亜細亜の街角
祇園精舎の跡地は遺跡公園となっている
Home 亜細亜の街角 | Sravasti / India / Apr 2010

シュラーヴァスティー  (参照地図を開く)

ブッダが在世の頃,パンジャーブからガンジス平原にかけての地域はインド・アーリア系民族による王国が群雄割拠する時代であった。その中で北西部のコーサラ国と南東部のマガダ国が強大となり,地域の覇権を争うようになた。ブッダを中心とする教団の活動拠点となったのは有名な祇園精舎(コーサラ国の都シュラーヴァスティー,舎衛城)と竹林精舎(マガダ国の都ラージャグリフ,王舎城)である。

マヘートは祇園精舎の跡であり,約500m四方の地域が遺跡公園になっている。また,ここは仏教の聖地の一つであるため周辺には各国の寺院が建てられている。ブッダは暑季や雨季には祇園精舎や竹林精舎に留まり,修業にいそしんだ。これを夏安居,雨安居という。その他の時期には説法のため少数の弟子を連れてガンジス川流域の各地を訪れている。

アーグラ(22:00)→ゴンダ(10:20) 移動

21:00に宿を出てアーグラー・フォート駅に移動した。インドの鉄道でもっとも苦労するのは列車のプラット・ホーム番号が分からないことである。駅の構内にある電光掲示板にいちおう時間とホーム番号が表示されている。しかし,これがころころ変わるので大変である。

僕の列車は21:50に到着,22:00出発,1番ホームとなっている。1番ホームで列車を待っていると,21:45に列車が到着したので乗り込む。しかし,乗客に確認するとこれは別の列車であり,あわてて下車する。

正解は3番ホームであり,そちらに移動すると確かに僕の列車番号がアナウンスされている。しばらくしてから列車が到着する。車両番号をチェックし混雑の中を乗り込むと,僕の座席(二等寝台,下段)には4人の人が腰をかけており,足元にも人が寝ている。彼を起こして荷物スペースを作る。

インド人はよくいえばスペース共有型,悪く言えば他人のスペースを平気で侵害する。まあ,僕にも経験があるので共有型にしておいた方が角が立たない。横にはなれたが足を延ばせない状態で一夜を過ごす。ベッドから座席モードに変わってからは和気あいあいとなり,やはり対立よりはこの方がずっとよい。

ゴンダ駅はジャンクション駅なので大きい。外に出るとオートリキシャーはおらず,ジープ,サイクルリキシャー,馬車のいずれかでバススタンドに移動することになる。馬車のおじさんが乗れというので他の乗客と一緒に乗る。

距離は2.5kmは十分あるような気がする。町の中心部で下りるとき他の乗客がいくら払うかをチェックすると明らかに10Rp以下である。僕も10Rpを御者に渡してバススタンドに向かう。

名前の分からないホテル

シュラーヴァスティー訪問の拠点となるバランプールには12:30に到着した。ガイドブックには「バールラムプール」となっておりが,その発音ではまったく通じない。バススタンドはなく,路上が終点となっている。シュラーヴァスティーはここから16kmほど離れており,安宿は期待できそうもないのでこの町に宿泊して日帰りで訪問することにした。

近くにいるサイクル・リキシャーのおじさんに宿をたずねるとリキシャーに乗れ乗れというがごく近くに違いない。別の人に確認すると目の前の大きな建物にホテルがあるようだ。この建物の二階に受付がある。

管理人とはなんとか英語で会話ができる。部屋をみせてもらうと広くて清潔である。水冷の冷風機も動くようだ。部屋の広さは10畳,2ベッド,T/S付きである。料金は300Rpのところを250にしてもらった。

とてもいい顔をしているね

バザールの方向に曲がり商店や各種の仕事をしている人たちの写真を撮る。問題はあちこちから写真を撮ってくれという要求が多すぎることである。3回に2回は手を振るだけでかんべんしてもらう。

粉屋の店先で3人の女の子がアイスを食べていた。店の主人と一緒に写真を撮る。アイスの仲間がもう一人増えて4人になった。4人並んで笑顔のすてきな写真になった。お礼に店先でヨーヨーを作ってあげる。5-6歳ではまだちゃんとヨーヨーとして遊ぶことはできないが,ともかくみんな喜んでくれた。

