亜細亜の街角
中央アジア,中国,日本に至る仏教美術の原点
Home 亜細亜の街角 | Ajanta / India / Mar 2010

アジャンタ石窟  (参照地図を開く)

アジャンター石窟とはアウランガバードから北東に100km,ワーグラー川が浸食した馬蹄形の渓谷の断崖をくりぬいて造営された大小30あまりの石窟で構成される仏教石窟寺院群のことをいう。これらの石窟は比丘(出家僧)の修行と生活の場である僧院(ヴィハーラ)と仏塔などブッダを象徴する「聖なるもの」(チャイティヤ)を据えた礼拝の場に区分される。

開窟年代は前期と後期に区分される。前期は紀元前1世紀から紀元後2世紀に造営されており,ヴィハーラ窟(第12,13,15A窟),チャイティヤ窟(第9,10窟)ともに装飾が少なく簡素なものであった。後期は5世紀後半から6世紀頃に造営されており,ヴィハーラ窟では奥壁中央に仏殿が設けられている。寄進者にとってブッダの住居としての窟院を寄進することは功徳につながったと考えられる。

アウランガバード→アジャンタ 移動

宿の隣の食堂は07時から営業ということなのでそのままバス・スタンドに向かう。到着してすぐにアジャンタを通るバスが見つかる。外観はそれほどよくないがシートは新しくなっている。07時にバスは動き出す。何ヶ所かバスストップで客を拾い20人くらいは立つほどになった。

やはり,小さな女の子が乗り物酔いで吐いている。アジャンタへの行程は標高を下げている。アウランガバードは600mを超えているがアジャンタの標高は400m程度である。デカン高原の外れに位置しているのか,大きな崖や起伏のある地形が目に付くようになる。

ジャンクション近くの土産物屋

アジャンタ周辺はちょっと複雑になっている。バスはアジャンタ・ジャンクションで乗客を降ろす。ここは,幹線道路の分岐点になっており,アジャンタ観光の基点となっている。というのは一般の車が入れるのはここまでで,ここからアジャンタまでの4kmはシャトルバスで移動しなければならない。

バスを降りるとすぐに案内人が現れる。彼らはジャンクションで土産物屋を開いている人々で,シャトルバスのところまで案内する代わりに,自分の店で買い物をしてもらおうともくろんでいる。特に実害はないので彼の案内でみやげ物屋の集まるところまで行く。うまい具合にワスア(丸い形状をしたコロッケのようなもの)があったので,それを2個とチャーイをいただく。これが朝食になる。

MTDC Resort Hotel

宿はやはり土産物屋の従業員がMTDC Resort Hotel を紹介してくれた。ホテルはジャンクションを通る幹線道路をアウランガバートと反対方向に1.5kmほどいったところにある。料金は400と告げられ一泊なら仕方がないかとOKを出す。ホテルの往復はアンバサダーで送迎してもらい,これは40Rpであった。

道路に面したところは食堂になっており,その背後の中庭を囲むように客室がある。とはいえ,交通の便が良くなったので1泊してアジャンターを観光する人は少ないようだ。インド人の団体客は午前中はアジャンター,午後はエローラというパターンが主流である。部屋は8畳,2ベッド,T/S付き,窓とテラス付きで清潔である。

駕籠屋のサービスがある

石窟への上り口の前にチケット売り場があり,ここでチケットを買わなければならない。現在の世界遺産は統一価格で250Rpである。石段を登り終わった所から第1窟が始まる。この石段はけっこうな段数があり,足の弱い人にとってはつらいものである。そのため駕籠屋のサービスがあり,見学路まで運んでくれる。

手前から順に1,2,3,4・・・窟と番号が付いている

アジャンタの石窟は開窟年代に関係なく手前から1,2,3・・・と順に番号が付けられており。第1窟から始まり第27窟が終点である。実際には28窟もあるがアクセスできない。これらの石窟をじっくり見学すると4時間くらいは必要である。僕が到着したのは約10時で見学が終了したのは14時であった。

一度,石窟に入ると食事のためレストハウスに戻ることはできない。3月は暑季にあたるので水は1リットルくらいは用意したほうがよい。もっとも,石窟のところどころに飲料水のサービスがあるので,生水にある程度自信のある方はこれを利用するのがよい。僕は合わせて1リットルくらいを飲んだが,特に腹具合には影響はなかった。

