亜細亜の街角
ブッダ誕生の遺跡公園はあまりにも広すぎる
Home 亜細亜の街角 | Lumbini / Nepal / Apr 2010

ルンビニ  (参照地図を開く)

ブッダの入滅時の年齢は80歳とされているが,それがいつであったかははっきりしていない。現在,彼の生涯は紀元前463-383年,あるいは紀元前560-480年という二説があり,決着はついていない。

仏教の開祖が亡くなった時期がはっきりしないというのは奇妙な話しに聞こえるかもしれないが,古代のインドでは歴史あるいは年代を記すという習慣がほとんどなかったためである。

釈迦が生まれた頃,北インドは16の大国と多くの小国に分かれており,ブッダはシャーキャ族の王であるシュッドーダナの男子として誕生した。シャーキャ(音訳は釈迦)族の国はインドとネパールの国境付近のカピラヴァストゥにあったとされている。釈迦の母親マヤ夫人はお産のために実家に里帰りする途中のルンビニで釈迦を産むことになった。

釈迦は産まれるとすぐに七歩き,右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したと伝えられているが,これは後世の脚色である。そもそも人間の平等を説くブッダが「唯我独尊」などとは言うはずもない。ブッダの教団では出生にかかわらずすべての修業僧は平等であった。

釈迦は成人し16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚しラーフラをもうけた。釈迦が出家するきっかけとされている四門出遊の故事も後世の脚色であろう。

ともあれ29歳で出家した釈迦は6年間の苦行を行ったが悟りには至らず,35歳のとき瞑想による道を選択した。ネーランジャナー川で沐浴し,村娘スジャータの乳がゆの布施を受けた後にガヤー村の菩提樹の下で49日間の瞑想に入り,ついに悟りに至った。この日から釈迦はブッダ(目覚めた者)を呼ばれるようになった。

クシナガル(08:10)→ゴーラクプル→スノウリ(13:40)移動

幹線道路には座るところがないので20mほど離れた橋に座ってゴーラクプル方面のバスを待つ。さいわい,最初に手をあげて止まってもらったバスがゴーラクプル行きであった。車内は混んでおり,しばらく立つことになった。

ゴーラクプルのバススタンドでスノウリ行きのバスに乗り換える。スノウリはインドとネパールを結ぶ国境が開かれている。交通の便がよいので,インドからネパールに向うメインの国境になっている。

途中で感じの良い道を通過した。畑の中の一本道でどこまでも続くような真っ直ぐな道である。両側は並木道,周辺はほとんど小麦畑になっており,ところどころには林が残っている。ブッダの歩いた時代の道は今よりずっと自然が残されていたはずだ。80歳のときに生まれ故郷に向ったブッダが歩いた道もこんな感じのものだったのだろうか・・・。

インドの樹木は幹から太い枝が自由に伸びるタイプのものが多いので建築用材には適していない。中には真っ直ぐな幹を持つものもあり,その樹種だけが広大な地域を占拠していた。これは植林の成果であろう。

葉は比較的大きく,枝はほとんど伸びていない。製材するにはこの真っ直ぐな幹が役に立つ。林の一部では伐採が行われ,2-3mの長さに切られた丸太が積まれていた。

実は自分の写真を眺めながらこれが「サラノキ」ではないかと密かに考えていた。しかし,ネット上にははっきとそれと分かる写真がない。学名の「shorea robusta」で検索するとサラノキの森の画像が見つかった。著作権がついているのでそのままの形で引用させていただく。決め手はまっすぐな幹と葉の形である。

サラノキにこだわるのは平家物語にある「沙羅双樹」の本当の姿を知りたいからである。サラノキはブッダが入滅したとき近くにあった木として仏教の三大聖樹の一つになっている。3月から4月にかけて薄い黄色の花を付けるという。

スノウリ(13:40)→国境→ルンビニ(15:00) 移動

国境を越えてネパール側に入るとすぐにツーリスト・インフォメーションがあり,その次の建物がイミグレーションである。ビザの申請書と入国書類を書き上げて,写真1枚と50ドル札を添えて提出する。

5分ほどで1ヶ月の滞在許可のビザがスタンプで押されて戻ってきた。おつりの10ドルを請求すると係官は膝の上にあった10ドル札を渡してくれた。もしかして,僕が請求しなければその10$は彼のポケットに入ったのかもしれない。

