中国の西の外れにカシュガルという町がある。古のシルクロードは,敦煌の辺りでタクラマカン砂漠を迂回するため2手に分かれる。タクラマカンの北を通る天山南道と南を通る西域南道である。この2つの道が再び合流するのところにあるのがカシュガルである。
カシュガルの西と南はパミール高原により隔てられている。氷雪のパミールはアジア大陸を東西に分断する巨大な山塊である。東のヒマラヤ山脈とカラコルム山脈,北東の天山山脈,南西のヒンドゥークシ山脈がここで合流している。中国では「大惣嶺」と呼ばれ,シルクロード最大級の難所であった。
このパミールを越え,カラコルム山脈を縦断してカシュガルとパキスタンのイスラマバードを結ぶ道路がある。最高地点は中パ国境のフンジュラブ峠(標高4730m)であり,世界一高所を通る国際道路となっている。それは,現代のシルクロードということができる。
この道路のパキスタン側はカラコルム山脈を縦断することからカラコルム・ハイウエー(KKH)と呼ばれている。KKHは中パ両国の友好関係を示す道路であり,中国では「中パ友好道路」と呼んでいる。その理由はパキスタン側の道路の一部および橋の建設を中国が担当したからである。
工事は1966年から1978年まで,足かけ13年の歳月を要した。工事が始まった頃,中国はインドとの間に複数の国境紛争を抱えていた。また,パキスタンはインドとの間に「カシミール」の帰属を巡って砲火を交えていた。
「敵の敵は味方」の論理により中国とパキスタンは友好国となり,両国の間の国際道路建設に着手したというわけである。カシュガルからフンジュラブ峠までの中国区間は当然中国が担当し,さらに最も難しい区間であるフンジュラブ峠からグルミットまでの130kmも中国が担当した。
世紀の難工事は多くの犠牲者を生み,1kmにつき1人が亡くなったといわれている。現在でも毎年のように,特に春から夏にかけての融雪時は落石や増水により道路が寸断される。そのため,年中行事のように補修工事が行われており,KKH沿いではよく中国人労働者を見かける。
パキスタンの北部辺境州(Northern Area)は南部のパンジャブ州やバロチスタン州とは民族も風習もまったく異なっている。険しい山岳地帯に位置するため,外部との交流が少なく,民族の古い血が保存されるとともに,言語や風習もそのまま残されてきたからだ。
住民の容貌は平地のパンジャブ人やバローチ人に比べてよりヨーロッパ的であり,中には金髪や碧眼の人も混じっている。女性の服装はほとんど平地の人々と変わらない。それでも,ワーヒの女性は帽子プラスちょっと変わった民族衣装の組み合わせである。
言語もフンザ地域では「ブルシャースキー語」,その北側のゴジャール地域では「ワーヒ語」が使用されている。それらの言語はパキスタン公用語の「ウルドゥ語」とはまったく関連をもたない。
パキスタンの平地ではイスラム教スンニー派が主流であるが,この地域ではシーア派系のイスマーイール派が多い。イスマーイール派はイスラム人口12億人の1%にも満たない少数派であり,その戒律の緩さは異端ともいえるものだ。
KKH沿いにはいくつかの村が点在する。しかし,「フンザ」という村はない。フンザはカリマバードを中心に周辺の地域を支配していた藩王国の名前であり,1974年までは存続していた。王政が廃止された後も,一族は広大な土地を所有し,この地域で大きな勢力を有している。
カラコルムを切り裂いて流れてきたフンザ川の作ったわずかな谷に人々は暮らしている。背後にあるウルタル(7388m)から流れてくる雪解け水で灌漑用の水路を巡らし,人々は不毛の土地を緑豊かな谷に変えていった。
フンザを代表する風景は杏の花であろう。4月になると谷は一面にピンクの花で埋め尽くされる。僕は花の時期にまだここを訪れたことはない。映像で見る限り,それはこの地が旅行者から「桃源郷」と呼ばれるのにふさわしいものである。
フンザのもう一つの風景は6000m,7000m級の山々である。通常,そのような高山はかなり奥地にあるため,近くから見ようとするとアクセスが大変である。比較的整備されたネパール・ヒマラヤでも何日かトレッキングをしないと間近に見ることはできない。
