アウランガバードはムンバイから東に約350m,デカン高原に位置する人口117万人の大都市である。アウランガバードというイスラム風の名前はムガール帝国第6代皇帝の「アウラングゼーブ」にちなんで名付けられら。
彼がまだデカン高原の太守であった1639年にこの町を「アウラングの町」を意味するアウランガバードと改名した。アウラングゼーブ帝と深いつながりがあったため,彼の妃の墓廟がこの町に造営され,「ピーピー・カ・マクバラー」として観光名所となっている。
周辺には2-7世紀に造営されたエローラに代表される仏教,ヒンドー教の石窟やムガール時代の遺跡が残されており,ここを起点に観光する人も多い。
ムンバイ・セントラル駅のすぐ前にあるバス・スタンド
近くの食堂でサモサにする前の茹でたジャガイモを2個いただき,チャーイと合わせて朝食にする。宿の下に停まっているアンバサダーのタクシーに声をかける。
「バススタンドまでいくら」とたずねると150Rpという答えである。「ずいぶん高いね」と続けると100,さらには80まで下がった。僕は「50ではどうだい」と言うとそれではだめだと横を向かれる。
近くの英語のできる人が「このタクシーには政府保証のメーターが付いているので大丈夫」と助言してくれる。メーターは旧料金で表示されそれを最新料金に読み直す方法がとられている。
ガイドブックにはこの対照表が載せられておりこれは安心して使用できる。メーター参照の料金は80Rpであった。バス・スタンドはセントラル駅のすぐ前にあった。巨大都市のバス・スタンドとしてはずいぶん小さいものである。
ムンバイではオートリキシャーは禁止されている
荷物は車体の横にある荷物室に入れる。この荷物室の最後尾には毛布が敷いてあり,運転手や車掌の仮眠所になっている。バスは比較的新しくエアコンはずいぶん控えめであり,これなら僕でも半袖で耐えられる。
インドのエアコンバスにとっては太陽は大敵のようだ。窓は厚手のカーテンによりしっかりと遮光されていた。アウランガバードまでの料金は553Rp(12$),距離は350kmなので30km/$の計算である。インドのバス料金は50km/$を想定していたので,これは1.7倍に相当する。
ムンバイの中心部を過ぎるとようやくインド名物のオートリキシャー(ベビータクシー)を見かけるようになった。ムンバイの中心部ではオートリキシャーの乗り入れは禁止されており,通常のタクシーしか走っていない。
バスはほぼ満員の状態でデカン高原への上りを進む
バスはほぼ満員の状態でデカン高原への上りを進んでいく。デカン高原はその名の通り高原状態の地形ではあるが,日本の高原とはまったく異なった地形である。多少の高低はあるものの標高600-700mほどの地形が日本列島がすっぽり入るほどの面積(50万km2)で広がっているのだ。
このような地形は洪水玄武岩によりもたらされたものである。大陸の地殻を形成している花崗岩ではなく,マントルに由来する玄武岩が海底を含む地表に大量に噴出したものが洪水玄武岩である。
このような大規模な玄武岩の噴出は大陸分裂のように大規模な地殻変動の時期に重なっている。玄武岩は粘性が低いため非常に広範囲の地域を覆うことになる。デカン高原の場合,富士山100個分以上の体積に相当する玄武岩に覆われている。。
大きな川に架かる橋の新築工事が行われていた
大きな川に架かる橋の新築工事が行われていた。現在の橋の少し上流側なのでバスの車窓からよく見える。この橋は鉄筋コンクリートで複数のアーチを渡し,その上に橋桁を渡す工法のようだ。ローマ時代に進化したアーチ橋はアーチを造りその上に石材やレンガを組み上げて平らな路面を造っていた。
横から見るとアーチとその上の道路の間は石材などが充填されているので「充腹式上路アーチ」と呼ばれている。この工法は鉄とコンクリートによる近代工法が完成するまでアーチ橋の主流となっていた。
それに対してここの工事現場の工法はアーチの上に橋桁を支える柱を建てる工法のようだ。横から見るとアーチと道路の間には空間ができるので「開腹式上路アーチ」と呼ばれている。
デブプリヤ・ホテル
風景は乾燥したアカシヤの仲間の疎林と豊かな農地が目まぐるしく入れ替わっている。そのような風景の中を中央分離帯のある片側2車線の新しい道路が延々と続いている。