スノウリからルンビニに直行するバスはないと言われ,乗り合いジープでバイラワに移動する。バイラワはネパールのタライ平原を東西に走る幹線道路とカトマンドゥからインドに抜ける道路の交差するところにあり,地域の交通の要衝である。バイラワからはルンビニ行きの小型バスが出ている。

Gautama Budda GH

ルンビニで下車して,さて宿を探そうかとしているとGHのおじさんがやってきた。自分のGHは少し先のバレリヤ・バザールにありとてもきれいだよと話しかけられる。いくらですかと聞くと250-300Rpである。どちらに泊まっても良かったのでおじさんのバイクで移動する。

ゴータマ・ブッダ・ゲストハウスはガイドブックの地図に記載されていた。二階の部屋は4.5畳,Wベッド,T/S付き,とても清潔である。料金は300Rp(ネパール・ルピー)と少し高いがこの設備ならば許せる。窓は二方向にあるが風の通りはあまり期待できない。

とりあえずネパール・ルピーが欲しいので宿の主人に両替してもらう。1000インドルピーが1600ネパール・ルピーになり,2日分の600ルピーは宿代に取られ手元には1000ルピーが残った。ネパール・ルピーは1.2円くらいのものだ。

ルンビニの最大の難点は一日の通電時間が限られていることである。この日の午後の通電時間は15:00-16:00,20:00-02:00となっている。これでは電気なしの生活に近い。とくに夜の時間帯に電気が来ないのは困る。

宿の時計と僕の時計では時間が15分ずれている。ネパールとインドでは時差があるのだ。わずか15分の時差を設ける必要があるのかはなはだ疑問である。僕にはネパールがインドとは異なる国であることを証明するための意地のようなものを感じられた。

ベッドで横になっているとファンが止まった。しかたがないので外に出る。宿のあるところはバザールとはいうものの周辺は農村である。ポンプを操る女の子,洗濯の女の子・・被写体がいっぱいでご機嫌である。

子どもたちの写真はとても撮りやすかった

洗濯の女の子にヨーヨーを作ってあげると男の子も出てきた。みんなに知れ渡ると子どもたちが集まってくることだろう。内緒でヨーヨーを作ることにした。ここはいちおうバザールなのでチャーイ屋がある。値段は5ネパール・ルピーでインドのものと同じである。手元には500Rp札が2枚しかないのでいざとなったらインドルピーで払うつもりでいたらおつりが出てきた。慣れないお札をたくさんもらい数えづらい。

ぶどうは1kg=120Rp,インド・ルピーでは75Rpくらいに相当する。インドでよくいただいたマスカットに似た色合いのぶどうである。味はとてもよい。おそらくインドからの輸入品であろう。トマトは1kg=25Rp,20Rp分を買うと小さなものが山ほどきた。

夕日は林の中へ

夕日は赤い球体となりかすみがかかったように薄くなり消えていく。夕日の写真を撮ろうとしたらちょうど地平線のところに小さな林があり,その中に消えてしまった。

19:00に宿の屋上で夕食をとる。まだこの時間帯は明るい。風があるので涼しくて気持ちのよところだ。注文は卵入りのフライドライスであったが,卵の存在が分からなかった。115Rp(約70インド・ルピー)のフライドライスは僕の適正量の2倍もあり,もったいないので半分は別の皿に移す。

夕食が終わり暗くなるともうすることがない。いつもなら日記の時間帯であるが明かりがないのでパソコンも操作できない。屋上のイスに座り星を見ることくらいしかすることがない。周辺が暗いにもかかわらずあまり星は良く見えない。

ぶどうを子どもたちと食べる

中庭に寝台を出している家で写真を撮る。みんな言うことをよく聞いてくれて気持ちがいい。ザックの中にぶどうが入っていることに気が付き,水で洗ってみんなでいただく。一人3粒づつ手渡すと子どもが多いので僕の手元には数粒しか残らなかった。ぶどうがもらえないと泣く子も出てきてそこにも配給する。