果物の露天はとても性質が悪かった

街の様子を見るため歩いてみる。意外と大きな町である。幹線道路の北東側でバザールのある通りがT字で分岐している。このT字交差点付近には果物の露天が多い。これらの果物屋はとても性質が悪かった。

帰りに0.5kgのブドウを買おうとすると最初の店では40Rpを要求された。彼の言い値は1kg=80Rpであったので即刻キャンセルである。次の店は25Rpと言いながら100Rpに対しておつりを70しかよこさない。もちろん文句を言ったけどね。どうしてこんなに性質の悪い人が集まるのか不思議だ。ここ以外はみんなとても良い人たちばかりなのに…。

炭火で暖めるアイロン

これは炭火を中に入れて使用するアイロンである。インドではまだ現役で活躍しており,よく街中の洗濯屋で見かけた。日本でも電気アイロンが普及するまではこのタイプが使用されていたはずだ。

妻が水を飲むのを手伝う夫

バザールでは人々の生活の一端を見ることができるので楽しい。老夫婦が水を飲んでいた。夫がポンプを動かして,妻が手ですくって水を飲む。長い年月を共に歩んできた姿にちょっと感動を受ける。

今日の問題は昼食である。小さな町に行くと食べられるものが限定されるので困ったことにる。今日の運勢を宿の前の食堂に賭けてみる。フライド・ダルとチャパティ2枚を食べきるのにかなり時間を要した。

フライド・ダルはそれほどスパーシーではなく中身を含めてかなり食べることができた。ちょっとどきどきしながら料金を聞くと25Rpと地元価格であった。しかし,どうも消化にはよくないらしく胸やけがする。

バザール

T字交差点の近くの露店の野菜屋でトマトを買う。トマトだけは地元価格の0.5kg=10Rpであった。しかも,なかなか質がよくて1kgを買えばよかったと後悔する。

インドでは日本では考えられないくらいトマトをよく食べた。洗うだけで食べられる野菜はトマトくらいしかない。キューリもいいが炎天下ならともかく,宿で食べる気にはならない。

大鍋でミルクを煮詰めお菓子の材料にする,これはインドでしばしば見かける。インドではミルクをそのまま飲む習慣はあまりない。沸騰させてチャーイに入れる,煮詰めてお菓子の材料にする,煮詰めたもので乳粥を作る・・・,など何らかの加工をして食べるようだ。今回のインド旅行中にもパックのミルクは飲んだことがない。

4人の少年の遊ぶ庭

庭先に老人が座っており,隣のイスに座りなさいと動作で示された。背後には芝生の庭があり,少年たちがサッカーボールで遊んでいる。子どもたちの写真を撮ってお礼にヨーヨーを作ってあげる。

家の主人とその母親が顔を出し,じきにチャーイが運ばれてくる。主人の男性はもうじき1歳という子どもを抱いている。ふだんの子守は雇われている少年の仕事である。主人と使用人,インド社会の厳然たる現実が目の前にある

インド古典音楽を聞く

宿に戻ると広間で音楽会が開催されていた。横の最前列に出ると主催者に腕をとられ,舞台横の席に座らされた。出し物はインドの古典音楽だそうだ。

ヒンドゥーの地域指導者と音楽集団とのジョイント・コンサートである。途中でヒンドゥー指導者とその家族が紹介され,花輪が送られた。僕の聞いている間はほとんど詩の朗読ばかりなので,区切りのよいところで部屋に戻った。

寝付いたと思ったら(23:10)

10:30くらいに眠りにつく。ところがすぐに花火が上がり,にぎやかな音楽が聞こえてくる。結婚式の行列が表の通りから宿の横の通りに入ってくる。ベランダに出て何枚か写真は撮ってみた。この5分間に2ヶ所も蚊に刺されてしまった。窓を開けることはかなり危険である。