バスはその後も快調に走り続け,20時にアウラン・ガバードのセントラル・バススタンドに到着した。バススタンドを出て右に歩き出すと5分ほどでデブプリヤ・ホテルに到着した。
このホテルの外観は円筒形になっている。内部は吹き抜けの螺旋階段で,周辺に客室が配置されている。300Rpのシングルの部屋が見つかり一安心である。部屋は8畳,2ベッド,T/S付きでとても清潔である。
ただし,シャワーは水流が細く,まるでできの悪い霧吹き器状態でまったく役に立たない。水道はしっかりしているので,備え付けのバケツに水を溜め,小さな手桶で水をかぶることにした。
メニューで確認するとサンバーであった
翌日の朝食は宿の横の食堂で「Samber」をいただく。先客のインド人の老夫婦が白い饅頭のようなものを手でちぎり,マサラをかけて食べていた。料理の名前をきいてメニューで確認するとサンバーであった。これにチャーイをつけると28Rpなので注文する。
サンバーの素材はコメの粉である。もっとも,コメを粉にするのは大変なので,コメを水に浸け,石臼で砕いたゲル状のものを使用する。
たこ焼き器のように複数の窪みのついた容器に木綿の布を敷いてそこに材料を入れて蒸し上げる。木綿の布は蒸した後に取り出しやすくするための知恵である。
南インドではこの料理をイドリーと呼んでいた。マサラ(野菜や豆を中心としたカリー)とチャパティ,サンバーとの組み合わせはこの地域の常食である。ベジタリアンが多いせいか,肉料理はなかった。
町の風景
滞在2日目の日中はエローラ見学で時間を使い,夕方から宿の近くを歩いてみた。インドは町歩きをしながら人々の生活が垣間見られるのが魅力の一つである。
屋台のスイカの切り売りが繁盛していた
2.5kmほどある駅まで歩いてみた。歩道には四輪の手押し車に商品を載せた移動式露店が並んでいる。ところによってはオートリキシャーやバイクが停めてあり,ずいぶん混雑している。路上におけるこのような状況はインドではごく当たり前のことだ。
屋台の冷たい飲み物や食べ物はそれなりの注意を払っている。今日はスイカの切り身を食べようかと少し迷ったが,ここのものは氷で冷やしているのでパスすることにした。おいしそうに食べている客の写真を撮るだけに留めた。
頭の上に石板や鉄板を乗せてポーズをとってくれる
宿から500mほど南に下って大きな通りを渡ると,道の両側は大きな並木になり,西側には何ヶ所かの広い空き地や荒地がある。そのような場所で遊んでいる子どもたちの写真を撮りながら先に進む。大きな空き地の手前で子どもたちが頭の上に石板や鉄板を乗せてポーズをとってくれる。
写真を撮ってもらえるのがうれしくてたまらないといった表情である。この子たちはその先の空き地で家族と一緒に露天生活をしているようだ。わずかな寝具と衣類,炊事用具などが布にくるまれている。この空き地には何家族かが暮らしているようだ。どのような理由があるかは分からないが家を失った人たちであろう。
空き地の道路側にも一家族が布を敷いて休んでいる
経済成長が軌道に乗りつつあるインドではあるが,その恩恵にあずかれない人も非常に多いのもインドの悲しい現実である。この空き地の道路側にも一家族が路上に布を敷いて休んでいる。こちらは路上生活者ではないようだ。二人の姉妹がおり,身振りで写真をとってというので要望に応えることにした。
写真のお礼に日本からもってきたカリントウがザックの中にあったので一緒にいただく。日本よりはるかに油で揚げた食べ物が多いインドでも黒砂糖をそのまま使用するカリントウに類似するものは見かけなかった。この家族のうち少なくとも二人の姉妹は新しい味覚に満足しているように見えた。
アウランガバード駅はずいぶん幅が広かった
何回も寄り道をしながら歩いたため鉄道駅に到着したのは夕暮れの時間帯になっていた。町の様子がずいぶん変わった中で,この鉄道駅だけは20年前の記憶と一致した。高さが低く横にずいぶん長い建物である。インドの列車は多くの車両が連結されており,そのためホームがとても長い。駅舎もそれの合わせて長くなっているということである。
大きな道路を挟んだ南側はバザールになっており,ここで旅行の必需品であるビーチサンダル(100Rp)とトイレットペーパー(24Rp)を買う。ビーチサンダルは室内用であり,トイレットペーパーはカメラやメガネの埃をぬぐうのに使用する。