宿のテラスから眺めるバザール周辺の家屋

06時から屋上のテーブルで日記作業を始める。昨日の分を1時間かかって書き上げる。空は一面に曇っており太陽は見えない。風が出てきて,まるで一雨来るような感じがする。バザールに何かあると思って,朝食もとらずにお出かけしたら大間違いであった。食べられそうなものは何もなく,チャーイしか注文できなかった。結局,この日は朝食抜きになってしまった。

広大な敷地

ルンビニ遺跡公園は幅2km,長さ3.5kmの広大な地域が塀で囲われている。いったいこの無意味な広さは何のためだろうか。遺跡公園の中を車が走り回るのがグランド・デザインの基本思想とは思えない。

特に各国の寺院は運河の両側の広い地域に点在しており,歩いて回るのは困難である。運河の両側に1haくらいの区画を割り振ればずっとコンパクトな寺院地区ができるはずだ。残りの地区は塀の内側を囲むグリーン地帯にでもすればずいぶんイメージも変わることだろう。

マヤ・デヴィ寺院

遺跡公園の南の端には直径が1km弱の池に囲まれた円形の地域の中心にマヤ・デヴィ寺院がある。現在は建物の形をしているが,ここは,かってのマヤ堂の遺構を建物の中に収めて寺院としている。マヤはブッダの生母のマヤ夫人,デヴィは女神を表すので,マヤ女神寺院ということになる。

この建物の中にはブッダが生まれたとされている場所がある。入り口で靴を脱いで中に入る。レンガ造りの遺構を巡るように木造の通路がある。その中心部にライトアップされたところがあり,案内の英文には「まさしくここがブッダの産まれたところ」と記されていた。マヤ・デヴィ寺院の周辺にも多数の寺院や僧坊の遺構が残されている。

マヤ・デヴィ寺院の南側にはマヤ夫人がブッダ産む前に沐浴したというプスカリニ池がある。現在,周辺はコンクリートで固められ,プールのようになっているが,1937年の写真では土手をもったため池となっている。おそらくブッダもこの池で産湯を浸かったのであろう。

マヤ・デヴィ寺院に向って祈りを捧げる人々

遺構は2-4世紀のものである。僧坊の構造は分かる程度であり,円形のストゥーパも基壇だけが残されている。仏教の遺跡はほとんどがレンガの基壇だけなので物足りない。遺構の周囲は芝生になっており,そこに坐りマヤ・デヴィ寺院に向って祈りを捧げる人々もいる。

アショーカ王の石柱

寺院の西側にはアショーカ王の石柱があり,ブッダの生地はこの石柱の発掘で明らかになった。石柱の本来の高さは10mほどあり,上部にはインドの国章にもなっているライオン像があったはずだ。現在は下部の3mほどが残されている。この石柱は紀元前3世紀のものであるが,肉眼では凹凸が分からないほど見事に磨かれている。

インド菩提樹の根元に祠がある

池の南側には二本の大きな菩提樹があり,その間はたくさんのタルチョを取り付けたロープが何本も走っている。近いほうの菩提樹の根本にある空間には小さな祠が置かれており,訪問者の祈りの対象となっている。その横には黄色の僧衣を身に着けた男性がお香などの参拝用品を商っている。

二本のインド菩提樹の間には

二本のインドボダイジュの木の間にロープが張られ,無数のタルチョがはためいている。タルチョはチベット仏教でさかんな習慣である。縄やロープに経文を刷った布を取り付け万国旗のように並べる。

風でタルチョがはためく度に経文が風に乗って世界中に広まっていくと考えられている。今日は風があるのでタルチョは盛大にはためいて経文を伝えているようだ。

菩提樹の若葉

菩提樹はきれいな若葉をつけている。この大きな若葉は最初は赤みがかった色をしている。それは有害な紫外線から葉を守るためであると考えられている。少し成長するとしだいに本来の若葉色に変わっていく。

インドボダイジュはその下で釈迦が悟りを拓いたことから仏教の三大聖樹に数えられているが,この土地にふさわしいのは釈迦が生まれて所にあったとされる無憂樹(ムユウジュ)であろう。しかし,残念ながら僕は無憂樹を見たことがないので,この遺跡公園にあっても指摘できない。

円形の区画の中にはチベット寺院がある。内部は写真撮影禁止なので,壁画の写真を撮ることはできなかった。最前列の写真はチベット仏教の指導者であり,その後ろにダライラマの写真が置かれていた。