朝の通学

07時に宿の向かいの食堂を観察する。ちょうど準備が進められており,少年が茹で上がったジャガイモの皮をむいていた。オーナーのおばさんに2個注文するとこころよくOKがきた。やはりジャガイモはいいね。努力しなくても簡単に入っていく。

北側のロータリーになった交差点で子どもたちが何人も乗っているサイクル・リキシャーをねらって写真を撮ろうとした。けっこう多いのだがなかなかいいものにはならない。やはり動いている被写体をちゃんと撮るのは難しいね。

祇園精舎の鐘

シュラーヴァスティー行きのバスは北側の交差点から西に行き,踏み切りを越えた辺りで客待ちをしている。車掌に「シュラーヴァスティ」と確認すると,「そうだよ乗りなさい」という返事が返ってきた。

シュラーヴァティーまでは15km,30分ほどで到着する。バスストップは遺跡公園の入り口のあるT字の交差点となっている。

幹線道路を少しバランプール方向に戻ったところに公園のように管理された施設があり,そこには日本国祇園精舎の鐘の会により建立された「祇園精舎の鐘」を納めた鐘楼がある。

もちろん,この鐘は往時のものではない。公園の入り口には建立に至った経緯が日本語で記されている。この場所もインド政府の遺跡発掘・開発計画に合わせて選定されたものだと記されている。

平家一門の栄華と滅亡を描いた一大叙事文学でとされる「平家物語」の冒頭は次のような一節から始まる。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
    沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し
    猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ

ここに記されている「祇園精舎の鐘」は作者の想像か伝聞によるものであり,そのような鐘はなかったとされている。それでも日本の有志は上記の一文に基づき,鐘突き堂を造ってしまったようだ。祇園精舎の鐘とジャイナ教寺院の間に小学校がある。ハローと声をかけながら覗くと一部の生徒はパニックになりとなりの教室に逃げ込むありさまだ。

先生から注意され国歌であることが分かり起立する

授業の前に朝礼がある。生徒たちは校庭に並び朝の儀式が始まる。年長の女生徒が前に出て気を付け,休めの号令を発する。子どもたちの構成を見ると8割が男子生徒である。また,下級生の数に比して上級生は極端に少ない。ここにはインドの農村部が置かれている教育事情が表れている。

「みんなの誓い」のような内容を女生徒の先導に合わせて全員が声を出している。最後にインド国歌の斉唱が始まったとき,うかつにも僕は気が付かず坐っていた。先生から注意され国歌であることが分かり,帽子をとり,立って聞くことになった。

スリランカ寺

バス道路から北東に分岐する道が祇園精舎遺跡公園と舎衛城に向う道となっている。この道を300mほど行ったところに遺跡公園の入り口があり,さらに2kmほど先が舎衛城の跡地になっている。祇園精舎はブッダ縁の地であるため仏教徒にとっては聖地となっており,遺跡公園の周辺にはボーダ・ガヤのようにいくつかの国の寺院が建てられている。

スリランカ寺は中に入ることができた。入り口の手前にはチベットでよく見られる方形の台座の上に下が狭くなった壺状の蓋をもつ仏塔と,スリランカでよく見られる方形の台座の上に半球状の円蓋をもつストゥーパが並んでいる。本堂の正面には銅色の仏像が置かれており,壁面にはアジャンターの流れをもつスリランカらしい壁画がある。この中の女性の姿はシギリヤロックに描かれた女性たちを彷彿とさせる。

中国寺

スリランカ寺のすぐ先に中国寺があり,独特の形状をした塔が良く目立つ。この塔は西安や大理にある塔の1/4縮小モデルのように見える。この塔はバス道路からも見ることができる。ベトナムにも類似の塔があるのでベトナム寺かと思っていたら,入り口には漢字があった。この寺院は外から写真を撮るだけで十分である。

ここのおじさんが日本語のイラストマップをもっており,見どころの配置を説明してくれる。その先のビルマ寺はよく分からないコンクリート製の建物であり,とてもビルマの寺院とは思えなかった。

すぐ近くに村がある

急にトイレに行きたくなり道を外れて近くの村の方に向かう。造りのよさそうな家の前でトイレはありませんかと聞いても反応が無い。

もしかして,この村にはトイレがないのではと思い,おばさんに断って家の中の台の上にカメラとザックを置き,ちょっと人気のない藪を選んで腰を下ろす。多少,下痢状態ではあるが十分に制御可能である。