第1窟(後期・ヴィハーラ窟)

第1窟の広さは19m四方,中央の広間の周辺に石柱があり,その外側の壁面とともに回廊を形成している。正面の壁面はさらに奥の空間(仏殿)がありブッダの坐像が置かれている。回廊の壁面には一面に壁画が描かれており,天井画,石柱上部の装飾レリーフと見どころは多い。仏殿入口の左右には左に蓮華手菩薩,右に金剛手菩薩が描かれている。この壁画はアジャンタ絵画の最高傑作とされている。

とはいうものの,保全のため照明は最小限度になっているので,撮影してもどの程度のものになるか分からない。僕は持っていないけれど,アジャンタの壁画については専門の写真集を買ったほうがよい。やはり記録として保存されているものを参照した方が細部までずっとはっきり分かる。

第2窟(後期・ヴィハーラ窟)

第2窟の広さは14m四方,第1窟と同じ広間,石柱,回廊,奥壁の仏殿,僧室という構造になっており,仏殿にはブッダ座像が置かれている。この石窟も回廊の壁面,天井画,石柱の装飾が見どころである。石柱上部の装飾のモチーフは天上界となっている。天井画の題材は蓮の花,鳥獣,唐草紋様なであり,すき間なく描かれている。しかし,なにぶんにも光が弱く僕のカメラ(腕)では,内部のすばらしさをまったく表現できない。

アジャンタでは大勢の見学者が石窟内に入ることで壁画や天井画の保存が非常に難しくなっている。そのため,壁画主体の第1窟,第2窟は閉鎖して,敦煌のようにレプリカ窟を別の場所に造成する計画が進んでいるという。

第4窟(後期・ヴィハーラ窟)

第4窟の広さは26m四方であり,アジャンタ最大のものである。後期・ヴィハーラ窟であり広間,石柱,回廊,奥壁の仏殿,左右の僧室という構造になっているが,未完成窟のため壁画や天井画は見られない。三方の壁面には小さな穴が穿たれており,そこは比丘たちが瞑想や修行を行うための僧室である。

この石窟はヴィハーラ窟本来の姿がよく分かる。ヴィハーラ窟は中庭の周囲に僧室をもつ木造僧院建築をそのまま石窟にしたものである。石窟の入り口となる一面は採光のため開き,中央の広間が中庭,石柱と壁面による回廊は僧室を巡る外廊下に相当する。

正面奥壁に仏殿があり,中央にブッダ座像,両側には脇侍菩薩が置かれている。この仏殿の入り口の両側には大きな仏の立像があり,それらを含めた構図が良いが,手振れのため失敗した。石窟内の写真は保険のために同じ構図で複数枚か撮っておくのがよい。

現地の人は一休みをしている

第7窟(後期,ヴィハーラ窟)

第7窟は幅は19mもあるが奥行きは4mしかなく,正面奥壁に仏殿がある。両側の壁面は千仏像のレリーフで飾られており,それぞれの像は異なる印を結んでいる。

一部のレリーフには赤銅色の彩色が残っている。往時は彩色されていたのかもしれない。しかし,この色で壁面が彩色されていたらちょっと不気味な感じがする。

家族と一緒に見学に来ている

第9窟(前期・チャイティヤ窟)

紀元前1世紀ごろに造営された前期窟であり,アジャンタでもっとも古いものとされている。入り口の上部に馬蹄形の窓をもっており,ファサードは二層構造になっているが,内部は天井の高い一層構造になっている。

チャイティヤ窟は木造の僧院の拝堂を石窟にしたもので,木造の構造をそのまま表現している。天井は半円形のアーケード状になっている。平面プランは細長い馬蹄形をしており,奥の半円形部分に礼拝の対象とするストゥーパ(仏塔)を配置している。木造建築をそのまま模したので,垂木,梁,柱が表現されている。

入り口から奥に向かって馬蹄形に石柱が並んでいる。石柱の両側は側廊となっており,最奥部にストゥーパが置かれている。この時期にブッダを人間の姿で表現することは禁止されており,ストゥーパや菩提樹などで代替している。ここは本来の比丘(出家僧)たちの礼拝の場であり,後記窟に比べると簡素な空間となっている。石柱や壁面の絵画はアジャンタ最古のものであり,インドでも同時代のものはほとんど残されていないという貴重なものである。