庭の横にテーブルがあり,ヨーロピアンの男性がチャパティとお茶で食事をしていた。彼はこの寺院の宿泊客だという。僕も少年に同じメニューをお願いしたらお茶だけが出てきた。それはチベットのバター茶を薄めたような味だ。

ネムノキの花に似た赤いおしべがとても長い花をもつかん木はベニゴウカン(マメ科・ベニゴウカン属)の仲間であろう。ベニゴウカン属( Calliandra Benth)の学名から,カリアンドラとも呼ばれている。原産地は中南米の亜熱帯,熱帯地域であり,いずれも長いおしべが特徴となっている。

池を1/4周してしまった

マヤ・デヴィ寺院のある中心部は環濠で囲まれている。マヤ・デヴィ寺院からまっすぐ北に池を越える道があるにもかかわらず,東から外に出てしまったため池を1/4半周することになった。

まあ,この道を歩いている時も多くの花や植物を見ることができたので,よしとすることにしよう。環濠のようになっている池の橋を渡ると中心部の構造が良く分かるようになる。この周辺もとても広く,雑草を刈り取るだけでも大変な作業である。

平和の火が燃えている

中心部から池を渡り北に伸びる道路もあり,その先には「平和の火」が燃えている。そこから北に向かって1.5kmも真っすぐな運河が続いている。この大運河の両側に各国の寺院が点在している。訪問者は徒歩でそのような寺院群を巡るのはほとんど困難である。

訪問者の多くはサイクル・リキシャーをチャーターして回ることになる。その道もぬかるみが固まったようなひどいものである。この広い施設は訪問者がどのように移動すればよいかまったく考えられていない。車で移動するようなシステムを考えているならとても聖地とはいえない。

立ち入り禁止ベトナム寺院

敷地が広大なので各国の寺院は中央の運河から遠く離れたところにある。それを一つ一つ回るのは徒歩ではとても無理である。公園としてのグランドデザインがそもそもまちがっているように感じるのは僕だけではないだろう。

ドイツ寺院は特異な上部構造なのですぐ分かる

ヨーロッパ系の仏教寺院もいくつかある。フランス寺院,ドイツ寺院は運河沿いの道からずいぶん離れたところにあるので,わざわざ歩いていく気にはならない。本当に,各国寺院を巡ろうとすれば,サイクルリキシャーは必需品である。

池の向こうに奇妙な建物が博物館らしい

運河の終端は人工の池になっておりハングル文字の記された施設がある。近くを流れるハラワ川はせき止められており,水門で開閉されるようになっている。この水が人工の聖園地区の環濠池や大運河の水源となっている。

池の向こうに奇妙な形をした建物があり,これが博物館らしい。マヤ・デヴィ寺院から環濠を1/4周してここまでは2km以上ある。水を売っている場所はどこにもなく,ひどい渇きをがまんすることになる。

帰り道も遠かった

子どもたちの整列写真を何枚撮ったことだろう

部屋の中もそうとう暑いのでお出かけすることにする。宿の横の道を西に行くと子どもたちが寄ってくる。子どもたちの整列写真を何枚撮ったことだろう。

農家の庭先には土を固めて造った高さ1mほどの小屋のようなものがある。中には屋根の上に置かれているものもある。これは鳩小屋である。インドでは高級レストランでは鳩料理が出される。その材料はこのようなところから供給されるのであろう。

一軒の家で集合写真を撮ったのでぶどうを分けてあげる。子どもたちは喜んでぶどうを受け取ってくれたが,その家の女性が何やら非難するようなことを口にした。もちろん内容は僕には分からないので口調から判断したものだ。

ものをもらうことに慣れた子どもたちは依存心が強くなり,旅行者を見るとルピー,ペンなどと言うようになる。この女性はそのようなところを批判していたのかもしれない。子どもたちと仲良くなるのはよいがむやみに物をあげるのは決してよいことではない。

次の少し離れた集落では男の子が写真,写真とうるさく付きまとってくる。この種の少年たちはもっとも苦手だ。写真のフレームの中にも平気で割り込んでくる。あまりのことに追い散らすと石が飛んできた。村を歩くということはこのような難しさもある。

