きな切り石を積み上げて壁を造っている。つなぎはモルタルが使用されている。鉄筋は使用していないので地震が起きたら悲惨なことになるだろう。

中央アジアでは同じくらいの大きさの日干しレンガが家造りの材料になっていた。言ってみれば「土」の文化が主流であった。バクーの旧市街も日干しレンガが主要な建築材料であった。

しかし,周辺を見渡すとほとんどの家が同じような石造りになっている。出来上がりはちょっとごつい感じはするけれど立派な家になる。石の質感をそのまま見せるのも良いし,漆くいを塗って白壁にするもの素敵だ。

生きているドライフラワー

近くの空き地におもしろい植物があったので写真にする。全体が紫がかった青色をしている。自然界では青色の動植物は珍しい。もう花が終わったのか全体がドライフラワーのようになっている。そこに付いているカタツムリがまるで植物の一部分のように見える。

不思議の国のアリス

日本では毒きのこの代表にあげられる「ベニテングタケ」はその美しさからヨーロッパでは幸せの象徴として愛されており,不思議の国のアリスでもこのキノコが登場する。そのような文化的背景をもつ造形であろう。


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