タイからの巡礼者

このあたりの石窟ではタイからの団体の巡礼者とよく顔を合わせることになった。白づくめの長衣はタイの人々にとっては巡礼衣装なのだろう。サンチーで出会ったスリランカからの巡礼者も同じような長衣を身に付けていた。日本を含め仏教国の巡礼服は白と相場が決まっているようだ。

第9窟と第10窟の間の仏像

第9窟と第10窟の間に穿たれた仏像。第9窟と第10窟は前期窟であり,その時代にはブッダ像はなかったので,この仏像は後期に造られたものと考えられる。

第10窟(前期・チャイティヤ窟)

前期のチャイティヤ窟であり,第9窟を少し大きくしたものである。入り口の開口部が広いので内部は相対的に明るく,天井のアーチ構造がよく分かる。1000年以上も人々から忘れられ,廃墟となっていたアジャンタ石窟を1819年に発見したイギリス人士官ジョン・スミスはこの窟を見つけ出した。彼はそのとき記念にサインを残したとされているが,探す気にもならなかった。

ちょうどタイからの巡礼者の団体がこの窟に集まっていた。人々は床に座り,ストゥーパに向かって祈りをささげていた。在りし日のこの窟では比丘たちがこのように礼拝していたのかもしれない。

天井,石柱,壁面にはまだ色彩も鮮やかな壁画や天井画が残されている。ここの壁画などは後期に描かれたものだという。この窟の壁面には床から天井に向かって垂木のような構造が残されている。木造の拝堂はこのような垂木で支えられていたのであろう。その垂木状の構造をうまく利用して壁面には一面に仏画が描かれている。同じように八角形の石柱にも壁画が残されている。

第11窟(後期,ヴィハーラ窟)

この窟も奥行きが4mほどしかなく,入り口のすぐ先に仏殿が見える。また南に面していることもあり,相対的に明るく写真は撮りやすい。ここにタイの巡礼の団体がおり,仏殿に人が絶えることはなかった。跪いて祈る女性が入ることにより一味異なる写真となった。

入り口の外側にも壁画があるが,風雨にさらされる環境のため写真にするほどの保存状態ではない。内部の天井には無彩色で草花や鳥獣が描かれており,他の窟にあるインド的な彩色画とはかなり趣が異なっている。

子どもたち

先生に引率された子どもたちが見学に来ていた。自国の世界遺産を子どもたちに見せるのは大切なことだ。ただし,単なる見学に終わるのではなく,世界遺産のもつ歴史的,文化的な意味を合わせて学ぶことがより大切なことだろう。日本とちがって異なる民族,異なる文化,異なる宗教をもつインドにおいては相互理解は民主主義を機能させるための基本である。

第15窟(後期,ヴィハーラ窟)

アジャンタ石窟群の模型や保存活動のパネルなどが展示されている。1500年以上前の壁画を現場で保存するのは大変なことである。古い保存技術はしばしば壁画自身を傷めることもあったようだ。正面奥には仏殿があり,ブッダの座像が置かれている。照明の関係でかなり赤みの強い写真になっている。

第17窟(後期,ヴィハーラ窟)

間口1間の狭い入口の周囲に壁画が残されている。やはり風雨にさらされるため,天井直下のものを除いて剥離している。それでも明るいところで壁画の写真を撮ることのできる数少ない窟である。最上段にはブッダの座像,その下には仏教の説話と思われる絵が描かれている。

第17窟はアジャンタ石窟群の中でも特に壁画の保存状態がよい。ここにはシンハラ物語,六牙白象本生,鏡を見る女など絵葉書にもなっている壁画がたくさんある。写真はシンハラ物語であり,羅刹女を退治に行くシンハラ王の軍隊が描かれている。

壁画の保存状態が良いとはいえ,1997年に訪問したとき買った絵葉書の写真は現在よりもずっとはっきりした色彩になっている。絵葉書に細工が施されているのか,壁画の状態が劣化したのかは分からない。

第19窟(後期・チャイティヤ窟)

第19窟は立派なファサードをもっっている。チャイティヤ窟なので入り口とその上部の半円形の窓という二層構造になっている。周囲に対して少し奥まで岸壁を削り,ファサードの二層構造を立体的にしている。それにより入り口の外に石柱に支えられたポーチを付加している。削られて平面となった壁面には多くの仏を題材としたレリーフが刻まれており,ファサードの完成度の高さはアジャンタでも群を抜いている。