しかし,フンザでは快適な安宿の窓からラカボシ(7754m),ディラン(7273m)の雄姿が眺められる。外に出て背後を見上げるとウルタル(7388m)がそびえている。これほどすごい山の風景が手軽に楽しめるところは世界中でもここしかない。
フンザは「風の谷のナウシカ」のモデルとなった谷と旅行者の間ではまことしとやかに語られている。しかし,制作者の宮崎氏もスタジオ・ジブリの広報もそのような事実は無いとあっさり否定している。
山と緑以外には何も無いフンザ,ウルタルの直下にあるバルチットを訪ねるのもよい,となりのアルチット村からイーグル・ネストに上って景色を楽しむのもよい。しかし,ここではゲスト・ハウスから谷の風景を眺めてのんびり一日を過ごしても悔いは残らない。
ギルギット(90km)→フンザ 移動
ギルギットのバスターミナルでこの旅行最後のナンガパルパットを写真に収める。ここまで一緒だったパキスタン青年の7人組みがアリアバード行きのコーチを見つけたので同乗する。料金は100Rpであった。
途中でラカボシのビューポイントがあり,半分貸しきり状態のコーチはそこで1時間ほど観光停車してくれた。地形図で確認するとラカボシから西に伸びる谷がフンザ川に合流しているしているのでおそらくこのポイントであろう。
目の前にそびえるラカボシは,かって僕がフンザから眺めたものとはずいぶん形が異なっている。山は見る方角と距離によりこんなにも違ったものに見えるとは新しい驚きである。
手前にはラカボシを挟むように2つの山があり,その間の谷を埋めるように氷河が流れ下っている。右側の山が影を作るため氷河は途中から暗くなっており写真写りは良くない。
氷河の融雪水は緑の谷間を流れ下り,我々の見学している橋の下では,けっこう大きな流れになっている。橋の右奥に茶店がありイスとテーブルが並べてある。たくさんの観光客がここからラカボシを眺めている。チャーイと冷たい飲み物の売れ行きは良い。
従業員が下に降りて行く。冷たい融雪水の中に飲み物が入ったかごがつけてある。これならば短時間で飲み物を冷やすことができる。橋の上では近所の子どもたちが杏と小さなリンゴを売っている。小遣い稼ぎというよりは家計の助けにしようとしているようだ。
杏は一皿10Rp,リンゴは1個3Rpである。これが地元価格なのであろう。同行のパキスタン人青年は彼らから地元価格で購入し,僕にもおすそ分けしてくれた。リンゴは小さいながら意外とおいしい。
我々がコーチに戻り車は動き出した。なんだかメンバーが足りないなと思ったが,パキスタン人青年たちは何も言わない。やはり一人が欠けていた。ずいぶんのんびりしたものだ。アリアバードに到着したのは19時を過ぎていた。
安宿の集まるカリマバードまでは10kmほど離れている。ここでもパキスタン人青年はスズキの運転手と交渉し,1台150Rpで行ってもらうことにした。僕が半分の75Rpを払おうとすると,彼らは受け取ってくれなかった。
ハイダー・インに泊まる
カリマバードに到着したのは07:45,もう暗くなっており,夕食とシングル・ルームが欲しかったのでハイダー・インに行く。部屋は8畳,3ベッド,T/HS付きで清潔である。荷物を置いてすぐに夕食を注文する。
ここのハイダーじいさんは70代半ばながらゲストハウスを経営し,昼間は建物の改修工事などもしている元気ものだ。彼に夕食を注文すると,「フルディナー」と聞かれた。単品の注文ではなくて夕食用のセット料理らしい。
出てきたのは雑炊,豆カリー,ビーフカリー,ごはん,煮物である。普段から小食の僕はあまりの量にただただ圧倒される。それでも努力して7割くらいはお腹に納めた。
ハイダー・インは韓国人の常宿になっており,メニューにもハングルが併記されている。ドミには韓国人旅行者がたくさん入っている。しかし,フンザでは韓国人の評判は良くない。