インドの安宿ではトイレットペーパーは詰まりの原因となるので使用してはいけない。安宿を利用する第一条件は紙を使用しないでトイレを済ませる技術を身に付けることである。
インドではどこもマサラ料理
宿の横の食堂は夕食はやっていないので,道路を横断して向かいの食堂でジャガイモのマサラとチャパティをいただく。インドの道路で偉いものは車であり,歩行者はその合間をぬって何とか通してもらっている状態である。車は歩行者をみかけても決して減速しない。日本の感覚で道路を横断すると簡単に事故に巻き込まれる。
夕食のマサラはスパイスがほどよく使われており日本人にも食べやすい。よくインドではどこでもカリー(カレー)を食べている話があるが,実際にはスパイスを使用した料理は「マサラ」と呼ばれることが多い。
「マサラ」はサンスクリット語に起源をもち,ヒンディー語などの現代インド諸語にも受け継がれている。本来の意味は「混ぜる」であり,複数のスパイスをミックスしたものがマサラと呼ばれている。
早朝のチャーイ屋
インドではどこに行ってもチャーイ屋がある。チャーイ屋の営業時間はとても長く,早朝の06時台から営業しているところもある。この町では小さなグラスに入ったものは3Rp,一回り大きなグラスに入ったものは6Rpである。
イスなども用意されておらず,立ち飲みの形態になっているものも多い。衛生的には決して清潔とはいえないチャーイであるが,暑気のインドでは最高の飲み物である。
インドのチャーイは紅茶,ミルク,砂糖という素材を使用するが,英国のミルクティーとはまったく異なった飲み物である。ダストと呼ばれる粉末状の茶葉を煮出した濃厚な紅茶に熱いミルクと砂糖のたっぷり入れたものがインド風のチャーイである。紅茶の濃厚さ,熱さ,甘さがチャーイの魅力である。
水運びの女性たち
パーンチャッキーを目指して歩く幹線道路で頭に水の入った容器を載せた女性と子どもたちがこちらに歩いてくる。路上で一枚撮らせてもらう。彼女たちは自分の家用の水を運ぶと同時に,近所のものも運んでいる。子どもたちも年齢に応じた量の水を運んでいる。
子どもたちの写真を撮り4人分のヨーヨーを作ってあげる
4歳くらいの女の子は母親から遅れてしまい,水の入った小さなバケツを置いて泣き出してしまう。女の子のバケツを持って彼女たちのあとを歩くことにする。
彼女たちの家は割と近くにあった。近所の家の前に水の容器を置いて,彼女たちは自分の家に入っていった。家の前にいる子どもたちの写真を撮り,4人分のヨーヨーを作ってあげる。さっき泣いていた女の子もすでにご機嫌である。
塀で囲まれた小学校で子どもたちの写真を撮る
塀で囲まれた小学校で子どもたちの写真を撮る。窓からのぞくと女子生徒が教室の掃除をしている。中に入りこの子たちの写真を撮ると,例によって男子生徒がやかましい。
このやかましさは僕の写真の大敵だ。自分の撮りたいものは自分で決めるよと言いたいところだが,男子生徒の写真の要求はあきれ返るほどしつこいし,写真に撮ってもらうまでその要求が止むことはない。それにしても,この時間にこの生徒数では・・・,学校は何時に始まるのかな。
小さな路地の風景
パーンチャッキーに向かう通りの右側にある路地で子どもたちの写真を撮る。この路地にはポンプがあり,洗濯や水汲みの生活が見られる。友好的な子どもたちも多く僕の写真にはとてもよさそうなところである。
しかし・・・,住民の男性にここでの写真はダメと告げられた。彼らにしてみれば僕は興味半分にインドの貧困を写真にしているというように写ったのかもしれない。さすがにダメと言われると立ち去るしかない。
ところが,帰り道で路地の外に出ていた子どもたちに呼び止められ,集合写真を撮ることになった。子どもたちが写真をせがむので,さきほどの男性も黙認ということになった。路地の一部に白い壁の家があったので,その前に並んでもらった。このような場合,男の子はちゃんと並ばないことが多いが,ここの子どもたちは素直に整列してくれた。
パーンチャッキー
パーンチャッキーはムガール帝国のアウラングゼーブ帝のイスラムの師であったムザーファルの廟が公園となったところである。しかし,「パーンチャッキー」は水車小屋を意味しており,当初の施設は水の落差を利用して水車に連動した石臼を回し,製粉するものであった。また,貯水池の中央には噴水もあったようだ。