もとの家に戻り,子どもがいたのでお礼にヨーヨーを作ってあげる。作っているそばからギャラリーが増え,子どもも増える。おばあさんがやってきて,私にも一つという。彼女にも作ってあげるとひどく感謝された。彼女に頼まれて写真を撮る,画像を見せてあげるととても驚いていた。

女性たちはものを食べる仕草をする。これは「食べるものがなくて困っている」とも「ごはんを食べますか」という意味にもとれる。腹具合が良くないので僕が食べるほうは辞退するしかない。

逆にザックの中にビスケットがあることを思い出した。封を切ったものと新しいものを開けてみんなでいただく。帰りがけにおばあさんにヒンドゥー式の礼をとられて恐縮する。ヨーヨーとビスケットでこんなに感激される世界がまだ残っているのだ。

舎衛城に向う道にはチャーイ屋がある。いちおう屋根のある小屋で営業している。観光地でありながら彼らはまっとうな商売をしており,僕が注文してもチャーイは4Rpである。ちょっと疲れるとチャーイで元気を取り戻していた。もっとも,頼りのチャーイ屋も遺跡公園を過ぎると無くなってしまう。

池で魚をすくう

道路わきの小さくなった池で女性たちが洗濯をしたり魚をすくっている。一枚写真を撮ったら何人かの人はパニックになり逃げ出してしまう。これは気の毒なことをしてしまった。残った人たちは何事も無かったように仕事を続けている。

帰りにこの池の横を通ると,男性が投網で魚をとっていた。男性が投網を構えると僕もカメラを構える。男性が投網を投げる直前にシャッターを半押し,投網が開く瞬間にシャッターを押す。

ジャイナ教寺院の遺構

ジャイナ教はブッダとほど同時代を生きたマハーヴィーラを開祖とする,当時の新興宗教である。バラモン教のもつヴァルナ制(肌の色を基準にした身分制度,ヒンドゥー教のカースト制につながっている)を否定し,行為が業を生み,輪廻に束縛されると考えていた。そのため,修行者は(あらゆる動物の)不殺生と無所有を基本に厳しい戒律を守っている。

無所有を強調するためジャイナ教の聖人像は全裸のことが多い。仏教と同時代に始まった宗教であり,考え方も類似しているので仏教遺跡と同じ場所に寺院跡があることも多い。この遺構も祇園精舎と同時代のものらしく,焼きレンガを積み上げたものである。しかし,この遺構からはかってはどのような寺院であったのか想像できない。

ヤギの群れとすれちがう

前方から100頭ほどのヤギの群れがやって来た。この群れは毛色がまったく乱雑である。黒,こげ茶,薄い茶,白などの色が混ざり合っており,群れとしての統一感がない。乱雑な交配の結果がこのような毛色の集団となったのであろう。ヤギは大食であり緑のものは何でも食べる悪食である。この群れはどこかで朝食を終えて村に戻る途中なのであろう。

キワタノキのようだが

アングリマーラのストゥーパ跡

祇園精舎から1.5kmほど歩くとアングリマーラのストゥーパ跡に出る。インドのストゥーパはサンチーのように半球状の円蓋をもつものを連想するが,ここのストゥーパ跡からはどのような形状であったかは分からない。一つのヒントは「ナーランダ仏教大学遺跡に展示してあったストゥーパの想像復元図」である。

それによるとストゥーパは方形の基壇の上に置かれた釣鐘型のものであった。基壇の四隅には小ストゥーパが配されており,これはヒンドゥー寺院ではよく見られる五堂形式(パーンチャラター)の構成になっている。もちろん,想像復元図とあるようにこのような構造はおそらくこのようになっていたのであろうと考えた結果である。しかし,ここにあるレンガの山を見ていてもそのような姿を想像することはできない。