ハイダーさんは「韓国人はここのフルディナーをさっぱり利用してくれない,いったいどうしたんだろう」とこぼしていた。また,もう一つの日本人が多い「コショーサン・GH」のコショーさんも夕食の準備に忙しい時間帯に彼らが台所を占拠するので怒りを爆発させたという話も伝わっている。
6月下旬とはいえフンザの夜は冷える。朝起きたらちゃんとふとんにくるまっていた。木製のベッドは寝返りを打つたびに,キーキーとうるさい音を立てる。早起きをして食堂のテーブルで日記を書く。目を上げると少し角度は悪いものの正面に秀峰ラカボシが鋭角的な姿を見せている。
やはり,昨日のビューポイントよりフンザからの眺めのほうが数段素晴らしい。「手前の岩山が少しずれてくれれば素晴らしいパノラマになるのになあ」などとしょうもないことを考えながら,しばらくぼーつと外を眺める。天気に恵まれ,真っ青な空が氷雪の白さを一層鮮やかにしている。
朝食はコショーサンに行き恒例の「フンザブレッド」をいただく。フンザブレッドはパキスタンでは珍しい酵母を使ってふくらませたパンである。パキスタンのパンはナンもしくはチャパティのようにほとんどふくらみのないものが主流だ。
ナンは密度が高すぎて,軟らかいパンに慣れてしまっている日本人にはとてもパンとは言えない代物である。ところが,フンザブレッドは密度が高いヨーロッパ的なパンである。フンザブレッドはパン屋でも売っているが,それぞれの家庭でそれぞれの流儀で作られる,いわば家庭の味的なものだ。
ヨーロッパからはるか離れたこの地域だけにどうしてこのようなパンが存在するのかはよく分からない。コショーサンではフンザブレッドにハチミツをつけていただく。地元産のハチミツは琥珀色をしており,甘みはそれほど強くない。どっしりとしたフンザブレッドとの取り合わせはなかなかグッドである。
コショーサンGHにはギルギットの宿で会った2人の日本人が滞在していた。一緒に中国・キルギス国境を越えようと計画していたAさんや,Bさんはすでにスストに向かってしまったとのことであった。
写真の配達ためグルミットに向かう
パキスタン北部は3年前に訪問したことがある。今回の旅行には3年前の写真を持参してきており,それを当人に配るのを楽しみにしていた。メインはフンザとグルミットの学校の周辺で撮影したものだ。まず遠くにあるグルミットの村を訪ねてみることにする。
今日もフンザは快晴である
宿を出てKKHとカリマバードを結ぶリングロードを下っていく。途中からショートカットの道があったのでそこを降りる。眼下にはフンザ川(ギルギットまで下るとギルギット川になる)が流れている。川の色は周囲の川原に堆積させた砂と同じ灰色である。
対岸も川から一段高くなったところには緑の斜面が広がっている。しかし,そちらには家屋はまばらにしかない。その背後には2つの岩山にガードされるようにディラン山系の雪山が見える。
前衛の岩山の間は谷になっており,その両側に細い道が雪山の方に伸びている。おそらく正面の緑の斜面にも雪山の融雪水を利用した灌漑水路が巡らされているにちがいない。
ショートカットの細い道はKKHとの分岐点よりグルミット側に架かる橋に出た。橋の近くには「写真撮影厳禁」の表示がある。カシミール問題を抱えている,この国の軍事的緊張がこんなところにも表れている。
雪崩の雪が道路わきに残っている
橋の向こう側でしばらく待っていると軽のワゴンが通りかかったのグルミットでまで50Rpで乗せてもらう。荷物を主に運んでいるため,内部はほこりだらけで油汚れもある。
途中で水場があり,運転手と助手は上半身裸になって体を洗う。ペットボトルにも水を入れ,それは飲料水にするようだ。僕も崖の下から流れ出る冷たい水で顔を洗う。
すでに11時を回っており,日差しが強くなっているのでこれは気持ちがいい。十分に飲めそうな水であるが,万一のことを考えがまんする。ここから見るフンザ川はゆるやかな流れになっており,灰色の帯が山の間を縫うように続いている。
グルミットの少し手前で雪の塊が道路を半分ふさいでいる。上の崖で雪崩が発生しここまで落下したものだ。表面は砂混じりの灰色で,お世辞にもきれいとは言い難い。