大きなコンバインが動いている

村の中のメインの通りを先に進む。遠くで大きなコンバインが動いていたのでそちらに向かう。農家の横には大きな稲ワラの山がたくさんあり,その前に二人の子どもがいたので写真を撮らせてもらう。二人ともこの暑さの中で長袖を着ている。暑い気候のインドではあるが,強い日光から肌を守るためには袖の開いた長袖の服がもっとも適切である。

数本の木がまとまって木陰を作っており,その向こうには一面に麦畑が広がっている。とはいうものの麦畑は畦で小さく区画されている。米国式の巨大なコンバインは畦をものともせずに乗り越えて一直線に刈っていく。さすがはインドである。

コンバインは麦の上部を切り取って飲み込み,茎と脱穀された穂を吐き出す。トラクターが近寄り,麦を荷車に入れてもらう。人間の何倍もの速さで麦の収穫が行われている。

そのとなりで麦刈りが行われている

コンバインのとなりの区画では女性たちが鎌で麦刈りをしている。こちらは1日がかりでコンバインの15分の面積を刈ることになる。しかし,ここでは人件費はとても安いからどちらが経済的かは判断に迷うところだ。麦刈の現場には日傘をさした老人がいる。おそらくこの畑の地主であろう。収穫物が適切に扱われているかを日がな一日そこで監視しているのだ。

ネパールは農業従事者が人口の3/4を占めており,その土地配分は大きな問題を抱えている。全体の2/3以上の世帯が1ha以下となっており,この人々の所有する農地は全体の30%にすぎない。一方,5ha以上の農地を所有している世帯は全体の1.5%にすぎないが,全農地の14%を所有している。このいびつな土地所有とインド以上に厳しいカースト制が農村部において毛沢東派が支持される要因となっている。

落穂ひろいの子どもたち

コンバインが通ったあとにはかなりの量の刈り取られなかった穂が残される。それを20人くらいの子どもたちが集めている。落穂拾いである。作業の主体は女の子であり,5歳くらいの女の子もこの作業に参加している。彼らは袋をもち,落穂の穂の部分だけを折り取り,袋に入れている。落穂は畦によりトラクターが傾く部分に多く残されている。

友好関係ができると写真は自由に撮ることができる

僕もしばらくカメラを封印して穂の部分を折り取る作業に参加した。完全に乾燥しているにもかかわらず中には簡単には折れないものがある。片手がいっぱいになると近くの女の子に渡す。これで友好関係ができで写真は自由に撮ることができるようになった。

しかし,作業中は視線が下に向くのでいい写真にはならない。30分もお手伝いすると暑さがじわ〜と体にしみこんで来る。子どもたちにお別れして宿に戻ることにする。

女性が足踏み式のポンプを動かしていた

周辺の畑には泥の壁で囲われた一画がある。そこでは乾季の今でも野菜が栽培されている。この水はおそらく地下水を利用するものだと推定していた。

ある囲いの中で女性が足踏み式のポンプを動かしていた。二つの連結したポンプの左右に棒が取り付けてある。この棒が通常のポンプの操作部に相当する。片足で棒を踏み込むとポンプが上がり水が出る。同時に逆側のポンプは体重がかからなくなるので下がる(棒は上がる)。これを交互に踏んでいくと水が連続して出る。

言葉では簡単に説明できるが実際には左右と前後のバランスをとらなければならないのでかなりの重労働である。僕も操作を志願したが10分で根をあげた。1アールほどの狭い畑ながら水をやるのは大変な労働である。女性の次は男性に代わり,黙々とポンプを踏み続けていた。

夕食はベジタブル・カリーとチャパティにしたらかなりの外れとなった。ジャガイモは問題ないがもう一種類の豆に似た正体不明の材料は大きな種が入っており,これは出すしかない。マサラの味もまずく無理をしてお腹にいれたという感じだ。夕食の最中に少年が明かりを付けた。どうやら電気が戻ってきたようだ。

部屋に戻りパソコンのチャージを確認する。いつ電気が復旧するか分からないのでパソコンは常時コンセントにつないでいる。2時間の間に日記を書きながらチャージを完了させる。電気のあるうちに歯磨きも済ませる。22:15に再び停電となる。水浴びをして寝るとじきに電気は復旧しそのまま朝まで続いた。


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