記念写真を撮ることになる

ジープが停まり,中から女の子の集団が出てくる。引率の先生のような男性も出てくるのでどうも学校の行事のようだ。引率者の話ではこの子どもたちは貧しい家庭の子どもたちであり,そのような子どもたちに教育の機会を与える活動をしている団体の厚意でこのように遺跡を見学することができたとのことである。

僕がカメラを持っているので,引率者の男性から彼女たちの写真を撮ってくれと頼まれ,ありがたく記念撮影をする。画像を見せてあげるとにぎやかな鑑賞会になる。

次のジープが停まり同じように女の子が出てくる。彼らは3台のジープに分乗してやって来た。このグループの記念写真も撮ることになる。遺構は狭いステップを利用して上ることができる。個人的には遺跡保存のために立ち入りは一部に留めるべきだと考えるが,特に制限はないようだ。

スッダ長者屋敷跡

こちらの建物も部屋のような構造は見つからない。いったいどのような屋敷であったのか見当もつかない。ところどころに幅の狭い空間があるが,それが部屋とはとても考えられない。ここでも子どもたちの集合写真を撮る。ついでに引率者に促されて僕も記念写真に加わることにした。

アーナンダ菩提樹

祇園精舎の遺跡跡はきれいな公園になっており,中央部に遊歩道がある。右側に柵に囲まれた立派な菩提樹がある。これがアーナンダ菩提樹である。アーナンダはブッダの一番弟子とされている。ブッダの教団には他にも優れた人材はいたが,彼らはブッダより先に亡くなっており,結果的にアーナンダが一番弟子ということになった。クシーナガルで横になり涅槃に向うブッダの脇に悲しい表情で立ち尽くすアーナンダの姿は上座部仏教国ではよく見られる。

ここの菩提樹はアーナンダが植えたという逸話が残されている。しかし,それからおよそ2500年という年月が経っており,代替わりしていることだろう。マハボーディ寺院の菩提樹はブッダの頃から三代を数えるという。この木は老いており,大きな枝が折れないように何ヶ所かは支えがある。

別のグループの子どもたちが来ていた

インドコブウシの引く牛車

バランプールに戻り,交差点の西側を散策する。ここは午前中にサラヴァスティに行ったとき利用したバススタンドのあるところだ。この通りはけっこう交通量が多い。その中を大きな荷物を積み上げた牛車がゆうゆうと通っていく。牛車を引いているのは毛並みは白で,くびの上にラクダのようにコブのあるインドコブウシである。積み上げられた荷物は衣類か綿のようなものらしく,牛たちは軽々と荷車を引いて通り過ぎて行った。

大きな池の周り

道路から少し入ると大きな池がある。かっては周辺の人々の生活を支えた重要な水場であったことだろう。しかし,井戸やポンプで生活用水が得られるようになると,池の必要性はぐんと下がり,現在ではこちら側は完全にゴミ捨て場状態である。そこには祭りで使用されたと思われる竹細工に紙を貼ったものが打ち捨てられている。

とはいうものの池越しのミナレットはいい絵になる。まるで鉛筆のように細いミナレットである。このあたりはイスラム地区なのかもしれない。

ポンプのところにいる牛が水の出ないポンプを恨めしそうに見ている。ポンプを動かして水を出してあげるとずっと飲み続ける。人間のように流し込むことはできないため舌を使ってなめ取っていくので効率は悪いのだ。

池の西側にはずいぶんたくさんの水牛や牛が飼われており,夕方の時間帯は彼らの食事時間のようだ。石造りの飼い葉おけの中には細かく切った麦の茎と水が入れられている。水牛は緑の草じゃないといやだなどとは言わずに飼い葉おけに首をつっこみ黙々と食べ続ける。

好一対

麦畑は十分に稔り枯れているのに収穫されていない。大きな木が緑の葉を茂らせており,麦畑の茶色とよいコントラストを見せている。麦畑の中の木を残しておくというのはいかにもインドらしい。

もう一本葉を落とした木はカラスがたくさん止まっており僕が近づくとギャー,ギャーとやかましく鳴きたてる。周辺は貯水池となっており,その水面もずいぶん小さくなっている。この周辺は湿地帯となっておりホテイアオイが可憐な紫色の花をつけている。


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