雪崩と一緒に落石もあったようだ。融雪のため道路は水浸しになっており,軽ワゴン車は慎重に道路上の落石を避けながらここを通過する。
イスラムセンターに村人が集まっていたので写真を見せる
グルミットの村は3年前と同じ風景で僕を迎えてくれた。しかし,学校は夏休みに入っており,ポログラウンドには子どもたちの姿は見えない。これでは写真の渡しようがない。
近くのイスラムセンターに村人が集まっていたので写真を見せる。すると,「この子は私の娘だよ」,「これは妹だ」という声が上がり,15枚くらいの写真の引き取り手が現れた。
残ったものはポログラウンドに面した雑貨屋で見せると,ほとんどの子どもの顔を知っていると言うので,「学校が始まったら子どもたちに渡して下さい」とお願いする。
これでグルミットの用事は片付いたのでフンザに戻ることにする。KKHに出てチャーイ屋でフンザ方面の車を待つ。1杯10Rpのチャーイをのんびりすすりながら,風景を楽しむ。
このあたりはどこにいても素晴らしい景色に恵まれているので1時間や2時間待っていても退屈することはない。チャーイ屋の老人と孫娘を相手にヨーヨーとオリヅルで2時間を過ごし,ようやく現れたワゴン車に乗る。
リングロードとの分岐点で降ろしてもらい,しばらく待っていると荷車を引いたトラクターが乗せてくれた。これは助かった。コショーサンGHで遅い昼食をとっていると囲碁セットをもっている男性がいるので,お相手をする。
彼もハイダー・インに泊まっており,これが縁でその後2日間は囲碁三昧の時間を過ごすことになる。もっともこの30年は打ったことがない,うん・・そういえば・・・2003年に中国の雲南で一局打ったことを思い出した。
この日の夕食はコショーサンでいただくことにする。コショーサンではあらかじめ夕食をお願いしておくとビジターでも夕食会に参加することができる。メニューはスパゲティ,サラダ,スープ,豆のカリー,野菜の煮物,ごはんと多彩だ。
個人的には肉が無くてもフンザの食事は十分楽しむことができた。メンバーは日本人6人,3人は口数が少なく黙々と料理を口に運んでいる。僕を含め3人はギルギット以来の顔見知りなので,会話が絶えない。
写真の配達のためアルチット村に向かう
昨夜は寝る前に囲碁を打ったので頭がさえてしばらく眠れなかった。朝食で一緒になった相手の男性も同じようなことを言っていた。今日はカリマバードとアルチットの学校を訪ねて写真を届けることにする。
アルチット村を見下ろすビューポイントにある学校に行くと門は閉まっていた。やはりここも夏休みだという。近くで工事をしていたおじさんが2つの学校を知っているというので写真をお願いする。
アルチット村の緑多い風景は変わっていない
ビューポイントから崖を下ってアルチット村に向かう。ここの緑豊かな風景もぜんぜん変わっていない。雑貨屋の店先で写真を見せるとすぐに知っている人が現れ,2枚の写真は引き取られた。
残りの写真は背景からカリマバードのかなり遠くの場所で撮ったものらしい。3年前は足の向くままずいぶん歩いたので,どの写真をどこで撮ったのか定かではなくなっている。
カリマバードに戻る道を歩いていると,ピックアップトラックの運転手から声がかかり乗せてもう。彼は料金を受け取ろうとはしなかった。同じ方向に行く人を乗せるというのはこの村では当たり前のことなのかもしれない。
宿に戻るとまだ10時だ。これでもうすることが無いので囲碁の時間となる。宿の食堂から見えるラカボシは今日も素晴らしい景色を提供してくれる。
旅行中,こんな天気のよい日にのんびり碁を打つなどということは格別の趣である。今までの僕の旅行スタイルには無いことだが悪くない時間の過ごし方だ。
ハイダーの夕食は3人であった。ドミの韓国人はやはり夕食会には参加せず,韓国人同士でかたまっている。このあたりはお国柄なのかもしれない。
今日の夕食は野菜を中心とした料理でコショーサンと同じくらいおいしい。同席の米国人旅行者はごはんではなくナンを選択し,そこにもふだんの食生活の差が表れている。