衆生救済を目的とする大乗仏教の登場はアジャンターの後期ヴィハーラ窟に仏殿をもたらし,修行と礼拝が同じ石窟でできるようにした。さらに,エローラと同様によりアジャンター石窟も開放的になっていったようにも感じられる。

5世紀に造営された後期窟なので保存状態はとてもよい。また,開口部が大きいので写真を撮るにはありがたいところだ。幅は7m,奥行きは14m,高さは7mとそれほど大きくはないが,非常に美しい印象を受けた。すでに,ブッダの姿をそのまま模した仏像ができており,本来はブッダの代わりに礼拝の対象であったストゥーパにも仏像が刻まれている。

入り口から奥に向かう馬蹄型に配された石柱とその上部のフリーズ(石柱を結ぶ欄間状の構造)がヴォールト天井(半円形のアーチ型天井)を支えている。ヴォールト天井には岩盤から削り出された垂木がアクセントの効いた装飾となっている。また,フリーズのレリーフ装飾もすばらしく,この空間は後期チャイティヤ窟の完成された姿となっている。

第20窟(後期,ヴィハーラ窟)

後期窟であり正面奥に仏殿があり,その手前には石柱で支えられたコの字形の門のような構造物がある。仏殿と門構造の間は一段高くなっており,この空間は前室のようだ。石柱や門には細かいレリーフがあり,背後のブッダ像と合わせ写真の良い題材となっている。しかし,暗いためにフレームの中に門構造の全体が入っていなかった。これはちょっと悔やまれる。

第24窟(後期,ヴィハーラ窟)

第24窟は途中で造営が中断されたものだ。ファサードは横一列の石柱に支えられたポーチとなっており,装飾を除くとほぼ完成している。内部は石柱で囲まれた広間とその左右が僧室,奥には仏殿をもつ構造のようだ。この複雑な造形を岩盤を削り出して造り出すのはどれほど大変な作業であったことだろう。使用する道具は金槌とたがね程度のものである。壁面にはノミの跡が生々しく残されている。

第26窟(後期・チャイティヤ窟)

アジャンタ石窟群の中ではもっとも新しい5世紀末もので,19窟以上に豪華なファサードをもっていたようだが,ポーチの一部は失われ,さらに工事中のため足場が組まれていた。上部窓の両側は多くのレリーフにより飾られているが,ポーチ部の装飾は省略されている。内部の基本構造は19窟と同じで,入り口から奥に向かう28本の石柱とその上部の高いフリーズがヴォールト天井を支えている。

正面のストゥーパには開脚したブッダ座像が彫り込まれ,この身廊部空間の完成度の高さは19窟と双璧をなすものだ。第26窟はこれに加えて側廊の壁面に刻まれたすばらしい彫刻がある。これも(保存状態の良さを含め)アジャンタでは最高のものだろう。写真は右奥の部分で壁面いっぱいに仏像が並んでおり,その周囲も細かいレリーフで飾られている。

左側廊の壁面には「涅槃像」が置かれている。アジャンタでは唯一の涅槃像であり大きさは7mもある。側廊の狭い空間では全身を一枚にまとめるのは困難だ。涅槃像の下にはブッダの入滅を嘆き悲しむ弟子や信者たちがレリーフとなっている。

涅槃像以外に僕の目を引いたのは「降魔図」である。菩提樹の下で瞑想をしている釈迦が悟りを得るのを妨げようとする魔王の配下と誘惑しようとする娘たちが一つの彫像になっている。お釈迦様には申し訳ないが,下部の魔王の娘たちが下からの淡い照明でとても艶めかしく感じたので,その部分だけを写真にした。

仏教徒の巡礼者

右から1-7窟

14時にほぼ全窟を見終わり,U字形をしたワーグラー川の対岸にある展望台まで上ることにする。できれば高台の南から回りこんで,近くの村まで行きたかったがジャマが入った。川にかかる橋を渡り石段を登り始めるところにたむろしている商売人である。