入り口近くの壁面に説明図がある。施設の水源は6kmほど離れており,地下水道を通して水を導くものであった。この施設は17世紀に建造されたもので,イランから中国西域にかけてよくみられるカレーズ(カナート)と類似のものである。けっして,水の豊かではないこの地域にあって,この廟の池は楽園のイメージに近いものであろう。長手方向に50mほどある池の向こうに巨大な榕樹が大きく枝を広げている。
共同井戸の風景
その先のポンプ水汲み場で写真を撮る。ここのポンプはまさしく共同井戸という感じでいろいろな人々を撮ることができるので楽しい。このポンプは短いストロークで上下の操作回数をかせがないと水の出が悪い。
水道が普及していない地域では共同井戸だけが頼りである。利用者は次々にやってきて,金属性の容器に水を入れ,頭上あるいは腰骨で支えるようにして運んでいく。11歳くらいの女の子は水汲みを手伝っており,ちょうどよいモデルになってくれた。この子は小さな水容器を頭に乗せてにこやかに戻っていった。
朝の点呼
通りに面した塀に囲まれた広場で警察官が点呼を受けていた。インドの警察官は(少なくとも旅行者からすると)他のアジアの国の警察官に比べると怖くはない。中庭に入り,点呼が終わったところでカメラを向けると,にこやかにフレームに収まってくれた。
ぶどうとトマトの値段
露天のぶどう屋でぶどうを買う。0.5kgが25Rpは妥当なところかな。水分が多く,種無し,糖度も低いのでいくらでも食べることができる。インド圏ではブドウを果物として食べることが多い。現在は質より量であるが,そのうち日本のように質の追求が始まることだろう。
オールドバザールの近くの商店街を歩き,露天の野菜屋でトマトを買う。値段は0.5kgが10Rp,ただし調理用のイタリアントマトなので生食ではそれほどおいしくない。
立派な葉付き大根も見かけた。日本のものと遜色のないものである。ダイコンを含むアブラナ科の植物は比較的冷涼な気候を好む。暑季のインドでこのような立派なダイコンを見るとは軽い驚きであった。
大勢の女性が声明のようなものを唱えていた
結婚式のような飾り付けのあるヒンドゥー寺院を訪問する。内部には大勢の女性がおり,声明のようなものを唱えていた。両手に持った小さな金属製の楽器を打ち合わせて軽い音を響かせている。雰囲気としては日本の御詠歌に似ているが,テンポはそれよりゆっくりとしている。何人かの女性が写真を撮ってもいいよと言ってくれたのでお言葉に甘えることにした。
手を水平に広げる変わったポーズで写真に納まってくれた
昨日,子どもたちの写真を撮った空き地の少し先で葦のような植物を眺めていたら,バイクで通りかかった警官から「この辺りは犯罪者が多いので,写真を撮ったらすぐに戻りなさい」と注意をされた。ふ〜ん,そうかい。僕にはとてもそうとは思えない。彼に目の前の植物の名前をたずねるとエレファントグラスという返事が返ってきた。
路上生活者が暮らしている空き地では写真を撮ってくれと子どもたちに何回もせがまれた。僕としては彼らの生活を撮りたかったのであるが。それでも夕食の支度をする一家の写真は撮ることができた。
ザックの中にはさっき買ったブドウがはいっていたので,それを取り出し,数粒ずつ子どもたちに分けてあげた。この子どもたちは手を水平に広げる変わったポーズで写真に納まってくれた。
子どもたちは床に坐って授業を受けていた
空き地から東に向かい歩いてみる。閑静な住宅地になっており,とくに何も写真になるようなものはない。大きな運動場のような場所があり,そこはプライマリー・スクールの校庭であった。女子生徒に囲まれ何枚かの写真をとることになった。彼女たちは5年生から8年生と言っていた。
このあたりには学校が多く,そのすぐ先に小学校があった。授業は17:30まであるということだったので20分ほど待つことにした。しかし,授業が終わると校庭いた僕は彼らにもみくちゃにされることになった。握手攻めやザックを引っ張る子どももいる。
校舎の仕切りに立って押し寄せている子どもたちを高いとこらから写真を撮る。11年前の南インドでもこんな光景があった。この騒ぎの中でまやもや水のボトルが無くなっていた。インドの子どもたちは本当に油断がならない。