絵葉書,写真集の売り込みはかなりしつこい。この辺りで取れる水晶の売り込みも同様である。僕は水晶売りに見晴台のところまでつきまとわれ往生した。しかも,彼の村は僕が行こうとしている村だった。これ以上は彼に付きまとわれないようにするため,石窟に戻ることにした。

石窟群のある崖はワーグラー川が長い時間をかけて浸食したもので,高さ約80m,ほぼ垂直の断崖となっている。アジャンタに石窟が造営されたのは三つの要因があったことだろう。一つは人里から遠く離れていること,二つ目は石窟を造営するのに適した断崖であること,三つ目はワーグラー川が北西方向から南東方向に逆U字形に大きく湾曲していることである。

インドに限らず,アジアでは川が大きく湾曲しているところは古来から特別なところとされており,多くの聖地がそのような場所に置かれている。有名なバラナシもガンジス川が向きを変えるところにあり,しかも対岸から朝日が上るという好条件が重なっている。

乾季なので水は流れていない

ワーグラー川は石窟群のすぐ上流部で何段かに分かれた滝となっている。全体の落差は約80mであり,雨期になると断崖の上に広がる平地と小高い丘からの雨水がこの滝を通じてワーグラー川に流れ込むようだ。現在は乾季なので滝の水は途絶えており,滝壺にはわずかな水が残されている。周辺には高さ数mのまるで灌木のような樹木が何本かある。幹も枝も奇妙に折れ曲がっており,岩だらけで雨の少ない環境で生きることの難しさを表している。

牛の群れ

ジャンクションに戻るとやはり土産物屋が待ち構えていた。見るだけの土産物屋の声をほとんど無視して土産物屋の間を抜けて駐車場に出る。宿までは約1km強なので歩くことにした。牛の群れに出会った以外は特に楽しいものは見つからない。最後の300mくらいは声をかけてきたバイクに乗せてもらうことになった。僕が「もうすぐだよ,あそこの建物だから」と説明しても「我々はインド人だよ」と訳の分からない返事で乗ることになった。

若い娘さんが写真を撮らせてくれた

宿からジャルガオン方向に400mほど行ったところにいくつかの村がある。幹線道路を歩き,途中から横道を歩き,デカンの荒涼とした風景を写真にする。涸れた川の向こうに村がある。村に向かう橋はかなり高いところにある。雨季の大雨はそのくらいまで水位があがるのだろう。

若い娘さんが気軽に写真に応じてくれた。インドでは年頃の女性の写真はとても難しい。女性の集まっているところの写真ですら,彼女たちに断らなければならない。僕の旅行記に若い娘さんの写真が少ないのはそのような理由による。 村の家屋の多くはレンガかコンクリートになっている。上下水道はまったくなく,水を運ぶ女性の姿と家屋から流れ出る汚水の帯を見ることになる。小さな子どもたちが家の前におり,最初の被写体になってくれた。

ここの女の子はけっこう積極的であった。お礼にヨーヨーを作ってあげるとすぐに村中に伝わってしまい,男の子の集団につきまとわれることになった。こんなときは逃げるに限る。

食器を洗う

一軒の家で日本語で話しかけられた。この男性は日本のテレビの仕事を手伝ったことがあるという。さすがに日本語の会話は無理でも,英語のやりとりにはまったく問題がなかった。

この家でチャイをご馳走になる。水はお断りしたが,地下100mの井戸からくみ上げたものであり,それを煮沸して冷ましたものだという。それなら問題はなさそうだ。なんといっても,アジャンタ石窟の飲用水をずいぶん飲んだのだから。

子どもたちが集ってくる

もう一軒の家におジャマして写真を撮りヨーヨーを作ってあげる。10歳くらいの女の子が何人か入ってきたため,全部で10個近く作ることになった。とがったものにぶつけるとパンと割れるよと注していた矢先に男の子が割ってしまった。もちろんそれでお終いである。

インド人の子どもは一般的に押しが非常に強い。他人のことはともかく自分の要求を通そうという考え方が子どもの頃から培われている。写真のフレームのジャマになるのでよけてくれと何度行っても入ってくる。

あまりのことに彼らを追い払う場面が二回もあった。このような怒る場面は自分にとって気持ちのよいものではない。できれば,避けたいのだが・・・,あまりにも聞き分けがないとついつい怒りにかられてしまう。

家畜と一緒に暮らす

最後の一枚にする

食事中に失礼します

アジャンターでの食事


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